福本 武久
ESSAY
Part 1
 福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
 新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。
わが小説の舞台裏……さまざまな出会い
初出:雑誌「てんとう虫」(株式会社アダック刊)  2010.01.01

駅伝の歴史と駅伝競走の黎明


律令制のもとでの駅伝

 新春の風物詩となった箱根駅伝、テレビの平均視聴率はつねに二五%をこえる。
 一月二日……。朝陽がのぼるころ、東京メトロ大手町でおりて地上に出ると、街はすでに折り重なる人の波で泡立っている。まるで初詣にきたのかとみまがうほどだ。
 読売新聞社前にむかって、日比谷通りのあちこちには出場各校の応援団が陣取り、やがてビルの谷間に大太鼓の音がとどろきわたる。ブラスバンドの校歌演奏、そしてチアリーダーたちのパフォーマンスが始まる。……
 そこにあるのは駅伝競技というものをハブにして、筋書きのないドラマに関わろうとして集った人たちの巨大な祝祭空間である。
 そもそも「駅伝」とは前中国において古くから発達したもので、アジアだけでなく古代オリエントや古代ローマにもあった。首都から地方にのびる道路網を全国にはりめぐらせ、一定の距離ごとに中継所となる「駅」をつくった。宿泊施設もととのえた駅家には人・馬を常備し、この「駅」をつなぐかたちで築きあげられた交通、情報通信システムが「駅伝制」といわれるものである。
 日本の「駅伝制」は七世紀から八世紀にかけて、唐の律令制に倣ってつくられ、朝廷による「駅制」と国・郡のもとにあった「伝馬制」とで構成されていた。朝廷のある畿内から全国の国府をつなぐ東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七道を駅路とし、原則として三〇里 (約一六キロ) ごとに駅をおき、四〜二〇匹の駅馬を配した。「駅」では朝廷にのぼる役人や公文書を運ぶ使者が到着すると、宿舎や乗り継ぎの馬を用意し、次の駅まで案内人をつけた。たとえば日本の西の玄関であった太宰府から奈良、京都へは馬を乗りついで四〜五日で走りきるシステムができあがっていたのである。「伝馬制」とは国府と郡家との連絡システムであった。国司の赴任などは、この「伝馬制」が使われ、そのために各郡家には五匹ずつの伝馬が常備されていた。駅伝競走の「駅伝」は、この「駅伝制」に由来している。


日本最初の駅伝「東海道駅伝徒歩競争」

 京都・三条大橋東詰に「駅伝の碑」なるものがある。「駅伝の歴史ここにはじまる」とあり、同じものが上野公園の不忍池東岸にもある。
 日本最初の駅伝競技は大正六(一九一七)年四月二七日〜二九日にかけておこなわれた「東海道駅伝徒歩競争」である。維新から五〇年目にあたるその年、「奠都五〇周年」を記念して、東京・上野で大博覧会が開かれることになった。このとき読売新聞社は博覧会を盛りあげようとして、京都から東京まで継走によるマラソンを企画したのである。
 五〇年前、明治天皇の鳳輦は雅楽の前奏にみちびかれて三条大橋を出立、東海道をしずしずと進み、二一日後に江戸城・和田倉門に達したが、日本最初の駅伝は、ほぼ同じコースを三日間で走破するというのであった。上野で開かれる大博覧会と呼応したものだったから、ゴールは東京・上野不忍池のかたわらにある博覧会場となった。それゆえに「駅伝の碑」は三条大橋と不忍池東岸にある。
「東海道駅伝徒歩競争」を企画・実行したのは歌人として高名な土岐善麿(当時・讀賣新聞社会部長)だった。土岐は東京皇學館館長の武田千代三郎に相談、初めて競技名に「駅伝」をつかうことにきめたのである。
 コースの総距離数五〇八キロを二三区間にわけ、関東組と関西組による東西対抗でおこなわれている。中継の証しに色のついた布片をつかい、それを肩からつるすことにした。これが「襷」のはじまりで当時は「色分襷」とよばれた。ちなみに関東組は「紫」、関西組は「赤」であった。
 日本最初の駅伝はおおきな反響を呼んだ。八ツ山からトップで東京に入った関東組のアンカー・金栗四三(東京高等師範在学)は大歓声で迎えられた。日本橋では三越や白木屋の窓から身を乗り出した人たちが帽子やハンカチを振って声援をおくった。上野の静養軒から池之端界隈は見物客でごった返していた。広小路を駈けてきた金栗は、そんな大観衆を縫うようにして走り、不忍池を一周して博覧会場内のゴールにとびこんだ。走破記録は四一時間四四分であった。
「東海道駅伝徒歩競争」は大成功、それが三年後の箱根駅伝誕生につながってゆく。


箱根駅伝の誕生

「日本人がアメリカ大陸横断の新記録をつくったら、世界の陸上界が驚くだろうな」
 明治生まれの男たちは気宇壮大である。
 金栗四三(当時東京女子師範教諭)と明治大学の学生だった沢田英一、さらに東京高等師範の教授だった野口源三郎、かれらは大正八(一九一九)年一〇月の初め、招かれて埼玉県の競技会で審判員をつとめ、その帰途の車中で意気投合したのである。
 アメリカ大陸横断駅伝、この壮大な夢に向かって金栗は突っ走った。当時かれは自身のオリンピック惨敗経験から、世界に通用する日本選手の強化・育成に心血を注いでいた。経費の五万円は新聞社に支援をもとめることにして、報知新聞社の寺田瑛(企画課長)をやすやすと説得してしまう。さらに東京の一三大学と専門学校による駅伝大会をひらき、それを選考会にしようともくろんだ。
 一〇月末には各大学の代表から賛同をとりつけ、学生マラソン連盟を結成する。東京ー箱根間往復のコースを一校一〇人で二日かけて走破するという「箱根駅伝」のかたちもこのときにできあがっている。時期を新年(初回のみは二月)としたのは「長距離のトレーニングは酷暑か厳寒が良い」という金栗の持論にもとづいていた。
 コースについては「水戸ー東京」「宇都宮ー東京」などの候補もあった。最終的に「東京ー箱根」コースに決まったのは、東海道が主要幹線道路であること、さらに山登りのあるコースのほうがトレーニング効果があがるという理由からだった。
 ところが皮肉にも金森プランはあまりにも早く実現しすぎた。長距離走者を一〇人そろえられる学校が少なく、記念すべき第一回大会の参加は早稲田大(襷=えび茶)、慶応大(青)、明治大(紫紺)、東京高等師範(黄)のわずか四校になってしまったのである。
 大正九(一九二〇)年二月一四日、午後一時……。スタートラインに立った第一区の走者は金栗審判長の発声で、有楽町の報知新聞社前を飛び出していった。いずれも丸首シャツに半パン、底を厚くしたコハゼつきの足袋を履くというスタイルであった。
 アメリカ大陸横断駅伝は実現しなかったが、この予選会は独り歩きして箱根駅伝として定着したのである。
 日ごろあまり陸上競技に関心がない人にも「箱根駅伝」は深い感動をあたえる。それはマラソンの父・金栗四三の熱い想い、さらには九〇年になろうとする年輪が、脈々と伝え、育んできた祝祭性によるものだろう。 日ごろあまり陸上競技に関心がない人にも「箱根駅伝」は深い感動をあたえる。それはマラソンの父・金栗四三の熱い想い、さらには九〇年になろうとする年輪が、脈々と伝え、育んできた祝祭性によるものだろう。


目次
思いがけない出会い
京都新聞 (1978.06.18)
センチメンタルなつぶやき
京都新聞 (1978.04.24)
ことばの知らぬ子を持って 模索する父親の位置
朝日新聞 (1979.03.10)
親と子に架ける虹
雑誌「こどもの季節」(ブラザーショルダン社)1979年5月号 (1979.05)
ともに生きるということ 国際障害者年″にあたって
雑誌「地域福祉」(日本生命済生会)1956年1月号 (1981.01)
ボランティアの喜びとは?
雑誌「刑政」(財・矯正協会)2001年11月号 (2001.11)
わが小説のバックステージ
雑誌「新刊ニュース」(東京出版販売)1986年8月号 (1986.08)
神明社の葭子歌碑
広報誌「ところざわ」(所沢市)1986年5月5日号 (1986.05)
集中力に感嘆 煙る海に哀愁
京都新聞 (1988.09.07)
あれから二〇年
月報「太宰治全集」(筑摩書房) (1998.11)
駅伝の歴史と駅伝競走の黎明
雑誌「てんとう虫」(株式会社アダック刊) (2010.01.01)

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