福本 武久
ESSAY
Part 3
 福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
 新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。
新島襄とその時代……会津から京都へ
初出:「同志社時報」No.86(学校法人同志社) 1989.03.16

 これからの私学と同志社
       ブランをドラスティックに




 いったい、ここはどこなのだ? どこかヨーロッパの街にでも、さまよいこんでしまったのか……。田辺キャンパスの石畳の通路を歩きながら、思わず眼をみはってしまった。
 田辺町の大学キャンパスを訪れたのは、完成してから一年あまり経った初夏のある日だった。在学時代のサークル仲間が京都で会食しようということになった。二十数年ぶりである。せっかくの機会だから、有志で田辺にもゆこうじやないか。幹事はわざわざ土曜日を選んだ。けれども集合場所に現われたのは、名古屋からやってきた先輩と私の二人だけだった。
 「キミが来てくれてホッとしたよ。おれは、一人でも行くつもりだったけど……」
 麻雀の師でもあった先輩は言うのである。
 それほど積極的でもなかったぼくは、どうしたものか……と、とまどっていたが、その一言で否応なく近鉄に乗せられるほめになってしまったのである。
 バスから降りて、大学のキャンパスに入ると、レンガ造りの建物が真夏を思わせる濃い陽光をあびていた。学生の姿がほとんど見当たらない土曜日の午後……。キャンパスはやたらとひろくて明るい。ぼくたちは、まるで見知らぬ町を訪れた旅行者のようだった。
 公園もどきの広場で、照れながら写真を振り合った。渋谷あたりのカフェを思わせる喫茶室でコーヒーをすすりながら、明徳館の薄暗い地下食堂でたむろした当時を語り合った。
 「こんな、バカデカい施設が要るのかねえ」
 どちらからともなく溜息をもらした。想像をはるかに越えた立派なキャンパスで学生生活を過ごせる若者たちに、ちょっと嫉妬心を抱きもした。
 「オリンピックはともかくアジア大会ぐらいなら、やれるほどらしいぜ」
 と、先輩は言ったが、自慢の体育施設をみるには、もはや時間がなく、あわてて帰りのバスに飛び乗った。
          *
 田辺キャンパスは広い丘陵を造成して誕生した。学生数が増加して、もはや今出川キャンパスだけでは対応できなくなったという物理的な理由からだと聞く。大学の市街地から郊外への移転は、なにも同志社だけではない。中央、早稲田、日大……。周辺部に校地を求める傾向は、さらに増えてゆくだろう。
 私の住む所沢にも早稲田がやってきた。同志社と同じように丘陵の造成地にキャンパスができている。やがて日大もやってくるという。市当局は学園都市を標榜しているらしいが、はたして狙いどうりにうまくゆくかどうか。早稲田がきたといっても、学生も教授も街には居つかないのである。登校・下校は最寄りの駅からの送迎バス。街は素通りである。学生には魅力のない田舎町といえば、それまでだが……。同志社と田辺町の関係はどうなのだろう。
 同志社の田辺キャンパスにしても、早稲田の所沢キャンパスにしても、学生たちは講義を受けるだけで街を離れ、どこかに散ってしまう。近郊都市に進出したメーカーの生産工場といったら言い過ぎか。クロ−バー印や稲穂印のおニイちゃん、おネエちゃんを大量生する隔離された工場を思い描いてしまうのである。大学教育は講義だけではない。キャンパスでの学生同志、学生と教授間の触れ合いだけでもない。大学施設のある街や人との触れ合いからも多くを学ぶ。すべての出会いが「個」の人間性を育んでゆくのである。
 今出川校地は京都のどまんなかにある。キャンパスには、いまも同志社の歴史や伝統をいまも伝える精神的なシンボルも残っている。田舎の勉強より、都会の昼寝……。そういう雰囲気のなかにひたるだけでも、無形のメリットがあるだろうと思うのだが、いかがなものだろう。田辺キャンパスができて、同志社がダメになるというつもりはない。ただ同志社のコンセプトとピジョンが、いまあらためて問い直されていると言いたいのである。
          *
 大学の施設や設備が充実され、キャンパスが立派になるのは別に悪いことではない。将来をみすえたマスタープランにもとづいていれば、それはそれでいい。ただ容器とシステムはできあがったものの、中身が空洞ではこまるのである。
 学制が整備されて教育滅ぶ……。これが日本の現状である。六・三・三・四制をくぐつてきたら人間はダメになる。確信をもって、そう言いきってもいい。
 つい最近、ある私大に学ぶ女子学生から相談を受けた。彼女がまだ小学生だったころに、ひょんなきっかけで知り合い、いまも家族ぐるみの付き合いがつづいている。あと一年あまりで卒業だというのに、彼女は退学したいというのである。どうやら大学のありかたに失望してしまったらしいが、理由をつきつめても、いま一つ釈然としない。最後まで対応のしようがなく、議論はすれちがったままに終った。頭の悪い子ではない。むしろ鋭い感性の持ち主なのである。彼女の悩みの本質は最後まで理解できなかったが、ともかく学生生活のなかで自分を見失ってしまったようである。ひるがえって考えれば、大学には迷路にはまりこんだ彼女を救う何一つの手だてもなかったということになる。ほかにも同じような学生を何人か知っている。
 現在の教育システム、そこには一かけらの教育もない。あるのは管理である。大学を出たころには〈個性)の芽をすっかり摘みとられ、変に角のとれた丸い人間になってしまう。自分の論理を持たず、外見だけ妙にやさしい人間ができあがりつつあるのである。かれらが時代を背負うころになれば、東南アジアの同世代にやられてしまうだろう。創造力にかけては、バイタリティあふれるアジア人留学生のほうが、はるかに可能性があるとみるからである。
 文部行政当局がいかがわしい受験産業と手を組んだのは、いつのころからか。中学から高校へ、高校から大学へ……管理と選別は、ますます強化されてゆく。大学のランクづけは入学試験の難易度できまってしまう。もはや受験生自身が大学を自由にえらべない。偏差値という妙なモノサシが志望校を選んでくれる。その結果、ランク上位にある官学のアプレが私学にやってくる。すこし乱暴な言いかたかもしれないが、そういう図式がみえてくるのである。いまや大学ブランドのグレイド付けがきっちりとできあがった。その路線に無抵抗な私学はますます個性を失ってゆくだろう。
 私学に入学する者のうち、伝統や学風に魅かれてやってくるもの比率はどれほどなのだろうか。あらためて調査するまでもないだろう。同志社が有名国・公立大のオコボレを頂戴しているようではこまる。あきらかに建学の精神に反してしまう。校祖新島襄は同志社を(反官学)と位置付けていたと思うからである。
          *
 クロ−バー印のおニイちゃん・おネエちゃんたちのブランドイメージを少しでもグレードアップするには、どうすればよいか。やはり同志社のピジョンを明確にすることしかないだろう。
 もはや建学の精神など、すっかり風化してしまっている。創立者の高邁な思想も、現代では空しくひびくだけである。どの私学も同じだろう。にもかかわらず、そっくりそのままお題目のように唱えるだけでほダメである。今あるがままの大学の現状と時代に照らして、理念を再構築する必要があるだろう。
 もちろん建学の精神から出発しなければ、私学のアイデソティティは失われてしまう。あくまで、それにこだわりつつも現代にマッチするようブレイクダウンして、主体的に行動を起こす。今はそういう時だ。残念ながら教育のピジョンもなければ展開もない……というのが、外部の人間の眼に映る個々の私学の現状なのである。
 同志社も例外ではない。たとえば田辺キャンパスができるに際しても、医学部、芸術学部、体育学部などの新しい学部が誕生してもよかったのではないか。
 ともかく中途半端はダメなのである。もっとドラスティックにシフト・チェンジする必要があるだろう。
         *
 入学試験ひとつにしても個性にとぼしい。最近では企業の求める学卒者像についても、すこしずつ変化が生じている。ポスト・インダストリィの時代に突入して、単に〈額に汗して、マジメに働く〉しか能のない人間は敬遠されるようになりつつある。知恵とアイディアにあふれた〈独創性のある人間〉、さらには〈自己主張のある人問〉がもとめられている。学力や知識だけではなく〈何かやってくれそうな〉個性ある人間が待望されているのである。日本の産業は世界のトップランナーになってしまったから当然だろうが、何も企業に限ったことではない。
 このような時代背景からか、最近では〈一芸型〉の人間を受け入れようというねらいで、入試制度を手直しする試みが一部の官学で始まっているが、まだまだ不十分である。私学ならばもっと自由な方法が考えられるのではないか。特別選考は人気スポーツ選手を招くためだけのものではないだろう。
 教授陣を始め学内スタッフも見直してはどうか。学内だけで育ったセソセイがたでは、あまりにも視野がせますぎるのではないか。研究者としても教育者としても、いかにもハソパになりはしないかと懸念するのは私だけだろうか。たとえば政治・経済にしてもテクノロジーにしても最先端の情報は、すべて企業や官庁、各種団体にある。国内の外部交流の活発化はもとより、各界のスペシャリストを教授などに招くなど、いろいろ方法はあるだろう。「異」なものを排斥せず、むしろ「異」なものとの出会いを大切にする度量がほしい。新しい創造的なものは、異質と交わるところからしか生れてこない。大学キャンパスを立派にするのもよいが、あまりにも日本的である。教授陣やスタッフの充実にこそ、もっと金をかけたらどうだろう。異なものとの出会いによる活性化に関連して言えば、積極的に世界に学ぶ姿勢が大学教育に導入されてもいい。これからの日本は世界のあらゆる人たちと接してゆかねばならない。卒業してから、どの分野に進もうと外国に出るケースは増えてくるだろう。外国の文化を学び、国際人としての資質がもとめられてくる。
 現在の同志社にどれほどの国際化路線が確立されているかは、知らない。しかし、同志社がもっとも同志社らしい特徴を発揮できるとしたら、国際化プログラムでほないだろうか。外国に学ぶ気風は、なにせ校祖新島襄の時代からの伝統がある。海外にも同志社とゆかりの深い大学がいくつもあるだろう。それらと連携すれば、プログラムほさまざまに企画できるはずだ。どの学部でも積極的に海外に出たいという意欲のあるものには、どんどん機会あたえたらどうか。課外活動や短期のホーム・ステイでは中途ハソパである。ひとりで海外の大学に送り込むシステムを制度化するのである。たとえばテーマは自己申告、期間は二年でも四年でもかまわない。既存の姑息な単位制なんかにとらわれず、学習成果を評価して卒業資格を認定したらいいと思う。私学ならばこそ、同志社ならばこそ……というシステムがもっとあってもいいだろう。
 まもなく大学進学人口が減少傾向になって、私学の経営難が予測されるという。閉学に追い込まれる私学もでるかもしれないと、まことしやかにささやかれている。一般企業なら減量経営で乗りきるところだが、大学はそういうわけにはゆかないだろう。いまからでは、もう遅いのかもしれない。けれども経営という側面からのみアプローチして、小手先の大学運営に終始すれば墓穴を掘るだろう。大学の売り物は教育である。教育の〈質〉がきびしく問い直されてくるのである。あくまで教育問題なのだと認識することが出発点ではあるまいか。
 いかにも同志社らしく、リベラルな論議が学内に盛りあがり、そこからユニークな試みが生れてゆくことを念じるのみである。


目次
近代女性の先駆山本八重
雑誌「福島春秋」第3号(歴史春秋社) (1984.01)
洋式銃砲を執った兄妹山本八重と兄覚馬
『会津白虎隊』(戊辰戦争120年記念出版 歴史春秋社刊) (1987.05)
同志社人物誌(57)新島八重
雑誌「同志社時報」No.80(学校法人同志社) (1986.03)
密航が生んだ基督者新島襄
雑誌「歴史と人物」(中央公論社)1984年3月号 (1984.03)
大学創立者から学ぶ 新島襄と同志社
雑誌「早稲田文化」N.35(早稲田大学サークル連合) (1994.04.01)
新島襄と同志社大学
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1986年1月号 (1985.12)
同志社への感慨
「同志社大学新聞」(同志社大学新聞会) 1984年1月20日 (1984.01.20)
これからの私学と同志社 ブランをドラスティックに
「同志社時報」No.86(学校法人同志社)  (1989,3.16)
妻に宛てた二通の手紙
雑誌「同志社時報」No.88(学校法人同志社 (1990.01.23)
新島襄と私
? 新聞 (1994 ?)
山本覚馬と八重
雑誌「新島研究」82号別刷(学校法人 同志社) (1993.5)
新島襄とその妻・八重
群馬県立女子大学「群馬県のことばと文化」講義録 (2009.10.23)

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