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■ Essay 05-04
 
 







 丸山林道からの富士山
■ 100万分の1の感動 2005/>05/7/22

 
 お母さんやお父さんが、運動会や学芸会で、夢中になって我が子の写真を撮る気持ちは良くわかる。プロは、報道やコマーシャルのために写真をとる。皆その目的がハッキリしている。

 
 
 数年前、南米にあるイグアスの滝 (世界三大瀑布の一つ)に出かけた。轟音を立てて流れ落ちる膨大な水、数キロにも及ぶ水のカーテンに圧倒された。
 写真は、視覚だけに訴える僅か数十センチの現像物。露出、シャターがどんぴしゃりでも、その感動を映し出すことなど出来るはずがない。その時、写真は、感動的な大自然の100分の1、いや100万分の1も表現することが出来ないことを実感した。
 
 若い時は、写真に殆ど興味がなかった。まして誰もいない景色を撮ることなど考えもしなかった。最近は、外国に出かけるときには必ずデジカメを持参する。綺麗な街並みや美しい風景を写真に残しておきたいと感じるようになった。もしかすると 「ここには二度と来れないかも知れない」、 「再びこの感動に出くわすことはもうないかも知れない」 と思うからこそ、人は写真を撮る。高齢になればなるほどそれを肌で実感するのでないか。写真は、思い出の再現手段であり、他人にとって殆ど意味のない極めて個人的、自己満足的なことのように思えてならない。
 
 でも、写真に興味を持ち始めてから、綺麗な街並み、海や空の色、店員の笑顔や若い女性の何気ない仕草に、ハットすることが多くなった。また、それを台無しにしている電信柱やケバケバシイ看板、日本人にはどうかと思える若者の金髪やガンクロ(顔黒等)も目につくようになった。
 もし、皆が、ファインダーを通して町や人をみれば、多少は街並みも変わり、自分の姿も客観的に見れるようになるに違いない。

 女房に隠れて最新機材を購入し、家族からどんなに嫌みを言われても、100パーセントの感動を残そうと、カメラをかついでセッセと出かけています。