「認証していないと取引停止」と断定すると独禁法違反らしい。だから、どこの会社でも「第三者認証もしくは同等のEMSのあること」と表現しているようだ。
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私の頭には、それならISO14001の要求事項そのまんま実現すればいいじゃないかという感じが浮かんだ。とはいえ、そのへんのISOコンサルを頼んで仕組みを整え文書を作り、審査を受けてめでたく認証すれば環境管理が良くなるかといえば、絶対に良くならない。要するにISO認証ということと、環境管理向上ということは無関係とまでは言わないが、直接的に結びついていないのである。
しかし世の中にはその現実を認識しても、そういう事態を招致したのは組織の責任であると語る人が多い。私には組織というより認証機関の責任にしか見えない。だって組織がなにをしようと審査員がしっかりしていればよいだけのことではないか。そんなことを私は何年も前から語っている。 しかし「組織の責任である」ということは「組織がしっかりしてくれよ」ということであり、「第三者認証制度の価値はない」ということと同義である。そんな責任逃れの発言は、第三者認証制度を否定するものであり、最終的に自己宣言をしてほしいということになってしまうのではないだろうか? ともかく第三者認証はISO規格とおりのEMSであることとイコールではない。しかし私はISO規格を実現すれば、事故を起こさず、法違反を起こさず、パフォーマンスを向上すると信じている。 |
| 神を信じる | 神を信じない | |
| 神が存在する場合 | 現世の幸福を得る。 来世の幸福を得る。 | 現世の幸福を得る。 来世を失う。 (裁きを受けるか?) |
| 神が存在しない場合 | 現世の幸福を得る。 来世はない。 | 現世の幸福を得る。 来世はない。 |
| 総合すると | 損はない | のるか そるか? |
| 第三者認証する | 第三者認証しない | |
| ISO準拠のEMSがある | お金がかかる。 対外的に箔が付く? | お金がかからない 名誉もない |
| 確固としたEMSがない | お金がかかる。 無用な書類・記録の維持 対外的に箔が付く? | お金がかからない 名誉もない |
| 総合すると | 損ばかり | 損はしない |
何度もいうが、EMSというものは全ての組織が具備しているものである。それが完ぺきか、しっかりしているか、プアかの違いがあるだけである。
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| スタート | 元々ISO14001相当のEMSあり | ISO14001相当のEMSなし | ||
| 審査時 | ありのままのEMSを見せる | バーチャルなEMSを見せる | 規格を満たすEMSを作る | バーチャルなEMSを見せる |
| 認証時 | ISO14001相当のEMSあり | ISO14001相当のEMSあり | ISO14001相当のEMSができた | ISO14001相当のEMSなし |
| 認証返上時 | ISO14001相当のEMSあり | ISO14001相当のEMSなし | ||
お断り EMS(環境マネジメントシステム)とは何かといえば、ISO規格に基づいたものという意味はない。それは単なる一般語であり、範疇語に過ぎない。ある会社のEMSはISO14001の仕様を満たすものもあろうし、他の会社のEMSはまったくプアであるかもしれない。しかしEMSというものは全ての会社に存在する、いや組織が必然的に備える性質であることに変わりはない。 その意味で、EMS構築という言葉は語義矛盾のように思う。EMS改善とか、EMS再構築ならまだ理解できる。まあ、現実にはISOその他の第三者認証という程度の意味に使われているのが現実ではある。 |
某社は「従来からの環境管理体制がISO規格以上だから認証しない」と語ったことは有名である。 そういやあ、日経環境経営度で何度もトップになった企業は「卒業しました」なんて語って、それ以降経営度調査に回答しないとも聞く。 |
佐為さま いつも興味深い内容を有難うございます。 拝読して、なるほどと思いつつ、ISO信者から迫害を受けるのも当然だと思いました(笑)。 というのも、宗教は信じるから救われるのであって、上の宗教の表では「神を信じる人/神が存在しない」というものはあり得ないからです。 神は必然があり、人間により生み出され、信じられることで存在しています。ですから信者にとって実存の証明は無用なのです。 「神の奇蹟」は信じるから存在するのであり、実存の世界から証明しようとは野暮なこと、この上無いのだと思います。 とは言え、信者にも 疑念を抱き、信仰から離れる人もいますし、形式的を守ろうという人もいますので、これらの人までも「信者」というかは難しい問題なのですが... 同様な考えを、ISOの表に転じれば、信仰とは違うことが判ります。 「ISO 第三者認証をする人 では、確固としたEMSが無い」という事例は、確かに存在します。 この場合には、「取引先から求められて仕方なく」という外部からの必然から、信用になると思ったという消極的内部動機など、様々なものがあるようです。ですから、ISOの場合には、信じるというよりも、効果を期待しているというのが実態なのでしょうね。 実際に効果がある、「ISO14001相当のEMSあり」という国際的にも共通の言葉で説明が出来る状態ならば、対外的な信用にもつながるのだと思います。 さて、第三者認証に話を戻すと、これは教会という「組織」や坊主という「立場」が信者を天国に導けるかという話に近いのだと思います。 結論を先にいえば、それは不可能で、そこで問題になるのは個々の信仰の深さであり、個人のもつ力なのだと思います。 組織や立場というのは、あくまで手段や方便、いいかえれば道具でしかなく、それだけを信じることは金や土で作った偶像を拝めば天国にゆけるという状態を是認するかという話に似ていると思います。 まとめますと、教会は建築として立派なのが価値ではなく組織としての役割で評価されるものであり、坊主は袈裟や経文ゆえに立派なのではなく個人の力量や信仰の深さや真剣さによるのだと思います。 同じ事は、ISOにも転じて言えるのだと思います。 |
外資社員様 毎度ありがとうございます。 おっしゃる意味は分かります。すべてに同意とも言えませんが、おおむね賛同します。 現世の問題、いやISOの問題はそう高尚というか形而上の話ではありません。私は、ISO第三者認証制度というものが、認証制度側の金儲けでもよいし、関係者の自己満足でも、老後の趣味でもいいんです。私はとやかく言いません。 ただ認証を受ける組織に迷惑をかけるようなことは困ること、あげくに何か問題があれば企業が虚偽の説明をしているからだなどと八つ当たり、責任転嫁をされては迷惑だということなのです。 捨扶持をもらっていればおとなしくしているというなら勘弁してやるのですが・・ |