福本 武久
ESSAY
Part 4
 福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
 新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。
ビジネスマンの風景……会社人間の未来
初出:講座「ビジネスリーダー活学塾」」(プレジデント社)


 西堀流部下活性法
 

 
(人間力向上プログラム)リーダーシップ

登山家で探検家として知られる西堀栄三郎は、創意工夫に長けた科学者でもあった。南極第一次越冬もネパール初登頂も、そして生産現場でも西堀流の組織力が成功の原動力となった。


エテさんの自覚

 Dr.Etesan E.Nisibori
 西堀栄三郎は英語の名刺に、みずからこのように刷りこませていた。
Etesan というはくEte−San〉であり、〈エテ〉 とはサルのことである。中学時代(旧制)から西堀は器用な人物として知られていた。親しい友人たちは誰彼なく、いつしか〈エテさん〉とよぶようになった。
「私が初めてアメリカへ留学しましたときに、みなさんクリスチャン・ネームをもっておられるのに、私にはないので困ったなと思って。それでニックネームをクリスチャン・ネームのかわりにしたんです」
 西堀自身はさらりと言ってのけるが、その真には自分というものをどのように演出するかという底意があった。〈ドクター・ニシポリ〉などとよばれては、いかにも固苦しくて窮屈だ。そこで、とぼけたニックネームでよばせようとかんがえた。ねらいたがわずに外国の技術者や探検家は親しくなると、〈エテさん〉と声をかけてくるようになった。
 自分というものを何とよぶかは、外にむかって自身のイメージをどのように、かたちづくるかを知るきっかけになる。そして自己をどのように認識するかは、その人間の世界観や人生観までも決定づけてしまう。
 あだ名をつけられやすいタイプの人間であると西堀は自分自身をかたっている。数あるあだ名や寸評のなかで、かれ自身がもっとも的を射ているとおもったのは〈エテさん〉と〈そこにブランコがあれば、かならずのってみるヤツ〉だった。ブランコの探究心こそが、かれの出発点であった。それが技術者への道をえらびとるきっかけになった。登山家、探険家というもうひとつの貌も、未知なるものへの探究心がもたらした。そのあくことのない探究心をささえたのが〈エテ公の器用さ〉なのだという。小手先の器用さだけでなく、創造工夫する器用さである。
「わしは上等の科学者なんかではない。安物の技術者や」
 西堀はよくそのようにくりかえしていた。その一言は「エテさん」という自分のとらまえかたと表裏一体にある。
 中学時代の後半から、西堀はすでにして技術者としての将来を夢みていた。なぜかというと、学者のやっていることは細かすぎるというのである。もっとひろく人間に役立つ世界を開拓したほうがおもしろいではないか……と、かんがえるようになった。それはいわば〈モノを造る〉創造者の探険家精神につうじている。
 技術者にして登山家であり探険家……だが西堀の頭のなかには、そういう区分というものはなかった。かれは登山家も探険家も技術屋だととらまえている。いずれも幅ひろい知識を必要とするからである。西堀流のことばでいえば〈生きた知識〉、それは自分の眼や耳、口や手足をつかって、苦しみながらでしか獲待できない。ほんとうに役立つ 〈生きた知識〉を、自分のものとして、たくわえるには経験をつみかさねるほかないとかんがえて、〈なんでも、やってやろう〉 と決心した。
 西堀は人生の岐路にたったとき、ひるむことなく技術者としての経験をおおくつめる道をえらびとった。
「苦しいから、楽しいんやないか!」
 と言いたげに、情熱をそそぐ対象を次つぎとみつけて、積極的にたちむかっていった。
 京大理学部化学科を卒業して、ひとまず学者としてスタートしたが、化学者としてこれからというときに助教授の地位をあっさりすてて、東芝に入社、真空管の開発にとりくんだ。戦後は製造工業の技術コンサルタントとして出発、わが国に品質管理(QC)というものを普及させた。ふたたび京大にもどり理学部教授におさまったが、ほどなく第一次越冬隊長として南極へ。帰国後は日本原子力研究所に転じ、その後は日本原子力船開発事業団、日本生産性本部などにうつった。
 西堀は10年を一節にして、あたらしい活躍の場をもとめた。ともかく10年たったら次の仕事にうつるのだと自分で心にきめていた。どの分野でも10年のうちに一流になる……というのが西堀流の生きかただった。ひとつの遊びにあきると、またひとつのあたらしい遊びをみつけて、のめりこむサルのように、かれはつぎつぎと仕事をかえていった。誰もが実現をあやぶむほどの、とほうもない夢をいだき、それが現実になると、かれはもうそこにはいない。けれども西堀はいずれの分野でも、まさしくパイオニアであり、その道のリーダーとして活躍したのだった。


まず、やってみる

 理屈をかんがえるまえに、とにかくやってみる……というのが西堀の人生哲学であった。かならずそこから臨機応変の創意工夫がうまれてくると信じてうたがわなかった。論理的に状況の変化を予測して、対処する方法をかんがえておくというのでは、あたらしいことは何もできない。まず 〈ヤル〉という決心をする。決心してから、危険を最小限にくいとめるために、あらゆる調査をするというのである。
 戦時中、西堀が東芝にいたころの話である。海軍からドイツ製の真空管と同質のものをつくれと命じられた。とても量産にむかない真空管だったが、海軍の命令だから無視することはできない。おりから西堀はチフスにかかり伝染病研究所に隔離されていたが、頭のなかは真空管のことでいっぱいだった。戦時だから部材もなければ人手もない。どのようにかんがえても不可能だった。けれども不可能を可能にしなければ……。かれは窓際のベッドのうえでかんがえつづけた。そのとき、ふと何気なく窓のそとをみると、隣組の婦人たちがバケツや火たたきをもって、防空演習にはしりまわっていた。
「あんなことをしてもしょうがないのに、情けないこっちゃなあ。それよりあのおばちゃんたちに真空管をつくってもらったら、いくらでも人手があるのになあ……」
 ぼんやりとかんがえるうちに、よし、どんな素人にもつくれる真空管を発明してやろう。たとえトタン屋根をはがしてでも、できるあたらしい真空管を開発してやろう……というおもいがこみあげてきた。
 退院後ただちに海軍の合議に出席して、「形やつくりかたをまかせてもらえば、量産型の真空管をかならずつくってみせます」と明言してしまった。さらに一カ月のうちに50個つくることまでも確約してしまったのである。
 会社にかえった西堀は、すぐに関係者をあつめて東芝のシステムであたらしい真空管をつくりたいとのべたが、誰もが首をひねった。
「そんなこと、できるわけがないでしょう。できれば、ドイツがとっくにやってますよ」という反対意見ばかりで、あげくに「できません……と、あやまっていらっしゃい」と嘲笑された。
「あなたがたが、協力してくれないのなら、自分で勝手にやりますから……」
 西堀は室にもどると、さっそく若い研究者たちをあつめて実験を開始した。
 人間はとことん追いこまれると、おもいがけないアイディアがうかぶ。日本独特のあたらしい量産型真空管の開発に要した時間は、わずか30分だった。それは先入観にとらわれずに、〈変だぞ〉〈おかしいぞ〉という直感から出発して、原因を徹底的につきつめ、ひとつひとつロジックをつみかさねていったからだった。
 あたらしいモノをつくるとき、とくに不可能を可能にするようなとき、つねに反対する者がほとんどである。そういうときにこそ、自分がヤルのだという信念とつよい気がまえをもつべきだと西堀は言う。
 西堀の臨機応変の創意工夫は、南極での越冬生活でも、いかんなく発揮された。かれならではの窮余の創意で危難をのがれたケースは数おおい。
 越冬生活がはじまってまもなくのころであった。通信機の真空管が次つぎに故障してつかえなくなった。まもなく日本との交信ができなくなるという事態に直面した。原因究明にのりだした西堀は、熱と重力のためにフィラメントがグリットと接触しているせいだとつきとめた。そこで真空管を 〈さかさづり〉にして使用する方法をおもいつき、とうとう1年間もたせてしまった。通信不能になっていたら、宗谷への帰還も、あんなにスムーズにはゆかなかっただろうといわれている。
 南極大陸の探査旅行中にも、おもいがけない事故がおこった。雪上車で基地を出発したが、とつぜんエンコしてうごかなくなった。原因をしらべてみると、スプロケットがはずれかけている。キャタピラのうしろのプロケットをとめてあるおおきなナットがぬけおちていたのである。かわりのナットはもちあわせがない。隊員たちはぬけおちたナットをさがしあるいたが、みつからなかった。隊員のある者はひきかえそうと主張したが、西堀はあきらめなかった。苦心のすえに、寸法もネジ山もあわないナットをハンダでながしこんだ。けれども、それだけではすぐにゆるんでしまうことが眼にみえていた。そのとき、たまたま紅茶をたてていた。紅茶と雪をまぜて、くっつけてみた。すると、たちまち紅茶は凍ってセメントがわりになり、雪上車はうごきだしたのである。
〈ヤル〉というつよい信念をもって、創意工夫すれば道はひらける。思いもよらない事態に直面しても、あわてずに心を平静にしていれば、人間の知恵というものは想像以上にでてくる。学問でも技術でもあたらしい分野にのぞむときには、まず〈ヤル〉という決心が必要になる。前例のないことをやるのだから、調査などしていたら、いつまでたってもなにもできない。〈石橋を叩けば渡れない〉と西堀は言うのである。


取り越し苦労しないで、楽観的にかんがえる

「デキルことをヤルだけなら、誰でもリーダーはつとまる。不可能を可能にするのがリーダーちゅうもんや」
 西堀はわかい登山家や技術者によくそのようにくりかえしていた。傍目からみれば無謀な冒険にみえるようなことを、かれは平気でやりとげた。
 戦後まもなく西堀はネパールに入国した最初の日本人となった。ヒマラヤ登山という夢を実現するために、かれは京大グループの代表として、ネパールへの入国のチャンスをうかがっていた。当時のネパールは鎖国政策をとっていて、入国はほとんど不可能といわれていた。西堀は1952年1月、まずインドで開催された学術会議にもぐりこむことに成功した。ニューデリーにはネパールへの入国許可をまっているジャーナリストや貿易商がたくさんいた。誰もがあきらめ顔であったが、西堀はひきさがらなかった。毎日新聞の運動部長からの紹介状をたよりに直接行動にでた。その紹介状はネパールの体育協会副会長クリシュナンにあてたものだったが、かれにしてみれば一面識もない相手だった。けれども、ひるむことなく手紙と電報でねばりづよく入国をうったえつづけた。ほとんどあきらめかけていた1月の末になって、やっと入国をみとめる電報がとどいた。2月12日、カトマンズにとんだかれは、ネパール人とおなじ服装を着用することをおもいついた。ネパールの国民服は上着こそ背広にちかいが、ズボンは細身で股引みたいなもの、それにトピイ帽といわれる折烏帽子のようなものをかぶる。西堀はクリシュナンの紹介で、国王や首相、高官に合ったが、誰も日本人とはおもわなかったという。かれの熱意と人柄、さらに相手のふところにとびこむ創意工夫が国王につうじたのだろう、国王の西堀への信頼は絶大であった。マナスル登山について、成功するまで日本に許可しようという確約までもらってしまった。4年後、日本最初の8000m峰登項が実現されたが〈註2〉、そのきっかけは西堀によってつくられたのである。
《厚意あるところ何事も成就するという信念をもって実行すると、かならず成功するものだ。何も取り越し苦労することはないのである》
 西堀は当時をふりかえって、このようにかいている。
 南極での第一次越冬も、当初は自殺行為にひとしいとかんがえられていた。学術会議と文部省が〈南極観測〉を国家事業としてはじめようとしたとき、初年度の越冬は計画にはなかった。意見をもとめられた西堀は1年目からの越冬を強硬に主張した。
「物事には、最初というものがかならずあります。その最初がなかったら、二度目もないのです。だから私はその最初をやろうとかんがえているのです」
 マイナス40度の極地で、はたして人間が1年間も耐えぬくことができるのか、周囲の懸念はたいへんなものであった。けれども西堀には自信があった。物資も十分ある。すでに朝鮮の白頭山〈註3〉でマイナス40度という寒さも経験ずみである。〈何がおこるかわからない〉という不測の事態に直面したとしても、臨機応変の創意工夫でかならずきりぬけることができるという確信をもっていた。かれにしてみれば、冒険でもなんでもなかったのである。私ならできる‥‥‥という主張どうりに、かれは第一次越冬を成功させ、日本の南極事業の基礎をつくった。
 西堀は〈取り越し苦労しない〉主義である。探険にしても技術開発にしても、未知の分野にふみこむときは、かならず不安がつきまとう。成功するだろうか……、もし、失敗したら……。やりもしないうちから取り越し苦労しないことだとかれは言う。ネパールへの単身入国も南極越冬も、大冒険にみえるが、西堀はすこしも危険をかんじていなかった。
 ありそうもない最悪の事態を想像して、取り越し苫労するから 〈冒険〉にみえるのだと言う。どのような予測できない事態がおこっても、かならず創意工夫でのりこえられる。そういう信念を裏でささえているのは、底ぬけの楽天主義である。
「どんな人でも新しいこと未知のことをするときに、いい知恵が出なかったらどないするのやというひるむ心が出ますね。そのときに何かが守ってくれるんだと。自分は今まで悪いこともしてないし、誠心誠意やってきた。だから神様もお見捨てにならないに決まっている、と。そういう気持が楽観になるんですね」
 楽観的でなければ、あたらしいことはできないというのが西堀の持論である。
 とくにリーダーは楽天家でなければならない。いちばんいけないのは取り越し苦労で遽巡すること、そうではなく楽天的なポジティブな態度でなくてはならない。もちろん未来は過去の延長ではない。ふかい闇のなかにあって、わからない世界ではある。だからといって迷っていたら、部下はよけいに右往左往する。リーダーがすこしでも不安げな顔をすれば、ますます部下の不安をつのらせてしまうからである。
 心中は多少ゆれまどっていても、〈エイ、ヤッ〉と決めたら、迷ってはならない。未知の世界にのぞむのだから、かならず困難な事態に直面する。
「だから、はじめからダメだと言ったでしょう」という部下が一人や二人でてくるが、「そうだったな」とおもってはいけない。どんな局面に遭遇しても、「これでいいんだ」という楽観的な態度でのぞむ。それが西堀リーダー哲学の根幹をなしている。


人問というものを信頼する

 西堀栄三郎は皮膚感覚でおぼえる実践主義者である。先入観にとらわれずに、なによりも 〈へンだぞ!〉〈おかしいぞ!〉という直感こそをたいせつにする。つねに現実をあるがままにみつめて、現実のすがたから教わろうとする。かれは戦後まもなく品質管理(QC)の研究にとりくんだが、のっけからアメリカ式の伝統的な品質管理を信用していなかった。そのきっかけになったのは、焼夷弾事件だった。
 太平洋戦争もおわりにちかいころであった。西堀の自宅に焼夷弾が6発もおちてきたという。けれども、それがすべて不発弾だった。当時から東芝に在籍していた西堀は、戦後になってGHQから真空管をつくれと言われた。
「アメリカではSQC(統計的品質管理)をやっている。だからアメリカ製品は品質がいいんだ」
 GHQの係官は、いかにもほこらしげに言った。
「うそつけ!」
 西堀は不発の焼夷弾の記憶をおもいおこして嘲笑した。
 品質管理をしっかりやっているというのなら、ぜんぶ不発弾というのはおかしいじゃないか……というわけなのである。
 QCを本家のアメリカからまなぶのは、戦後日本の復興にとってたいせつだが、アメリカのやりかたをそっくりまねるというのはいかがなものか。かれは持ちまえの気質から、日本独特の方法を工夫する必要があるとかんがえるようになった。その伏線になったのは、アメリカ留学の経験である。西堀は戦前の1939(昭和14)年に東芝の技術研修生として渡来、GEやRCAでまなんでいる。欧米の経営管理のありかたは、奴隷をいかにして使うかというところからはじまっているのではないかという疑問をいだいた。当時の経営者が心酔していたテーラー・システム〈註4〉の根底には、〈従業員はつねにサボタージュしようとしている〉という性悪説がながれているようにおもわれてならなかったのである。経営者の腹のなかには、つねに〈従業員は信用できない〉というかんがえかたがある。従業員同士の関係も、他人をうたがってかかる 〈巡査とどろばう〉の関係にある。〈造る人〉と〈検査する人〉とにわかれていて、たがいに信用していない。これでは〈いい製品〉ができるわけがないと西堀はおもった。
 西堀が日本の社会慣習にマッチした品質管理をかんがえる原点になったのは、著書『百の論より一つの証拠』に紹介されている丹後地震をめぐる経験である。
 西堀の生家は京都でも屈指の縮緬問屋だった。丹後の娘たちに織機をあたえ、彼女たちが織りあげた製品を買いとるというシステムであった。
 丹後で大地震がおこったときのことであった。父親は当時まだ京大生だった西堀のまえに、おおきなリュックサックをさしだした。
「今からこれを現地にかついでいって、みんなに配ってこい」
 父親は言った。
リュックの中身をたずねると織り娘さんたちを救援するための現金がはいっていると言う。
「なんで私が?番頭さんをやればいいでしょう」
 西掘が言うと、父親は「こういうときのために、おまえは山登りできたえているんじゃないか」と皮肉をこめて言った。
 西堀は宮津までトラックでゆき、そこからリュックをかついで山あいの村をたずねてまわった。織り娘たちは余震にそなえて避難小屋でくらしていたが、だれもが織機には油紙をかけてたいせつに保管していた。仕掛りの織物も枕もとにならべてあった。彼女たちが自分のしごとというものに、かぎりない愛着をもっているのをみて、西堀は感動をおぼえたという。被害のおおきかった峰山のある村落は、村ごと焼け野原になっていた。娘たちに慰問金をわたしたが、彼女たちは「機を織りたい」と、しきりにうったえつづけた。
 熱意にうたれた西堀は、実兄の経営する織物工場に彼女たちをつれていった。同工場は最新鋭の織機を導入、近代的なシステム工場だった。彼女たちをうけいれた工場側は、もとからの従業員と新参の丹後の娘たちとにグループわけして、2交替制で仕事につかせることにした。手織りの織機しかしらない丹後の娘たちは、動力機械になれるまでに相当な時間がかかるだろうと予想された。けれども彼女たちはわずか1週間たらずで習熟してしまっただけでなく、不良品もすくなく、おどろくほどの生産量をこなした。
 彼女たちはなによりも 〈機を織りたい〉という強い意欲にあふれていた。寄宿舎では自主的に講習会をひらいていた。職場でも年長者が実地指導にあたった。全工程をグループで自主的にこなしていたのである。同郷のよしみゆえに検査員も織り手もたがいにパートナーであるとみなしていた。キズを発見すると、すぐに織り手のところにとんでいって改善につとめたから、不良品もおどろくほどすくなかったのである。彼女たちはおなじ境遇同士という一体感からふとい絆でむすばれていた。だれかひとりが落ちこぼれても、それは自分たちみんなの責任であるとかんがえて、自主的に仕事をすすめていたのである。
 よみがえってきた過去の記憶が西堀の未来をひらいた。かれは〈人間不信〉のうえに成立しているテーラー・システムではダメだとおもった。モノをつくるのは作業者である。品質は作業者がつくる。だから作業者がいいモノをつくろうという気にならなければ、生産効率もあがらず、すぐれた品質の製品もできないのだということを実感としてつかみとった。
 西堀は『品質』というものをふたつにわけて規定した。『設計の品質』と『製造の品質』である。こんなモノをつくったら売れるだろう……というのが設計の品質である。それは経営者が〈ねらいの品質〉として決定すべきもので、もちろん結果責任も経営幹部が負う。製造の品質は〈ねらいの品質〉にもとづく 〈出来栄えの品質〉である。モノをつくるのは作業者であるから、出来栄えの品質については作業者が自分でチェックして責任をもつ。つまり作業者を信頼したうえで、自主的で自由な改善を促進しようというわけなのである。
 品質というものをふたつにジャンルわけにしたうえで、統計的手法を導入するというのが西堀流の品質管理であった。その背後にあるのは、モノをつくることへの愛着と人間にたいする圧倒的な信頼である。
「工場で生産性を上げ、しかも品質のいいものを安くつくるにはどうしたらいいかということを考えていくと、結局それはつくる人の問題に到達します。品質管理のためには人質管理が必要だということです」
 西堀はこのようにのべ、そのために経営幹部はひろい視野にたって、組織内の人間が自主的な能力を発揮できるような環境づくりをしなければならないと説いている。


そりや、エエなあ……の一言

 東芝を退社したあとの西堀は、ながねんにわたってさまざまな工場現場をあるき、独特の工場経営法を説いてまわった。技術顧問としておおくの企業の指導にあたった。当時はまだ技術コンサルタントという職種は確立されていなかった。西堀はその分野でもパイオニアであった。
 西堀が工場をあるくと、かならず不良率が減少して現場がよくなるといわれた。まず現場をみて、データをあつめて分析すると、たちまち原因がみえてくる。ながねん解決できなかった問題がとけると言うのである。現場の事実から出発するかれの品質管理は、それゆえに誰にでも理解できるという明快さが特徴であった。
 西堀が旭化成の延岡工場にでむいたときだった。ベンベルグを生産するその工場は、大量の不良品が発生してこまりはてていた。なぜかときどき、おおくの糸がかたくなってしまう。それが製品の品質を左右していた。グラフをかかせようとしたが、現場の担当者は糸の選別は女子作業員が手ざわりでやっているから、役立つかどうかわからないと言う。西堀は日付ごとに、かたい糸の発生高のグラフをつくらせ、変動の要因となるデータをさがした。そして降雨量がグラフのうごきと類似していることをさぐりあてた。梅雨期や台風などで集中豪雨があると、きまってかたい糸が大量に発生する。けれども、なぜ降雨量がふえれば不良が発生するのかわからない。そこで社内のデータを徹底的に分析して不良率の変化グラフとよくにているデータをさがした。すると工業用水の貯水池の水位の上下と関係があることがわかった。用水にふくまれる物質のなにかが原因なのだろう。まず雨がふって特定の物質が混入するからではないかとかんがえて、実験をくりかえしたが、うまくゆかなかった。おもい悩んでいたとき、ふとひらめくものがあった。雨がふつて水位があがるということは、用水にふくまれているある種の成分が増加するのではなくて、水ましされて過少になるのではないかと想定してみた。実験を何回もくりかえし、とうとう珪酸イオンが減少すると、かたい糸ができるという事実を発見した。そこで珪酸イオンをふやすと、やわらかいベンベルグ糸ができあがった。
 西堀流のQCによって、延岡工場は本家のドイツにまで逆輸出するほどの世界的なべンベルグ工場になったのである。
 理屈ぬきに事実をみつめ、事実から出発する。それこそが品質管理の原点であると西堀は力説している。専門家といわれるエンジニアは知識と経験にたよりすぎ、観察というものがおろそかになってしまう。かえって失敗してしまうケースがおおいと警鐘をならしている。
 西堀は現場にはいると、作業員の話によく耳をかたむけた。事実というものは、ひじょうに尊いものだ……と、かれは言う。その事実にもっともよく接しているのは作業員である。現場で実際に働いている人間のナマの意見や事実をとらえることなく、理論だけをやたらふりかざしてみたところで、何も解決できない。徹底した現場指向が西堀の涜儀であった。
 かれは工場の現場をみてあるくたびに、「宝の山じゃ!」などと、あかるい声をあげた。まだまだ改善の余地があると思っても、「ここがダメじゃないか!」と、いきなり欠点を指摘するような行動をとらない。
「よくヤッているが、いたるところに宝がねむっている。ヤレばヤルほど成果があがる、ヤリがいのある仕事がいっぱいあるなあ」
 西堀はこのような物言いで、みんなのヤル気をひきだそうとした。
 初めから欠点をあげては、意欲がそこなわれてしまう。それでは、どのようにすぐれたアイディアでも実行にうつすまえにつぶれてしまう。まず長所や得意技をほめて創造の意欲を刺激しようとしていたのである。
 そういう西堀と周囲との関係は、そっくりリーダーとしての経営幹部と社員との関係におきかえられる。リーダーとしての資質は、あたらしいアイディアなら、よいところをみつけて、それを伸ばすことだと言う。
「そりゃ、エエなあ」
「がんばれ!」
 こういう一声がリーダーには、なによりも必要なのだと言うのである。
 会社というものは人間の質によって左右される。会社を生かすものも殺すのも、人間であるといってもいい。信頼に足る社員をそだてあげる秘訣は、「そりゃ、エエなあ!」と声をかける姿勢である。社員が提案やアイディアをもってきたときに、聞きはじめてまもなく、内容がよくわかっていなくても 〈そりゃ、エエなあ〉と一声をかける。すると社員の緊張がほぐれて、自分の提案を積極的にのべはじめる。そこで、もう一声で〈がんばれ!〉と言われると、自分の提案を現実のものにする手段をかんがえるようになる。他人の意見や知恵をかりてでも、自分の仕事をやりとげようと努力するようになる。経営幹部のほうも、〈がんばれ!〉と声をかけたのだから、なんとか成功するように背後でみまもるようになる。そういう部下の自主性をそだてることがリーダーの責務だと西堀は言うのである。けっして小姑根性をだしたり、先輩づらして、社員の意欲の芽をつむようなことがあってはならない。なかには 〈いいアイディアや提案なんて、当社では出てきませんよ〉などという経営幹部がいるが、そういう幹部にかぎって、提案やヒントの火種をかたっばしから消してあるいているケースがおおいという。
 工場現場をあるきつづけた西堀は、ときには模範例をしめしながら、しっかりと地に足をつけた〈ちいさな創意工夫〉の火をともしてまわった。かれの 〈ロマンを追う心〉に誰もが勇気づけられ激励されて、〈ヤル気〉をおこした。西堀はまるで花咲か爺さんのような役割をはたしていたのだった。


千両役者だけでは芝居はうてない

「宗谷」が離岸する前夜であった。いよいよ隊長をふくめて11人による南極越冬の生活がはじまる。隊長の西堀は隊員たちをあつめてつぎのように言った。
「隊長として私は、あくまでいっしょに行動しますが、多数決を採用しません。どなたもおおいに意見はのべてもらいたい。しかし最後は私が決断します。たとえば全員がちがった意見をもっておっても、私が右に行くと言えば、右に行くことになるかもしれません」
 西堀は独裁的なやりかたをのぞんでいたわけではなかったが、危機に直面したときには〈西堀流〉でやるしかないとかんがえていた。わが道をゆくという執念は、リーダーとしての要素ではあるが、西堀は隊長として神格化されることもきらった。そこで、つぎのようにも言った。
「神さまはひとりとして完全な人間をおつくりにはならなかった。みんな顔をかえてある。同じ人間はひとりもいない。そして、どの人間も欠陥だらけにつくられている。私も欠陥だらけ、みんなも欠陥をもっているだろう。けれどもそれぞれ、ちがった特色をもっている0だったら、その特色もって、たがいにおぎないあってゆくしかない……」
 このふたつのことばのなかに、西堀のリーダー哲学がある。
 リーダーというものは計画をたて、方針をきめる。仕事の目的を全員に理解納得させたうえで、各自が分担をきめる。なによりも、それぞれが強い意欲をもって実行するように指導するのが任務というものである。しかし各自が具体的に実行する方法や手段については、それぞれの自主性にまかせる。
「あなたに、おまかせしますから、あなたのかんがえでやってください。もし、わからないところがあったら、仲間に聞けばいい、おたがいに助けあったらいい。だけど責任をもって自分でやるのです」
 と、かれは言うのである。
 そこにあるのは、たがいの個性を尊重して、足らざるを補うというく異質の協力〉と、人間が人間をつかうというかたちでなく、みんなで集団の共同の目的をはたそう……という 〈自主主義〉である。とくに極地でのきびしい越冬生活、〈ヤラされている〉とおもったら、とてもできるものではない。
 会社でも〈働かされている〉とおもったら、精神はどんどん荒廃してゆく。仕事をやらされている……と、かんがえないで、自主的にやっているんだ……という気持を部下がもてるようなかたちにする。そうすれば各人は責任をもたされるから、ヤル気というものがでてくる。各人の能力は十分に発揮され、創造性のゆたかな仕事ができるようになる。どのような困難をものりこえて成功させようという意欲もわいてくる。共同の目的にむかって、それぞれが自分の持場で自主的に〈ヤッてるんだ〉という気持で、あたえられた仕事にとりくみ一致協力する。ほんとうのチームワークは、そこからうまれると西堀は言っている。
 ちがった個性の持主があつまって自主的に協力しあう。つまり〈異質の協力〉が成立したときに、はじめてチームという組織の威力が発揮されると言うのが西堀の持論である。
 かれは南極越冬のときも、世界最高峰チョモランマ登頂〈註5〉のときも、意識的に異質の個性をもった人たちの集団を組織した。第一次南極越冬隊員にえらばれた11人、いずれもたがいに面識のない者たちばかりだった。
《11人はみな、故国ではそれぞれ違った生活環境に生きてきた人たちばかりだった。この荒涼とした南極のようなところへ好んで来る人は、みな個性が強い。年齢的にも私を筆頭に歳をとった人が比較的多い。11人はいわば日本の社会をバラのままランダム・サンプリングして選んだようなものだった》
 西堀は著書『南極越冬記』のなかで、このようにかいている。かれはクセモノぞろいの隊員構成だからこそ、成功するとおもった。おなじ性格の人間が一致団結しても、その力は〈和〉のかたちにしかならない。異質な性格の人間なら、その力は〈積〉のかたちでおおきくなるだろうと信じてうたがわなかったのである。
 総隊長としてチョモランマ登頂をめざしたときも、隊員は西堀流のチーム組織の原理によってえらばれている。
 隊員をえらぶにあたって、まず全国の日本山岳会の支部に推薦を依頼したが、一流のクライマーばかりがうかびあがってきた。
「これなら少数精鋭でやれますよ」
 隊長や副隊長たちはよろこんだが、西堀は気にいらなかった。
「みんな断ってしまえ」
 西堀はそっけなく言った。けげんそうな顔をする隊長たちに、さらに言葉をついで「みてみい、誰もかれも超一流の千両役者やないか」と言いつのった。
 少数精鋭の隊員構成というのは、いわば芝居とおなじである。主役の千両役者ばかりでは芝居はうてない。脇役も女形も黒子も囃子方も必要である。それぞれ役どころはちがっても、自分のパートで最大の力を発揮するとき、はじめて舞台というものがなりたつ。登山もおなじことだ。そういう集団をつくろうと西堀はかんがえた。かれは日本一の黒子といわれる役割をはたす人物をえらんで、あたらしく隊員にくわえた。異質の協力が実現できる隊員構成こそが、かれにとって最強の集団だったのである。選ばれた30人の隊員たちは、みごとなチームワークを発揮した。北東稜ルートだけでなく未踏の北壁ルートからもチョモランマの項上に立ったのである。
 そういう集団のありかたは、おのずと一人の英雄の出現というものを拒絶する。初登項はひとりでいいのだと西堀は言う。隊長も山に登る隊員も報道陣も、それぞれ役割をもって仕事をしているから、誰かが項上に立てば目的は達せられたことになる。チョモランマの勝利は、誰か一人が項上に立てば、全員が登ったことになるという精神からうみだされたチームワークであった。
「それからもうひとつ大事なことは、仕事に〈尊い〉〈卑しい〉というものはありません。だから、いやしくもその人間がオレの犠牲においてとかね、あるいはオレが縁の下の力持ちをやっているからとかね。そういう気持を持ってもらったらこまる。どんな仕事であってもみんな尊いのです。この気持をみんなに持ってもらおうと考えていたのであります」
 西堀はチーム組織のありかたについて、このようにのべている。
 集団の目的をはたすために、構成員それぞれの役割がある。企業ならさしずめ〈会社の繁栄〉ということになるだろう。そのためには社長には社長の役割があり、営業マンには営業マンの役割がある。それぞれ役割がちがっていても、貴賤の差というものはない。集団のなかでの人間関係は〈幅〉でとらえる‥‥‥というのが西堀流の組織哲学である。たとえば先輩社員は新入社員より幅ひろく眼をそそぐ必要がある。社長は経営者として視野の幅を全社にひろげていなければならない。上下関係ではなく、役割を前提にした仕事の〈幅〉をもって人間関係をかんがえるとき、チーム組織は活性化するというのである。


未知に挑戦する探険家精神

 西堀栄三郎、つねに〈常識〉というものに挑戦しつづけた男である。かれは調子にのれば二兎でも三兎でもおいかけた。
 中国政府からチョモランマ登山の許可がおりて、ルートの検討をはじめたときであった。オーソドックスなルートは北東稜である。かつてイギリス隊が7度も挑戦して、いずれも失敗していたが、中国隊が2度も成功していた。関係者はのっけから北東稜ルートしか頭になかった。
「それは二番煎じというものや。探険家というもんはつねに一番煎じを、ねらわなアカン」
 西堀はみかねて言った。
「それなら、どうすればいいんでしょう?」
「北壁をまっすぐパーツと登ったらええ」
 西堀が言うと、誰もが首をかしげて、「あんな垂直なルートは、とても登れませんよ」と口ぐちに言った。
「見てください。ベタッとまっすぐじゃありませんか」
 ある者が写真をさししめした。
「それは、北壁の真正面から撮った写真やから、あたりまえのこっちゃ」
 西堀はすでに北壁の側面から撮った写真をみていた。傾斜角度は平均45度ぐらいだから、かならず登れると確信していた。かれの説得でようやく賛同者があらわれたが、こんどは北東稜と北壁、どちらにするかで意見がわかれて、結論がでなかった。
「それやったら、両方やったらええ。隊をわけて、一隊は北東稜、もう一隊は北壁……」
 西堀がたまりかねて言うと、一同はどよめいた。さまざまな意見がとびかううちに、
「昔から、二兎を追う者は一兎をも得ず……というじゃありませんか」と、古諺までがとびだした。
「それは弓矢か火縄銃の時代の話や。今は機関銃でブルルルとやったら、二兎でもいっぺんや」
 西堀の一言に関係者一同は、あっけにとられながらもひとまず納得、少数精鋭の二隊で両ルートをめざすことになったのだった。
 隊をふたつにわけると、ふつうなら力が二分されてしまうとかんがえる。
 西堀はそうはおもわなかった。かえって競争意欲がうまれ、力が倍加すると信じていたのである。
「今までは白黒、右左の二者択一的なことを考えていましたが、これからのリーダーは両立させる術を考えてみるべきですね。両立させる努力をしていることが大事だと思います」
 西堀はこのようにのべている。決断するときにこそ、リーダーは勇気や見識を問われるのだと言いたげである。
 西堀はつねに未知の分野をあるきつづけた。未踏の大地をあたらしい技術の開拓と創意工夫でひらいていった。経験をかさねることによって、未知がどんどん既知にかわってくる。そのことにかぎりない喜びをみいだしていた。未知の分野を探ること=探険であると西堀は言う。登山、技術開発、品質管理、極地観測、原子力などなど……。かれの活躍の舞台はいかにも広範囲におよんでいた。表面にあらわれた幹だけをみていると、なんの脈絡もないようにみえるが、いずれも探険家というひとつの根からのびていたのである。
 現代はまさに世界的な規模で政治・経済の構造そのものが、おおきく変貌をとげようとする時代である。変革期のリーダーにもとめられるのは、未知をマネージメントする西堀流の探険家精神ではないだろうか。


目次
海の魚と川の魚
雑誌「経済往来」(経済往来社)1978年 9月号 (1978.08)
机と椅子
雑誌「商工にっぽん」(日本商工振興会)通巻499号 (1989.05.15)
ロクでなし″とワカラズヤ″
NOMAプレスサービス」 No.449 (社団法人 日本経営協会) (1986.06)
Eやんの見事な年金生活
雑誌「年金時代」2004年4月1日号(社会保険研究所) (2004.04.04)
運転しながら化粧をしないで!
雑誌「Forbes」2004年11月号(ぎょうせい) (2004.11)
会社人間、「勉強会」に走る
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1987年10月号 (1987.09.10)
「出世レース」を疾走する「不惑」の男たち
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1988年5月号 (1988.04.10)
相続をめぐる「悲しき骨肉の争い」
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1988年9月号 (1988.08.10)
「遺書」が浮き彫りにする男の生き様
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1989年4月号  (1989,3.10)
23年ぶりの民間選出の理事長となった「北浜の風雲児」
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)2001年2月11日号 (2001,1.20)
西堀流部下活性法
講座「ビジネスリーダー活学塾」(プレジデント社)

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