福本 武久
ESSAY
Part 4
 福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
 新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。
ビジネスマンの風景……会社人間の未来
初出:雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1989年4月号 (1989.03.10)

 「遺書」が浮き彫りにする男の生き様


特集 男の死生観  死ぬ直前に書き残された一文にはその人の人生が凝縮されている。

昭和六〇年八月に起きた日航機事故の際、乗客が墜落寸前に書き残した遺書が今でも心に残る。なぜ人生最後のメッセージである遺書はいつも人の心を打つのだろうか。作家大岡昇平、マラソンの円谷幸吉、闘う日経連の象徴だった櫻田武、そして「ミスター検察」と言われた伊藤栄樹。彼らが残した遺書を通じて「人生の決算書」の意義を問う


 いかに生き、いかに死んだか

 わたしが死んだら、逢いにこないでほしいの……。
 マリー・ローランサンの最後のことばである。どこかで聞きかじったにすぎないのだが、それが人生を終えるにあたってのイメージだと知ると、妙に心にひっかかる。ただひとりで死を受けとめ、過去に関わり合ったすべての人を脳裏に描いて微笑みかける。いかにも恋多き女流画家の最期にふさわしいことばではないかと思いながらも、〈死〉というもののかぎりない孤独さにためいきをついてしまう。
 死は幻想ではない。確かな事実である。人間は生まれた瞬間から死に向かって歩きはじめる。いつのころからか生を受け、やがて独りで死んでゆく。生れた瞬間も死の瞬間も、実際には分からない。しかし生命の尽きる一瞬が、いつか確実にやってくることだけは分かる。
 ひとりの人間にあるのはひとつの死である。死を前にした人間は、おのずと自分の生と直に向き合うことになる。いわば死が光源となって、個の人生が照らし出される。そこから辞世、遺書、遺言などが生れてくるのだろう。
 これら最後のメッセージには、どこか心惹かれるものがある。とくに著名人の場合は、あれこれと想像をたくましくしてしまう。《フランス!‥…軍隊!……さ、先頭へ!……ジョセフィーヌ!》と叫んだナポレオン。《すべてが、いやになってしまった》と、つぶやいたチャーチル。《いま死んではたまらん……》と、吐いた夏目漱石……。イメージが壊れたとみるか。人間らしいとみるか。いずれにしても人物像を新しくフィクションしてみたくなる。
 最後のことばが胸を打つのはなぜか。一切の虚飾をかなぐり捨て、ナマの自分と真正面から向き合っているからだろう。自分の一生を顧みて発せられているからこそ、緊張感がほとばしる。たとえば、癌であると知りつつ、死の二週間前まで点滴を受けながら舞台に立った宇野重吉、舞台での最後のセリフ《石にかじりついても、この道を歩いてゆきます》は、そのまま別れのメッセージであろう。六代目菊五郎の辞世の句《まだたりぬ おどりおどって あの世まで》にも通じる芸道一筋の人生がほのみえてくる。
 人間は自らが生きたようにしか死んでゆけないという。〈いかに死んだか〉は〈いかに生きたか〉の裏返し。その意味で心にのこる遺書や遺言から、それぞれの人生をのぞいてみたい。
《栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、身の光栄にこれ過ぐるものなしと痛感致しております。/(中略)空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事は確かです。操縦桿を採る器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、ただ敵の航空母艦に向って吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです。(中略)飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。天国に待ちある人、天国において彼女に会えると思うと死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。明日は出撃です。(中略) 明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。/いいたい事をいいたいだけいいました。無礼を御許し下さい。ではこの辺で。/出撃の前夜記す。》 (出典 日本戦没学生記念会編 『きけ わだつみのこえ』 岩波文庫)
 学徒兵だった上原良司の「所感」と題する一文である。翌日、出撃したかれは沖縄戦でアメリカ機動部隊に突入した。
 太平洋戦争の直前に大学や専門学校の修学年限が短縮された。戦局が不利に展開しはじめる一九四三年には、文科系学生・生徒の徴兵猶予の制度も廃止となった。多くの若者たちは学業半ばで学徒出陣、祖国の未来を案じ、肉親や愛する者の幸せを願いながら、死んでいったのである。慶応大学経済学部の学生で、二二歳の上原もそのひとりだった。


 自己矛盾に悩んだ学徒兵の死

 自由主義にあこがれていたという上原でさえ、戦って死ぬことを「散華」と教育される風潮にしばられ、無意味な死を意味あるものと思うよう、自らに強いたのである。自己矛盾にのたうつ若い魂の叫びが、行間からほとばしっている。
 太平洋戟争での不条理の死は、上原たちのような学徒兵だけではない。敗戟後、戟犯として処刑された軍人もまた犠牲者である。日本の戦争犯罪はポツダム宣言にもとづき、連合国によって追及された。指導者はA級戦犯として極東裁判に付されたが、B・C級戦犯は各地の軍事法廷で裁かれた。元陸軍医中尉の信沢寿は俘虜虐待の容疑をかけられ、シンガポール軍事法廷で死刑判決を受けた。死刑執行の朝、かれは次のような遺書を書いた。
《かたわらに秋草の花語るらく、亡びし者は美しきかな、と牧水は歌っておりますが、私は本日午前十時半この美しき仲間にはいります。特に歴史的日本敗戦の犠牲となってシンガポール・チャンギー監獄の紋首台上の露と消えて行きます。私の埋められる所は果して秋草の花が咲いているや。いな、名もなき熱帯の雑草にて近く覆われてしまうでしょう。(中略)/すべては宿命です。誰か甘受せねばならぬ運命を私が背負って行くわけです。死亡せる多数の俘虜のこと、その家族のことを思うと諦めもつきます。私亡き後は智恵子を守りどうかあくまで頑張り通して下さい。天は私の家族に幸する秋もありましょう。遠きシンガポールの草葉の下より幸福を祈っております。/信沢つね殿》(出典『祖国への遺書』毎日新聞社)
 信沢が罪に問われたのは、国際法をハナから無視していた日本軍の体質のせいである。かれは俘虜である患者を日本兵と同じようにあつかった。俘虜患者といえども日本軍の規律で処遇した。就業・練兵休・入室に診断区分して、就業患者には労役に服させた。それが非人道的だといわれたのだが、信沢にすれば上官の命令を忠実にまもったにすぎないのである。上官の命令は天皇の命令であり、絶対服従を強いられていた。しかし、真の責任者が頬かぶりして逃げてしまい、命令を実行した信沢のような下級軍人が処罰されたのである。無責任体制の犠牲となったとしかいいようがない。
 裁判そのものにも問題がなかったわけではない。なかでもB・C級戦犯が付された軍事法廷というものは、公平な審議が尽くされないまま判決が下された例もあるという。信沢もある意味で、勝者の報復ともいうべきリンチの餌食になったということができる。
 遺書の文脈は整然として、まったく乱れというものがない。信沢は〈すべて宿命〉と思いひらいている。戦犯の汚名にまみれたことも、軍人ゆえの宿命だというのだろうか。あまりにも潔いことばが、いっそう理不尽を道理と思うように強いられてきたかれの人生の輪郭を、くっきりと浮かびあがらせるのである。
 上原の死も信沢の死も、いわば強いられた無意味の死なのである。ひとりの人間が死者となることによって、かえって残された者のなかに強く根づいてしまう場合もある。まちがいなくやってくる死を目前にして、自己の生を表現したかれらのメッセージは、その死を背負ってのうのうと生きのびている者たちを告発しつづけている。


 「戦争の語り部」大岡昇平の最後

 無意味の死を強いられた戦争の全体像を描くことに人生のすべてをかけたのが大岡昇平だった。
《あまり騒ぐな。お通夜、葬儀もいらない》
〈戦争の語り部〉といわれた大岡の最後の言葉である。戦後文学の第一人者といわれる大岡は、昭和から平成へと移る直前に脳梗塞で七九歳の人生を閉じた。戦争に象徴される時代の終りを見届けることもなく、ひとり静かに旅立ったのである。
 大岡といえば、すぐに思い浮かぶのは、自己矛盾のない硬骨ぶりである。日本芸術院会員に推薦されながら、辞退して大きな話題になった。「捕虜になった兵隊が国の栄誉は受けられない」というのが、その理由だった。このセリフと〈最後のことば〉は、大岡の生きざまを知るうえでのキイワードとなるだろう。
 旧制中学時代にフランス文学と出会い、京大仏文科に進んでからはスタンダールの研究に没頭した大岡が、戦争の語り部となったのはフィリピンでの戦争体験による。一九四四年、かれはフィリピンのミンドロ島戦線に送られた。陸軍二等兵、中年の一兵卒であった。米軍上陸で山中にのがれ、さまよっているところを捕らえられた。捕虜となってレイテ島の収容所に送られるのだが、大岡は当時の体験をムダにはしなかった。戦後になって、次つぎに小説作品に描かれてゆく。小説家としての出発点となる『俘虜記』では、戦場で目前を横切った米兵を銃撃しなかった体験を描いて、横光利一賞を受けた。続く『野火』(読売文学賞)では、人肉食という衝撃的な問題を取りあげた。戦場の異常さを浮き彫りにした両作品は、大岡文学の方向を決定づけていったのである。
 晩年になって四年がかりで取り組んだ『レイテ戟記』 (毎日芸術賞)は、レイテ戦の全体像を多角的・立体的に描く大作となった。人間を機械や狼にしてしまう戦争そのものにメスをいれたライフワークであった。執筆の意図について、大岡自身は次のように書いている。
「レイテ戟における敗戟の記録を、軍人共の作る偽史に抗して書き、八月十五日を忘れるなと言い続けて釆ました。共鳴する声もありましたが、この国の経済の異常な成長により、その声は年々数少なく、低音になり、聞く者は少なくなる傾向にあります」 (「戦後四十年を問う」東京新聞)
 自分の捕虜体験から出発して、最後にはその背後にある戦争という巨大な魔物とがっぶり四つに組んだ。『俘虜虜記』で文壇に登場してからの姿勢は終始一貫、変節することがなかったのである。
 大岡の作品は理知的で明噺な文体で知られている。簡潔で即物的とも思える表現は、できるだけ客観視して真実に迫ろうとしたためだろう。『レイテ戟記』を描ききったのも、死んだ戦友たちへの鎮魂歌にしたいと思う一方、真実を追求しようという強い決意がひめられていたからだろう。


 生き残った者の使命

 大岡は戦争や軍人を批判しながらも、かならずしも一方的に裁きはしなかった。B級戦犯に問われた陸軍中将の裁判を描いた『長い旅』 では、主人公の立場から矛盾に満ちた軍事裁判を告発した。
 江戸っ子気質でケンカ早く、だれかれなしに噛みついた。歴史小説のありかたをめぐつて井上靖と渡り合った「蒼き狼」論争をはじめ、持ち前の攻撃精神と毒舌で多くの人たちと論争した。それも感情にとらわれずに事実を客観的にみようとする精神からで、涙もろいという意外な一面もあった。大岡は次のように自らを語る。
〈私は涙もろいたちで、亡くなったひとについてしゃべると、よく絶句する。昭和四十年山口市で、中原中也について講演したとき「郷里に引揚げようとして準備しているうちに死にました」というこの「死ぬ」という句がいえず、あとは涙声で話はめちゃになってしまった。/『レイテ戦記』で毎日芸術賞をもらった時、「今日まで生き永らえて、この書を終えたのは、ひたすら死んだ戦友の……」というと涙がふき出して来て、あとは言葉にならず、一つ叩頭して降りてしまった〉 (「われらが世代」雑誌『ちくま』)
 先ごろの中村光夫の葬儀でも、あいさつの途中で涙をこらえることができずに絶句してしまった。きっと人間に対するかぎりないやさしさゆえにだろう。
《あまり騒ぐな……》と口をついて出た最後のことば、自分の死など大騒ぎするほどのことではないといいたげである。捕虜になって生きのびた自分は、死んでいった戦友たちに恥ずかしいという気持が伏線となっていたにちがいない。「国の栄誉を受けられない」と言ったのも、戦死した者に申し訳ないという罪意識からだったろう。多くの戦友たちの死を背負ったところから、小説家大岡昇平の戦後ははじまった。そして生き残った者として、ひたすら自らの使命を果たそうとしたのである。
 円谷はアラン・シリトーの『長距離走者の孤独』を読んだことがあるだろうか?
 東京オリンピックのメダリスト円谷幸吉が自殺したと知ったとき、わけもなくそう思った。シリトーの小説作品に登場する少年スミスは、トップに立ちながらゴール目前で走るのをやめた。院長の名誉のために走るおろかしさに反抗してみせた。スミスの行為と円谷の自殺は、どこかでつながっているのかもしれない。あるいは全然関係がなかったのかもしれない。


 思いがけない円谷の自殺

 円谷の自死は思いがけなかった。自衛隊体育学校の宿舎で自らの頸動脈をカミソリでえぐつた。一九六八年一月といえばメキシコ・オリンピックの直前である。便箋二枚に走り書きした遺書がのこされていた。
《父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、モチも美味しゆうございました。/敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました。/克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゅうございました。/巌兄、姉上様、しそめし、南ばん漬け美味しゅうございました。/喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゅうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。/幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました。モンゴいか美味しゅうございました。/正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。/幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になってください。/父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が安まることもなく御昔労、御心配をお掛け致し申しわけありません。/幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。》
 内容は肉親や縁者への別れのことばだけなのである。死を決意した者の自己表現というものがまったくない。自殺者の遺書としては、どこか異様な感じがする。それだけに、ひとりの人間を死に追いつめたものは何だったのかという疑問がふくれあがってくるのである。
 自衛隊体育学校の円谷は東京オリンピック直前になって、彗星のように現れたマラソン・ランナーだった。五千と一万メートルのオリンピック候補となった円谷は、そのスピードを生かして、初マラソンの中日マラソンで、いきなり五位にはいった。つづく毎日マラソンでは、二時間一八分台で走り一気に自己記録を五分も短縮した。君原健二についで二位となった円谷は、三位の寺沢徹ともどもオリンピック代表に選ばれた。
 円谷は一万とマラソンの両種目に出場することになったが、一万メートル入賞にかすかな期待がよせられるていどだった。マラソンはレース経験がものをいう競技である。かつてザトペックが五千、一万を勝った余勢で、初めてにもかかわらずマラソンを制したというケースもある。それは鉄人といわれるザトペックだからこその離れ業である。本番のマラソンでは、君原や寺沢に熱い期待の眠がそそがれ、円谷はまったくのノーマークだった。
 オリンピックの一万メートル決勝で円谷は期待に応えて六位に入賞した。大健闘である。ベルリン大会の村社講平以来の快挙であったが、マラソンについては、まだまだ未知数だった。


 人間としてのぎりぎりの抵抗

 陸上競技の最終日、代々木の国立競技場を出発した六八人のマラソン・ランナーのうち、最初に帰ってきたのはエチオピアのアベベだった。初のオリンピック二連勝に観衆は驚嘆の声をあげたが、四分後に二番目の走者が現れたとき、競技場はさらにどよめいた。すぐに日本人だとわかったが、はげしく首を振る君原でもなく、華麗なフォームの寺沢でもなかった。すこし顎をあげ、虚ろな眼をどこか遠くに這わせる走者が円谷だと分かるまでには、しばらくの時間的余裕が必要だった。円谷はゴール前でイギリスのヒートリーにかわされて三位に落ちたが、東京オリンピック陸上競技で日本人初のメダリストになったのである。翌日には自衛隊栄誉第一級功労賞を受けた。やがて陸上自衛隊体育学校教官にもなる。
 円谷は長距離スピードをマラソンに生かした日本人最初のランナーだった。そのダイナミックな走法ゆえに「和製ザトペック」といわれ、メキシコ・オリンピックへの期待がかけられた。このころからメダリストの栄光が心理的重圧となりはじめたのか。翌年のタイムス・マラソンでは三二キロ付近で棄権するという惨敗。オリンピックまで、だましつづけてきた持病の椎間板ヘルニアが再発、さらにアキレス腱悪化も加わった。二年後の水戸マラソンでも九位と敗れ、「迷えるランナー」といわれた。
 だが、円谷は走りつづけなければならなかった。もはや、かれは〈自衛隊の円谷〉であり、〈日本の円谷〉だったのである。そして、そのまま死まで突っ走った。円谷はレース中、けっして後ろを振り向くことがなかった。スピードで押せるところまで押してゆく。駆け引きというものを知らないランナーだった。無器用というべきか、純朴無垢のフェアー精神というべきか。
 二七歳の円谷を死に至らしめたのは何か。国家主義的な愛国心とメダル至上主義だったというのはたやすい。高度成長まっただなかの当時日本にあって、たしかにオリンピックは国威のシンボルとして機能していた。だからといって、プレッシャーのせいだというのでは、あまりにも図式的すぎる。
 円谷の自殺が報ぜられたとき、誰もが「あの円谷が、どうして?……」と、眼をまるくした。苦しそうに顔をゆがめて黙々と走るかれの姿に、いかにも勤勉実直な優等生像を見出していた。「なぜ?」という驚きは、そこからやってくる。けれども、自衛隊の円谷、日本の円谷……といわれ、優等生であろうとすればするほど、自分というものを殺さなくてはならなくなる。ますます自分が自分でなくなってゆく。円谷の自死…‥それは個の人間としてのぎりぎりの抵抗だったのではないか。遺書の文面から判断するかぎり、円谷は福島県須賀川の郷里で生を終えたはずの自分を思い描き、ひとりの平凡な人間として、ささやかな幸福を夢みていたのだろう。《幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました》という最後の一行が、なによりもそれをよくものがたっている。


 義理がたい合理主義者、櫻田武

 昭和という一時代は〈戦争〉と〈高度成長〉に象徴される。財界四天王のひとりといわれ、戦後の経済界をリードした榎田武(一九八五年死去、享年八一歳)は、戦後日本の高度成長の担い手のひとりにあげられる。
 櫻田は終戟の年に四一歳で日清紡の社長になっている。紡績は平和産業ゆえに戦時中は工場を軍需産業に譲渡しなければならなかった。日清紡も例外ではなかった。企業存亡の危機のまっただなかで、櫻田は再建に取り組んだのである。綿紡績は日本の戦後復興の中心にするという政策もあったが、櫻田の日清紡は「ケチン紡」とまでいわれるほどの徹底した合理化精神を貫いた。「好況の次にくるものは不況なり」という観点から、少しばかりの好景気に浮かれることを戒め、ひたすら資本の蓄積につとめた。
 設備の拡充も量的拡大ではなく、あくまで質的拡大をめざしてのみ実行した。合繊時代がやってきても、櫻田は不進出の姿勢を貫いた。多角化にもきわめて慎重だった。企業規模をふくらませるだけの合併や多角化には否定的だった。
 経営の多角化について、長所より短所を重くみるという覚めた経営者であった。こうした一連の堅実経営こそが、日清紡を日本有数の優良企業にまで押しあげたのである。
 櫻田は合理主義者だったが、義理がたい一面もあった。頼まれれば日清紡とは全く関係のない会社の再建に乗りだすこともあった。大倉製糸をはじめ、日本無線、東邦レーヨンの再建に参画して「再建屋」とまでいわれた。
 事業というものを「公器として預かる」のが真の経営者なのだと櫻田は説く。「事業の所有者即ち資本と労働の結び目に立って双方の恣意を押えながらも、その利益を擁護し、かつ両者の結合によってのみ生ずる生産力を国民経済に役立つ如く発揮せしめるというのが『公器を預かる』ということの意味であります」というのである。


 「闘う日経連」の先頭に立って

 資本と労働の側からのエゴをひとしく抑制することも経営の役割だという。このように櫻田が新しい経営理念の持ち主だったからこそ、日経連のリーダーとして戟後まもなくの労働問題を処理できたのだろう。
 櫻田武は日清紡の経営者としてよりも、ミスター日経連として知られている。「経営者よ 正しく強かれ」というスローガンで、日本経営者団体連盟が結成されたのは、一九四八年四月だった。戦後の民主化で労働運動が活発になったが、経営者は新しい労使関係に対応できずにとまどった。経営基盤さえ確立しない時に労働権だけが強く主張されては、労使ともに存立が危うくなる。拡大した労働権に括抗して経営権を主張する機関として日経連は発足したのである。櫻田は創立と同時に副議長となっている。翌年には現在の会長に相当する総理事になり、以降三〇年間にわたって指導者を務めたのである。
 「闘う日経連」の先頭に立って、櫻田は経営者を背後から支え、労使協調という新しい日本型労使関係の育成に努めたのであった。
 櫻田は腰のすわった財界人だった。「ストをやらしたらいいだろう」などと平気で言った。ストライキも労使教育の場だというのが、かれの持論だった。けれども、いつも経営者ばかりを支援したわけではない。一九五四年の近江絹糸争議では「経営者がよくない」などと言った。経営者でさえも手きびしく批判し、「経営が苦しい時にも自力で切り抜ける心構えが必要だ」という自己責任論で、自覚をうながした。歯に衣着せぬ直言は政界にもおよんだ。自民党政権の腐敗ぶりを批判して、「この程度の政治家しか育てられなかったわれわれ経営者の不明を恥じる」とさえ言いきった。
 同盟の指導者滝田実は「櫻田さんは合理主義を貫くから冷たい感じだった。だが私心がないので人は従った。組合も櫻田さんと対立はしたがお互いに不信感はなかった」(大谷健著『櫻田武の人と哲学』)と日清紡時代を振り返る。総評の太田薫も、次のように書いている。
〈惜しい人を失ったと私が考えるのは、第一に、今日の金権政治のなかで政・財・官界、それに労働組合まで銭に汚れているのをみるとき、最後まで清潔を貫いた資本家は、あの日清紡で育った櫻田さんで終りだと思うからです〉 (「最後まで清潔を貫いた資本家」『櫻田武追悼集』)
 労使双方から信頼されていたのは、「公器を預かる」という自らの経営理念に忠実だったからだろう。政治家の額面を札束でひっぱたく、モラルのないどこかの成りあがり経営者とわけがちがうのである。


 栄誉一切辞退すべきこと

 櫻田は「ケジメ」の人でもあった。自分の役割が終わったと判断すると、日清紡会長も日経連会長も、あっさり後継者にゆだねた。退任後は「もとめられれば意見をのべる」という姿勢に徹していた。櫻田の晩年、三年間にわたって秘書を務めた矢田部守雄は、次のように語る。
「最も印象に残っているのは、櫻田さんが財政制度審議会の会長を務めておられたときのことです。そのころ、すでに肝臓ガンにかかっておられ、国事のために病院から通う日々が続きました。五九年末に審議が終わり、竹下蔵相に建議書を渡されたとき、本当に精魂をかたむけてやり遂げたという様子でした。記者会見が終わった後でした。やにわに用意していた辞表を山口事務次官に提出されたのです。男の出処進退を明らかにする櫻田美学を眼のあたりにして感動しました」
 櫻田が死去したのは、それから四カ月後だった。家族に宛てた遺言は次の通りである。
《一、小生死去の際、栄誉一切辞退すべきこと。/なお葬儀は一家の私事なれば遺族の手で行なうべきもの。もし日清紡株式会社によりたっての申し出あらば社葬お受け致すこと。遺骨は郷土赤坂町墓地、東京墓地とに分骨埋葬すること。/二、小生櫻由本家十代目に当たる。十一代は鉄之助を指名する。よって祖先の祭祀を主宰すること、後継者を定むること遺漏これなきよう致さるべく、親、兄弟、親族の交誼は懇篤に行うこと。相互扶助またしかり。/三、遺産分配の件、櫻田文十分の五、櫻田鉄之助十分の二、櫻由正大十分の一・五、高橋恭子十分の一・五/右割合いはおおよその基準とす。これにて実施し、不適当と考えられるところあらば櫻田文において適当に調整致すべきこと。故に文の割合いを大に致しあり。以上/ 昭和五十七年二月十四日》
 いかにも実業家の遺言らしく、きわめてビジネスライクである。それにしても、なぜ〈栄誉辞退〉を遺族に厳命したのだろうか。先の日清紡会長の宮島清次郎の影響であるといわれている。樫田が師と仰ぐ宮島は、会長を辞任するとき退職金を受け取らなかった。吉田茂や池田勇人らが、宮島に勲位がおりるよう動いたが、本人は固く辞退しっづけた。
「男の一生かけた仕事に、官僚が一等だ、二等だと等級をつけるのはおかしい」というのが、その理由だった。宮島の遺志は、〈公私の区別〉をまもり、〈社内に胸像一つ作ることを許さない〉という社風となって生きている。櫻田が一切の栄誉を拒んだのは、たしかに師の処し方にならったせいもあるだろうが、企業を〈人間集団〉としてとらえる経営哲学と無縁ではないだろう。戦後の日清紡を築いたのは、自分ひとりではない……。財界人としての活動も人間集団の協力体制に負うところが大きい…‥。そういう謙虚さと潔癖さは形式的な栄誉になじまないのである。
 櫻田武とならぶ財界の雄といえば、経団連の土光敏夫だろう。初対面で土光をうならせた人物がいる。前検事総長の伊藤栄樹(一九八八年死去、享年六三歳)である。
 伊藤が検事総長になってまもなくのころだった、土光から会見を申しこまれ、東芝ビルにでかけた。伊藤が最高顧問室にはいるなり、土光はステッキを頼りに立ちあがり、「おめでとう」と手を差しのべたという。


 「巨悪は眠らせない」

 はじめて二人が顔を合わせたのは、「造船疑獄事件」が発覚した一九五四年である。造船工業会副会長の土光の取り調べにあたったのが、当時東京地検の特捜検事だった伊藤栄樹だった。長い検事生活のなかで、伊藤は数多くの政治家や経営者と相対している。そのなかには「実に立派な人だ」と感心した人物も何人かいた。伊藤はその筆頭に土光をあげている。机の前に姿勢をただし、どんな質問にも毅然として迎合することがなく、立派な被疑者であった。「あの人は、もっと偉くなりそうな気がする」と思ったという。
 土光も「あの検事は、若いが立派だ。きっと大成するよ」と周囲の者に語っていたらしい。まさに英雄、豪傑を知るという呼吸である。
 伊藤と土光はとくに親交があったというわけではないが、時を経て二人は劇的な再会を果たしたのである。「ミスター検察」といわれた伊藤は、主に汚職や会社犯罪という知能犯の捜査を担当してきた。造船疑獄事件からロッキード事件まで、政財界の疑惑事件に直接・間接的に関わってきた。知能犯は殺人・暴力犯などの単純犯罪より、はるかに強大な〈悪〉である。「巨悪は眠らせない」というのが伊藤が終生貫いた検察官としての姿勢だった。
 〈悪〉にはどこまでも手きびしく、スジの通らないことには異論を吐く……。その意味で伊藤は剛毅な検事だった。たとえば一九七七年のダッカ・ハイジャック事件(乗取り犯人は乗客・来月一五一人を人質にして、身代金と国内服役中の九人の釈放を要求した)では、最後まで犯人の要求に応じるべきではないと主張しつづけた。首相官邸に詰めていた伊藤は、時の総理大臣の福田赳夫や官房長官の園田直の狼狽ぶりを冷ややかにみつめていたのである。
 そういうと冷徹なイメージばかりが先に立つが、実際の伊藤はちがった。捜査にあたっては被疑者といえども、あくまで人間としてあつかった。
〈検事と被疑者との間に醸し出される信頼感情、これこそが自白の最大の原因と思う。そのためには、検事と被疑者がお互いに胸襟を開いて、身の上話をし、同じ社会的関心事について語るという経過をたどることも多い。相互の信頼感情なしには、本当の自白は出てこない。(中略)いずれにせよ、検事と被疑者がのちに街角で再会したとき、笑って手を握れるような調べによって得た自白だけが、信頼できる自白である。検事の良心に照らし、このことだけは忘れてはならない。〉 (「自白する人しない人」『秋霜烈日』)
 あの土光敏夫が眼をみはったのも、人間味あふれる気質の片鱗をみたからだろう。


 死を科学的、合理的に割り切り

 伊藤が社会の巨悪と対決しているうちに、いつしか〈がん〉という巨悪が自らの体をむしばみはじめていた。
〈その瞬間は、ショックを受けたが、公私両面にわたって十分な心の準備をすることができ、よかったと思っている〉
 伊藤は医師から告知されたときの心境を、このように書いている。
 入退院を繰り返した伊藤は、定年まで一年あまりを残して退官、残り少ない時間の大半を執筆にあてた。忍びよる死と向き合いながら、ワープロをたたきつづけたという。伊藤の死後には二冊の本が残された。闘病記『人間死ねばごみになる』は、自己の内なる巨悪と対決した調書というべきだろう。検事時代のエピソードを綴った回想記『秋霜烈日』は、いわば後進にあてられた遺書である。
《私は、やがて間違いなくやってくるはずの自分の死に直面し、死を科学的、合理的に割り切って対応しようと努めている。もともと信仰心のないところへ、四十年もの間、科学的合理性を旨として、過去の出来事を忠実に再現する仕事をしてきた私にとって、それが一番受け入れやすい。だから、がんとの対応にあたっては、この病院の医師団に代表される現代科学の水準だけに頼り、宗教、信仰というものには一切頼りたくない。がんと対決する気力や平静な心といったものは、家族への思いなど私の心で賄える範囲で奮い起こしていくつもりである。》
 『秋霜烈日』の終章におさめられた「がんと私」からの抜粋である。伊藤の最後のことばというべきだろう。
 目前に迫った自分の「死」を、このように冷静に受け入れられるものなのか。ただ驚嘆するばかりである。もしかしたら、伊藤は回想記の執筆活動で自分にめぐりあうことができたのかもしれない。それならば納得できる。
 自分が自分にめぐりあう……。「過去の出来事を忠実に再現する仕事をしてきた」検事なら、造作ないことだといいたいのだろうか。 


目次
海の魚と川の魚
雑誌「経済往来」(経済往来社)1978年 9月号 (1978.08)
机と椅子
雑誌「商工にっぽん」(日本商工振興会)通巻499号 (1989.05.15)
ロクでなし″とワカラズヤ″
NOMAプレスサービス」 No.449 (社団法人 日本経営協会) (1986.06)
Eやんの見事な年金生活
雑誌「年金時代」2004年4月1日号(社会保険研究所) (2004.04.04)
運転しながら化粧をしないで!
雑誌「Forbes」2004年11月号(ぎょうせい) (2004.11)
会社人間、「勉強会」に走る
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1987年10月号 (1987.09.10)
「出世レース」を疾走する「不惑」の男たち
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1988年5月号 (1988.04.10)
相続をめぐる「悲しき骨肉の争い」
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1988年9月号 (1988.08.10)
「遺書」が浮き彫りにする男の生き様
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1989年4月号  (1989,3.10)
23年ぶりの民間選出の理事長となった「北浜の風雲児」
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)2001年2月11日号 (2001,1.20)
西堀流部下活性法
講座「ビジネスリーダー活学塾」(プレジデント社)

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