福本 武久
ESSAY
Part 3
 福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
 新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。
新島襄とその時代……会津から京都へ
初出: 「新島研究」第82号 別刷 1993,5

 山本覚馬と八重


近代京都の先覚者は会津うまれ

 私は現在、埼玉県の所沢市にすんでいますが、京都にうまれそだち、三十数年間というもの、京都をはなれたことのなかった人間です。会津とは縁もゆかりもない人間が会津までや′つてきて、会津人の山本覚馬と八重のお話をしようとしている。この会津人の兄妹について、いくつかの著作がありますが、あらためてかんがえますと、いかにも、おこがましい。しかも今年は山本覚馬にとって永眠一〇〇周年、八重にとって永眠六〇周年にあたります。記念すべきときに講演の機会をあたえられたことは幸福におもいますが、ひじょうに借越である、そんな気がしてなりません。
 しかし覚馬にとっても八重にとっても、京都は第二の故郷なのです。京都に骨をうめた会津人である。私たち京都人にとって大恩人である。近代京都の基礎をつくったのは山本覚馬であるといってもいい。私の母校である同志社をつくった三人のうちの一人でもある。このようにかんがえてゆきますと、私のとらえた覚馬と八重をかたっても、おゆるしいただけるのではないか。このように、おもいひらきまして、本題にはいらせていただきます。
 山本覚馬にはいくつもの顔があります。剣術・槍の達人、西洋式砲術家、洋学者、教育者、産業振興のプランナー、議会政治の指導者、実業家……。かたることはいくらでもありますが、本日はとくにつぎの四点にふれて、お話ししたいとおもいます。覚馬は、幕末から明治という時代の変革期に〈ひろく世界に限をむけて、日本の将来をえがききっていた〉というのが一つ、二つめは〈天性の教育者であった〉、三つめは〈ゆたかな経済的センスの持主であった〉。そして〈すご腕のネゴシュイターであった〉というのが四つめです。そういう兄の影響をうけて、近代女性の先駆者となったのが八重だっただろう。そこに話をしぼってまいります。
 山本覚馬は文政二年(一八二八)一月に会津若松城下の米代四ノ丁にうまれております。鶴ヶ城の西出丸のちかく、現在はかつての屋敷のあたったところに〈生誕の地碑〉が、たてられています。覚馬は藩士山本権八の嫡男でありました。砲術師範をつとめた山本家は、一五〇石という禄高からみて中級藩士の家柄でした。山本家が砲術師範をつとめるようになったのは、祖父の左兵衛の代からだといわれております。左兵衛のひとり娘に「さく」がおりました。覚馬と八重にとっての母親にあたりますが、さくが一七歳のとき
婿養子に藩士永岡繁之助をむかえた。繁之助はのちに権八を名のります。権八とさくとの間に六人のこどもがうまれていますが、健康にそだったのは長男の覚馬と五人目の八重、六人目の三郎だけでした。そのため覚馬と八重とでは一七歳のへだたりがありました。
 母親である「さく」は、非常に聡明な人だったといわれている。会津藩の著名な藩士の記録をみると、優秀な子弟はいずれも、かしこい母親からうまれている。さくもそういう気丈で聡明な母親だったようです。覚馬は後年になっても、「自分はとても母の聡明さにはおよばない」と、いっておりました。この「さく」も戊辰戦争では、鶴ヶ城にこもってたたかった女性のひとりですが、のちには覚馬をたよって京都にやってきます。同志社女子学校が開設されたとき、五年間も寮の舎監をつとめたほど教育につくした人物でした。


江戸遊学で西洋式砲術と蘭学をまなぶ

 少年期から青年期にかけての覚馬は、いかにも尚武の気風をとおとぶ会津にそだった豪毅な会津武士というイメージです。会津藩の教育制度にのっとって、九歳から藩校の日新館でまなんでおりますが、最初は学問より、もっぱら武道に興味をよせておりました。剣、槍、馬術……ともかく武芸にすぐれた才能を発揮しています。どちらかというと学問のほうは軽視していた。けれども武術をきわめるには、兵法書をよまなければならない。そういうところから、ようやく学問にもとりくむようになってゆきます。つまり書物による勉強は、あくまで武芸をきわめるための手段とかんがえていた。のちに蘭学をまなぶようになるのも、砲術や西洋の軍制をまなぶためでした。
 そのころの覚馬の眼にみえていたのは、いったい何だったのか。東北の雄藩であり、徳川の親藩である会津一国だった。〈徳川を第一にせよ〉という藩祖保科正之の遺訓をほうじる会津藩だけしか眼中になかったでしょう。
 そんな覚馬が二五歳になったとき、おおきな転機がやってきます。おもいがけなく江戸遊学というチャンスがめぐってくるのです。嘉永六年(一八五三)八月,覚馬は軍事奉行の林権助の随行員にえらばれ、江戸藩邸勤番を命じられます。嘉永六年というのは、日本にとってまさに衝撃の一年でした。ペリーの黒船、プーチャーチンのロシア艦隊がやってきて、開国をせまった年です。ペリーが黒船四隻をひきいて浦賀にやってきたのは六月三日ですが、覚馬はそれから約二カ月後に江戸にはいっています。
 江戸遊学の目的は兵器の研究と西洋式砲術の伝習でした。当時、江戸で西洋式砲術の看板を掲げていたのは、江川坦庵(太郎左衛門)、佐久間象山、下曽根金三郎、勝海舟の四人です。江戸にのぼった覚馬は佐久間象山の塾に入門します。象山の「及門録」によると、覚馬の名は武田斐三郎とならんでしるされています。
 入門は蔑永三年となっていますが、覚馬がこの年に江戸にのぼったという記録はありません。おそらく象山が会津にやってきたとき、砲術師範の嫡男の覚馬に将来の入門を約したのでしょう。
 象山塾は勝海舟をはじめ吉田松陰、橋本左内、真木和泉、河合継之助、小林虎三郎など、幕末の精鋭を輩出している。そのいみでは、もっともすぐれた教育機関だったといえます。覚馬がこの象山塾でまなんだのは、せいぜい七〜八力月だったでしょう。象山は吉田松陰の密航事件に連座して伝馬町の牢に入獄させられてしまうからです。師なきあとは下曽根金三郎と勝海舟をたよったのではないか。下曽根は象山と親しい関係にあり、実射演習なんかは合同でやっておりました。勝海舟は象山の弟子でしたから、社交上手の覚馬のことです。積極的に接近していったにちがいありません。
 当時は洋式砲術をまなぶに絶好の時代環境、幕府は西洋砲術訓令というものをだして、鉄砲訓練をひじょうに重視しておりました。大砲と鉄砲の需要が急増しております。それらの制作は、いずれも名のある砲術師範にゆだねられていた。象山、下曽根、勝らは、オランダ書によって、大砲や鉄砲を鋳造しておりましたから、覚馬も製造方法をごく自然にまなんでいったでしょう。もちろん射撃訓練にも積極的に参加しております。
 大砲と洋式銃による西洋式の兵学を勉強するために、蘭学にもとりくんでおります。覚馬伝(田村敬男編『改訂増補山本覚馬傅』)によると、覚馬は大木衷域のもとで蘭学を学んだとありますが、大木衷域なる蘭学者は存在しません。おそらく大木仲益のまちがいだとみていいでしょう。
 大木仲益(幼名:忠益)ならば米沢藩出身の蘭方医で、坪井信道の門下生です。坪井信道は蘭方医として、伊東玄朴と人気を分かち合うほどの人物でした。大木仲益は坪井が文天保二年(一八三一)にひらいた日習堂で学んだと思われます。かれはそこで塾頭になりますが、やがて師坪井信道の女婿になり、信道死後は塾をまかされるほどでした。のちに大木は薩摩藩医に迎えられ、坪井為春と改名している人物ですが、ペリー来航をきっかけにおとずれた兵学ブームに乗って、覚馬が江戸にでたころは精力的に西洋式兵学書や砲術書の翻訳にあたっていました。
 覚馬の蘭学修業はあくまで砲術を中心とした兵学の理論研究が目的でしたから、大木仲益の塾で、翻訳書によって銃・砲による先進的な兵法を学んでいったのです。
 ちなみに後に覚馬を追って 会津にやってきて、会津藩蘭学所の教授人になり、八重の最初の夫になる川崎尚之助も名のある蘭学者のもとで学んだ人物にちがいありません。
当時大木仲益のもとには川崎と同藩の加藤弘之が書生として住み込んでおり、年齢的にもほぼ同じであところからみて、二人は同時期に江戸に出てきたと推測されます。当時、蘭学者の仕事といえば砲術書の翻訳でしたから、尚之助は大木の指導で砲術を中心とした舎密術(理化学)を学んだのだろうとみています。
たまたまそこで会津人としては珍しい社交家の覚馬と知り合った。尚之助が会津にやってくるきっかけは、おそらくそんなところでしょう。このようにして、覚馬は西洋式砲術のハードとソフトをマスターしてゆきました。
 ともかく覚馬は三年間というもの、ものすごく精力的に西洋式の軍制と砲術を研究しています。大砲や鉄砲を軽視していた長招流の兵法でそだった覚馬が、なぜそのように西洋式にのめりこんだのか。おそらく黒船をみたからだろうと、私はかんがえます。当時の会津藩は江戸湾警備についておりました。黒船をみる機会はいくらでもあつたはずです。ペリーは翌年にも黒船七隻をひきいて、下田にやってきています。このときは一月一六日にやってきて三月まで滞在した。覚馬自身は黒船をみたときの衝撃をなにもかたっていませんが、眼にふれる機会は十分にあったとかんがえられます。黒船の驚異が洋学へ覚馬をかりたてた。欧米におしつぶされない強い国をつくりたいと、覚馬がかんがえるようになるのは、時代の雰囲気にじかにふれたからだとしか、おもえないのです。それは〈諸外国と日本〉という視野の拡大につながってゆきます。
 こうして三年間、覚馬は西洋式の砲術をまなび、蘭学もまなんだ。佐久間象山や勝海舟という時代の先覚者からもまなんだ。江戸にのぼってくる各藩の優秀な人材にも接触した。きっと世の中がまったくちがってみえてきたでしょう。いままでは〈会津〉だけしかみえていなかったが、江戸遊学によって〈国家〉という意識、〈世界のなかの日本〉という意識にめざめた。会津にかえるころには別人になっておりました。


「守四門両戸之策」にみる合理的思考

 覚馬は安政三年(一八五六)帰国すると同時に、藩校日新館の教授に任命されます。そこで、かれは「蘭学所の設置」と「兵制改革」を建言しております。会津藩最初の蘭学所は覚馬によって、翌年に日新館内に開設されました。覚馬はみずから教授となり、世界情勢や洋式砲術をおしえておりました。
 もうひとつの「兵制改革」、覚馬が主張したのは、刀や槍による軍制をやめて、新式の大砲と眉洋式鉄砲による軍制でした。けれども藩の重臣たちは時世にうとかった。保守派の重臣たちと激論、とうとう一年間の禁足を命じられてしまいますが、西洋式の兵制改革というのは幕府の方針でした。時代のテーマなのだから、藩の重臣たちもみとめざるをえなくなってくる。ようやくゆるされた覚馬は、軍事取調役兼大砲頭取に任ぜられ、日新館に射撃場をつくって、指導者となってゆくのです。
 江戸からかかえったあとの覚馬の業績のなかで、注目すべきは、文久三年(一八六三)秋にかれが藩主に上程した「守四門両戸之策Lという海防をめぐる建白書です。ひじょうに輿味深いものがあります。この「守四門両戸之策」と、明治のはじめに、覚馬が薩摩藩主に提出した「管見」を、たんねんによむと、かれがどういう先人たちの影響をうけていたかがよくわかります。
 覚馬はつねづね佐久間象山、横井小楠、勝海舟を三傑にあげておりました。どういう理由でこの三人をそれほど尊敬していたのか? 私にはよくわかりませんでしたが、この二つの論文をよむと、ひじょうによく理解できるのです。「守四門両戸之策」の全体をつらぬくテーマは、つぎのとおりです。
 現在は壌夷論者のように西洋諸国をあなどってはならない。だからといって一部の洋学者のように攘夷論者を愚弄してもいけない。まず〈海のむこうからやってくる諸外国の驚異から国をまもることである〉と、いうわけです。そのための対策をきわめて明快に論述しています。
 日本は四面を海にかこまれた国だから、海防を充実させて、外敵にそなえなければならない、というわけです。それには「四門と両戸」をまもることだと覚馬は説きます。〈四門〉というのは下関海峡、豊後水道、鳴門海峡、紀淡海峡で、瀬戸内海への侵入を想定した関門です。つまり京都をまもるために、瀬戸内海へ外国船の侵入をゆるしてはいけないというわけです。〈両戸〉というのは伊勢湾と東京湾の周辺をさしています。伊勢湾には徳川御三家の尾張藩がある。東京湾は幕府のある江戸防衛の要地です。日本は海にかこまれているが、これらに重点をしぼって、防御すれば海岸線は安全であると覚馬は主張しているのです。
 それでは、どのようにして防衛するか。それについても、きわめて詳細にかいています。たとえば四門については、二七隻の蒸気船の戦艦をつくって、それぞれ大砲を一〇門づつ配置せよ。下関海峡は砲台七、蒸気船四隻。紀淡海峡は蒸気船六隻。豊後水道には蒸気船一七隻。砲台をつくるよりも、海を自由にうごきまわれる戦艦に大砲を設置すれば、いきた砲台になるじゃないか。両戸についても、大砲をつんだ蒸気船をつくれというわけです。移動にとぼしい砲台よりも、戦艦を重視している。ひじょうに合理的なかんがえかたがうかがえます。
 費用の負担をどうするかについても、克明にかいています。四門は山陽道・南海道・西海道の防備だから、その地方の大名に分担させたらいい。禄高に応じて費用を分担させよ。一隻の建造費用は約六万両だ。一石あたり二〇〇〇両負担したらいい。六万両というのは外国の相場である。日本でつくれば、もっと安くなるかもわからない………と、いうようなことまでのべています。さらに、蒸気船は風や潮のうごき、昼夜に関係なく航行できるから、戦時でなく平時は、参勤交代や米穀の輸送にも利用できるじゃないか……と。
 覚馬のこのようなかんがえ方の原点はどこにあるのか。ひとつは佐久間象山の影響です。象山は天保三一年(一八四二)に「海防八策」という意見書で、西洋式の大砲と鋼鉄の軍艦による強力な海軍の編成を提言しています。もうひとつは勝海舟の影響がある。勝海舟もまた、幕府は諸侯と協力して海軍をつくらねば……と、主張していました。蒸気船の建造費用を諸侯の禄高に応じて負担するというかんがえも、勝海舟の持論でしたが、かれのオリジナルではありません。肥後藩士の横井小楠の影響をうけている。横井小楠は幕
府の政治総裁職についた越前藩主、松平慶永のプレーンとして活躍した人物ですが、かれも海軍建設を主張しておりました。海軍をつくるには幕府だけではやれるものではない。諸侯と協力してやるべきである。その資金は石高によって負担する〈課金〉によるべきである……と、主張していました。「守四門両戸之策」にみる覚馬の理論は、これらをさらに具体的に発展させたものだといえるでしょう。
 会津という東北の山深い国の武士が、日本全国をみつめて海防をといている。しかもロシアやアメリカの例をあげて海防を論じている。それだけでもおどろくべきです。さらに地区ごとの蒸気船や大砲の数、費用の捻出や負担方法まで緻密に計算しでいる。ひじょうな合理的精神の持ち主です。経済的なセンスもゆたかで、まるで企業の経営計画書をみるおもいがします。
 そのバックググランドにあるのは何か。ひとつは日新館教育でしょう。日新館では数学というものを重視しておりました。当時の武士は算術など、いやしむべきだとかんがえられていましたが、日新館では算術こそ、学ぶべきだという方針をとっておりました。もうひとつは佐久間象山の影響です。万学の基礎は数学にある。戦争というものは数学なんだよ……とまで、象山はいいきっておりました。
 ともかく「守四門両戸之策」をみると、覚馬の思想形成のあゆみがみえてくる。その意味でひじょうに興味ぶかいものがあります。


男まさりの妹八重

 さて覚馬の妹八重は、そういう兄からおおきな影響をうけています。弘化二年(一八四五)うまれの八重は、兄の覚馬と一七歳もへだたりがあった。覚馬が江戸から会津にかえってきたときは一〇歳です。それから覚馬が京都にゆくまで約七年間、兄をみながらそだっています。もっとも多感な時期に兄とともにすごしたわけです。いわば人間形成期にあった八重には、江戸がえりの兄がかがやいてみえ、ほこらしくもあったことでしょう。
 もともと八重は、うまれつき活発で物おじしない気性の女性だったようです。ひじょうに男っぽいところがあった。
「わたしは一三歳のとき、四斗俵を四回も肩に上げ下げしました」
 などと八重はみずからが、かたっているほどです。山本家のある米代四ノ丁から鶴が城のほうにむかうと、大町通りにでます。そこには藩の御米蔵がありました。秋になると米俵がつみあげられる。八重は男の子たちにまじって力くらべをしていたようです。たいへんな、ハネっかえりです。ともかく裁縫など女らしいものには、あまり興味がなかったようで、もっぱら兄がもちかえった西洋式の鉄砲や大砲に興味をもっていたようです。
 兄から西洋式の銃や大砲の操作をならい、戊辰戦争のころには、白虎隊の隊士に銃の操作をおしえるほどになっていった。そして、あの鶴が城の龍城戦では、男装で洋式銃と大砲でたたかった。まさに勇婦というにふさわしい女性となってゆくのです。


会津から京都へ

 覚馬にとって第二の転機は、会津から京都へ活躍の舞台をうつしたことでしょう。かれは元治元年(一八六四)二月ごろ、京都にのぼっています。藩主松平容保が京都守護職についたのが文久二年(一八六二)の年末ですから、それから一年とすこし後です。当時の京都は激動の時期をむかえておりました。攘夷派の長州と公武合体派の薩摩と会津という二大勢力がはげしく主導権争いをしており、いつ衝突しても不思議ではないほどでした。覚馬がよびよせられたのは、西洋式の銃砲で編成した軍兵で、守護職の軍組織を強化しょうという意図があったからだとおもいます。
 覚馬は京都にはいると同時に気鋭の藩士を選抜して、砲兵隊を組織している。みずから師範となって兵たちを調練して、御所の守衛体制をととのえてゆきます。そのうちに六月には池田屋の変がおこり、七月一八日には蛤御門の変がおこります。長州勢は伏見、山崎天王山、嵯峨の三方から御所に攻撃をしかけます。そこで御所の警備についていた覚馬の指揮する会津の銃砲隊は大活躍、薩摩の銃砲隊とともに長州勢をおいはらったのです。
 このときの功績により、覚馬は公用人に任じられておりますが、蛤御門の変の直後に、眼をわるくしている。眠がみえなくなるということは、武人としては致命的な事件です。覚馬が眼病をわずらった時期については、いろいろ説がありますが、私は蛤御門の変の直後というのが、ただしいとおもいます、なぜかというと、かれは慶応元年(一八六五) の夏ごろに長崎へ眼の治療にいっているからです。
 長崎ゆきは覚馬にとって、おもいがけないものだったでしょう。当時の長崎は和親条約にもとづいて下田、函館とともに開港されておりました。自由港として、多くの外国人が居留していた。各藩も有能な藩士を長崎におくりこみ、いわゆる情報の集散地になっていた。そういう背景から時の長崎奉行の徳永昌新は、会津藩主に遊学生を派遣したらどうかという提案をしております。藩主松平容保は、それをうけいれて、数人のわかい藩士を派遣することにきめました。そして覚馬が遊学生の引率を命じられたのです。表向きは遊学生の監督でしたが、覚馬には眼の治療、さらには西洋式小銃の購入という任務をおびていました。
 長崎にはオランダ人医師ボンベがつくった西洋式の病院がありました。小島療養所といわれる本格的な西洋式の病院です。ちょうどそのころ眼科の名医としてしられていたボードインがボンベにかわってやってきていた。覚馬はボードインの手術をうけたいとかんがえていたようです。長崎にやってきて、さっそくボードインの診察をうけましたが、もはや手おくれでした。さすがの名医でもどうにもならないほど眼病はすすんでいたのです。 不幸にして眼の治療という目的は達せられなかったけれど、長崎ではおおきな収棲がありました。それは外国人との人脈ができたということです。覚馬は持ち前の社交家ぶりを発揮して、滞在中に積極的に外国人と接触しております。オランダ人医師のボードイン、ドイツ人のレーマン、このドイツ商人であるレーマンに一万五千挺のスナイドル銃を発注しております。そのほかイギリス人などにも知り合いができたようです。
 覚馬はおおくの外国人と親交をふかめ、ヨーロッパの政情・産業や貿易に関する情報を積極的に収集しております。この外国人の人脈が、のちにおおきくモノをいうようになってきます。


ネゴシエーターそして教育者

 覚馬は西洋式砲術家でしたが、ただの軍人ではありませんでした。明治維新までの京都時代でも、じつに幅ひろい活躍をしています。かれは蛤御門の変のあと、公用人に任じられ、藩主の手足のようになって、うごきまわっておりましたから、外交的手腕も相当なものです。手連手管のネゴシエーターであったといえます。
 まず覚馬が京都にやってきてまもなく、かつての師であった佐久間象山とともに、とんでもないことを画策しております。象山の入京は、覚馬におくれること約一カ月ぐらいです。当時の幕府は象山の開国論に注目、かれをよびよせて攘夷派の公卿たちを説得させようとしました。
 このころの覚馬は頻繁に木屋町三条の象山の屋敷に出入りしています。たとえば池田屋の変がおこったときも、翌朝すぐに報告におとずれています。佐久間象山の密謀とはなにか。彦根遷都という計画です。皇居を彦根にうつして、天皇を幕府の手中におさめ、一気に公武合体と開港の国是を得ようというわけです。覚馬はおなじ会津藩士の広沢富次郎とともに藩内の工作はもちろん、他藩にもはたらきかけておりました。
 次に会津と同盟関係にあった薩摩との亀裂がうまれようとしたときも、覚馬は勝海舟とともに衝突回避に奔走しています。勝海舟とも、きわめて親密につきあっております。慶応二年(一八六六)夏のころです。すでにして長州と気脈を通じていた薩摩藩は、長州征伐がはじまっても出兵を拒否してしまった。たちまち会津と薩摩の関係があやしくなりました。京都の会津藩士が薩摩藩邸を襲撃するという切迫した事態をむかえます。そこで調停役として、江戸から勝海舟が、すっとんできたわけです。覚馬は使者の勝海舟と藩主の間を頻繁にゆききして、事態をまるく収拾しました。
 慶応三年(一八六七)王政復古の大号令のあと、幕府側と薩長がにらみあったときも、内戦にならないよう最大の努力をかさねております。かれが後年にかいた意見書「時制之儀ニ付拙見申上候書付」によると、六人の非戦派の藩士とともに藩内の説得にあたり、幕府の監察や薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛にはたらきかけていた経緯がのべられております。
「国内で争うべきではない。勤王とか佐幕だといって、あらそっているときではない。そんなことをしていたら、国力が衰退するばかりで、諸外国につけいられる。今は国をあげて外敵の脅威にそなえなければならない時なのだ」というのが覚馬の一貫した持論でした。これは佐久間象山と勝海舟のながれをうけたかんがえかたです。ともかく会津藩のなかでは、めずらしい非戦論者でした。このように覚馬は、鳥羽伏見の戦いの直前まで、ひそかに開戦の回避に奔走していたのです。
 ともかく、この時期の覚馬は眼をわるくして、視力がだんだんうしなわれてゆくというのに、厭世的にならずに逆に自分の世界をひろげようとしている。眼をわるくしてからは、武芸の人というよりも、洋学者、教育者としての〈顔〉が前面にでてくる。かれはもともと会津藩の初めて洋学所をつくったほど、教育に熱心な男でした。京都でも藩主に建言して洋学所を開設しております。会津藩の京都洋学所は、西洞院上長者町上がる地の一向宗の寺院に設置されましたが、蘭学のほかに英学もくわえられております。会津藩士だけを対象としたものではなく、諸藩の若者にも、門戸がひらかれておりました。
 同じように京都で塾を開いた教育者として相通じるところがあったのでしょう。西周ともたいへん親しくしておりました。津和野藩士の西周はオランダがえりの当時の代表的な洋学者です。慶応二年(一八六六)、西は将軍慶喜のブレーンとして京都にやってきて、四条大宮で塾をひらいた。覚馬は、この西塾に自由に出入りしておりました。
 西周は国際法のテキストである「万国公法」を翻訳、法学の権威でした。諸大名も西をよんで西洋法学の講義をうけるほどでした。覚馬が「万国公法」の内容をほとんど暗記していたというのは、この西の影響でしょう。覚馬は西周との出会いによって、西洋哲学と法学の基礎をまなび、また世界的な視野をひろげたのです。
 覚馬は西塾の後援者としての役割もはたしております。西周の身辺になにか問題がおこったときは、助言をもとめられるほどの親密な関係がつづいておりました。


「管見」にたくした思想

 覚馬にとって第三の転機は何だったのか。やはり明治維新でしょう。徳川の親藩である会津藩士だった覚馬にとって、明治維新は生涯でも最大の転機だったとおもいます。かれは明治維新という歴史の大変革を獄中でむかえております。
 慶応三年(一八六七)一二月、王政復古の大号令がくだり、将軍職も京都守護職も廃止され、将軍慶喜は年末に二条城から大坂城にしりぞいてしまう。けれども覚馬は京都にとどまっておりました。かれは幕府側と薩長の新政府とが戦争にはならないと判断していたようです。「会津には神保修理がいるから、バカなことにはならない」と、かれ自身がいっております。京都にのこったのは、開戦にならないように、ひそかに工作していた形跡がある。覚馬の意見書「時勢之儀二付拙見申上候書付」をよんで、私はそのように判断します。
ところが慶応四年(一八六八)一月三日に鳥羽伏見の戦いがおこってしまった。会津を賊軍にしてはいけない。なんとか戦いをやめさせなければならない。覚馬は藩主を説得して、戦闘をやめさせようと奔走するのですが、もはや手おくれでした。薩摩兵にとらわれてしまい、京都の相国寺門前の薩摩藩邸に拘禁されてしまうのです。くしくも今の同志社大学の今出川校舎のある地です。薩摩藩邸の稽古場で覚馬は約二年ぐらい拘禁されておりました。賊軍の残党としてとらえられたのですが、砲術家として著名だった覚馬は、薩摩
藩にもおおくの知人がおりました。囚人とはいえないほど丁重に待遇されていたようです。
 覚馬がとらわれているうちに、新政府軍は江戸城に攻めのぼり、やがて故郷の会津にむかってゆきます。
 そういう悶々とした獄中の日々のなかで、覚馬は「管見」という建白書の作成にとりくんでゆきます。覚馬が、あたらしい国づくりのビジョンをあきらかにした「管見」は、慶応四年(一八六八)の三月ごろに着手され六月に完成、すぐに薩摩藩主に提出されました。覚馬はこのころになると、ほとんど失明状態で眼がみえません。おなじく捕囚であった会津藩士の野沢鶏一という男に筆記させた口述による意見書です。
「管見」のなかで覚馬は、日本をとりまく国際情勢を念頭において、日本の諸制度をどのように改革すべきかを、具体的に論述しております。覚馬はいったい何をいいたかったのか。前文には、次のようなことがかいてあります。諸外国は日本国内の分裂をさらに深めさせたうえで、攻めこんでくるだろう。だから確固不変の国家方針を立て、富国強兵を実現しなければならない。これが全編を貫くテーマです。覚馬は、すでにして明治日本の国家方針を先どりしていたことになります。
 そういう背景にもとづいて、覚馬は二二項目のあたらしい文明制度をならべています。時間の関係から、おもなものだけをひろっておきます。たとえば〈政体〉では、天皇を中心とした三権分立の思想をのべている。〈議事院〉では、議会というものは二院制にすべきであるという。〈学校〉では、人材育成が急務なのだから、学校制度をつくらねばならない。〈国体〉では世襲制の廃止、国民徴兵制、税金の平等な徴収など。
〈建国術〉では農業国からの脱皮を説いている。まず商工業をさかんにしなければならない。そうすれば農業も活性化して、富国強兵が実現できるだろう。〈製鉄法〉では製鉄工業をおこして、欧米諸国のように〈鉄〉文明を重視しなければならない。〈貨幣〉では紙幣の発行にみあう金の準備が必要だという。〈衣食〉では、肉食と毛織物の着用による生活改善を説いている。〈女学〉では、女子教育の重要性を説いている。こどもの教育には女性が重要な役割をもつ。だから女性こそ、勉学しなければならないという。〈平均法〉では、通産相続の改革をテーマにしている。遺産はこどもたちに平等に分割すべきである。長男だけというのでは貧富の差がはげしくなる。それでは次男、三男は才能をのばすことができないではないかというのです。
〈商律〉では貿易振興のための損害保険制度を提言している。船の保険、モノの保険、生命保険など。〈港制〉では外国人のうけいれ体制、港の防災体制をのべています。
 おもしろいところでは、〈変仏法〉というのがあります。腐敗した僧侶の教化を提言しているのですが、坊さんがけしからんというわけです。日本には寺が四五万軒もあるじゃないか。おおくは肉食妻帯、はなはだしいのは他人の妻をうばう者もいる。いまや仏法の本来からはなれて、墓をまもるだけになっているじゃないか。これらに語学や算術をおしえて、寺を学校としてはどうか。僧侶に適さない者には、技術をおしえて職人にすべきである…‥と、いうのです。
 全般的には項目の羅列に終始していて、体系づけられておりません。これは口述のせいでしょう。しかし背後にある合理主義的な思想が全編をつらぬいています。
「管見」を前文の主旨からとらえなおしてみると、頂点には〈建国術〉〈製鉄法〉などが位置づけられるでしょぅ。富国強国のための商工業の振興がメインテーマ。この商工業の発展を直接ささえるのが、〈貨幣〉の制度であり、〈港制〉〈商律〉の諸制度である。さらに産業界に有能な人材をおくりだすには、〈学校〉〈女学〉が必要である。労働にも勉学にも〈衣食〉の改善がさけられない。そして〈政体〉〈議事院〉〈平均法〉など民主主義的な制度は、あたらしい国づくりの前提となる基礎条件である。このように体系づけてかんがえられます。つまり〈あたらしい国づくり〉は、従来の封建領主のような強大な権力をもった独裁者によらず、国民をあげてのぞまなければならないというわけです。したがって覚馬が「管見」にたくした思想は、次のように要約されます。
「要は徳川幕府時代の〈私〉の政拍でなく、国家と国民の利益を使先させるという〈公〉の政治を背景にして、〈富国〉の政策をすすめなければならない」
 これは勝海舟をして〈恐るべき人物〉といわせた横井小楠の思想とほとんど一致しています。幕末・維新の最高の思想家といわれた横井のかんがえ方を具体的に方向づけたのが、ある意味で覚馬ではないかとおもいます。
 「管見」はあたらしい日本の原理・原則として、かかげられたものでしたが、覚馬自身が明治を生きる原理・原則にもなってゆきます。


戊辰戦争で故郷をうしなう

 覚馬が獄中にある間に、故郷の会津は風雲急をつげておりました。江戸城から将軍慶喜を退去させた新政府軍は、いよいよ会津に攻めかかります。覚馬が長崎で発注したスナイドル銃は、こともあろうに陸あげされてから和歌山藩の手にわたり、これが会津を攻めようとしていたのです。
 戊辰の年(一八六八)旧暦の八月二〇日、板垣退助らを参謀とする三千の新政府軍が会津にむかって進撃を開始します。このとき山本家には、父の権八、母の佐久、覚馬の妻である「うら」、独り娘の「みね」、妹の八重、八重の夫であった川崎尚之助がおりました。
 川崎尚之助は覚馬が会津藩蘭学所の教授として、江戸からまねいた人物でした。二〇歳のとき会津にやってきて、当時は山本家に寄宿しておりました。但馬出石藩医の息子にうまれた川崎は、舎密術(現在でいう理化学)をまなび、すぐれた洋学者としてしられていました。会津にやってきた川崎は、銑・砲、弾丸をはじめとする兵器の制作や改良について、中心的な役割をはたしていました。覚馬の妹八重はその川崎と最初の結婚をしております。川崎は最後まで藩士にはとりたてられておりません。藩士の娘である八重が、いわば浪人の身の川崎と結婚している。ちょっと理解しがたいところがあります。そこには覚馬の意思が介在していたのではないか。川崎のような優秀な人材を会津にとどめておくために、八重と結婚させたのではないかと情勢判断されるのです。
 さて、新政府軍が城下にせまったとき、どう対応するか。山本家では、一家全員で城にこもろうときめておりました。そのころ長男の覚馬も次男の三郎も京都で死んだとつたえられておりました。八重にとって弟にあたる三郎が、鳥羽伏見のたたかいで戦死したのは事実です。町田伝八郎の隊に所属していた三郎は、正月五日の淀の戦いで負傷したまま江戸にもどりますが、芝新銭座の中屋敷で息をひきとっています。すでにして遺髪と形見の着衣が山本家にとどけられていました。覚馬も噂では四条河原で処刑されたというわけです。
 そういうなかで一家は八月二三日(旧暦)をむかえます。入城をうながす鐘の音が城下にひびきわたったのは、雨のふりしきる早朝でした。八重は女が戦いにでるときの装束、つまり大沓姿で大小を腰におび、七連発のスペンサー銃をもって、家族とともに屋敷をとびだして三の丸から城にはいりました。
 八重は最初から鉄砲でたたかおうと決心していました。入城してからは髪をたち、男装して、銃撃に参加、さらに夜襲隊にもくわわっている。女は戦闘の場にでるな……と命令されていましたが、まったく聞く耳をもっておりません。
〈私は弟の敵(かたき)を取らねばならぬ、私即ち三郎だという気持ちで、その形見の着衣を着て、一は主君のため、一は弟のため、命の限り戦う決心でございました〉
 八重はのちに当時をふりかえって、このようにかいています。
 八重の夫であった川崎尚之助は内藤介右衛門の配下にあり、三の丸で大砲隊の指揮をとっていました。父の権八は老齢にありながら玄武隊の上土組に所属、戦闘にでています。
 新政府軍の洋式銃のすさまじい威力の前に、会津側はだんだん劣勢になってくる。とくに九月一三日からはじまった総攻撃では、一日二〇〇〇発以上の大砲の弾をうけて、死傷者が激増しました。八重はこのとき尚之助とともに大砲隊の指揮をとりましたが、劣勢を挽回するにはいたりませんでした。父の権八も九月一七日、一ノ堰で戦死してしまいます。こうしたなかで九月二二日、ついに藩主松平容保は降伏を決意するわけです。
 八重は銃をとって龍城戟をたたかいぬいた。女性が鉄砲・大砲という近代兵器を手にして、たたかったという例は、ほかにありません。

 あすの夜はいづくの誰かながむらむ馴れしみ空に残す月かげ

 これは八重が城をさるにあたって、よんだ歌です。
 城を退去する前夜の一二時ごろ、八重は月明かりをたよりにして、三の丸の雑物庫の壁にカンザシできざみつけた。藩がたおれて、家屋敷はもちろん、父をうしなった。やがて夫とも別れなければならなくなる。かなしみが、ひしひしと感じられます。
 後年、八重は京都にやってきて、覚馬と同居するようになりますが、覚馬はなんども鶴ヶ城の龍城戦のようすをききたがったそうです。覚馬にとって戊辰戦争は、自分が戦争をやめさせることもできず、参戦することもできなかった戦いです。自分のふがいなさをかみしめると同時に、故郷の会津藩の悲惨な結末にふかく心をいためていたのでしょう。


明治京都の都市(まち)おこしのリーダー

 京都の覚馬は明治二年(一八六九)の夏ごろ、ゆるされて薩摩藩邸をでております。すでに満四二歳になっていました。やがて京都府からおおきく注目されますが、それは当時の京都をとりまく情勢と密接な関係があります。その当時の京都は東京遷都によって、毒的にものすごく衰退しつつありました。天皇は東京へいったままかえってこない。公卿たちも東京へゆく。豪商たちも京都から東京へ本拠をうつしはじめていました。七万戸あった戸数のうち一万個も減少してしまったのです。なんとかして都市の再興をはからねば
ならない。現在でいうところの〈都市おこし〉が必要でした。
 商工業を活発にして、あたらしい都市づくりをしよう。洋式工業を導入して近代化を実現しようとかんがえますが、どうしていいかもわからない。西洋事情にあかるい人材もいない。そこで覚馬の存在が脚光をあびるのです。覚馬が京都府の顧問となるのは、やはり「管見」が、たかく評価されていたからでしょう。
 明治三年(一九七〇)の春、覚馬は京都府の勧業課の嘱託あつかいで、あたらしい活躍の場をあたえられます。かれを抜擢したのは、当時の権大参事(副知事代理)槇村正直でした。槇村は長州藩出身で、木戸孝允の配下にいた人物です。初代知事は勤王派公卿の長谷信篤でしたが、実権はこの槇村がにぎっておりました。
 明治京都の近代化は山本覚馬、槇村正直、明石博高という三人によってすすめられてゆきました。覚馬は西洋の文物に精通している。外国人との人脈ももっている。あたらしい産業政策のプランナーとして最適の人物です。明石博高は覚馬が京都でひらいた会津藩洋学校でまなんだ人物です。西洋医学、物理学、化学をまなび、最先端の西洋式技術を取得していた人物でした。当時は大阪の舎密局に勤務、オランダ人医師ボードイン、ハラタマのもとで腕をふるっていました。覚馬の建言で横村は、明石を大阪舎密局からひきぬいてしまいます。その槇村正直は行政官として資金をにぎっていました。当時の京都府は豊富な資金にめぐまれていました。東遷した天皇の手切れ金としてもらった産業基立金一〇万円、ほかに政府から槇村が強引に借用した勧業基立金一五万円、しめて二五万円というとほうもない資金があった。そのほとんどが京都府の産業新興にあてられました
 京都府の洋式工業を中心とする勧業は、覚馬が立案したプランを槇村が決定、勧業課長の明石が現場で実行にうつしてゆきました。明治四年(一八七一)から、本格的に洋式工業による殖産を展開、たちまち日本一の近代工業都市になってゆきます。覚馬はプランナーであり、事業計画の立案者としての役割をはたしました。たいへんな経営センスの持ち主だったとおもいます。
 明治四年に、もとの長州藩邸跡に産業振興の窓口ともいうべき勧業場が設置され、やがてその傘下に一九の府営事業が展開されます。工業関係では、まず舎密局があげられます。いわば中央開発研究所みたいなもので、理化学の研修機関と洋式工業のモデル工場をもつ施設でした。ガラス、石鹸、氷砂糖、レモネード、ビール、ラムネなども、ここで製造されていました。ほかには製紙場、鉄工所、靴工場、製革場、製糸場、織工場、染色工場などがありました。すべて西洋式技術による府営の生産工場です。
 農業関係では牧畜場、栽培試験場、養蚕場などがあった。いずれも西洋式農業経営のモデルとしての役割をはたしています。
 教育政策においても、覚馬が「管見」のなかで提言した思想がそっくりもりこまれています。覚馬は「管見」の〈学校〉の項で、「あたらしい産業や文化をおこす根本は、教育にある」とのべています。京都府は市内を上京と下京にわけて、それぞれ三三組に区分、一組に一小学校の建設を計画して、明治三年(一八七〇)ごろには、すべての小学校を設置しました。中央政府の学制発布は明治五年(一八七二)ですから、京都府ははるかに先行していたわけです。中学も明治三年に所司代屋敷跡に設置されています。英学校、フランス学校、ドイツ学校をもつ、先進的な中学が京都に誕生したのです。覚馬が〈女学〉の項で提言した女子教育の機関も設置されました。明治五年(一八七二)、〈女紅場および新英学校〉が、九条家の邸宅に開設されております。裁縫、機織、押し絵など、あくまで実業教育を中心にした学校ですから、ほんとうの女学校とはいえません。しかし英語をおしえるなどユニークな教育機関でした。八重も教師の一人に名をつらねております。
 そのほか最新設備をもつ病院も新設、日本最初の精神病院や性病の治療施設がつくられたり、塵挨処理場のようなものがつくられたり、社会資本の充実がはかられています。このようにして京都は日本全国にさきがけて、産業、社会、文化面で近代化を実現したのです。
 京都府は新政府がつくった東京とは異なる方法で日本一の近代都市を実現した。覚馬がなぜ京都の〈都市おこし〉に、それほどまで心血をそそいだのか。それは〈反中央意識〉によるものであろうとかんがえます。
覚馬は明治政府をつくった薩長の人間ではありません。あくまで薩長のつくった中央政府にこびることなく、ひろく世界に眼をむけた原理原則で、第二の故郷である京都の再興に全力をあげたのだとおもいます。そういう一貫した姿勢がはっきりあらわれているのは、槇村正直にたいする覚馬の態度です。
 明治六年(一八七三)四月,小野組の転籍をめぐる事件がおこっています。小野組は三井、島田とならぶ豪商でした。東京遷都いらい取引の中心は東京にうつった。そこで本店の戸籍を東京にうつしたいと京都府に申請します。このとき槇村は知事の長谷信篤と相談して転籍願いをにぎりつぶしました。小野組のような豪商に京都をさられては、税収が減少するからこまるというわけです。小野組は激怒して京都裁判所に訴訟をおこします。やがて事件は太政官をまきこんだ大事件に発展してゆきます。その裏には司法卿の江藤新平と薩長閥との対立がありました。江藤は司法権の行政からの独立をめざしていました。当時、山城屋和助事件とか、さまざまな灰色高官事件がおこっていますが、江藤はひじょうにきびしく糾弾しています。江藤の指揮によって、京都府知事の長谷と槇村は拘禁されました。現職の知事と知事より権限のある槇村がとらわれた。京都府にとっては重大事件です。槇村が失脚することがあっては、せっかくうまくゆきかけている殖産興業が失敗するかもしれない。そこで法律にもあかるい覚馬がひっぱりだされるのです。覚馬は八重につきそわれて、人力車をのりついで東京まではしった。三条実美、岩倉具視、木戸孝允、江藤新平、伊藤博文などを訪問して、槇村の釈放を懇願してまわりました。そのころは足もわるくなっておりましたから、八重に背負われて移動しておりました。覚馬の奔走と、おりからの西郷隆盛らが失脚した明治六年の政変で江藤新平も失脚します。その結果、長谷知事と槇村は罰金刑だけで釈放されます。覚馬は中央政府の弾圧から、どこまでも槇村をまもりぬいたのです。
 ところが明治一三年(一八八〇)の地方税の追徴事件では、一転して知事となった槇村を糾弾する側にまわります。覚馬は明治一〇(一八七七)に京都府顧問をやめておりました。府議会が初めて開設された明治一二年(一八七九)に、府会議員に選出され、初代議長についていました。槇村という男は仕事のできる有能な人物でしたが、欠点の多い人物でもありました。ひじょうに倣慢なところがあった。明治一三年(一八八〇)に議会の決議によらず、独断で税金の追徴をきめてしまったのです。覚馬はこの知事の越権行為を徹底的に糾弾しています。かれはなによりも槇村知事の議会の軽視がゆるせなかったのです。高圧的な知事におびえる議員たちを〈そんな弱腰でどうするのか〉と、尻をひっぱたきながら、陣頭指揮にたちました。議会というものが何なのか……、覚馬は具体的に議員たちにおしえ、さらに市民たちを啓蒙しようとしていたのです。
 あの「管見」で覚馬がのべた「権ヲ分ツ」という思想をそこにみることができるでしょう。小野組転籍事件は〈中央政府〉と〈京都府〉、地方税追徴事件のときは〈京都府〉と〈府議会つまり市民〉というのが対立パターンです。覚馬はつねに権力者側ではなく市民の側にたっている。そういう姿勢には維新戦争にやぶれた者の反中央意識に一脈通じるものがある。終始一貫、どこまでも筋をとおすという姿勢に、会津人気質をみることができるとおもいます。


同志社をささえた蔭の人

 新島襄とともに同志社をつくったのも、覚馬のそういう精神のありかたと密接な関係があるでしょう。
 密航青年の新島襄との出会いは明治八年(一八七五)四月でした。元治元年(一八六四)六月に函館から日本を脱出した新島襄は、一〇年のアメリカ留学をおえて帰国、そのころキリスト教主義の学校づくりを模索しておりました。日本を近代化するには、欧米の文明を移入するだけでなく、自由・自治・自立にめざめた青年をそだてる。それこそが先進文明にまなんだ自分が、祖国にむくいるただひとつの道だと新島はかんがえていました。そういう精神のありようが山本覚馬の心をとらえてしまった。
 新島襄は明治政府というものをまったく信用していません。訪米中の岩倉使節団の通訳をつとめたかれは、新政府に仕官しないかとさそわれるが、きっぱりと拒絶しています。密航の罪を不問にして、正式に留学生としてみとめようといわれても、ききいれておりません。政府の奴隷になりたくないというのです。日本に帰国するとき、伝道協会からアメリカに帰国しないかといわれます。それもはねつけています。あくまで誰にもしばられない身で、キリスト教主義の学校をつくろうと新島はかんがえていたのです。
 新島襄は偶然とはいえ幕末の動乱をうまくのがれてアメリカにわたった人物です。覚馬のように挫折感がなく、新政府にたいするコンプレックスもまったくなかったのです。当時としては、まれにみるユニークな人物だったといえます。維新戦争にやぶれた覚馬にしてみれば、薩長の新政府にこびることのない姿勢にも共感をおぼえたことでしょう。
 山本覚馬は新島襄の構想に賛成、二人はただちに京都での学校設立に着手します。その年の六月から、襄は覚馬の自宅に住居をうつし、英学校設立に奔走しております。
 同志社英学校は明治八年(一八七五)一一月に開校されました。密航青年の新島襄、もと会津藩士の山本覚馬にくわえて宣教師デビスの三人でできあがった。同志社は中央政府のつくった官立大学のように、一部のエリートや国家に奉仕する官僚を養成する学校ではなかった。新島襄のことばでいえば「一国の良心となるような人」の育成にねらいがありました。薩長中心の新政府のめざす学校と異なるところに、同志社が位置づけられていったのは、創立者である三人の思想や経歴からみて当然のなりゆきでした。


近代女性の先駆者・八重

 覚馬の妹である八重は、そういう新島襄と結婚します。二人のむすびつきは、なるべくしてなったようにおもいます。
 八重は明治四年(一八七一)秋、母の佐久、覚馬の一人娘である「みね」とともに京都にやってきております。かつて西洋式の鉄砲でたたかった八重は、京都にやってくるなり、英語をまなび、洋装、洋髪の近代的な女性にうまれかわってゆきます。時代がおおきくかわろうとするとき、過去にとじこもることなく、積極的に自分の人生をひらいてゆこうとした。八重はそういう自我のつよい女性でした。英語をまなぶことでキリスト教に接近、近代をうけいれる下地をつくっていったのです。
 新島襄は結婚相手として、いかにも日本の女性らしい女性をのぞんでいませんでした。その意味からみても、八重は理想にちかかったでしょう。
 八重は新島襄と明治八年(一八七五)の一〇月に婚約、翌年の一月二日、京都で洗礼をうけた最初の人となり、一月三日に結婚しています。当時はキリスト教に対する反発は、ひじょうにきびしいものがありました。女性が洗礼をうけることは勇気のいる行為だったにちがいありません。そのうえ〈ヤソ〉と、うしろ指をさされる男と結婚した。自立心にとんでいて、自分がただしいとおもったことは、こだわりなく実行する。そういう八重だからこそ、できたことだとおもいます。
 けれども結婚してからの八重をみつめる周囲の眼はひややかでした。新島襄の家庭生活は、すべてが外国式でした。たとえば外出するときは、いつも夫婦いっしょで人力車に相乗りします。レディファーストですから、八重が先にのりこむ。新島襄は八重のことを「八重さん」とよび、八重は新島襄を「ジョー」とよんでおりました。亭主と対等にふるまう女、当時の京都人には想像もできなかったことでしょう。けれども新島襄は西洋式のあたらしい家庭というものを、つくろうとしておりました。人力車の相乗りも意識的なものだったのです。八重は周囲から、しろい眼でみつめられても、ひるまずに新島襄の思想をうけいれ、かれをささえてゆきました。このようにかんがえると、八重は日本の近代の幕あけに、生きた近代女性の先駆者であったといえます。
 もし山本覚馬がいなかったら、同志社の設立はもっとおくれていたでしょう。アメリカがえりの新島襄はほとんど外国人にひとしかった。俗にいう世間しらずです。キリスト教への国民感情も実際にはわからず、政府や京都府に折衝する呼吸もしるわけもなかった。とても幕末の修羅場をくぐつてきた覚馬の比ではありません。覚馬は四八歳という年齢にくわえて京都府顧問をつとめていました。手連手管のネゴシエイターでもあります。
 覚馬のネゴシュイターぶりは、同志社の設立にあたっても、いかんなく発揮されたとみています。京都府当局や知事より権力をもっていた槇村正直への根まわしは、すべて自分の仕事だと腹をくくっていたのではないか。当時の京都は西洋文明を積極的に導入していたとはいえ、キリスト教を前面にかかげた学校設立はむずかしい情勢にありました。同志社がキリスト教をひとたび、きりはなしたかたちで英学校の開設にふみきったが、それは覚馬の知恵だったでしょう。
 このように山本覚馬の生涯をながめると、幕末から維新という時代の変革期にあって、先進的な識見をもって生きた先覚者であったということがでます。かれは失明というハンディにまったくめげることもなかった。盲目になって肉眼をうしなったが、強靱な意志で内なる眼をひらき、自分のはたすべき使命をはっきりみつめていた。
 もしかりに覚馬が失明していなかったなら……。おそらく戊辰の戦いで死ぬまでたたかったでしょう。維新後に、もし視力を回復することがあったとしても、そして新政府から声がかかっても、けっして仕官することはなかったでしょう。山本覚馬とは、そういう人物だったとおもいます。

[本稿は新島襄生誕一五〇年記念会津若松講演会(一九九二年五月二三日 会津若松市文化福祉センター文化ホール)をまとめたものである。]

目次
近代女性の先駆山本八重
雑誌「福島春秋」第3号(歴史春秋社) (1984.01)
洋式銃砲を執った兄妹山本八重と兄覚馬
『会津白虎隊』(戊辰戦争120年記念出版 歴史春秋社刊) (1987.05)
同志社人物誌(57)新島八重
雑誌「同志社時報」No.80(学校法人同志社) (1986.03)
密航が生んだ基督者新島襄
雑誌「歴史と人物」(中央公論社)1984年3月号 (1984.03)
大学創立者から学ぶ 新島襄と同志社
雑誌「早稲田文化」N.35(早稲田大学サークル連合) (1994.04.01)
新島襄と同志社大学
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1986年1月号 (1985.12)
同志社への感慨
「同志社大学新聞」(同志社大学新聞会) 1984年1月20日 (1984.01.20)
これからの私学と同志社 ブランをドラスティックに
「同志社時報」No.86(学校法人同志社)  (1989,3.16)
妻に宛てた二通の手紙
雑誌「同志社時報」No.88(学校法人同志社) (1990.01.23)
新島襄と私
?新聞 (1994?)
山本覚馬と八重
雑誌「新島研究」82号別刷(学校法人 同志社) (1993.5)

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