ニイタカヤマノボレ 2010.11.27

私は出勤日には朝5時半に起きる。家内は同じ部屋には寝ていないが、私といっしょに起きだして、私が洗面や着替えをする間に朝ごはんを作ってくれる。家内は私といっしょには食べず、後でひとりでのんびりと食べる。でも私が朝飯を食べる時には、テーブルに向かい合って座り、私と天気予報とかニュースの話を付き合ってくれる。家内はけっこう優しい女なのである。
お断りしておくが、私は食事中も食事していない時もテレビを見ない。
家内はテレビ大好きだが、食べながら観るような行儀の悪いことはしない。

いつも話題は出掛けに傘を持っていく必要があるか・ないかで始まり、昨日の主なニュースについて意見交換があり、娘と息子は元気かという話しになり、今夜は何時に帰るかということになる。そのほか、家内のお友達が車をこすったとか、ぎっくり腰になったとか、お互いにおしゃべりなのでことばは数多く飛び交う。
私がカレンダーを見て「もう少しでまた開戦記念日になるね」というと、家内は「ニイタカヤマノボレでしょう」という。
そして「以前、無線を打ったという船橋の行田に行ったことがあったよね。あれからもう何年も経つね」という。
そんなこともあったと思い出した。

詳細はこちらを読んでいただくとして、いきさつを簡単に述べる。
私は地図を眺めるのが好きでいつもグーグルマップやヤフー地図などを見ている。だいぶ前のこと、道路が円を描いているところを見つけた。

この円形はなんだろう?

道路が円形になっているなんて、どんなところかと訪ねてみたら、そこが昔の軍の無線基地で真珠湾攻撃命令であるニイタカヤマノボレを発信した歴史的な土地だったのである。当時は長波だったのだろうけど、なんでもアンテナをいくつか配置するそうで、それらをつなぐ道路が円形になるということらしい。

いつ行ったのだろうというと、マンションを買う前の年だという。するとあれから4年が経過したことになる。4年とは短くはない。私が還暦を過ぎたところだから、それは我が人生の7%にあたる。
そこから妄想が私の頭にどんどんと湧き上がってきた。

私がこのウェブサイトを作ってから丸9年が経過した。ということは私の人生の15%に当たるわけだ。これは半端ではない。私が40歳の頃囲碁に狂って毎晩・毎晩、碁会所や公民館をはしごしていたが、どれくらいの期間、囲碁にはまっていたのかと思い返してみると36・7歳から43歳くらいだった。囲碁に狂っていたのはたかだか7・8年である。
その前はアマチュア無線にも凝っていたし、8ビットパソコンにも凝っていたことがある。我ながら、いろいろあったなあと思う。
もちろん趣味だけではない。なんとか暮らしていけるだろうと思って結婚したとたんに第二次オイルショックになり、毎晩飲む酒もビールから安い焼酎になった。そして子供が産まれたが、会社人間の私は子供の世話をせず家内に育児を押し付けてきた。思い返すと家内に申し訳なく、また子供たちと遊んでやらなかったことをすまなく思う。
../bride2.gif
そんなことを考えていると、またまた変なことが頭に浮かんだ。
1年を1メートルとすると、今自分がいるところから35メートル向こうに若い家内と私が結婚式をしている。更に25メートル先に生まれたばかりの赤ん坊の私がいる。
その7・8メートル先に真珠湾に向かう九七艦攻や零戦が何十機と編隊を組んで飛んでいる。
もちろんその先もずっと続いている。
100メートル先では日本海海戦が行われていて、海に砲弾が落ちて高い水柱が上がっている。
140メートル先では長州や薩摩が我がふるさとの会津鶴ヶ城を攻めている。飯盛山は見えないが、そこで白虎隊が自決しているのだろう。

更に遠くに目を凝らせばちょんまげを結った侍が歩いているのが見えるのだが、そのとき気がついたことがある。

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真珠湾攻撃に向かう編隊は現在と明治維新までの距離のちょうど中間にあるのだ。真珠湾攻撃は私が生まれたときからたった数年しか前ではない。だけど真珠湾攻撃とそれに続く太平洋戦争あるいは大東亜戦争は、それほど昔のことになってしまったのだ。私が生まれたのが明治維新までの中間点になるのも時間の問題だ。あと10数年というところだろう。それは一人の人間にとっては長い時間だが、国の歴史ではあっという間に違いない。
そういえば初めてニイタカヤマノボレを書いたのは今から9年前だった。あのときは真珠湾攻撃までは60メートルだったのに、今では70メートルも離れてしまったのだ。
毎年1メートルづつ離れていくなんて、宇宙の膨張のようだなんて頭に浮かんだ。アホな私である。
しかし、時の経つのは速い。

「あなた、大丈夫なの?」家内が私に声をかけた。私がおかしくなったのかと心配したに違いない。
「いや、時が経つのは速いものだと思ったのさ」

キスはしないが、玄関で家内に見送られて出かける。まだ表は暗い。
飛行機の音がする。成田行きの朝一番か二番の飛行機なのだろう。
自分という人間は、日本人であるということを受け継ぎ繋ぐために存在しているのだろうと思う。真珠湾攻撃に加わった人々と同じく、私も精一杯生きて死なねばならない。駅までの暗い道を歩きながらそう思った。

過去何度もニイタカヤマノボレと題して書いております。お気が向いたらご覧頂きたく。
過去のニイタカヤマノボレは・・2・3・4・5・6・7・8・9



ふっくん様からお便りを頂きました(10.12.03)
お久しぶりです
最近は夜空の観測に熱中してしまい、結構ご無沙汰しています。
素敵な動画が見つかりました。また見てみてください。
実は、すごい子供のような人が国のために、愛する人のために戦ったんだなぁと改めて感激しました。
http://www.youtube.com/watch?v=haQJ1cJIVA4&feature=related
こっちは愛するもののために戦う漫画でありますが・・・正直、内容的にははっきり言っていただけませんが、パロディとしては一流?です
http://www.youtube.com/watch?v=bYTuqSHezVM

では!

ふっくん様 ご無沙汰しております。
18歳で特攻、想像できません。そういう人たちによって今の日本があると感謝しなければならないと改めて確認しました。
それにつけても、腐りきった民主党のどうしようもないありさま
悲しくなります。
特攻隊の人たちからなんと見られているでしょうか


あらま様からお便りを頂きました(10.12.08)
佐為さま あらまです
「ニイタカヤマノボレ」「殿中でござる」・・・
以前、年末の話題と言えば、「開戦」「赤穂浪士」でした。
そこから、日本人の心を思ったものでした。
しかし、今では話題にも上りませんね。
歴史が風化していくのでしょうか・・・・

命懸けで日本を造り守った先人・先輩たちが求めていたのは、今のような日本でしょうか・・・。
何か申し訳ないような気がしています。

さて、電波塔の話ですが、最近は、軍事的な電波塔が次々と撤去され、代わりに携帯電話の電波塔が雨上がりの茸のように繁殖し続けています。
併せて、こんな田舎にも、地上デジタルの電波塔が建ちました。
そして、東京には 最終的には600メートルを超える電波塔が伸び続けているんだそうですね。
信号のデジタル化によって、世の中が変わっている真っ只中に我々がいるようです。
こうしてみると、生まれてから今まで、激変の世の中に平行した人生です。

あらま様 毎度ありがとうございます。
すべてのものは風化して忘れ去られるのでしょう。それが定めというものでしょう。
もっとも中国だけは、決して風化しないようです。いやいや、彼らが信じたいものだけが風化せずに、あるいは捏造されていくのでしょう。
そして中国人が忘れたいものは10年も経たずに風化して、風に飛んで少なくとも中国人自身には見えなくなるようです。
天安門事件などもはや三国志よりもあいまいに・・・
しかしあらま様のおっしゃるように、私たちは激変の世の中に生きているのでしょうか?
私は明示末に生まれた父親に比べ、なんと変化のない時代に生きてきたのかと思っておりました。
考え違いしておりました。

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