このほど久しく住み慣れた京都を離れ埼玉県の所沢に移った。勤め人でもある私は人事異動で東京本社勤務になったからである。長期になるか短期で終わるか、いまのところ見当がつかないが、当分はこの地で暮らすことになる。
西武ライオンズの本拠地として一躍クローズアップされた所沢は新興の地ではある。しかしまだ都市としての風格はない。都市に値するか否かのチェックポイントを私は次の三点に置いている。それはタクシーの台数、電車の停車本数、郵便物の集配回数である。そこから判断すると、都内への通勤圏にあるとはいうものの、まだまだ片田舎である。
けれども雑木林を背にするわが仮寓のあたりは、かだかつての武蔵野の面影が残っていて、別な楽しみがないわけではない。野鳥のさえずりで眼醒める朝は実に爽快である。
越してくる十日ほど前、先日急逝された真下五一さんから、日本ペンクラブ入会のお誘いがあった。突然の電話で「用紙は私のところにあるから、いつでも取りにおいでください」と一言一言噛んで含めるように話されていた。さもあろう。氏と私は親子以上に年齢の隔たりがある。
真下五一さんについて私はほとんど知らない。作品すら読んだことがない。後で知るところによると、私のような若い物書きの世話をよくされていたという。
すぐに訪ねるつもりであったが、折り悪く新たな住居を定めるため、東京方面に出かけ果たせなかった。
訪問すべく思い立ったのは、次の日曜日であった。何気なく寝床で朝刊をひろげた私の前にいきなり氏の逝去を偲ぶ記事が現れた。あっと思った。
私が京都を離れるべくあくせくしているうちに、京都を愛し、京都を描き続けた一人の老作家が永久の旅についた。そのことにどこか奇妙なこだわりを感ずる。きっとそれは三十数年京都に住んだ私の、京都を後にするにあたっての感傷なのであろう。
所沢に移ってからちょうど一週間になる。ようやく新たな日常生活のリズムが生まれてきた。いささかの余裕の中から、周囲を見渡して、ある一つの事実を発見した。
この地を含めて東京近郊の住居はこぞって軒先を接しているようでも、一戸、一戸が独立している。関西で見かける長屋建て、文化住宅方式は少なく、圧倒的に一戸建てが多い。狭くとも庭のある一戸建ての住宅である。関西と関東では住宅洋式がまるで違っているということである。
この住宅洋式のちがいこそが、関西とは異なる人間関係を築き上げているのではないかと思える。
京都市内の古い町並みの中、良くも悪しくもウエットな近隣関係に長年どっぷりつかってきた私たちは、ドライだといわれる関東人との付き合いにとまどいを感じることになろう。
越してきた翌日、親子三人、商店街に買い物に出かけた。物見しながら、うろつく私たちを行き交う人々は時々振り返った。関西弁まるだしの親子の姿が異様に眼に映ったのだろう。だが構うことはない。私たちは関西弁でしか物を考えられなくなってしまっているのだから。
京都を離れ、この地に移住する直接の契機は転勤という公的事件である。それに京都を舞台にした小説を書きたいという私的衝動も一つの決め手になった。
私のルーツをたどると西陣の一織工にぶちあたる。明治初期の西陣を中心に彼の生きた京都を描き、その現代性を問う作業に年初より取り組んでいる。
真下五一さんの描いた京都≠私は知らない。けれども京都を描いたこれまでの作品を超えるには、ひとたび京都を離れ、外から京都をながめる視点が必要だろう。それにはまたとない機会であるが、いささか怪我の功名めいている。
慌ただしく引っ越したので取材を完全に終えることはできなかった。幸か不幸か、ここしばらく、京都、所沢を往復する機会にめぐまれそうだ。
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