ニイタカヤマノボレ

2016.12.05

今どき「ニイタカヤマノボレ」なんて言葉を知っている人はあまりいないだろう。「ニイタカヤマ」とは新高山のことで、それは台湾にある玉山である。標高3,952mで富士山より高い。かって台湾が日本領土だったとき日本で一番高い山であった。
そして「ニイタカヤマノボレ」とは1941年12月8日に日米開戦の連合艦隊に伝えた暗号である。その電信は千葉県船橋市の行田公園にあった海軍無線電信所船橋送信所から発せられたという。いや行田公園にあったというよりも、その跡地が行田公園になったというべきか。そこには今はかって無線基地があったという1枚の銘版があるだけだが、真円に近い道路から昔何かあったことがわかる。

行田公園
左図はグーグルマップのもの。小さな円ではない。円の中には小学校ふたつ、中学校ひとつある。直径800m、1周2.5キロ、ひとまわり歩くのに30分はかかる。
大分前のこと船橋市のとある公民館に行ったとき、たくさんのアンテナが立ち並んでいる無線基地の大きなセピア色の写真が飾ってあった。周りは建物もなくまったくの田園、船橋市も田舎のときがあったのだ。船橋は今も田舎だなんて言ってはいけない。福島から来た者からみれば十分都会です。

とまあ本日のタイトルひとつとっても理解していただくには、その前提の説明が長々と必要になるほどときが経ったのだ。言いたいことは長い年月が経ち、太平洋戦争(日本での本来の呼称は大東亜戦争)や真珠湾攻撃、その攻撃命令、そんなことを知っている人は少なくなってきたということだ。

私は「ニイタカヤマノボレ」というタイトルでなんと過去15回も書いてきた。
空母赤城から飛び立つ


真珠湾攻撃
空母を飛び立つ飛行機
海軍旗

しかし毎年書くことの中身がどんどんと変わった。変わるのも当然だ。
最初に書いたのは2001年、そのときは真珠湾攻撃から60年後である。60年は十分に長いが、真珠湾攻撃のとき物心ついた人がまだ70前、その人たちの7割は生き残っていた。だから「ニイタカヤマノボレ」と言っただけで「ああ、あれか」とわかる人が相当いたわけだ。
私は子供の頃、父と母から開戦と開戦のとき、どこにいたか、何をしていたか、何を考えたか、そんなことを機会あるたびに聞かされた。だから小さいときから「ニイタカヤマノボレ」も玉音放送も知っていたし、人々がどんな状況だったか聞かされてきた。なによりも私が物心ついたときはまだ真珠湾攻撃からたったの10数年しかたっていなかった。
私は進駐軍が何十台と連なって走っていくのを母におんぶされて見た記憶がある。その他隣近所のおじさん、おばさんからしょっちゅう「戦争のときはね〜」と話を聞かされた。学校の先生が「俺はどこそこで戦っていた」とか、「学徒動員されて工場でフライスを使っていた」と教室で語っていた。そして私が小中学校時代は、師範学校でなく新制大学出の先生はワンランク低くみられていた、そんな時代である。
いや私が高校を出て就職したとき、戦争に行っていた人たちがまだ40代でバリバリ働いていた。だから戦争の話は休憩時間とか酒を飲んだりしたとき聞かせられた。

今この文章を書いている2016年12月は真珠湾攻撃から75年後、私が最初にニイタカヤマノボレを書いてから15年も過ぎた。割合にすれば25パーセントも更に時が過ぎたのである。人々の関心が25%以上薄れるのは当然だ。
真珠湾攻撃のときもの心ついたばかりの人たちは80を過ぎた。彼らは平均寿命を過ぎて当時の人の生き残り率は7割から半数以下になったのだ。更に言えば80過ぎの人たちの声は、それより若い人の声よりもはるかに小さい。認知症や寝たきりになった人だって多いだろう。
そして親から真珠湾攻撃の話を聞かされた人たちも少なくなっているだろう。そして真珠湾攻撃の話を聞かされた人が子供に伝える確率はものすごく低い。私自身、息子や娘に話したことはない。自分が見たことでなければ伝えることはむずかしい。

私の本棚に「新しい歴史教科書(自由社、2015)」というものがある。それを見ると日米開戦に1ページ(p.238)を割いている。写真は真珠湾で炎上するアメリカ軍艦と日本の航空母艦の甲板に並ぶ飛行機である。だが「ニイタカヤマノボレ」の文句は載っていない。まあ歴史の流れから見たら奇襲攻撃命令の暗号などどうでも良いことではあろう。

WTCビル 真珠湾攻撃の記憶はドンドン風化している。それ以降にも世界中で戦争はたびたび起きたし、今現在ドンパチしている地域もいくつもある。尖閣や南シナ海など、さらなる戦争の危機もある。現在はテロも大規模化して、ニューヨークWTCビルでは数千人も亡くなった。
戦争ではないが日本においても東日本大震災という未曽有の災害もあった。75年前のことなどどうでもいいのかもしれない。
ただ決死の覚悟で戦った人たち、その中には私の父も叔父もいたのだ、そういう祖先を忘れたくない。その気持ちも忘れたくない。だからこそ毎年この時期になると思い出してほしいと駄文を書いている。

今の時代、自分たちが始めなければ戦争は起きないとか、平和憲法があれば大丈夫とか、中国の家来になれば良いとかボケを騙っている人は多い。だが人間、誇りを失ってはいけない。そして自分の命をかける勇気がなければ正義は守れない。
元々真珠湾攻撃を始めたとき、日本は食うや食わず娘を売るという状況であったこと、ABCD包囲網、日本人迫害、そういう事情を知らずに今の価値観で語ることは先人のみならず己を辱めることだ。
そして権利というものは生まれながらに持つものではなく、己の血で購うものだということをわからずに語ってはいけない。中国などの反日国家の手先になって空虚な理想を語ることは自分と子供たちの明日をみじめにするだけ。
我々は常に己の血で自分の権利を確認し確保しなければならない。

なんだかんだ書いたが、要するに時が経ち人々は真珠湾攻撃だけでなく古いことは忘れていく。それは自然なことであり変えようもない。だから古い出来事を忘れるなというのは無理だし筋違いだろう。我々は今与えられた条件において誠実に最善に生きることがすべてであり、それが先人に応えることである。そう考えないとやりようがない。
ただ今の日本はそういう過去の上にあること、私たちは勇気を振り絞った先人のおかげで今生きているということを忘れてはいけない。そして自分自身のため、子孫のために、己が身命を賭して権利を確保しなければならないということだ。

吉田松陰は、「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」と辞世の句を残したが、我々はこれに応えてどのような返し歌を詠むのか?
大和魂、つまり日本人の心をを受け継いでいるのか? 忘れてしまったのか?
もし日本人の心を受け継いでいるなら、我々のすることは中国の手下になることではなく、日本の国民の不利益になることをすることでもないはずだ。朝日新聞、サヨク、民進党、沖縄で平和団体を自称する連中のすることは、その真逆である。民進党の蓮舫党首は「華僑の一員として全力を尽くす」と語っている。政治家が日本人のためより中国人のために働くようでは困る。そういう人たちは中国に帰ってほしい。
中国の手下や平和ボケの連中を叩くためにはまだまだ引退できない。「ニイタカヤマノボレ」などわざわざ書くまでもないようなまっとうな日本になるまで、

日の丸 軍艦旗 本日の黙祷
すべての戦死者に感謝を、そしてご冥福をお祈りいたします。


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