草戸千軒 | ||||||
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「草戸千軒」とは、いったいどのような町だったのでしょうか?
遺跡の立地から |
まず、町の立地から考えてみましょう。現在の遺跡は芦田川の中州を中心に広がっていますが、これは1920〜1930年代の河川改修工事によって川の流れが付け替えられたためで、本来川の中州にあった町ではありません。町が存在していた13世紀から16世紀初頭にかけての段階では、遺跡は芦田川河口の三角州上の微高地にあったと考えられます。そして、遺跡の数百メートルほど南に海岸線が迫っていたことが、地理学的な検討から明らかになっています。また、芦田川の流れも固定化したものではなく、中州の中でたびたび川筋が変化していたようです。したがって、川や海の影響を受けやすい場所で、耕作地としても集落としてもそれほど安定した場所とは言えません。
このような不安定な場所は、荘園公領制とよばれた当時の土地支配制度の中では税を収奪する対象とは見なされずに、公的な支配権力のおよばない「無主・無縁の地」となっており、「市」や「宿」などの非農業民の活動の舞台となったことが、網野善彦氏によって論じられています。
いっぽうで、芦田川河口という場所は、芦田川下流域から福山湾岸にかけての交通の重要拠点でもありました。遺跡の約10km南方には、鞆(とも)という古代から栄えた重要な港がありますが、ここから備後の内陸部へと入っていくためには、芦田川河口から川をさかのぼっていかなければなりません。また、陸上交通のメインルートである山陽道も、遺跡から2kmほど北の山裾を通っています。つまり、瀬戸内海航路と芦田川を利用した河川交通、そして山陽道の陸上交通、この三者の結節点に「草戸千軒」は位置していたのです。「太平記」などで、遺跡の周辺地域が兵力を集結させる場所として登場することにも、この場所の地理的な重要性が示されています。
また、この場所は鎌倉時代には長和荘という荘園の荘域内に含まれていたと考えられるため、この町が長和荘の年貢積出港として成立したことも指摘されていますが、「草戸千軒」と長和荘の結びつきを具体的に示す資料は見つかっていません。
同様に、「草戸千軒」のすぐ西には律宗の寺院である常福寺(現在の明王院)があり、この寺院と町とが何らかの関係を持っていたはずですが、これも具体的な内容が明らかになっていません。
町の構造から |
発掘調査によって明らかになった町並の中には、船着場や堀割と考えられる施設があります。さらにその背後は、商業・金融活動に関与したと考えられる人物の屋敷となっています。また、土蔵と考えられる建物跡もあり、土壁や壁に貼ったと考えられる瓦なども出土しています。
14世紀前半から中頃にかけては、遺跡の南半で溝や柵で区切られた短冊のような細長い区画が並ぶようになります。短冊形地割りの短辺は、一方が道路に面し、もう一方は堀割に接していおり、これも商業や手工業に関係した人々の居住地だったと考えられます。
交通の要所であるという立地を生かして、活発な経済活動が展開されていたようです。
出土遺物から |
出土遺物の中で注目されるのは、数多くの木簡です。その中の、商品取引や
金融に関わる記述は、この町での商業・金融活動の重要性を明確に物語っています。同時に、そうした木簡には芦田川流域や福山湾岸の地名が記されたものがあり、この町の経済活動が、この地域一帯を対象にしたものだったことが明らかになります。(写真右:商取引を記した木簡)
手工業生産に関わる遺物にも注目しなければなりません。例えば、漆塗りに関係するもの、鍛冶に関係するもの、番匠(大工)に関係するもの、鹿角の細工に関係するものなど、多くの手工業生産者がこの町に存在したことが確認できます。
こうした、商業・金融業・手工業など、さまざまなサービスに関与する人々、いわゆる「職人」の活動の痕跡が、この遺跡を特徴づけています。
地域経済拠点に集う人々 |
「草戸千軒」の町は、芦田川下流域、福山湾岸の経済拠点としての機能を果たした町だったことが明らかになってきました。
そこには、商業・金融業・手工業などに従事する人々が居住し、地域内外の生活物資が取り引きされていました。芦田川流域や福山湾岸からの船とともに、鞆で荷下ろしされた遠隔地からの物資を載せた船も町にやってきたに違いありません。
こうした経済活動は、従来考えられていたような、荘園ごとに完結する自給自足的な経済体制によって理解するよりも、それぞれの荘園や公領の枠を越えた経済活動が地域内に展開していたことを想定した方が合理的に解釈できます。一定地域内の経済活動、そして地域と地域とを結ぶ経済活動、それらが鎖のように日本列島を覆っていたのではないでしょうか。「草戸千軒」の町は、そうした鎖の連結点の一つとしての役割を果たしていたのでしょう。
しかし、同時に注意しなければならないのは、こうした商業取引や手工業に関与した人々が、それぞれの生業に専業的に関わっていたとは限らないと言うことです。例えば、「草戸千軒」で金銭取引に関わっていた人物には、漆職人も含まれていたことが明らかになっていますし、遺跡全域からは漁網に付ける錘が多数出土しており、この町の多くの人が何らかの形で漁業に関係していたことも想定できます。したがって、この町に暮らした人々は、漁業・商業・金融業・手工業などに、多角的に関わっていたと考えられるのです。おそらくは、これが中世における商工業者の一つの在り方だったのでしょう。