福本 武久
ESSAY
Part 4
 福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
 新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。
ビジネスマンの風景……会社人間の未来
初出:雑誌「プレジデント」(プレジデント社)2001年2月11日号 (2001,1.20)

新世紀の風貌‐‐第22回
 23年ぶりの民間選出の理事長となった「北浜の風雲児」
  
‐‐目指せ!世界の北浜」証券市場大改革の夢」

 


北浜に残る父親の思い出

 株の街・北浜……。難波橋の上に立つと、土佐堀川ごしに中之島公園がひろがり、樹木の緑の間から、中央公会堂が見えてくる。
 青銅のドームをもつ石造りのたたずまい、赤煉瓦の壁とバロック風のアーチが、重厚にして優雅な雰囲気を放っている。
 中央公会堂は株式仲買人・岩本栄之助が寄贈した一〇〇万円をもつて一九一八年七月に建設され、大阪の歴史を彩る催しに利用されてきた。
 近年は老朽化がすすみ、〈解体〉か、〈保存〉かをめぐつて、論議が繰り返されてきた。紆余曲折のすえ、永久保存が決まり、このほど修復工事がはじまつた。
「野村証券の田淵節也さん(元会長)が日本証券業協会(日証協)の会長やったころ、野村で費用の半分ぐらい持とう。
 半分は大阪で持て、オマエが話をまとめろ……と言われましてね、大島市長(当時)に申し入れたこともあるんですわ」
 巽悟朗は、この話になると、にわかに熱っぼくなった。
「公会堂の前に裁判所があったんですよ。あれも煉瓦造りで、素晴らしい建物でしたな」
 巽の視線は過去の記憶へすべりこみ、父によりそうひとりの少年の姿を追いはじめた。
 北久宝寺町三丁目(中央区)で生まれたというから、船場のどまんなか。商家の連なるその街で、父の巽富造は弁護士を開業していた。
「ちょつと行こか」
 夕暮れの散歩に付き合うようになったのは、物心ついたころからだった。
 問屋街で父は訴訟の依頼や相談を受けた商家に立ち寄り、「その後、どうなってますか?」などと、気さくに声をかけていた。
「何よりも大事なのは人と人のつながりや」
 中央公会堂がみえてくると、私財を投じた岩本栄之助を語り、「人間は世のため人のためになって一人前や」
 と、さりげなく語りかけてきた。
 夕陽に映える大阪城の天守閣を指さしては、豊臣家の盛衰を語り、「関ケ原からこつち、大阪は東京に負けつぱなしやないか。喧嘩には負けたらあかん」
 と繰り返していた。
 その父は思いがけなく急死した。少年が小学校へ入学する直前である。母とともに京都に移った少年が、再び街にもどつてきたのは、それから一五年後だった。
「北浜で一旗あげるんや」
 地場の証券会社で三年間修業した男は、二五歳で独立して光世証券を設立する。緻密な戦略で順調に業績を伸ばし、わずか一九年で総合証券へ。北浜の地場証券が総合証券になったのは、免許制が敷かれてから初めてのことだった。
 中之島・北浜界隈には父の思い出がいっぱい埋まっている。証券マンとしての自分を育んでくれた街でもある。
「ここを忘れたら、ぼくは根なし草になってしまいます」


二十代にして、松下幸之助を口説く

 中央公会堂と土佐堀川をはさんで向き合う大阪証券取引所の市場館も、数年後には建て替えられる予定である。
 巨大な白い円筒状の市場館ドーム、最盛期には千人近い 「場立ち」の身振り、手振りでにざわったが、取引の電子化にともなって、九九年一一月から閉鎖されている。
 大証は、東証とともに一九七八年に開設されたわが国最初の取引所だが、現物市場ではつねに東証に遅れをとつてきた。「先物取引」に着眼して活路をもとめてきたが、昨今では限界が見えてきた。取引所そのものの再構築なくして証券業界は二一世紀に生き残れない。
 世紀越えの大改革、その旗振りとして登場したのが巽悟朗である。大証の理事長といえば大蔵省OBの指定席だったが、二三年ぶりに民間から選ばれた。
「北浜のホープや、ホープや……と言われてきましたが、ふと、気がついたら、語り部みたいになってます」
 理事長就任内定に伴う記者会見で巽は、苦笑しながら、「まさに、火中の栗を拾う気持……」と、伝説の人としては陳腐な台詞を口にした。
 先斗町のお茶屋に繰り出しては、敬愛する校祖・新島襄の掛け軸を床の間にかけ、舞妓や芸妓と朝までどんちやん騒ぎ……。同志社一二五年の歴史を見渡しても、そんな型破りの学生は巽ぐらいなものだろう。
 アメリカンフットボールの選手として活躍、四年のときには応援団長にも選ばれた。大勢の団員を率いて、酒の飲み合いや鉄拳にかけた青春……。
 バンカラなイメージばかりが喧伝されているが、それらは真の巽悟朗をものがたっていない。もうひとりの巽は勉学にいそしみ、羽織袴をつけて裏千家の茶会に通っていた。
 巽は剛毅な男のイメージを意識的に営業用の貌として利用してきたふしがあるだけに、この茶人としての貌がスパイスのような役割を果たしている。
 卒業後は数ある証券会社のなかでも、あえて中小の山源証券をえらんで入社した。
「最初から大相場をやりましたなあ」
 仕手株の中山製鋼にアタックして成功を収めるなど、ケタ外れの新入社員だった。
 独自の相場観を持ち、大口の顧客を次つぎに獲得した。狙った目標は外さない。松下幸之助すらも例外ではなかった。営業で勝負するなら、日本一の金持ちである松下さんから注文を……というわけで、さっそく綿密な作戦を組み立てて行動を開始、一年後に「キリンビール五万株」の注文をもらつた。
「偉い人は若い者を大事にします。松下さんもぼくと会うてたら、何か元気になるというようなプラス面があったのでしょうね」
 理不尽な話になると不動明王のように眼をひんむき、夢を語るときは象のようなやさしい眼つきになる。まっしぐらに駈けるひたむきな青年に誰もが参った。
 松下幸之助は「五〇年に一人の逸材」と言い、田淵節也は「かれにはロマンがある」と言った。いずれも巽という人間の「明日の値段」を買ったのである。


法人相手の一本釣り戦法

「独立するとき、みんな反対でした。まだ早い……と。早いかもわからんけど、いまのうちにやらんといかん。これも相場観です」
 光世証券は六一年四月、道修町に三〇坪の事務所をひらき、一八人のスタッフでスタートしている。巽悟朗二五歳の春である。
 当時、大蔵省は証券会社の規制強化に向かい、ひそかに証券会社の新認を登録制から免許制に変更する腹をかためていた。
 月に一回は東京に出向き、兜町の雰囲気や大手証券会社の動向を観察していた巽は、自らの足で集めた情報から気配を察知して、「今やらねば!」と決断したのである。
 現実に光世証券は最後の登録会社となり、以降の新設はみとめられていない。
 最後発として開業した光世証券は大手のまねをして、個人客相手の手数料収入に頼る投網戦法をとっても勝てるわけがないと、四大証券会社の収益源になっている法人部門にしぼって営業を行い、少人数で収益のあがる証券会社をつくろうと考えた。いわば法人相手の一本釣り戦法で勝負をかけた。
 当時の巽は自室の壁に二畳大の紙を貼って、禅僧のように朝な夕なに向かい合っていた。巽伝説のひとつとして有名だが、そこには自社の株式を東証に上場するまでの道のりがフローチャートにして克明に書きこまれていた。
「これが終わったら、次はこれをやろう……と、ライフワークで取り組み、一つ、また一つと消していっただけですわ」
 そのプロセスは、心をこめて一碗の茶を点てるさまによく似ている。茶道の作法は整然とした秩序世界で、すべてが理にかなっている。作法にのっとって、一つひとつ着実に手順を踏んでいっただけ……と言いたげだった。
 「相場観」とともに巽の人生を支配してきたのは「投機」の精神である。つまり〈今だ……〉と思ったときに、誰が何を言おうと断固として行動に出る。
 光世も全国ネットをめざして業容拡大に向かった時期がある。けれども九〇年代になると、にわかに撤退に転じた。
 バブルが崩壊して証券不況に突入したとき、巽は「今回はちょっとちがう……」と直感するものがあったという。ただちに経営改革に着手したのは、不況の裏にある構造的な変化を察知したからである。
 九二年五月には国内一八店舗のうち七店舗を閉鎖、香港、米国、ロンドンの海外法人もすべて清算した。当時、銀行、証券の相互乗り入れをはじめとする金融自由化の嵐が兆していた。銀行が証券子会社を設立すれば、地方の支店は持ちこたえられないという判断から迷うことなく撤退に踏みきった。最終的に五〇〇人を数えた社員を一〇〇人に減らし、事業所も大阪と東京だけにしてしまった。
 営業内容も売買手数料に依存していた体質から、デリバティブ(金融派生商品)を中心にしたディーリング(自己売買)にシフトチェンジ、たとえ手数料収入がなくなっても、デリバティブと金融収益で利益が出る仕組みに変えてしまった。
 自身がライフワークとして築きあげた光世をあっさりと壊して、あえてゼロから″創建″する造を選びとつたのである。


「先物をやらないと、国際的に遅れをとる」

 北浜改革の担い手として、巽が表舞台に登場したのは、八二年一二月、山内宏(元大蔵省証券局長)が大証理事長に就任したときからである。当時、大証の取引高は東証の一〇分の一まで落ちこんでいた。
「何とか川の流れを変えなければ……」
 当時の巽は四七歳、大阪証券同友会の代表幹事についたばかりであった。
 巽の危機感は大証改革にふさわしい理事長を担ぐことで噴き出した。目をつけたのが、山内宏であった。山内を迎えるために飯坂温泉まで追っかけて口説き落とした。決め手になったのが「あなたと生死をともにする」という殺し文句だった。
 山内を担ぎ出した巽は八三年九月に理事長の諮問機関として「新構想研究会」を発足させ、自ら初代会長に就任した。
 東証とはちがった独自の市場づくりで北浜復権をめざす。その切り札として脳裏にあったのが先物取引であった「先物……と言うと大蔵省にどつかれますからね。新構想研究会と名づけたんですが、実際にやってたのは先物の研究ですわ」
 八三年の初夏だった。シカゴのマーカンタイル取引所を訪れたとき顔を合わせた理事長のヤイター(クレイトン・ヤイター元米国通商代表部代表)に、「先物をやらないと、国際的に大きく遅れをとることになるよ」と言われて、強い衝撃をうけた。
 世界の資本市場の流れは一般的な金融商品からデリバティブに移りつつある。巽は帰国すると、さっそく行動を開始したのである。
 八五年には大証の理事会議長についたが、マスコミに〈先物担当議長〉と揶揄されるほど先物の推進に奔走した。証券業者だけでなく、銀行、生保、さらには大阪府、大阪市まで巻き込み、オール大阪のカを結集した。政官界の間を駆け回り、週三回も東京との間をとんぼがえりしたこともあった。
 研究会の委員に名を連ね、現在も巽の助言者の一人である蝋山昌一(高岡短期大学学長)は、「戦術部分ではしょつちゅう衝突しましたが、日本を世界の金融センターにするという基本的な戦略が一致していたことが大きかったですね。かれは嗅覚が鋭いから、面白いアイディアをぼんぼんと出しました」
 と当時を振り返る。
 かくして新構想研究会が発足して四年後の八七年六月、日本初の株式先物「株先五〇」がスタートした。
「株先五〇」とは、簡単にいえば、何カ月か先の平均株価の売り買いである。売買対象になるのは、新日鐵、松下など主要五〇銘柄をワンパックにした平均株価であった。
 巽は「株先五〇」の上場にあたって大証会員権の開放に踏みきった。それは「株先五〇」を国際商品として位置づけていたからで、現実にこのとき外国証券二社が加わっている。


理不尽許さじ
東海銀との訴訟合戦

「市場のことについて大蔵大臣がモノを言うのは完全に音痴ですよ」
 「株先五〇」に続いて八八年九月にスタートした「日経二二五」の取引高は本場シカゴの取引所を上回り、世界からマネーが流入してきた。当時はバブル崩壊直前で、現物取引の売買は細る一方。
 「先物相場が現物相場に影響を与えている」と、東証サイドで批判が高まり、宮沢内閣のときに手数料を倍にするなど官主導でブレーキをかけた。
 せっかく世界一にまで育てあげてきた先物市場が一瞬にして崩壊したのは無知蒙昧の輩のせいだ……と巽は口惜しがる。
 思ったことは率直に口にする。ムラ社会と巽が揶揄する国内の業界では敵が多いが、外国人からは親しみをこめて「アウトスポークンのタツミ」と呼ばれている。
「かれは本当にはっきりモノを言います。 それも正論を……。あの声の大きさで正論を述べられると角が立つことも多くてね」
 傍らにいた蝋山昌一は、はらはらすることが多かったという。
 九七年から九八年にかけて、総会屋への利益供与事件で証券業界トップの逮捕がつづいたときのこと、日本証券業協会の会長が長く空席のままになった。
 副会長だった巽は業界の信頼回復のために「最高裁長官の経験者を会長に迎えるべきだ」と主張した。多くの逮捕者を出すような業界から選んでは、金融自由化を乗りきれないというのであった。
 ところが東証側は業界出身者を会長にすえただけでなく、副会長を五人から二人に減らして、大阪の地区協会長が日証協の副会長をかねるという慣行をくつがえした。
 巽は〈大阪外しだ!〉と激怒した。「因習にまみれた兜町スタンダードの東京とグローバルスタンダードをめざしている大阪とでは、あまりにも基準がちがいすぎる」と、日証協の委員会で割り当てられる委員長、副委員長のポストをすべてボイコットしてしまった。
 理不尽なことは許さない。東海銀行との抗争もそのひとつである。
 九二年一〇月、利回り保証の約束で買ったワラントを光世が買いとってくれない……と、大阪の繊維商社から八○億円の支払いをもとめる訴訟を起こされた。光世の元役員が利用されていたが、これは一〇〇%東海銀行の融資ころがし取引で東海銀行を軸にして、東海銀行の行員四三名、支店一三支店、顧客一〇三社の間で行われた自転車操作であった。
「あれは東海の子会社から来た人間(光世役員)が利用された取引ですわ。メインバンクのすることか、と言いたいですね」
 東海が融資を拡大するために光世の名が使われ、架空の売買契約書(「紙切れ」)が利用された組織ぐるみの犯罪だというのである。
 巽はただちに東海から融資を受けていた全額を返済して戦う姿勢を鮮明にした。
 原告の訴えについて、請求はいずれも棄却されたが、実在する取引と誤信させた責任で元役員の不法行為ありと認定され、光世は使用者責任を問われた。
 巽は五六億円の支払いを命じられたということよりも、告知はしていなかったとはいえ東海銀行の責任が問われなかったのが不満で、この損害の求償と関連する取引について異例の株主代表訴訟に踏みきった。八九年から九一年にかけて東海が財テク資金として取引先七社に融資した九〇億円が焦げついている。銀行がそれを穴埋めしたのは、あきらかに銀行に損失をもたらしているというのである。
「証券事故の九〇%は、まず銀行ありきです。証券会社はいつも銀行に泣かされてきた。金融界に生きる人間として、躯をはって真相を乱しますよ」


ナスダック誘致の陰の立役者

 巽は最年少で大証理事会議長となり、日証協の大阪地区協会長を延べ一〇年もつとめてきた。デリバティブを大証の柱にまで育てあげた。規制緩和にも率先して取り組み、国際化時代の市場づくりをリードしてきた。
 ナスダック市場(世界最大の米国店頭株市場)の誘致についても、米国の証券業界に分厚い人脈をもつ巽が一〇年まえから提言していた。事実、ナスダック・ジャパン市場の誘致も巽がいなければ実現しなかった。
 大阪証券取引所に開設するについては、九九年一二月に大証と全米証券業協会・孫正義(ソフトバンク社長)との間で基本合意がなされていたが、細部の詰めが難航して、一時は破談寸前まで追いこまれた。その危機一髪を救ったのが巽である。「理事会はおれがまとめる」という野太い一声が流れを変えたのである。
 強力なリーダーシップと意思決定のスピードが必要とされるいま、巽が大証のトップにつくのは当然のなりゆきであった。
「取引所はまず第一に大衆、投資家のもの、次いで発行会社のもの、最後に担い手である証券会社のものです」 
 公正で開かれた市場でなければならないという観点から、光世証券の社長を含め、私的企業の役職からすべて退いた。
 就任すると同時に学者、財界人、エコノミストで構成する「大証の戦略を考える会」を発足させ、〈株式会社化〉をはじめ、〈商品およびサービスの強化〉〈ナスダック・ジャパン市場の強化〉などを重点テーマに掲げた。
「大阪の出し物は金融ですよ。国際的な金融市場という顔をはっきりさせたい」
 大阪・堂島ではすでに一八世紀に米の先物取引が行われ、当時は世界の最先端にあった。
 巽の脳裏にあるのは、大証を、再びシカゴとならぶ世界的な先物市場にすることである。
 行動派の理事長らしく、就任して一〇日後にさっそくアメリカに飛び、全米証券業協会やシカゴ・オプション取引所、ダウ・ジョーンズ社と交渉をかさね、先物商品を上場する合意をとりつけてきた。
 ナスダック市場では日・米・欧をネットワークでつないだ二四時間のオープンマーケットのスタートも現実のものになりつつある。
「シカゴやニューヨーク、ロンドンからみても、東京からみても、大阪は必要なんだ……というところにもつてゆきたいと思いますね」


北浜の首領として。一家の長として

「アメリカの場合、優秀な学生はまず独立することを考えますが、日本の場合は大会社や大銀行へ入ります。それでレートの決まったモノを売りに行って、いつのまにか一生を終えよる。ぼくらから見たら、あたかも墓場を選んでいるような感じがしますな」
 巽の話しぶりには挑むような雰囲気が漂う。それは四大証券を相手にして、無派閥、無系列を貰いてきた生きざまのせいなのだろう。
 奔放な物言いと恰幅のよさとがあいまって、「北浜のドン」「北浜の暴れん妨」「北浜の風雲児」などというラベルが貼られてきた。
「暴れん坊とか、そういうものでイメージしてゆくと、きっと、まちがうでしょうね」
 長男の巽大介(現・光世証券社長)は、きっばりと言いきる。
 息子の眼に映る親父像をたずねると、
「弱点、死角がない。どこをどう切ってもスキがないんです」
 その一言から「作法の人」という顔の輪郭がくつきり浮かびあがってきた。
 父から子へ……。大介もおりにふれ父から説き聞かされてきたが、夕暮れの散歩ではなく、キャッチボールのときだった。
「ええか。最後のツメはきちんとやらんとあかん。それが男というもんや」
 独り言のようにつぶやくときもあれば、
「紳士というものは身だしなみをきちんとせなあかん。週に一回は散髪に行け!」
 などととつぜん強い球を投げてくる。
「幕末の三舟を知っているか?」
 唐突に切り出したかと思うと、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟について語り始める。
 筆まめなほうで海外出張のときは、きまって手紙や葉書が送られてくる。
「メリルソンチの会長に会ったとか、今後の証券会社はかくあらねばならない……とか、綿々と書いているんです」
 細かい文字でぎつしり書き込まれた葉書を大介は現在も大切に保管している。親父のそういうさりげない教育が実ったのか。息子は小学校二年になると証券会社の社長になると言い出して、親父の名刺に″二代目″と書き込んで持つようになった。
「いちど証券会社の社長というべきところ、うっかり株式会社の社長と言ってしまったんです。ものすごく怒られましたね。株式会社と証券会社では全然ちがうぞ……と」
 幼いころに打ち込まれた楔というものは時をへだてても活きつづける。
「ぼくは最近、講演会やなんかで、証券投資に関する教育を義務教育の段階から徹底的にやれと言っています」
 二一世紀はデリバティブの時代になると巽はみている。金融の国際際的な知恵くらべが始まる。ところが日本は投資技術についてアメリカに大きく遅れている。それは教育に問題があるからだと指摘する。
 アメリカでは五〇州のうち二八州の中学校で株式投資が必修科日になっている。英国でもサッチャー政権の時代から投資教育を導人した。株はギャンブルだと教えられている日本とは出発点がまるでちがう。
「だから講演のときは、参加者の年齢層をみたうえで、〈みなさんは、もう手遅れです。すぐに帰って、お孫さんの教育に全力をあげなさい〉と言うんですよ」
 どこか遠くをみつめる巽の瞳のなかに、夕暮れの街をゆく父子と、庭先でボール遊びする父子の姿がかわるがわる明滅していた。(文中敬称略) 


目次
海の魚と川の魚
雑誌「経済往来」(経済往来社)1978年 9月号 (1978.08)
机と椅子
雑誌「商工にっぽん」(日本商工振興会)通巻499号 (1989.05.15)
ロクでなし″とワカラズヤ″
NOMAプレスサービス」 No.449 (社団法人 日本経営協会) (1986.06)
Eやんの見事な年金生活
雑誌「年金時代」2004年4月1日号(社会保険研究所) (2004.04.04)
運転しながら化粧をしないで!
雑誌「Forbes」2004年11月号(ぎょうせい) (2004.11)
会社人間、「勉強会」に走る
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1987年10月号 (1987.09.10)
「出世レース」を疾走する「不惑」の男たち
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1988年5月号 (1988.04.10)
相続をめぐる「悲しき骨肉の争い」
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1988年9月号 (1988.08.10)
「遺書」が浮き彫りにする男の生き様
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1989年4月号  (1989,3.10)
23年ぶりの民間選出の理事長となった「北浜の風雲児」
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)2001年2月11日号 (2001,1.20)
西堀流部下活性法
講座「ビジネスリーダー活学塾」(プレジデント社)

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