福本 武久
ESSAY
Part 4
 福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
 新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。
ビジネスマンの風景……会社人間の未来
初出:雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1988年5月号 (1988.04.10)

 「出世レース」を疾走する「不惑」の男たち


特集 男の「四十代」  「花の重役」に栄進したエリートにとりビジネスとは、家庭とは

中高年のポスト不足は深刻化し、昇進への道は、年々、険しくなる一方だ。だが、そんな中で、 四十代で経営陣の一角に食い込んだ「若き重役」たちがいる。人生の折り返し地点を過ぎたあたりで、企業人としての夢を実現してしまった彼らにとって、ビジネスとは、そして家庭とは −。


 四十代を駆け抜ける男たち

 会社って何だったのだろう……。サラリーマンが、ふと立ちどまって、仕事と人生との関係を考える季節があるとすれば、それは中年のまっただなかの四十代だろう。現在の四十代といえば、昭和三六年ごろから昭和四四年ごろにかけて就職した人たちである。
 当時の日本経済は、高度成長路線をひた走っていた。企業の規模が拡大されるにつれて組織もふくれあがり、各社とも多くの従業員を採用した。学卒の社員なら誰でも管理職への昇進は約束され、あわよくば経営陣の一角に食いこむことも夢ではなかった。
 この時代に採用された世代の大部分にとって、企業はまさにワンダーランドであった。期待される若手社員として、夢の冒険に乗りだしたのである。
 だが企業の低成長時代がやってきたいま、ポストが不足して中高年がダブつきはじめた。夢から醒めた四十代の大部分は、自分で現実をしかと受けとめて、新しいチャレンジの道を模索しなければならなくなった。
 昇進への道がきびしくなった情況とは裏腹に、最近になって役員人事の若年化がはじまった。とくにこの二、三年で四十代の役員が登場して、影に覆われた四十代に光芒を放っている。
 企業人としての人生の折り返し地点を過ぎたあたりで、夢を実現してしまった男たち……。いったい、どんな人たちなのか。かれらは自分の仕事と人生を、どのように捉まえているのだろうか。
 そんな思いもあって、何人かの四十代重役に取材させてもらうことになった。対象を著名企業の新任者にしぼって、取材を申し入れたのだが、かんたんには応じてもらえなかった。
 理由はよくわからない。諸先輩をさしおいて、新参の自分が突出しては……という本人の深謀遠慮からなのか。あるいは佐治発言があってから会社側がナーバスになって、せっかくの世代交代のエースが傷つくのを恐れ、ガードを固めたせいなのか。あらぬ詮索をしてしまった。
 ようやく三人のフレッシュな取締役に面談することができたが、なぜか個人については多くを語ってはもらえなかった。なぜなのだろう……と考えつづけて、やっと納得したのは取材を終えてからだった。
 人間がためらい立ちつくして、自分をみつめたり、過去を振り返るときは、挫折したときではあるまいか。この人たちは先頭集団からぬけ出したトップランナーである。
 ひたすらゴールをめざして疾走するランナーにとって、後を振り返る余裕もなければ、その必要もない。若くして役員になったとはいえ、それは到達点ではなく、自分のほんとうの仕事は、いま始まったばかりなのだと、無言のまま語りかけているのかもしれない。


 六〇〇億円を稼いだ特販部長

 シチズン時計の前川日出夫さんの名刺には〈企画部長〉と〈特販事業部長〉という二つの肩書きがある。企画部長が本業で特販は兼務なのだという説明があった。
 千葉工大の工業経営学科出身の前川さんは、昭和三七年入社で現在四九歳である。話ぶりは穏やかで一見学者風である。だが細めた眼の奥の瞳から、ときおり凄みのある光がもれてくる。どこか知的でありながら、それでいて野性味が周囲から匂い立ってくる。奇妙な雰囲気の持主である。
「学生時代から先生について、コンサルタントみたいな形でいろんな会社に出入りしてましてね。その過程でシチズンをみて、非常に印象がよかったんです。自由な雰囲気にあふれていました。逆に言えば、ずいぶんと仕事の面でやり残している部分があるなと思いましてね。初任給も当時は非常によかったんですよ」
 自由闊達で管理統制されないリベラル な雰囲気に惹かれて、すでに採用内定していたある電気メーカーを袖にして、シチズンを選んだ。
 「金もうけの種がいっぱいころがっているな。腕のふるえる部分がたくさんあるな……と思ったんですね」
  前川さんは入社当時の自分を想い起して、非常にナマイキだったと語った。 最初に配属された生産技術課で一〇年働いた後、管理部へ。そこで新商品の企画を始めた企画グループが後に特販部に発展した。特販部とは、かんたんにいえば時計生産技術を生かした部品・パーツの生産・販売の部門である。
 発足から一五年たった現在、特販事業部の売上高は約六〇〇億円、生産量では、全シチズンの七割を占める。そのリーダーだった前川さんは昭和五七年、企画部から特販部が独立したとき部長に昇進、五年後の昭和六二年六月、取締役に就任したのである。現在はシチズン全社の新分野進出の企画部長として、五〇パーセントの多角化を模索中である。

「実は、この会社がどういう会社なのかも分からないで入社したんですよ。ある週刊誌で樫山というのは、実力主義の会社だという記事がありましてね。若くてもエラくなれる可能性があると書いてあったので、入社試験を受けたんですよ…」
 東京日本橋にあるアパレルの大手メーカー樫山のショールームの一角で会ったよ廣内武さんは、早稲田大学第一法学部出身で昭和四〇年入社。四五歳である。スポーツ大好き人間を自認する廣内さんは、中学、高校時代はテニスの選手だった。インターハイ、国体にも出場したことがある。高校二年のときには、国体の高知県代表としてベスト8まで進出したという。やや体型にゆるみが出てきたとはいえ、顔つきは精惇で眼つきもするどいものがある。
 この人の物言いに虚飾がないのも、スポーツマンのせいだろうか。
 廣内さんが希望していたのは商事関係の仕事だったが、配属されたのは経理部だった。
 会計、財務、税務などの仕事で一二年間すごして、紳士服事業部に二年半、レディス事業本部で一年をすごした。その後、経営計画室で全社スタッフを半年勤めて、いきなり新規事業として発足した海外事業部の部長になった。三八歳のときだった。入社当時はファッションについて、あまり知らなかったという廣内さん、経理の時代も長かった。ファッションの現場に転属したときは、とまどいもあっただろう。
「感覚的に若がえりましたね。洋服は着てみなければ分からないですから、そのころからナウなファッションに切り替えました。初めは背中に汗をかきましたよ」
 昭和六〇年、四二歳で取締役になった廣内さんの名刺も肩書きが多い。現在は〈海外事業本部〉と〈INB事業本部〉の担当取締役。さらに昨年一一月からは新しく発足した〈J.プレス企画本部〉の本部長も勤める。いずれも樫山の海外活動をベースにしたデビジョンであり、廣内さんがその頂点にいる。


 睡眠五時間でフル回転

 住友銀行京都支店に植村仁一さんを訪ねたのは、決算期未という銀行にとっては最も多忙な時期だった。
 鳥丸通り三条にある京都支店は、ゴシック風の建物で四階まで吹きぬけになっている。いかにもどっしりと落ち着きがあって銀行らしい構えである。
 熱中型で肉体派だという支店長の植村さんは、睡眠五時間でフル回転できる体力があると自ら言うだけあって、いかにも健康そうで顔の色艶がいい。声のトーンも弾むように活気にあふれている。
「金融にたずさわってみようという。肩肘張ったところもありましたが、当時の私自身はどちらかというと無難型。寄らば大樹の蔭……という気持ちがあったでしょうね」
 京都大学法学部では商法のゼミナール、金融機関に就職する者が多かった。神戸、西宮で生まれ育ったので、関西の銀行がいいだろう。ごく自然に住友銀行を選んだという。
 入行したのは、「銀行よさようなら、証券よこんにちは」という証券ブームまっただなかの昭和三六年だった。
 大阪の備後町支店で四年の新入社員研修を終えて、本店業務部に転属して七年を過ごした。その後は秘書室時代の六年を経て、企画部、姫路支店長、本店営業第三部長、本店業務部長、福岡支店長へと移った。昭和六二年四月に京都支店長として赴任、取締役への昇進は二カ月後の六月だった。
 植村さんと同期入行の取締役は、すでに六人を数える。全役員が四四人だから、役員輩出比率がきわめて高い年次だといえる。それは、ますます多様化する銀行業務に対応する布石なのかもしれない。


 役員就任が決まったとき……

 武樋政司さんが野村澄券に入社した昭和和四一年といえば、四〇年証券不況の直後である。東北大学法学部出身の武樋さんは、卒業の年になってもスキーに明け暮れていて、ゼミにもほとんど出なかった。
「ひさしぶりに顔を出したら、教授が野村證券に行ってもらうことに決めた……と言うわけですよ。キミが最も体力がありそうだから…・‥とね。実は郷里新潟の北越銀行に就職がきまりかけていたのですが、断わるはめになってしまいました」
 入社後は仙台支店、静岡支店で六年をすごして、本社のスタッフ部門へ。静岡支店時代の営業成績はいつもトップだったが、その後は支店に配属されることはなかった。
 企画部・主計部・秘書室と、二、三年ごとに異動、三九歳で部長に昇進した。主計部長、広報部長を一年ずつ勤めて、一昨年の一一月には、ノムラ・インターナショナル・ロンドンに転出した。バイス・プレジデントとして、ロンドンに赴任したのである。取締役就任は、それから一年後だった。
 野村は昇進スピードの速さで知られている。三〇蔵前半で支店長ポストに手が届き、年収一五〇〇万円も夢ではない。
 四四歳の若さで取締役株式部長になったという武樋さんのようなケースも稀でない。すでに、一期下から役員が何人か出ている。
「これだけ、めまぐるしく異動した例は、野村でもめずらしいでしょう。次つぎに新しいポストに移って、ガムシャラにがんばっているうちに、ここまできたという感じです」
 取締役に昇進の内示があったとき、どんな思いでしたか? その前後では意識が変わったという部分がありますか? ぶしつけな問いをぶつけてみた。
「仕事の上でも生活の上でも、とくに変わったことはありません。車が迎えにくるわけでもないし、秘書が世話を焼いてくれるわけでもない。ただ、退職金をもらったときは、ふと、おれはもっ従業員ではなくなったんだなと、いままでの会社人生を振り返りましたね」
 武樋さんは、株式部長という新しい仕事に専心するだけだと言った。
 植村さんは、「経営陣の一角ということになるわけですが、私のポジションは、その要素よりも非経営陣の頂点に立ったという要素のほうが強いですね」という。
 前川さんは、「役員になったということは、あまり意識しません。仕事の領域とか権限は欲しいですけど役職とか地位には、それほど興味がありませんね。そういう意味で意外と現代人なんですよ」と素っ気なかった。
 廣内さんの受けとめかたも、きわめてクールである。
「自分が手をあげて、なろうというのではなく、やれ……と言われたわけですから、素直に対応していけばいい。何も役員になったから仕事ができるわけでもないわけですから、まあ、自然流ですね。下手に意識すると、かえって柔軟な発想が阻害されることがあるかもしれない。やはり、その時どきの自分の力量に応じたことをやっていって、評価する人は別にいるのだ……と、考えることにしています」
 言葉の端ばしに、それぞれ自信が包みきれずにこぼれている。やはり若くして出世レースの先頭を疾走する人は、二枚腰、三枚腰のしたたかさを秘めているように思える。それは、どのようにして身についたものなのか。仕事とともに歩んだ四人の足どりが答えてくれるだろう。


 仕事とともに歩んだ人生

 樫山の廣内武さんにとっての転機は、海外事業部を任されたときだった。
「私は洋服に関しては、ほとんど素人みたいなものでしたからね。よく任せたと思いますね」
 廣内さんは、まるで他人ごとのように当時を語る。もともと「他人に言われると素直に聞いてしまうほうなんです。他人から見て、キミはこちらのほうに向いてるよ……と言われれば、そういうふうに思ってしまう」と自分の性格を分析してくれる。辞令が出てから二日目には、もう海外に飛び出したというから、ものすごい行動力の持主だ。
「自分の仕事は海外なんだ……と。日本にいてはダメだなと思って、どんどん出かけました。海外を知ることが大事だと思って、年間の三分の一ぐらいは、海外をまわってました。文化的、芸術的なものは直に見ることが重要だなあ……と思いますね。有名デザイナーといわれる人たちは、育った国の哲学的、文化的な背景をもっている。そこからクリエインョンというものがでてきている。非常に勉強になりましたね」
 樫山の海外活動は一五年前に始まっている。ファッション・ビジネスにも国際化の時代がくるという発想から、まずパリとニューヨークに現地法人を設立、その後イタリアの一社が加わった。
 現地製品の小売業としてスタートしたが、やがて有名デザイナーの商品を中心にした小売店経営に発展した。
 小売のパテント化による差別化路線である。パリやミラノでは、ジャンボール・ゴルチェのオンリーショップ。ミラノではルチアノ・ソプラーニと合併会社を設立した。さらにアメリカでは、マークジェコブスを取り上げた。
 ジャンボール・ゴルチェは、いまでこそパリコレクションのトップ・デザイナーだが、樫山は無名時代からコレクションをあつかっている。世界の舞台に登場する道をひらいたのは、樫山フランスだったというわけである。


 満点をとろうとするな

 樫山の海外事業はイタリア、フランス、アメリカに香港を加えて、現在六社になっている。それぞれクリエインョンから始まって、企画、生産・卸売、小売を有機的に展開している。
 このような海外活動から高級ブランドとして定着したデザイナー商品を直輸入、国内販売するデビジョンが生れた。それが廣内さんのもう一つの肩書きにあるINB事業本部である。
 樫山はもともと紳士服、婦人服というようにアイテム別に事業展開しているがINB事業本部はブランドから出発して、幅ひろいファッション製品をあつかうという新しいシステムになっている。
 廣内さんは、ものごとを本質からとらえるタイプである。
「デビジョンの長というのはリーダーなのだから、まちがったことを言ってはまずい。最初、何をやったかと言うと哲学ですね。ものごとの本質は何なのだろうと……。当時は戦国時代の歴史書をよく読みました。生きるか死ぬかは、リーダーのありかたいかん。そこには何か哲学があるだろうと……」
 経理部の経験も、現在の仕事にも生きている。経営は長期的に考えなければならない。まず現状の分析……。基本的な数値の組立てが、きちっと頭にあれば、あとは肉づけすればいいだけだという。
「ものごとはやってみなければ分からない。結果は後からついてくるものだ」という割り切りで「一度、答えを出したら、素直にのめりこんでゆく。そのときの判断がベストなのだと思うことにしています」と、きわめて楽観的な気質の持主でもある。
「知らないことは、上下関係に関わりなく、どんどん訊く。専門のことは専門家に聞く。私は素直に訊くんです。あとは自分独りでやるのではありませんからね。優秀な人材がそろっています。部下にもめぐまれてますからね」と、廣内さんは眼を細めて、最後にこれからの抱負を次のように語った。
「一〇〇点満点を取ろうとしないで、五〇点を基準にする。五〇点以下はダメ、五〇点から出発して、そこから一〇〇点に近づける仕事をすべきだろう。そうすれば企業も部隊も生き残ってゆけると思います」
 基本づくりが終った現在、スケールの拡大が、新しいチャレンジ目標になるという。
 住友銀行の植村仁一さんは、主に業務畑を歩いてきた。業務というのは住友の場合、支店の営業活動の推進・助成、新種商品の企画や店舗企画、全体の係数管理などを担当する部門である。
「銀行にはいろんなコースがあります。管理部門にゆくコースとか……。私は業務部門に配属されたことが運命的だったと思います。銀行の業務運営というのは顧客本位、第一線重視という方針です。それを全体に定着させるのが仕事になる。何を学んだかというと、お客さんあっての銀行で、第一線あっての本部だということですね。お客さんがなければ商売はできないし、第一線が働いてくれなければ業績はあがらない。自分というのは、チッポケなもの。他人にやってもらった総和がデカイものになるのだということが分かりましたね」
 業務部と第一線は、ある意味で対決だという。本部から指令する場合、馬ニンジンで命令するケースもあるが、そればかりではうまくゆかない。
「こういうふうにしたら成績があがりますよ。いい成績をあげれば、結果としてみなさんの幸せにつながりますよ。説得する力が必要になります。そうすると、第一線の立場に立った、発想や考えかたを身につけなくてはならなくなってくる。ずいぶん勉強になりましたね」
 業務部は荒っぼくてハードな仕事だとすれば、次の秘書室の仕事は、どちらかというとソフトな仕事だった。当初はストレスも多かったという。
「結局、私自身、自分の百の努力が認められるか認められないか。それしか手がないと割りきることにしました。ダメなら、いくらでも職員がいる銀行だから、交代要員がいるだろうと……」
 自分自身を指して全力型タイプだという植村さんは、「自分のやりかたで通用するかしないか」だと割りきった。銀行の仕事にはスケジュール管理が重要で、仕事を進めてゆく基本だと気づいたのも六年間の秘書時代だった。
 優秀な人材をかかえる住友銀行にあって、四八歳という若さで役員まで登りつめた植村さん、並みの努力ではなかっただろう。どのような姿勢で仕事にのぞみ、どのような勉強を重ねてきたのか訊いてみたが、「わたしは拙速のほうで……」と照れるだけで答えてはもらえなかった。
 だが、銀行はメーカーなどとちがって、分野は限られている。せまいところで能力が判定される。それだけによけいきびしいものがある競争を、どのようにしてクリアしてきたのだろうか。
 そこで、部下にはどのような勉強をするように指示されてますか……と、質問の角度を変えてみた。
「……とりあえず一つのことの専門家になれ。何もかもは無理ですからね。与えられた仕事のなかでプロフェッショナルになれ。それがほかの仕事にもプラスになる。ちがった部署に行っても、かならず役立ちますからね」
 このなかに植村さん自身の歩みがあるとみた。別の話の流れのなかで、「結局、部下に要請できるのは、自分がやってきた範囲なのだぞ……と、私はつねづね言っているんです。だから、できるだけ背伸びをしておきなさい……と。自分が努力してきた実績があってこそ、部下に対して迫力を持って要請できるんです」と語ってくれたからである。
「昇格する人にも、よく言います。いままでの実績が認められて昇格するんではないよ。新しい地位にふさわしい仕事をするだろうと期待されて昇格というものがある。もらったポジションを、これからの働きで固めてゆくんだと……。そうでないと頭を打ちます」
 住友に恩返ししなければ……という植村さん。自身の決意表明も、このあたりにあるのだろう。


 送別会を知らない男

 いままで受身的だった金融も、これからは積極的に提案してゆく時代になった。おもしろい時代になったと植村さんは受けとめている。金融マンとしてハードとソフトを体得してきた植村さんの見識がもとめられる環境になったということだろうか。
「私は指示されて動いたという経験はないんです。自分で新しい分野をみつけては、勝手なことをやらせてもらいました。その意味では恵まれてましたね」
 シチズン時計の前川日出夫さんは、生産技術課時代も販売部門であるシチズン商事のサービスシステムをつくったり、海外進出プロジェクトに参加したり、組織の壁を越えて仕事するケースがほとんどだった。
「仕事はいろいろ替わっているが、みんな新しいものばかり。それも現状のままズルズルと始めますから、組織を出たという意識も別にないんです」
 だから、いままで歓迎会や送別会を一度もしてもらったことがない。組織は後からついてくるという形で、何かを始めるときはいつも二人ぐらいでスタートしたという。特販事業も例外ではなかった。
「昭和四七年ごろ、アメリカに行ったとき、業界が大きく変わると直感したんです。当時デジタルの電子時計が大流行の兆しがあった。この変化は機械系から電子系への材料の置換えだと受け取ってはマズイなと思ったんです。売りかたまで変えてしまうだろうと思いました。物的変化ではなく社会的・文化的だととらえなければならないと思いましてね」
 前川さんは、生産・販売ともに異業種からの新規参入があるとみて危機感を抱いたという。特販事業は内部の体質を変えるという社内の意識改革でもあった。ブランド商品を持ちながら、一方で素材としてのムブメント(時計の針を動かすまでの機械部分)をOEM(素材)として販売しようというのである。いわば敵に塩を送る結果にもなりかねない。
 現在は素材として販売するものと、シチズンブランドでファッション時計として販売するものとが二極分化して、ともに拡大しているが、当初は社内でも相当な抵抗があったという。ブランド商品を伸ばしながら、OEMも伸ばすということは、表面的にみると自己矛盾をはらんでいるからだ。
「自分の見通しの正しさを信じる。先のことには理屈なんかないんです。こういう変化の時代がくるということを辻説法して歩きました。上の人に説得するわけですから、そういう意味では辛かったですよ」
 生産量の七〇パーセントを占めるようになった特販事業、いまや操業度維持と全体のコストにおよぼすスケールメリットにも大きく貢献している。


 ポストが人を育てる

 前川さんは根っからの自由人、組織人を越えた発想を持っている。ゆとりを持っておくことが自由の要素だという。自らアウトサイダーだと言うように、優等生らしく振舞うのも自由を得るための布石というわけである。
「自由になるのに一番必要なのは力です。だが、力以上に評価されないような努力をしておかないとアブナイと思います」
 その意味で他人より早く役員に昇進したことは不自由の要素だと前川さんは苦笑いした。
「企画部という従来にない職域を持たされたことも重荷ですね。つらいですよ。責任が重くて……」と語りつつも、「いままで好きなことをやらしてもらったから、お返しをしなければならない。異例の出世をした分だけ過剰な期待がある。過剰な部分だけ儲けて返さなければならないと思います」と口もとを引き締める。
 武樋政司さんは野村證券きってのゼネラリストである。証券会社といえば、店頭に出る営業マンの派手さばかりが眼に浮かんでしまう。しかし変化の激しい昨今は、証券会社も金融業務に精通したゼネラリストがもとめられている。
「ポストによって育てられた」と、武樋さんは自らを語る。未知の仕事にチャレンジすることで、社員を活性化する。それは野村の人事政策のねらいとするところである。第一線の営業マンが、翌日に経理部に異動するようなケースも少なくないのである。
 武樋さんのノムラ・インターナショナル・ロンドンへの異動も突然だった。武樋さんは英語が得手でなく、海外業務の経験もなかった。
「現地の社員に命令するときは、それほど苦労しませんでしたよ。命令は短いほうがいい。短い英語で要点だけを言いました。それで社員を動かせましたからね。その場に直面すれば、なんとかなるものです」
 武樋さんはそっけなく言うが、誰でもがマネできるものではない。野村の社風に順応できずに途中で脱落する者も多い。武樋さんの同期七〇人のうち、すでに三分の一が退社している。東北大学出身の同期生も三人いたが、いまでは武樋さん一人になってしまったという。次つぎに突きつけられるテーマをこなさなければ、野村では生きのこれない。
 武樋さんは持ち前の体力とバイタリティでクリアしてきたのだろう。


 ビジネスと家庭の狭間で

 廣内さんと前川さんは海外出張が多く、植村さんも単身赴任の時代があった。家庭人としては失格に近いという。
「われわれの世代は、まだ家庭が大事という考えはないでしょうね。仕事がなくなると、ガクッとくるタイプで……」
 ボソッと言った廣内さんの一言が、この世代の仕事と家庭についての考えかたを象徴しているだろう。本人は仕事一筋だが、海外出張が重なると、やはり家族は心配する。いまの廣内さんにとっては、それが悩みの種らしい。
「初めて海外出張したとき、うちのヨメさんとこどもが千羽鶴を折ってましてね。あれを見たときには、ジーンときましてね」
 廣内さんは恥ずかしそうな笑みをたたえて、「最初だけでしたけどね」と言った。
 前川さんも「最近になって女房が、うちは母子家庭だと見られていたのよ…‥なんて言うんです。こどもができたころは、日本中を歩きまわっていて、三分の一も家にいなかったですからね。こどもは大学二年と高校三年、時すでに遅しで、もう相手にしてくれない」と苦笑いした。いまやコンペティター的存在だといいながらも、十九歳の息子さんのことになると眼を輝かせる。
「この間、一晩中論争しましてね。わたしが弘法大師はエラい。当時は通訳も辞書もなかったんだぞ……と、ハッパかけたんですが、息子は通訳がいたというんです。たがいに推測だけでモノを言って、バカバカしい議論してたんですよ」
 植村さんは休日も意外にマメである。神社、仏閣を散策したり、動きまわっていることが多い。学生時代に油絵をやっていたせいもあって、よく絵画を観に出かける。旅行が好きで、夏休みには決まって家族旅行に出かけるが、こどもたちが成長してしまったいまは、あまり歓迎されないという。
「オヤジは家族旅行にはイレこんでいるんですがね。こどもたちはオヤジに付き合ってやっているんだという思いなんですね。それが、どこかでチラと見えてくるんです」
 支店長になってからは、休日のほとんどは付き合いのゴルフである。ハンディ一二の腕前だと誇らしげに言う。毎日の帰宅は一〇時ごろだというが、これはあくまで通常ベースの時間、週のうち半分はもっと遅い。
「午前さまになっても、翌日は嬉々として出てゆくらしいんですね。不思議な人ですね……と女房から言われています」


 仕事は自分の実験舞台

 結婚してから一度も給与明細を見せたことがない……と言うのは武樋さん。家族のことは念頭になかったというが、ロンドンへは妻子とともに赴任した。高校二年の娘さんは、現地の日本の高校に入学して寄宿舎生活に入った。ところが、二、三年を想定していたロンドン勤務は一年で終ってしまった。
「私だけ昨年の一二月に帰国して、妻は娘の学校が春休みになるのを待って帰国しました。娘は高校三年ですが、四月にロンドンにもどして、向こうで高校を卒業させるつもりです」
 朝七時半に出社、午後一一時前後の帰宅という入社当時からのパターンを、武樋さんはいまもくずしていない。どんなに夜が遅くなっても朝は六時すぎに眼が醒めるという。最近は、さらに夜の帰宅が遅くなる日が多い。
 山本五十六に心酔しているという武樋さんは、酔えば軍歌を歌うというが、その機会が増えているようである。休日も仕事がらみのゴルフが増えて、家族を顧みない日常はつづいているが、取締役に昇進したのを真っ先に知らせたのは奥さんだったというから、案外ポーズだけなのかもしれない。
 この人たちは会社人間というより、仕事人間というべきではないか。組織にがんじがらめになっているクソ真面目という名の不真面目な会社人間とは、明らかにちがいがある。
「仕事はまさに私のホビーですね。大きな実験舞台です。それも真剣勝負の舞台です」
 前川さんは仕事人間だと言いながら、さらに「データイムの一番いい時間を会社に盗られるわけですから、それ以外に楽しみがあるという人は、かわいそうだと思うんですね。そこ(仕事の場)で人生をかけないと、結局は逃げだと思います」と、きっぱり言い切った。
 廣内さんも植村さんも、そして武樋さんも同じだろう。その通りだと思うのだが、かれらのようなトップランナーだからこそ口にできる台詞だ。幸せな人たちだというほかはない。


目次
海の魚と川の魚
雑誌「経済往来」(経済往来社)1978年 9月号 (1978.08)
机と椅子
雑誌「商工にっぽん」(日本商工振興会)通巻499号 (1989.05.15)
ロクでなし″とワカラズヤ″
NOMAプレスサービス」 No.449 (社団法人 日本経営協会) (1986.06)
Eやんの見事な年金生活
雑誌「年金時代」2004年4月1日号(社会保険研究所) (2004.04.04)
運転しながら化粧をしないで!
雑誌「Forbes」2004年11月号(ぎょうせい) (2004.11)
会社人間、「勉強会」に走る
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1987年10月号 (1987.09.10)
「出世レース」を疾走する「不惑」の男たち
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1988年5月号 (1988.04.10)
相続をめぐる「悲しき骨肉の争い」
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1988年9月号 (1988.08.10)
「遺書」が浮き彫りにする男の生き様
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1989年4月号  (1989,3.10)
23年ぶりの民間選出の理事長となった「北浜の風雲児」
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)2001年2月11日号 (2001,1.20)
西堀流部下活性法
講座「ビジネスリーダー活学塾」(プレジデント社)

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