やさしいことばで日本国憲法 2006.09.24

「やさしいことばで日本国憲法」なんて本があった。この駄文はそのような怪しげな憲法論ではない。もっと真面目で、地に足が着いた日本国憲法論なのである。
お疑いのあなた、馬には乗ってみろといいますから、まあだまされたと思って最後までお読みください。
最後にだまされた!と叫んでもわたしゃ知りませんがね 

あなたレタス好きですか?
私は大好きです。野菜サラダといえばレタスがなくちゃいけません。ほとんど毎朝、食べています。
レタスの絵 では本日は野菜の話です。

日本国憲法とレタスなんかが関係あるまい、とお疑いのあなた!
いかにして、レタスから日本国憲法までつなげるかという芸当をとくとご覧あれ
もし、映画「三丁目の夕日」にでてくるようなアイデアが枯渇した物書きがいればご指導仕る(つかまつる)。 
実は、先日友人に「おまえ、サラリーマン辞めて物書きになったらどうだ」と言われました。
オイオイ、私は自分からサラリーマン辞めなくても、もうすぐ定年ですよ  それに既に私はインターネット世界の物書きであり、政治評論家ではないですか。

私が子供だった頃は、保冷方法も流通機関も発達しておらず、近場で作っている野菜で、しかもその時期に取れる野菜しか食べられなかった。
もちろん、魚はもっと痛みやすいですから、海から離れたところに住んでいた私たち貧民は、サンマ、ニシン、鯵などの干物や、塩鮭、イカの塩辛くらいしか食べられませんでした。
鮮魚というカテゴリーがなかったと思いねえ〜(森の石松調)

誤解のないように申し上げておく、
イカの塩辛というのは、昔は高級、高価でした。本来なら、貧乏な我が家で食べられるはずがございません。しかし、青森にいた父の戦友が、毎年イカの塩辛を作って送ってくれたのです。おかげさまで私たちは塩辛というのを食べることができました。その戦友は早く亡くなりました。父は非常に嘆き悲しみましたが、私たち子供にとっては塩辛が食べられることができなくなったのが残念でした。
不謹慎と言わないでください。食べるものに事欠く時代だったのです。
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漬物食べなさい
そんなわけで、冬場は新鮮な野菜が取れるわけがなく、たくあんとか白菜の漬物しかありません。ナスやキュウリの漬物はほとんど食べませんでした。なぜなら、それらは大根や白菜に比べて高かったからです。
子供の頃食べなかったためか、私は今もナスやキュウリの漬物が苦手です。妻にいつも「なんで食べないの!好き嫌いはだめです」と怒鳴られております。
ほんとうですよ、私は勘違いはあってもうそは言いません。
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あまり好きじゃない
そして当時は野菜の種類も限られていました。今、スーパーで見かける野菜の多くは出回っていませんでした。
例えば、子供の頃なかったものをあげてみましょう。
☆☆青梗菜(ちんげんさい)なんてのが現れたのは、ほんの20年位前でしょう。
☆☆かいわれは大根ですが、田舎に広まったのは80年代末
☆☆モロヘイヤは90年以降、
☆☆エリンギは野菜に入るのか知らないが1990年末
☆☆にがうり(ゴーヤー)を食べたのは21世紀になってから、
もちろん都会では早く広まることと、流通機構が整っているのでもっと早かったでしょう
そんな新顔・ルーキーどころではありません、古参であるキャベツさえ私が子供の頃にはありませんでした。中学のとき、初めてキャベツの千切りを食べて、これはうまいと思いました。あなた、生の白菜のサラダをうまいと思いますか? キャベツに比べたら月とすっぽんです。

高校の頃、「エデンの東」を読んでいて、レタスを列車に載せて出荷する一節がありました。そのレタスは途中で腐ってしまうという事態になるのですが・・・
映画の「エデンの東」は原作とは別物である。映画を見て感動したという方は、ぜひ原作をお読みください。もう激情にかられますよ。 
「エデンの東」を読めばレタスが野菜であることはわかりますが、どんなものかがわかりません。そのときまで、レタスというものを見たことも食べたこともなかったのです。
野菜といっても白菜とかにんじんのイメージしかありません。それでそんなに簡単に痛んでしまうことが理解できませんでした。
kojien.gif ちなみに、今私が持っている昭和44年の広辞苑では、【レタス】→萵苣(ちしゃ)を引け、となっていて、萵苣をひきますと
【萵苣】キク科の一年または越年草とあり、絵がありますが、今私たちが食べている形態と全然違う絵が載せてあります。当時は葉が丸まった種類のレタスは一般的でなかったようです。
なんでもレタスが日本で広く食べられるようになったのは昭和40年代後半からとのこと

桐島洋子ってご存じでしょうか?
「元祖未婚の母」なのですが、今の若い人は知らないかもしれません。
桐島洋子には3人子供がいて、モデルの桐島かれん、江角マキコの元夫ローランド、そして桐島ノエルである。若い人なら母親を知らなくても、お子さんのほうをご存じではないだろうか? おっと、今は母親の洋子さんのお話、家族は関係ない。
桐島洋子さんは単に未婚の母であるだけでなく、思想、文才、美貌、英語力、行動力すべてにわたり才女と呼べるお方でありまして、私の尊敬する人のリストに入っております。
私の尊敬する人といいましてもたくさんいます。
KABU先生、相方、Yosh師匠、提督など同志もいれば、唐津 一、本田宗一郎、盛田昭夫など日本産業発展の功労者の方、そして深田祐介小林よしのり、西尾幹二、渡辺昇一などの文壇系、そして櫻井よし子、桐島洋子、中西準子、曽野綾子などの才女系など多種多様である 
あまりさまよってはいけません。
最近は読んでいませんが、若いときは桐島洋子の著書は相当読みました。1970年前後のことです。
ani m16.gif 彼女の書いた本で、ベトナム戦争に従軍した話がある。なにせ彼女の行動力はものすごい。ベトナム戦争のベトコンの弾が飛んでくる最前線に行く。そしてベトコンに撃たれた兵士を助けたりするのだ・・・ジャンヌダルクか巴御前ではないか?
その本の中で、アメリカ軍の兵士がカリフォルニアから送られてくるレタスを食べる話が出てくる。
彼女はわざわざ地球の反対側から野菜を運ぶのではなく、ベトナム地場産の野菜を食べれば安くつくし、地元との関係も良くなるのではないかというようなことを書いていた。
実を言って当時の本は度重なる引越しですべて捨ててしまった。多少ニュアンスが異なるかもしれないのはご容赦願う。
しかし、同時に彼女は「生まれたときから食べているものを食べるからこそ戦えるのではないか?」とも書いていました。アメリカ人にとってレタスは日本人にとってのお米ほどではないでしょうが、梅干とかたくあんのようなもので、食べないと落ち着かず、力が出ないのかもしれません。

私がレタスに出会ったのは結婚してからのことです。長女が生まれるまで妻は働いていました。
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当時、夫婦が勤めていることを共稼ぎ(ともかせぎ)といいました。共働き(ともばたらき)なんておかしな日本語をはやらせたのは、テレビドラマ「ありがとう」です。私はこの「共働き」という言葉に非常に嫌悪を感じます。夫が外で働いて、奥さんが専業主婦であるとき、奥さんは働いていないのか?
そんなことはない。家事、育児、冠婚葬祭の付き合いなど夫と同等に働いているではないか?
共稼ぎというのは奥さんも現金収入があるということであり、共働きというのは専業主婦は働いていないという差別語である。
妻はけっこう新しいもの好きで、勤め先から帰る途中、お店で目に付いたものを買ってくるのです。あるとき、八百屋で珍しい野菜を見たので買ってきたというのです。なんでも葉っぱをそのまま食べるのだといいます。キャベツのように千切りしなくてよいらしい。
私が勤め始めた頃には、私の住んでいた町にはまだスーパー(スーパーマーケット)と呼ばれる形態のお店がありませんでした。20キロほど離れた地方都市にはスーパーというのがありました。はじめて友人に連れられて行ったとき、あまりの広さに驚きました。
私たち田舎住まいの日常の買い物は、野菜を買うには八百屋に行って店に並んでいる乏しい品揃えの中から選ぶしかありませんでした。もちろん、豆腐は豆腐屋、肉は肉屋、魚は魚屋、てんぷらはてんぷら屋に行って買ってくるのです。
てんぷら屋とはてんぷらを食べさせる店ではなく、てんぷらを揚げて売っている店のことです。
さて、買ってきたレタスの葉っぱをちぎって水洗いして食べました。若干青臭いという感じはしましたが、うまい!
私は田舎者で山菜や庭先の草を取って来て食べるのが日常でしたので、青臭さには抵抗ありません。タイに行ったとき、多くの人がパクチの臭いがだめだと言っていましたが、私は抵抗なくパクチが大好きになりました。
パクチとはパセリのもっと香りが強いようなもので、最近日本でも見かけます。

それから30年、レタスは私の好物となりました。我が家の子供たちはみなレタスが好きです。
しかし、私はレタスが大好き、娘も息子もレタスが大好き、といっても程度というか位置づけがちょっと違うのではないかと思います。
kyuuri.gif たとえば、前に述べたように、私は小さいときナスやきゅうりの漬物を食べたことがありませんでした。だから今でもそれがうまいとは思わないのです。私の家内は農家の生まれで、小さいときからそういった漬物を食べていたので、食卓にないと寂しい。でも買ってくると一人では余ってしまう。だから私に食べろ食べろとしつっこいこと・・・
私はレタスがなくても諦めることができます。しかし、私の子供たちは産まれたときから食べている好物のレタスを食べられないことは、私にとってよりも耐え難いことではないだろうかと推測します。

「美味しんぼ」(雁屋哲・花咲アキラ)においては、私の人生と縁もゆかりもない怪しげな食文化(?)を論じています。
私は「美味しんぼ」にまったく感情移入はできませんが、私も食は文化だと思います。しかし、それはマンガで論じているような単なるおいしさとか荒唐無稽な尺度や観点ではなく、もっと泥臭い、生まれ、育ちに直結して体に染み付いたものではないでしょうか?
以前おふくろの味という駄文を書きましたが、刷り込み(インプリンティング)といいましょうか、動物が生まれてはじめて見たものを親と認識するとおなじように、生後まもなくから食べたものがその人の味のベースラインになるのは間違いないと思う。

「くさや」はある人にとってはくさいものでしかないが、ある人にとっては美味しさとは関わりなくなくてはならないものであり、納豆はある人にとっては耐え難いものであり、ある人にとっては水とか空気のようなものであろう。
食べ物だけでない。思い出の歌とは好きな歌ではない。人生においてビッグイベントがあったとき流行っていた歌が思い出の歌なのである。好きな映画とは感動した映画ではなく、好きな人と観に行った映画なのである。
アットホームに感じる、肩肘はらないでくつろげる、ということは人の暮らし、大きく言えば人生にとって重大なことである。私は、高級なワインをありがたがって飲むよりも、安い紙パック入りの酒を飲んだ方が美味い。
文章においてもまったくおなじだ。
国家の基本である憲法は日常語で日常感覚でわかりやすくなければならない。
ウソか本当か分からないが、大日本国憲法が制定されたとき、「憲法の発布」を「絹布の法被(けんぷのはっぴ)」がもらえると誤解した人がいたと報道されたという。
借り着では体に合わない。お仕着せというが人から与えられた服では体に合わない。昔軍隊では服に体を合わせろといったというが、平和主義者と自称するマッカーサー憲法大好きな人々は軍隊と同じく憲法に国民を合わせろと語っているようだ。
憲法は誰のためか? なんて考えるまでもない。それは国民のためのものである。決して中国人のためではなく、韓国政府のためでもない。
woman7.gif 日本人のための憲法なら、日本人が共有しているこの国の文化、伝統、感覚、感情に基づいた、日本人が感情移入できる文章で書き表さなければならない。
マッカーサー憲法は日本語で書いてあるとはいうものの、日本人の感覚、感情、文化で裏付けられていないのだから、その真意も分からないし、当然細かなニュアンスなどもちろんわかるわけがない。いかに理想を語ろうと、日本の文化、歴史、言語感覚とかけ離れたマッカーサー憲法に、私は親近感をもてないのである。
そんな感情のこもらない憲法の文章を意味のあるように解釈しようとしたり、自分の考えに合うように読み取って主張したり、あるいはその解釈方法や解釈作法を論じてもしょうがない。
それはレタスを食ったことのない佐為少年がレタスを理解できないのと同じだ。

頭でさえ分からないし、琴線に響かないマッカーサー憲法を分かった振りをすることはない。
分からないのは恥じゃない。分からなければ、分からないと言えばいいじゃないか。
そして自分の分かる言葉で憲法を書き表せばいいじゃないか。
述べたように、憲法は土着の文化に密着した、普段着の言葉で書き表さないとその国民に本当に我が物と認識されないことは間違いない。
私にとって「レタスの憲法」ではやはり心象に響かない。「たくあんの憲法」とか「塩辛の憲法」でなければ私は我が物と思えない。

さて、延々と5千字にもなる駄文の最後で、レタスと憲法はつながったのだろうか?
大いに心配である。


本日の気がかり

レタスと憲法はつながったのでしょうか?


文字数が多いですが、本日私が家内と行ったショッピングセンターまでの往復の電車の中で考えただけで手間ではありませんでした。


Yosh様からお便りを頂きました(06.09.24)
とうた様、レタス、キャベツ、白菜のことですが。
体験談を一つ
私はあまり生野菜を食べません、殆ど火を通したものを食します。
日本で、とんかつを注文すると必ず付いてきました、今でもそうですか?しかしキャベツのパサパサしたのを食べるのにドレッシングが今ひとつと言うかいつもとんかつのソースにまぶしてたべていました。
こちらで農業をしている友人の家を訪問して帰りに白菜を持って帰りなさいと言われ、独り住まいで沢山貰っても無駄になると思い一つだけ貰ってかえりました。それでも大きな白菜でその処分に困りました。採りたての白菜で思いついたのは刻んでそのまま食べることをだったのです、大成功、どんなドレッシングにもあいます。レタスやキャベツと比べると雲泥の差で私には白菜が最高でした。
お店で採って日にちが経ったのはどうかと思いますが、機会があれば試してください、ドレッシングは辛めのが合うようにおもいます。

おお!Yosh様、まさに私の言いたいことをご理解いただけたようです。
人はそれぞれの味覚があるということを立証いただきありがとうございます。
そうです、
だから結論は日本国憲法はふつうの日本語で常識を形にしようという点にご同意いただきありがとうございます。


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