福本 武久
ESSAY
Part 4
 福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
 新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。
ビジネスマンの風景……会社人間の未来
初出:雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1988年9月号 (1988.08.10)

 相続をめぐる「悲しき骨肉の争い」




 おれの目の黒いうちは……

 庭の芝生でパターの練習を始めた池田孝太郎は、長男の忠孝がやってきた気配を感じて縁側に引きかえした。一年前にコースでプレイ中に倒れてから、医者からゴルフは禁止されている。
「いいかげんにしなよ。また、ぶっ倒れたらどうするんだよ……」
 忠孝が言い終らないうちに、孝太郎は、「おれのすることに、いちいち口を出すな」とどなりつける。
 会社ではワンマン社長、家ではガンコおやじ……。八〇歳になる孝太郎は、資本金五千万円の中小企業ながら優良会社の社長、忠孝は専務である。
「なんだ。オレに話がありそうだな。面倒な話ならゴメンだぞ」
 孝太郎にすっかり腹を読まれ、忠孝は苦笑いするほかなかった。
 父が倒れた日から忠孝は気が気ではない。父がポックリ死んだら……。弟や妹たちも黙っちゃいないだろう。なにせ自宅のある世田谷界隈の地価は信じられないほど高騰している。父には外の女に生ませ、認知した子もある。相続税の問題、さらには遺産の分割問題でも、ひともめしそうな気配である。
 自宅のある約二〇〇坪の土地をめぐって……。いまのうちに何とか手を打っておかなければ‥‥。
「この家も相当ガタがきてるから、土地を生かす意味でも、マンションにしたいと思うんだ。もちろん銀行から金を借りてね。そうすれば……」
「そうすれば資産評価が下がるといいたいんだろう。相続税対策か。バカバカしい。そんなことは、とっくにオレも考えている。おまえは心配しなくていい。もっと毎日の仕事のことに頭を使え」
「分かっちゃいないんだよ、オヤジは何も……。これだけ地価があがってるんだよ。孝二や孝子、それにアッチの弟もいるんだ。みんな黙っていると思うのかい。甘いんだよ」
 忠孝は諭すように言った。
 マンションにしておけば、区分所有ができるから、たとえトラブったとしても心配はない。
「ダメだ。この家をぶっ壊すなんてことは、許さんぞ。オレの生きている間は……。借金するのもイヤだ」
「それから……」
「裕子と健一のことか? そのことなら、だいじょうぶだ。男のケジメは、ちゃんとつけてある。オレにもしものことがあろうと、ヤツらは何も言ってこないから、心配するな」
 孝太郎は、胸を張って声高に笑った。
「話だけでも聞いてくれないかな。ぼくのプラン……」
「ダメだと言ってるだろう。いいか。二度とオレの前で、そんな話をするな」
 孝太郎は忠孝をにらんで、大声で吠えるように怒鳴りつけ、「おれは九五まで生きるんだ」と高笑いしたのだった。


 残されなかった遺言

 忠孝の懸念が現実のものとなったのは、それから四カ月彼のことだった。父の孝太郎が脳卒中であっけなく……。
 その瞬間から相続がはじまったが、開けてビックリ。相続財産の合計は二〇億四千万円におよんだ。土地三億円。自社株四億円。有価証券一〇億円(いずれも相続税評価)。さらに死亡退職金・生命保険・預貯金の合計は三億四千万円……。
 九五歳まで生きるつもりでいた孝太郎に遺言はなかった。そのことと節税がらみの思惑とが事態に複雑な影を投げかけてゆく。
 単純に相続税を算定すれば約一二億円だが、配偶者の相続分は二分の一まで無税になる。孝太郎の妻であるカネが限度いっぱい遺産分割をうければ、相続税は半分になるのである。
 この特典をにらみつつ、具体的な分割が検討され、つぎのような分割案ができあがった。
 妻カネ……一〇・二億円(土地一・五億円、有価証券五・三億円、退職金・保険金・預貯金三・四億円)
 長男の忠孝……五・五億円(土地一・五億円、自社株四億円)
 次男の孝二……二・三五億円(有価証券)
 長女の孝子……二・三五億円(有価証券)
 住居をかまえている土地は、そこに住んでいる母と長男の忠孝が半分ずつ。自社株は実際に経営にあたる者が引き受けないと意味がないから、長男の忠孝……というのは、しかたがないだろう。次男と長女の取り分は、残る有価証券以下から……ということになったのだが、母の取り分を全体の二分の一にするという前提にしばられ、ワリを食ってしまった。長男と次男・長女、あまりにも格差がありすぎる。それに生前に父が外の女と子どもに、マンションを買い与えたり、十分な財産を分けていたことも三人にはおもしろくなかった。かくして配分をめぐって、第二ラウンドがはじまった。
「おれたちの手もとに残るのは、税金を引いたらざっと九千万円じゃないか。全部で二〇億もありながら……」
 次男の孝二が奥歯にモノのはさまった言いかたで、まず声をあげた。アニキが五・五億円なのに、どうしてオレたちは二億円あまりでしかないのだ。ちょっと、おかしいんじゃないの……という不満の声がことば尻にほのみえる。ふたりの男兄弟にとっては妹にあたる孝子は何も言わない。無言であることで孝二に同調するかまえである。
「オレだって、ひどいもんだ。五・五億円もありながら、まるで絵に描いたモチだよ。第一に自社株がクセモノだ。四億円なんて評価されても、何もないのとおなじだよ。土地だって、売らないかぎり金にならない。それなのに、ざっと三・三億円の税金がかかる。どうして支払うというんだよ。、そろ…‥。オレにそんな大金があるわけないじゃないか」
 長男の忠孝も頭をかかえてヤケぎみに吐き捨てる。換金できる有価証券か何かをもらわないとこまると言いたげである。


 宙に浮いた通産二七億円

「困っちゃったわね、え。これだけのものがありながら…‥」
 母のカネは三人のわが子の表情をうかがいつつオロオロしはじめた。
 母にしてみれば、長男に有価証券か現金を上積みして相続税の支払いに困らないようにしてやりたい。だが、それではますますアンバランスになってしまう。
「オレ思うんだけどサ。土地の三億というのをベースにするのも、ちょっとおかしいよ。これは相続税の評価であって実勢じゃない。時価にしたら一〇億はくだらないはずだよ」
 孝二は皮肉っぼい口調になった。
 土地を一〇億円とすれば相続財産の総額は二七億四千万円にハネあがる。孝二と孝子の取り分は十分の一にも満たない計算になってしまうのである。
「じゃあ、土地を処分しろというのか? オマエは……」
 忠孝は、すさまじい形相で孝二をにらみつけた。
「そうじゃないけど……。オレは土地は時価でみないと、ヘンなことになると言ってるだけだよ」
 孝二は憮然として、「このままじゃ、ハンコはつけないよ」と言った。
「同じことじゃないか。だったら、家屋敷を処分しないと決着がつかないんだから……」
 忠孝は身をのりだして声を高めた。ふたりは無言のままにらみあい、険悪な雰囲気がただよいはじめた。
「やめなさいよ。兄さん! みっともないじゃない」
 孝子がたまりかねて叫ぶように言った。
「おねがいだから、この家をどうのこうのするという話だけはやめにしてくれない。せめて母さんの生きているうちだけは……」
 カネは細い声で懇願する。あの人が生きているうちは仲のいい兄弟だったのに……そう思うとますます辛い気持ちになった。
 長男の忠孝は五一歳、次男の孝二は四八歳と分別盛りである。さすがに母の悲しげな表情を見て夢からさめたようにわれにかえった。安手のドラマなら、ここで問題は解決するのだが現実はそうはゆかない。
「孝二も孝子もよく聞いて。将来、あなたたちが何かあったら相談できるのは、兄さんだけなのよ。忠孝は長男なんだから……。そこのところも、よく考えてね。おねがいだから……」
 カネが三人のこどもたちの顔をのぞきこんで、噛んで含めようとしたとたんに、孝二と孝子は鼻白んだ。カラ手形じゃナットクできないんだよな……。ふたりはシラジラしい笑みを浮かべて、声に出さずにつぶやいている。
 池田家の遺産相統はモメにモメ、分割協議書の提出が遅れている。容易に決着がつかず、法の定めにしたがって、とりあえず約一二億円の相続税を納入、いまも協議が継続されている。時価にして約二七億円の財産がありながら、宙に浮いたままになっている。誰ひとりとして、ビター文も自由にならないのである。
 オレがいないとこのザマだ……。ワンマンでガンコおやじだった孝太郎は、あの世で苦虫を噛みつぶしているだろう。
 孝太郎にしてみれば、「一〇億円に相当する有価証券のほかに退職金、保険金などがあるのだから、相続税の支払いには困ることはないだろう」という気持ちだったろう。たしかに相続税問題はクリアできた。気にかけていたもうひとりの妻と息子も財産分与を求めてはこなかった。ここまでは孝太郎の読みどおりである。だが、争いの火の手は血を分けた兄弟の間から上がった。滅多に争うことのなかったわが子たちが、こんな争いを繰り広げるとは、さしもの孝太郎も見通すことができなったのだろう。


 持てる者の悩み

 都心の地価が異常に高騰してしまった最近、土地がらみの相続トラブルがふえていると聞く。モメないには、どうすればいいか……と、当事者はあれこれと知恵をしぼる。持てる者ゆえのぜいたくな悩みである。相続以前に親子ともどもに対策を考えるのである。所有地に賃貸アパートやマンションを建てるというのが、その代表的なケースらしい。ところが父は父、子は子……、それぞれの思惑がからんで、思わぬ肉親同士の争いになる場合もあるようだ。
 おれも今年で七三歳か。人生の幕をどのように引くか、そろそろ考えておかなくてはな。毎朝の寝覚めの一瞬、そんな思いが木戸克己の脳裏をかすめる。二年前に妻に先立たれてから、ときおりふと寂蓼感におそわれる。
 その朝、散歩からもどってくると、長男の康男が自宅横の空地で待っていた。
「父さん。ここにアパートを建てるというじゃないか。本当かい。昨日、勝宏が図面をもってきたんだ。おどろいたよ。そんな大事なこと、どうして相談してくれなかったんだ」
「まあ、そうコワイ顔するなって……」
 父の克己は軽くいなして、「これは相続対策なんだよ。オマエたちのためにオレも知恵をしぼってるんだ」とほほえんだ。
「それだったら、ぼくにもひと声かけてくれてもよかったんじゃないか」
 康男は不満そうに言った。どうやら弟の勝宏が建築を推進しているのが気にいらないらしい。
「資金を出すのはオレだ。オレの土地にオレが何を建てようと勝手だろう。勝宏は銀行の不動産部にいるから、ヤツに手伝わせているだけだ」
「でも……」
 康男は不満顔である。うかがうような目つきで父に視線をそそいでいる。
 どうしてなんだ。日ごろおとなしい康男が頼をひきつらせてくってかかる。
〈あの土地は一番いいところじゃない。ボヤボヤしていれば、勝宏さんに取られてしまうわよ。だまってていいの!〉なんて、女房に尻を突かれてきたにちがいない。だらしのないヤツだ。
「ともかくオマエが口を出すことではない。オレのやることだからな」
 克己はきっばり言いきった。
 父にそこまで言われれば、康男は返すことばがない。いまいましそうに顔をゆがめていた。
 木戸克己は中央区に在住、敷地の面積は約七〇〇平米である。本人の自宅のほか長男の康男、次男の勝宏、三男の真也がそれぞれマイホームをかまえているが、道路に面した角地に、まだかなりひろい空地がある。父親の克己と次男の勝宏がペアーになって、そこにアパートを建設しようと企んだところから、父と長男のいさかいがはじまったのである。
 中央区で七〇〇平米といえば、かなりのものだが、なかでも問題の空地は立地条件からみて、最も資産価値が高いと思われる。


 親子の争いに法の手が

 父が死んで相続がはじまれば……。口には出さないが、三人の兄弟はそれぞれ思惑をひめている。いわばアンタッチャブルともいうべき空地に、アパートなんか建てられてはこまる。それにもまして、康男は長男の自分をないがしろにしている弟の勝宏がおもしろくないのである。なんとかして建築計画をやめさせたい。そんな思いが日毎に昂じていった。
「オヤジにへンな知恵をつけるなよな。オレたちに何の相談もなしに勝手なマネされたらこまるんだよな」
 康男は勝宏の顔をみるなり言い放った。
「誤解しないでくれよ、兄さん。ぼくが言い出したことじゃないんだよ。あれは……。オヤジのほうから相談にきたんだよ。ぼくはオヤジの指示で動いてるだけだよ」
「いいかげんなこと言うな。オマエが企画したに決まってる。ごまかしてもダメだ」
「そりゃ、ぼくだって、仕事柄いろいろとアドバイスはしたよ。でも、決めたのはオヤジだからね。そこんとこ分かってくれよ」
「どうしてオレや真也にも言わなかったんだ」
「実はぼくもそれが気になってたんだ。でもオヤジが自分で説明すると言ったんだ。そう言われれば、ぼくは何も言えないだろう」
「ともかく、オレは反対だ。そんな勝手なことはさせないぞ」
「そんなこと言ったって、もうムリだよ。業者も動きだしているからね。いまさら中止なんて言い出したら、損害賠償を要求されるよ」
「知るもんか。そんなことは……」
 康男はいつになく強い口調で弟に吐き捨てた。勝宏も父が承諾しているのだから……と言って後に退かない。仲のいいふたりだったが四〇歳をすぎて、ひょんなところからこどもじみた兄弟ゲンカをはじめてしまった……。
 康男は弟の勝宏がアパート建築をまかされているのが気にいらないのである。管理運営まで勝宏がやるようになるだろう。そうなれば、アパートは土地ぐるみで勝宏の手に落ちるかもしれない。勝宏のヤツはために、いまからツバをつけようとしているのではないかという思いが康男の心をチリチリさせるのである。
 ついに康男は法の手を借りてなんとか建築の差止めができないかと画策した。だが、誰がそそのかしたにせよ、父が父名義の土地に自分の金でアパートを建てる以上、障害になるものは何ひとつなかった。だが、そのことで、康男と父克己、弟勝宏の関係には決定的な亀裂が生まれた。〈康男がそんなことまでするとは……〉たかがアパートを建てるだけ、とたかを括っていた克己には意外という他はない康男の行動だった。
 アパートは予定通りに着工されるだろう。そうすれば、同じ敷地内に住んでいながら、長男と次男の溝はますます深くなるにちがいない。いまや克己がどうなだめようとも、康男は父の言うことに耳を貸そうとしない。それでもいまは父が間にいるからいい。克己が死ねば……。兄弟三人が三つどもえになって骨肉相争う火種が今もみくすぶっている。
 相続対策として資産運用を考えるとき、やはり当事者が納得するように、あらかじめの根まわしが必要だと識者は言う。父の克己は、うかつにも細心な配慮を欠いた。そのためにこの父子兄弟の争いの第一幕が開いた。果たして第二幕、第三幕は、いったいどんなストーリー展開になるのだろうか。


 父と養子、そして実子

 最後まで残っていた従業員が店のシャッターを降ろして帰ると、岡田彰男は事務所で父の正之助と向かい合った。
 千代田区にある「えびすや」は四代つづく老舗の酒屋である。本店のほかに中央区に出店が一軒、デパートにもテナントがある。「えびすや」は正之助の代になって株式会社となった。八八歳になる正之助がいまも社長をつとめ、実子の彰男は専務である。
 四五歳になる彰男には、三歳上の養子の兄正一がいる。幼いころから実の兄弟同様にすごしてきた兄は、サラリーマンになってしまい、彰男が家業を継ぐことになった。最近になって彰男は、家を出た正一の存在を強く意識するようになった。それは本店界隈の地価の異常な高騰ぶりと無縁ではない。
「あんたんところも大変だよ。いまのうちにオヤジさんにハッキリさせてもらっておいたほうがいいね」
 親しくしている料亭の主人が「こじれなければいいが……」と、相続対策のむずかしさをほのめかす。父はまだ元気だとはいえ高齢齢だ。いまのうちにオヤジの考えを訊いておかなければ……。
「父さん、誤解しないでほしいんだけど、うちも相続の税金対策を考えないといけなくなってきたと思うんだけど……」
 彰男は口ごもりながら切りだした。顔をあげた正之助に向かって、さらに「兄さんもいるし、どうすればいいだろう。ぼくは…‥」と、ことばを継いだ。
「この店は、オマエにまかせる。心配するな。だが、正一のことも考えてやりたい。あいつには何もしてやれなかったからな。どういう形にするか、しばらくじっくり考えてみるよ」
 正之助の顔には苦悩の色が浮かんでいた。父は兄の正一に、どこか遠慮があると彰男はみた。不安の種がますますふくれあがる。
「考えるったって、うちの財産といえばこの土地と店の商権しかないよ」
「そんなことは分かってる」
 正之助は不機嫌に吐き捨て、それっきり黙りこんでしまった。……
 岡田正之助には、養子の正一に負い目がある。四〇歳になるまで正之助は子に恵まれなかった。「えびすや」を自分の代で絶やしたくはない。すがる思いで養子をもらった。それが正一である。ところが皮肉なもので二年後に実子が生れた。あきらめていた男子である。
 正之助は養子の正一も実子の彰男も分け隔てなくあつかった。二人とも大学にもやった。ところが正一が大学を卒業するときになって、店をどちらに継がせるかで迷いはじめた。養子もかわいいが、実子はなおかわいい。思案のすえ、実子の彰男に後を継がせることにした。
 正一は養父の意思に素直にしたがって、大学を卒業するとサラリーマンになった。もともと自分の後継者になるはずだったのに……。当人がいかにあれ、正之助にはどこか心の負担になっている。それが不機嫌に黙りこむ背景なのである。


 限りなく広がる疑心暗鬼

 シャッターの降りた「えびすや」の店内から激しく口論する声がもれてくる。「それは、どういうつもりなんだ。いったい……」
 彰男は思わず大声をあげた。
 父の正之助は、「ワシが死んだら、財産の半分を正一にやりたい」と言い出したのである。
 彰男は思いがけなかった。
「何を考えてるんだ、父さん。自分の言ってることがどういうことなのか分かってるの?」
 本店のある土地は、時価にして坪当たり五〇〇万円とハネあがっている。半分というと、とほうもない額になる。会社で半分相当を買い取って、代価を正一に与えるという手もないわけではない。そんなことをすれば、「えびすや」経営が危うくなってしまう。
「方法は、ワシがこれからじっくり考えてみる」
「とんでもないよ、父さん。土地を他人に売らないかぎりムリな話だよ。そんなことをすれば、商売ができない。この店は四代もつづいた老舗だから、大事に守らなければならん……と、オレに繰り返してきたのは、いったいどこの誰だったんだ。もっと経営がまともにつづけられるような形をつくってくれるのが、社長であり父親というものじゃないか」
 彰男の口調は、さらに激しくなる。
 同じ趣旨の遺言なんか残されたらたまらないという思いがある。
「ともかく、ワシの考えを素直に言ったまでだ」
 正之助も後に退く気配はない。……
 思い悩んだ末に彰男は中野区に住む正一を訪ねた。気のいい見なら事情を話せば味方になってくれるだろう、そんな思いがあった。
「兄さんにこんなことを言うのはおかしいんだけれど、オヤジが遺産を半分にわけると言い出したんだよ。それはオレだってできることならそうしたいけど、店がね……」
「店はおまえがやるということで話はついているじゃないか」
1いやそうじゃなくて、兄さんに遺産を半分やるってことは、土地を売らなきゃいけないってことなんだよ。だって、うちの財産っていうのは土地だけなんだ。だから……」
「遺産っていったいいくらぐらいになるんだよ」
「正確に計算したわけじゃないけど、土地だけで一〇数億ってとこだと思う」
 今の今まで相続のことなど考えたこともなかった正一にとっては意外に大きい数字のようだった。彰男にも正一の驚きが見てとれた。彰男はいいずらそうに言葉を続けた。
「父さんを説得してくれるとありがたいんだけど……。もちろんそれ相応のことはするよ」
 その日、正一は父を説得してやるともやらぬとも、態度をはっきりさせなかった。まして相統を自分から放棄するなどという言葉は聞くことができなかった。正一とてあり余る金に溺れて暮らしているわけではない。数億円単位の金が労せずして転がり込んでくる……そんな思いが頭を過ったとしても不思議はない。
 彰男は自分で火種をつけてしまったのかもしれなかった。彰男と正一の間でいつ火の手が上がってもおかしくなかった。だが、その前に父・正之助との対立が決定的になった。自分を差し置いて正一のもとを訪ねたことを正之助は我慢できなかったのである。
 彰男にしてみれば、突然、わけもなく怒り始めた父に疑心暗鬼にならざるをえなかった。なんでこんなに兄さんばかり大事にするのだろう。その疑念は膨らむばかり、今は、兄がオヤジを焚きつけたにちがいない‥‥そんな気持ちも抱きながら気の晴れない毎日を送っている。


 狂いを生じた相続計画

 相続をめぐる池田家の父と子の主張は、いまも平行線のままである。解決の糸口すらみつかっていない。
 父だけしか理解できない心の重荷、血まよったような地価の高騰が解決をむずかしくしている。
 昨今は土地や商権のからんだ相続トラブルがふえている。商売の規模が小さくて、土地も三〇坪以下の場合は分割できない。にもかかわらず地価だけが異常に高騰した場合は、このケースよりもっと深刻になる。
 父の見舞いにきた妹が、深刻なそぶりで兄の表情をうかがっている。
「すこし見ないあいだに、とうさんも、ずいぶん弱ったわね」
「そう思うか。オマエもそろそろ覚悟しておいたほうがいいな」
 兄は溜息をついた。
 父は三年前から寝たきりで、いまは食事もほとんどとれなくなっている。声をかけても、薄く目をひらくだけである。
「うちのヒトが早いか、とうさんが早いか……」
 妹はふいに涙ぐみはじめた。彼女の夫は胃痛で入院したままである。
「大変だな。おまえも……。こどももまだ小さいし」
「こんなこと、いまさら言えないんだけれど……」妹は上目づかいに兄を見て、「何とかならないかしら」とつぶやくように言った。
「だって、あのときオマエは……」
「あのときは、こんなことになるとは思ってなかったのよ」
 妹は父の遺産相続をいちど放棄しておきながら、いまになって復活折衝してきたのである。夫の病気のせいもあるが、実家の土地が値上がりしたせいもあるだろうと読めた。
「土地が値上がりしたといっても、売っていくらということだよ。売ったら商売ができなくなる。そうかといって、商売のあがりもしれたものだからなあ……。まわりの者は地価の値上がりで資産家になったようにみているかもしれないが、実際は以前と同じさ」
 兄は苦笑いした。
「よく分かるわ。でも、考えといてくれる?」
 妹は遠慮がちながら〈わたしにも権利あるわよ〉という素振りを露骨にみせて帰っていった。その日から、兄は喉もとに刃を突きつけられた思いから自由になれないでいる。……
 田尾安雄は中央区にある三〇坪の土地に店舗付き住宅をかまえ、食料品店を営んでいる。父が病に伏したとき、店舗経営権と家は安雄が相統し、弟の知男は裏手にある三〇坪の土地付住宅をもらうことで話はついていた。一流企業のエリート社員のもとに嫁いだ妹の弘美は、配分を受けないと意思表示していた。
 だが、妹の夫が病気になったことで相続計画に大幅な狂いが生じてしまった。口頭であるとはいえ相続を放棄していた妹が、財産分けを要求してきたのである。たしかに法的には妹にも権利はある。もし額面通りに要求されたら、支払い能力はない。両方の物件とも分割できないから処分するほかない。そうなると商圏を失うだけでなく、自分たちの生活すら揺るがしてしまう。
 父が遺言を書いてくれないかなあ……。寝たきりの父の面倒をみてきた安雄は、本気で思うのだが、もはや法的効力のある遺言を残す能力はない。
 もし地価がこれほどまでに値上がりしなかったなら、妹も財産分与をもとめてはこなかっただろう。寝たきりの父の世話を負担に思いながら、早く死んでくれてもこまる……。田尾安雄は現在、複雑な気持ちを噛みしめている。


 父をとるか、妻をとるか

 村山謙次郎は息子の和行を険しい目でにらみつけ、やにわに「利恵のことだが、いったいどうなってるんだ」と言って口もとをゆがめた。
 和行と妻の利恵はもう半年も別れて暮している。利恵は癌で入院した母親の看病のために実家にもどったが、そのときはもう手遅れだった。二カ月後に母は死んだが、父の看病をしなければならないからと言ってもどってこない。父親はもう何年も半身不随で寝込んだままなのである。
「自分の」亭主を半年もほったらかしにしておいて……。ありゃ、普通じゃないぞ」
「そんな言いかたないだろう。おかあさんが亡くなって相当ショックを受けてるんだよ」
「そのために亭主を軽んじるとは何ごとだ。そんな嫁があるか」
「父さんが、そんなふうだから利恵も居づらくなるんだ」
「それにしても異常だぞ、あの女は……。あの派手な格好はなんだ。しょっちゅう出歩いては、酒を飲んで帰ってくる。うちの病院の看護婦たちとももめごとを起こす。近所でもハナツマミ者だ」
「父さん、アイツのことをそんなふうに言うのはよしてくれ」
「もうオレはがまんならん。こんどというこんどは……。オマエも腹をくくれ」
「それ、どういうことだい」
「このままだったら、東京で開業するという計画も白紙にもどす。土地もおまえには渡さんからな。そのつもりでいろ」
 謙次郎はどなるように言った。
 東京のある医大の医局員である和行が、「医院を開業したいから、新興住宅地の土地を買ってくれ」と謙次郎のもとにやってきたのは、一年半ほど前のことだった。土地はいいとしても、建物までめんどうみてやっては、息子のためにはならない。謙次郎は息子を自分の経営する内科医院に呼びよせ、「医師として働いて、カネをつくれ」と命じた。和行は二年の約束で妻の利恵とともに郷里にもどってきたのだった。
「この際、はっきりしろ。オレをとるか、あの女をとるか……」
「父さん、ひどいじゃないか。自分の言ってることがどういうことか分かってるのか」
「いいか。和行、頭を冷やせ。オレからカネを引き出すことしか考えてないんだ。あの女は……。あのバカでかい家のときだってそうじゃないか」
 謙次郎は諭すように口調をゆるめた。
 和行が利恵と結婚してまもなくだった。利恵の実家の所有する土地に家を建てるから、五千万円出してくれと夫婦そろってやってきたのだった。「ふたりだけなら、そんな大きな家はいらないだろう」と言ったが、「両方の両親をみるのだから……」と利恵が強く言い張った。けげんに思いながらも承諾したのは、謙次郎夫婦もゆくゆくは東京に出ようと思っていたからである。
「利恵に偏見もつのはやめてくれよ。父さん」
 和行は唇をふるわせて叫んだが、謙次郎は、「決心するなら、こどもがいない今だ。三〇歳の今ならやりなおしがきく」と冷たく言い放った。……


 間に立つ母の心労

 岡田謙次郎と嫁の利恵は、最初から折り合いが悪かった。もともと和行の嫁には郷里の医者仲間の娘を……と考えていた。ところが和行は医大生当時からの恋人だった利恵と結婚したいと言い張った。おとなしい女性を……という謙次郎の思惑とは裏腹に、利恵は活発で派手な性格の女性だった。女二人姉妹の長女であるうえ、父親が寝たきりの病人である。謙次郎は反対したが、和行が「どうしても……」というので息子の意思を尊重した。
 利恵の母親とも最初からうまくいっていない。「あの娘には、もっといい条件の縁組がいくらでもあった……」などというハナからの高飛車ぶりが謙次郎をカリカリさせた。それは和行と利恵の夫婦間にも反映されていた。利恵は「わたしは、あなたが頭を下げて頼むからきてあげたのよ」という素振りをチラつかせる。おとなしい性格の和行は完全に利恵のペースにのせられた。利恵の実家の両親のめんどうまでみるという条件まで飲んでいた。
 陸軍士官学校出身でいかにも剛直な父は、嫁にからめとられた息子のふがいなさにも我慢ならなかっただろう。
 あの女と結婚してから、あの子はすっかり性格まで変わってしまった……。親父と息子、婚家同士の間に立って仲を取り結ぼうとした和行の母の心労も大きかった。
 所用があって上京した和行は、何カ月ぶりかで妻の利恵と会った。酒好きのふたりは、自宅のひろいダイニングルームで飲みはじめた。酔った勢いで和行は、父とのやりとりをもらした。
「アナタ! それで黙ってたの? 何か言ってくれたでしょうね」
「もちろん、言ったさ。オレだって……」
「アナタはわたしがいないと何もできないのよ。この家だって業者との折衝から全部わたしがやったのよ。あの医院の開業予定地だってわたしがみつけてきたのよ。それなのに、ヒドイじゃない」
「分かってるよ。感謝してるよ」
「だったら、お父さんともウマクやってよ。だいたいアナタが悪いのよ」利恵は濃い水割りを一口含んで、「いいわよ。そんなに言うなら、別れてあげても。その代わり、この家はわたしがもらうわよ」と言った。
 本気とも冗談ともつかぬ利恵の素振りに和行はとまどい、薄く微笑む妻の口もとをみつめていた。……
 村山和行夫婦は、ほどなく離婚の道を選んだ。利恵には慰謝料のほかに五千万円の家をくれてやった。贈与税支払に相当する金額まで上載せしてやるというオマケまでついた。


 遺産争いの悲しき結末

 オレをとるか、あの女をとるか……と、謙次郎に迫られて、結局のところ和行はオヤジの言うがままになった。父の財産に目が眩んだのか。そうではあるまい。父と妻のはぎまで、もみくちゃになって疲れ果てたせいだろう。面倒なことは、できるだけ避けて通る……。それがこの世代の〈やさしさ〉 の内実である。夫としての問題解決能力の脆弱さが、笑えぬ喜劇の伏線になっていたのではないかと思うのだが、どんなものだろう。
「異」な存在が一枚かむと関係性に亀裂が生じることがある。兄弟同士でも結婚して独立すると妙に風通しが悪くなる。ことばの端々に妻の影がほのみえて、どこかギクシャクしはじめるのである。
 村山家のケースは、嫁がからんで親子関係を揺るがし、それが夫婦関係をも崩壊させた。謙次朗も和行も、そして利恵も高価な代償をはらった。たがいにひとしく傷ついて、得たものは、いったい何だったのだろう。
 相続をめぐる親子・兄弟の争いは、都市生活者の土地をめぐるトラブルが象徴的である。それはリクルートコスモスや明電工疑惑などに代表される〈浮利〉をもとめる風潮と無縁ではないだろう。
 都市部の土地の異常な高騰ぶり、それによって所有者は〈濡れ手で粟〉の資産家になってしまった。自分で土を耕すことなく、やすやすと手にした〈アブクゼニ〉だといってもいい。アブクゼニをみると、タカリたくなるのが人間の心情ではあるまいか。オレにもよこせ! どうせアブクゼニなのだから……。そして多ければ多いほどいい。まるで賃上げ闘争に似た光景が展開される。
 現在のサラリーマンは、もう自力ではマイホームが持てなくなっている。目の前にアブクゼニで膨れあがった土地を見れば、指をくわえてながめているという手はない。かくして父子、兄弟同士が土地の配分や運用をめぐつて、それぞれの思惑をぶつけはじめるのである。
 身内同士のいさかいは異常で貧しく、しかも歯止めがない。ひとたびはじまった対立は、果てしなくつづく。まるで雪だるまのように膨れあがって炸裂、親子・兄弟関係に亀裂をもたらす。
 悲劇とも喜劇ともつかぬ相続をめぐる親子のトラブルの裏側には、親子断絶、核家族時代の〈父と子〉のありかたがのぞいているとみた。父は〈魅力ある父親像〉をイメージ化できずに、ただ父という仮面をつけているだけ……。父と子の結び目がみつからないでいる。修復の道は険しくて遠い。まずは父が自らの生きざまを包まず明らかにすることからはじまるのかもしれない。説教するのでもなく、変にかまえて指導するのでもない。日常の行動で親父の哲学を語るのである。〈親が子に教え、子が親に習う〉という関係が定かであれば、哀しいトラブルも少なくなるのではないか。
 父が子に遺すのがカネ目の財産だけでは、あまりにも貧しい。しかもそれがアブク財産ならば、相続をめぐる父と子の悲しき闘いはもっと多彩に展開されてゆくだろう。


目次
海の魚と川の魚
雑誌「経済往来」(経済往来社)1978年 9月号 (1978.08)
机と椅子
雑誌「商工にっぽん」(日本商工振興会)通巻499号 (1989.05.15)
ロクでなし″とワカラズヤ″
NOMAプレスサービス」 No.449 (社団法人 日本経営協会) (1986.06)
Eやんの見事な年金生活
雑誌「年金時代」2004年4月1日号(社会保険研究所) (2004.04.04)
運転しながら化粧をしないで!
雑誌「Forbes」2004年11月号(ぎょうせい) (2004.11)
会社人間、「勉強会」に走る
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1987年10月号 (1987.09.10)
「出世レース」を疾走する「不惑」の男たち
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1988年5月号 (1988.04.10)
相続をめぐる「悲しき骨肉の争い」
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1988年9月号 (1988.08.10)
「遺書」が浮き彫りにする男の生き様
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1989年4月号  (1989,3.10)
23年ぶりの民間選出の理事長となった「北浜の風雲児」
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)2001年2月11日号 (2001,1.20)
西堀流部下活性法
講座「ビジネスリーダー活学塾」(プレジデント社)

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