私は太宰治と二度、奇妙な出会い方をしている。
最初は今からちょうど十年前である。
そのころ私は文学とは無縁の人間だった。当時、私は社会に出て三年目、ようやく仕事にも馴れ始めた頃であった。第一線の営業マンとして多忙な毎日であった。おりしも日本経済は高度成長の最盛期、むしろ興味は政治、経済にあった。そんな私に降って湧いたような休暇が転がりこんだ。仕事が過ぎたのか、麻雀をやりすぎたのか、あるいは酒を飲み過ぎたのか、釈然としないが、躰をこわしてしまった。そのことに対して不思議とショックを感じなかったけれども、現実に休暇が始まってみると、どこか不安定で落ち着かなかった。休暇そのものが突然思いもよらぬ方向からやってきたからであろうか。時間的飢餓状態のなかに居たにもかかわらず、とてつもない自由な時間を、いざ与えられてみると途方に暮れてしまった。
小説でも読まないとどうしようもない……と思った。けれども一体何を読めばいいのか見当さえつかない。当時、出張の車中で流行の推理小説を読むぐらいが関の山であった。「太宰を読めよ!」学生時代の友人の一言がよみがえり私を捉まえたのはその時であった。彼は太宰治の熱烈なファンであった。全集を買うという無理やり伴わされて古本屋へ行き、ぶつくさ言いながら、彼の下宿に運び込んだこともあった。彼は折りにふれて「太宰を読め」と繰り返したけれども何故か私は頑なに受け入れなかった。
さっそく彼が求めたのと同じ全集を購入し、第一巻から順に読み進めた。面白くない。面白くないと思いながら、それでも最後まで一編も残さずに読み終えた記憶だけが残っている。
それからほどなく私は小説らしきものを書くようになった。しかし太宰に誘発された訳ではない。
物を書き始めて九年後の現在、どういうわけか太宰治をタイトルに戴く賞を受けることになった。これが二度目の出会いである。奇遇であるとしか言いようがない。そして私に太宰をよませたあの友とは、まったくもって奇縁である。当時小説も書いていた彼は今、文学とはまったく無縁である。十三年余の間に彼と私はどこかですれ違い、入れ替わってしまった。
多数の読者にいまなお偶像視される太宰、その魅力はどこにあるのだろう。そのこと一点のみに興味を覚え、先頃二、三の作品を読み返してみた。
「十国峠から見た富士だけは、高かつた。あれは、よかつた。はじめ、雲のために、いただきが見えず、私は、その裾の勾配から判断して、たぶん、あそこあたりが、いただきであらうと、雲の一点にしるしをつけて、そのうちに、雲が切れて、見ると、ちがつた」
富獄百景岳≠フ一節である。声に出して句読点まで正確に読んでみると、実にリズミカルで調子がいい。この弾むような文体が読み手を酔わせるのではなかろうか。どこかささやくようで親しげに語りかけてくる。津軽じょんがら三味線の旋律ではなかろうかと思う。そのテンポにうっかり引き込まれて読んでいると突如「諸君が、もし戀人と逢って、逢ったとたんに、戀人がげらげら笑い出したら慶祝である。必ず、戀人の非禮をとがめてはならぬ。戀人は、君に逢って、君の完全のたのしさを、全身に浴びるのだ」というようなアフォーリズムにギョッとさせられる。何とも不思議な魅力を感じてしまった。
あの時、面白くない℃vったにもかかわらず結局、最後まで私をひきづっていった秘密は、こんなところにあったのかも知れない。
太宰治が芥川賞に執心だったことは有名である。最近、彼が当時選考委員であった川端康成に「(芥川賞を)私に与えてください」と懇願した手紙が発見され話題になっている。世の受け取り方はさまざまであろう。けれども不思議と嫌味がない。終始一貫、ストレートに芥川賞がほしい≠ニいう一文に接してみると、一種の爽快感を感じてしまうのはどういうことなのだろう。とにかく鼻につくこともなく読まされてしまう。それはひとえに彼の天真爛漫さと、彼の人柄たぐい稀な資質によるものであろう。私は仄かな戦慄を覚えた。
くしくも桜桃忌に太宰治賞を受ける私は、もう彼の作品を一編たりとも読んではならないと思う。
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