福本 武久
ESSAY
Part 4
 福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
 新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。
ビジネスマンの風景……会社人間の未来
初出:雑誌「年金時代」2004年4月1日号(社会保険研究所) (2004.04.04)

 Eやんの見事な年金生活



「オレは、あんなふうにはならないぞ!」
 定年を目前にして、わが愛すべき義父Eやんは、ひそかに心に決めた。
 かれがながねん兄事してきた先輩が、リタイヤして二年目にポックリと逝ってしまったのである。
 仕事のうえでは厳しかったが、心遣いが細やかで、何よりも侠気にあふれた人柄が気に入っていた。
「ああ、何ということだ。これから……というときじゃないか!」
 Eやんは胸が痛んでならなかった。
 ほとんど手付かぬままに残された退職金、さらには年金(遺族年金)も、Eやんが悪妻と揶揄する夫人の手にわたってしまった。それも気にいらなかった。 
 あれほど偉い人はいないと思っているその先輩に、配偶者であるとはいえ対等の口を利く夫人が横柄にみえて、Eやんの眼には悪妻として映っていたのである。
「あまりにも気の毒だ。これじゃ、何のために働いてきたのか判らないじゃないか」
 あんなふうにはなりたくない……という想いは、そこから噴き出していた。
 国家公務員として勤続四〇数年……。
 Eやんは退職金を手にすると、自分たちの老後に必要と思われる部分を残し、あとは親戚や知人たちに御礼として贈ってしまった。
 無事に勤めあげられたのは、皆さんのご支援あればこそ……というわけなのである。
 三ヵ月ごとに下りてくる年金も支給日に全額引き出してきた。月額にして中堅サラリーマンの給料ぐらいあったが、Eやんは次の支給日までに、すっかり遣いきってしまった。
「少しは残しておかれたらいかがですか?」
 顔見知りの行員が忠告するのだが、Eやんはいっさい聞く耳をもたなかった。
 だからといってEやんは自身の贅沢に費消するのではなかった。すべては親戚縁者や身近な知人のために遣うのであった。みんなの喜ぶ顔がみたいのである。
 たとえば盆や正月に息子や娘たちが一家でもどってくると、観光バスをチャーターして、温泉に繰り出したり……。もちろん費用は全額Eやんが持った。そんなさまをみて、親しい友人は、「Eやん、アンタ、長生きしたら国賊だよ」と、からかうのだった。
「何を言うか。おれは九〇まで生きるぞ」
 Eやんはそのように豪語していたが、病には勝てなかった。目標まで五年を残し、多くの人に惜しまれながら旅立っていった。
 年金をもらうお年寄りの多くが、Eやんのようであったら、日本経済はもっと活性化するだろうが、昨今は支給額の減額、時期の延期だけでなく、保険料の引き上げなども現実になろうとしている。
 年金「改革」という名で、むしろ高齢者に将来不安をやたらと煽り立てる時世にあって、Eやんのような豪気な爺さんは、もはや現れることがないだろう。 


目次
海の魚と川の魚
雑誌「経済往来」(経済往来社)1978年 9月号 (1978.08)
机と椅子
雑誌「商工にっぽん」(日本商工振興会)通巻499号 (1989.05.15)
ロクでなし″とワカラズヤ″
NOMAプレスサービス」 No.449 (社団法人 日本経営協会) (1986.06)
Eやんの見事な年金生活
雑誌「年金時代」2004年4月1日号(社会保険研究所) (2004.04.04)
運転しながら化粧をしないで!
雑誌「Forbes」2004年11月号(ぎょうせい) (2004.11)
会社人間、「勉強会」に走る
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1987年10月号 (1987.09.10)
「出世レース」を疾走する「不惑」の男たち
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1988年5月号 (1988.04.10)
相続をめぐる「悲しき骨肉の争い」
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1988年9月号 (1988.08.10)
「遺書」が浮き彫りにする男の生き様
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1989年4月号  (1989,3.10)
23年ぶりの民間選出の理事長となった「北浜の風雲児」
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)2001年2月11日号 (2001,1.20)
西堀流部下活性法
講座「ビジネスリーダー活学塾」(プレジデント社)

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