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福本 武久
ESSAY
Part 1 |
福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。 |
わが小説の舞台裏……さまざまな出会い |
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初出:広報紙「ところざわ」(所沢市)1986年5月号 1986.05/05 |
神明社の葭子歌碑
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転居先を所沢に決めたその日、宮本町の神明社境内に三ヶ島葭子の歌碑を見つけた。
しみじみと
障子うすぐらきまどのそと
音たてて雨の
ふりいでにけり
晩年の一首が刻まれている葭子の歌碑は、静かな境内で春の陽を暖かく撥ねていた。
歌ごころのないぼくは、その歌が病苦と孤独の崖に立ちながら詠まれたことを知るはずもなかった。
所沢の生んだ歌人三ケ島葭子は、新詩社を経て後にはアララギで活躍した。
葭子の生涯には〈近代〉の影が明滅していると思う。日本の近代=貧困と日常的に向き合っていたのは女性である。アララギ時代の葭子は、女の細ごまとした日常を素朴な表現で切り取つている。そこから大正という時代を生きた一人の女性像が、くっきりと浮かび上ってくる。
「私の生命は歌である」と葭子自身がいうように、彼女は歌作を生きてゆく支えとしていた。
いくたびか病に倒れても、口も手も利かなくなっても、手帳を離さなかった。歌と小説の違いはあるが、葭子の表現者としての壮絶な生きかたには胸を打たれるものがある。
自分では意識しなかったが葭子を小説に書いたのは、彼女のすさまじい生涯に触れて、表現者としての自分を問い直してみたかったからだろう。その機縁は歌碑との出会いである。
神明社境内の片隅に、ひっそり息づいていた歌碑を見つけて七年後、小説(『地の歌人』」六月刊)を書いて真に葭子と出合うことができた。その歳月のなかに、所沢の風土に馴染んだぼくの足どりがあるようにも思う。
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