福本 武久
ESSAY
Part 3
 福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
 新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。
新島襄とその時代……会津から京都へ
群馬県立女子大学「群馬県のことばと文化」講義録 2009.10,23

 新島襄とその妻・八重


はじめに

 ご当地、群馬県では「新島襄」というと、だいたいの方はよくごぞんじですね。それはなぜかというと「上毛カルタ」でしょう。
 上毛カルタでは「い」「ろ」「は」「に」「ほ」「へ」と順にゆきまして「へ」のところで「平和の使徒・新島襄」というふうに採りあげられております。
 私は以前にご当地にあります新島学園女子短期大学へ講演にゆき、そのあと非常勤のかたちで何年か出向いておりましたが、そのときに学生さんに訊いてみたことがあるんです。新島襄について……。むろん新島襄ゆかりの学園ですから、みなさんはすくなからず知っておられるわけです。じょあ、いつから知っていますか? すると、そんなものは小学校の低学年のころから良く知っている……というのです。
 私はたいへん驚きました。
 群馬県では小学生でもよく知っている。新島襄が同志社をつくった京都ではどうだろうか? いまや知る人はすくない……というのが実情でしょう。大人でもあまり知らないのではないかと思います。
 ところがご当地では小学生でも知っている。それは「上毛カルタ」の功績ですね。聞くところによると大会まであるということで、ほんとうに驚きました。カルタには群馬県の誇りとするもの、人物であり、名所旧跡であり、すべてがとりあげられています。郷土というものをよく知る。郷土の誇りというものを大切にするこころを育むうえで、たいへんな役割を果たしているように思いました。

 そんなわけで、知られているようで、あんがい知られていないのが新島襄なのです。新島襄がそんなありさまですから、その妻であった「八重」については、もっと知られていません。私が小説を書くまでは、まったく知られていませんでした。
 八重を主人公にした小説を書くにあたり、わが母校である新島襄のつくった同志社へゆきましたが、史料センターにもほとんど史料らしきものはありませんでした。なぜなのか? ひとつには八重の評判があまりよくなかったということが関係しているように思われます。

 私はこの世評があまり芳しくなかったという八重のほうから新島襄に接近していったわけですが、そのきっかけは何なのか? それについてもかんたんにふれておきましょう。 私はある文学賞をもらいまして小説書きとして出発しましたが、2作目に『織匠(上・下)』(筑摩書房刊)という長編小説があります。
 これは京都西陣(織物の街)の明治維新に物語です。維新の東京遷都で、西陣は最大のお得意先をうしなってしまます。まさに存亡の危機がおとずれますが、時の京都府はフランスのリヨンの職人3人を派遣します。そのひとりが私の曾祖父でした。
 かくしてヨーロッパの先進時術を導入して、織物の産地として復興をはたします。西陣の産業革命の物語ですが、執筆にあたって、おのずと京都府の歴史や産業政策を歴史を調査することになります。
 そのプロセスで維新京都の政策ブレーンをつとめていた元会津藩士の山本覚馬という人物に出会ったわけです。山本覚馬、明治京都の設計図を描いた人物ですが、その妹に山本八重という女性がいたということがわかってきました。
 八重は戊辰戦争では男装のいでたちで鶴ケ城にこもって大砲隊の指揮をとったという。すごい女性なのです。その八重が維新後は兄の覚馬をたよって京都にやってきまして、洋装洋髪の女性としてうまれかわり、英語をまなび、キリスト教に接近、のちに新島襄と結婚したとあるんですね。たいへん興味を覚えまして、よしッ、『織匠』を書きあげたら、新島襄と妻八重……を書いてやろうとひそかに決意したのです。
 そして襄と八重について結果的に4冊の本を書いてしまいました。『新島襄とその妻』(新潮社刊、のちにテレビドラマ化される 1985年11月 朝日放送創立35周年記念番組「おんなの戦いー会津から京都へ)、『会津おんな戦記』(筑摩書房刊)、『新世界に学ぶ』(筑摩書房刊)、『会津武士』(歴史春秋出版刊)がそれです。
 それら4つの作品を書いたということを背景にして、今日は新島襄とその妻・八重についてお話しいたします。いったい新島襄はどういう人間だったのか。八重はどういう女性だったのか。わたしの見た新島襄と八重……ですね。


新島襄と八重の出会い

 新島襄と八重ですが、ふたりは運命的な出会いをするのですが、そこのところがたいへんおもしろいのです。ふたりがどういうシチュエーションで出会ったのか。
 新島襄は安中藩士の子です。それほど身分の高くない武士の子です。幕末に脱藩してアメリカに密航、10年後に帰国して、京都でキリスト教主義の学校をつくろうとしています。
 八重のほうはどうかというと、戊辰戦争を戦って敗れ、廃藩置県のあと、兄の覚馬をたよって京都にやってきます。そこで二人は出会うのですが、初対面からたいへん印象的です。
 ある日、新島襄が、八重の兄である山本覚馬をたずねてくるのですが。八重自身の回想録(『新島八重子回想録』)には次のようにあります。

『夏の頃でありました。私はあまりの暑さに耐えかねて、中庭に出て、井戸の上に板戸を渡してその上で裁縫をして居りました。
 その時ちょうど、襄が兄の許へ遊びに来て
「妹さんは大危ないことをして居られる。板戸が折れたら、井戸の中へ落ちるではありませんか」
 と注意しました。兄は
「妹はどうも大胆なことをしてしかたがない」
 と話しました。その時、襄は槇村さんから聞いた話を思いだして、もし私が承諾するなら婚約しようかと、その後、私の挙動に目をつけるようになったそうであります。 』
 井戸のうえに板戸をわたして、縫い物をしていたというのです。京都の夏の暑さといったら並ではありませんから、会津、福島生まれの八重には、おそらく耐えられなかったのでしょうね。
 八重にしてみれば、涼しいから、いいじゃないか……というのでしょうが、京都でこんなことをしたら大変な騒ぎになります。
 京都では井戸には水神さんがいるといいます。神様がいるところなのです。そんな聖なるところに、座るとはなにごとか。しかも女の身でなんということをする……まさに非難囂々といったところです。
 ところが、そんな八重をみて、新島襄は結婚相手として、意識するようになったというのですね。八重はあきらかに日本の常識にはまった普通の女性ではない。どこかぶっ飛んでいる女性だった。あきらかに、そこいらにいる普通の日本女性ではない。そういうところが結婚相手にふさわしいと新島襄は思ったというのですから、これも相当なものです。
 事実そのころの新島襄は結婚するなら、日本人らしくない女性をむかえたい……といっているのです。このことについても八重自身が書いております。

『私が襄と婚約をしましたのは、八年の一〇月でありました。その前から、襄は度々槇村さんのところへ参って居りましたが、或る折、槇村さんは襄に向かって
「あなたは妻君を、日本人から迎えるのか、外国人から迎えるのか」
 と尋ねられました。襄は
「外国人はセ生活の程度が違うから、やはり日本婦人をめとりたいと重追います。しかし亭主が、東を向けと命令すれば、三年でも東を向いている東洋封の婦人はご免です」
 と答えますと
「それならちょうど適当な婦人がいる。山本覚馬の妹で、今女紅場に奉職している女は、度々私のところへ来るが、その都度、私を困らせている。どうだ、この娘と結婚しないか。仲人は私がしてあげよう」
 と言われたそうです。』

 知事をこまらせていたとあります。こういうとことでもたいへん珍しい女性で、あきらかに当時の日本の女性からみれば、なみはずれています。

 そういう伏線があって井戸のところでの2人の出会いがあるのです。現実に井戸のうえで八重が縫い物をしている姿をみて、新島襄は、「なるほど、聞きしにまさる女性だ……」と思ったでしょうね。それで結婚を意識するようになったというのですから、このシーンが決定的に出会ったといえるでしょう。


密航者・新島襄

 新島襄は天保14年(1843年)江戸神田一ツ橋の安中藩の江戸屋敷で生まれています。襄の生誕碑が現在、学士会館の南側にありますが、いまから166年まえ、安中藩(3万万石 藩主・板倉勝明)の江戸藩邸は、まさにそこにありました。
 襄は江戸で生まれ、江戸で育っています。上州の安中藩士ですが生まれ育ちは江戸ですから、生まれながらにしてシティーボーイなのです。この都会人であることが新島襄を知るうえで、ひとつのキーポイントになるのではないか……と私は考えます。
 安中藩のあまり身分の高くない藩士の家に生まれている。父親の民治は祐筆職です。藩主のそばにいて書き物、記録をする役目です。襄もその職につくようにいわれるのですが、あまり興味をしめしません。だからといって武術に生きる道を選ぶかというと、そういう気もなかった。
 13歳のとき蘭学に興味をもち、やがて英学に惹かれてゆきます。学問で身を立てようと考えるのです。当時はすでに幕藩体制に見切りをつけていたふしがあります。幕府はこのままでは立ちゆかないだろう……と。このあたりが江戸にいるためにいろんな情報がひとりでにはってくる。都会人的な発想というべきでしょう。
 けれども勤王の志士の運動にかかわることもない。だからといって積極的な開国論者でもありませんでした。自分はなにをすべきなのか。そのころの新島襄には思いまどっています。そういうありかたは、まさに都会人のメンタリティそのものといえます。
 蘭学を学ぶというのですが、じゃあ、何のために学ぶか…というと、国をまもるため、つまり外国の圧迫から自分の国をまもるためだというのです。ちょうどぺリーが黒船4隻で浦賀にやってきたてきたころです。自分自身でもオランダの軍艦をみて衝撃をうけたこともあるでしょう。ともかく欧米の科学技術にたいへんなショックをうけておりました。
 それで蘭学を学び、航海術を学び、英学を学びます。そのうちに海外へいってみたいと思うようになった。西欧に学んで日本のおくれをとりもどしたい。そして日本の国家の独立に役立ちたいと思うようになってゆくのです。
 襄は函館から脱国します。元治元年(1864)7月17日のことです。アメリカの貨物船にのりこんで一年の船旅、ボストンに向かうのですが、函館から上海、船をのりかえて香港、サイゴン、マニラを経て、インド洋へ……。ケープタウンをまわって1865年7月20日、ボストンに到着します。ちょうど一年かかっています。
 ところがアメリカに着いたものの、新島襄は金もなければ知り合いもいないわけです。自分をロビンソンクルーソーになぞらえて、毎日のように祈って不安をまぎらわせていたというのですから、たいへん孤独で不安な日々をおくります。
 そんなときに実業家・アルフュース・ハーディー(Alpheus Hardy)と運命的に出会うのですが、ハーディーはいかにも当時のアメリカ人らしく、遠い日本からやってきた若者に手をさしのべてやらねば……という侠気を発揮するのです。
 ハーディー所有の船で米国ボストンに到着したという縁もあって、ボストンのハーディー家にひきとられ、かれが理事を務めるフィリップス・アカデミー英語科、アーモスト大学、アンドーバー神学校で学ぶ機会をあたえられます。
アーモスト大学の1870年卒業生名簿に、ジョセフ・ハーディー・ニーシマ(Joseph Hardy Niisima)と新島襄の米国名が記録されています。また、大学内のジョンソン・チャペルの祭壇のすぐ右側には新島襄の肖像画が飾られています。
1874年9月ボストンのマウント・ヴァノン教会で按手礼を受けまして、牧師の資格を得た新島襄は、同年10月にバーモント州ラットラントのグレース教会でおこなわれたアメリカン・ボード第65回年会で、日本でのキリスト教主義大学設立を訴え、当時のお金で5,000ドルの 寄付申し込みを受けることに成功しています。
 そして1974年11月に10年ぶりに帰国しますが、日本はすでに明治政府の時代になっておりました。日本にもどった襄は安中で両親と再会を果たし、ただちに京都で英学校の開校にむかってあるきだしております。


南北戦争後のアメリカ精神に学ぶ

 新島襄はアメリカでいったい何を学んだが? 最初はアメリカの「科学」「技術」、電信、電話とか蒸気機関などに興味をもっておりました。当時のいわばハイテクノロジーを学ぼうとしていたのですが、やがて、そういう考え方に変化がうまれてきます。
 当時のアメリカは現在のアメリカとはまったくちがいました。南北戦争直後のアメリカです。制度の上でも精神の上でもヨーロッパから独立して、独自の道をあゆみつつあった。そういう時代です。
 たいへん自由、自主、独立の気風が強い国でした。とくに新島のいったニューイングランドはそのまっただなかです。女性たちも自主自立の精神にあふれていて、活き生きしていた。新島襄はそういうアメリカとキリスト教に出会って、自己変革をとげてゆくのです。
 自分はアメリカの先進的な科学技術を学ぼうとやってきたんだけれど、だんだんと考え方がかわってくる。現在のアメリカをきずいたのは、なんなのだろう。デモクラシーの精神とピューリタンの精神、それがアメリカをきずいたのではないだろうか。
 それを日本の若者につたえよう。日本でキリスト主義の学校をつくろうと考えるようになるのです。
 新島襄の生涯をざっとながめて、驚くのは、自由への強いあこがれ、自主、自立の精神が、いかに強いか……です。おそらく、これは日本の幕末を経験していないからでしょうね。
 安中藩は幕府側だから、明治維新の戦いでは敗れた側になります。だが、新島襄は維新の戊辰戦争のまえに国外へ脱出しておりましから、戦いに敗れたという挫折感がまったくありません。
 たとえば新島襄がアメリカにいるうちに、日本は明治維新になり、新政府の使節として岩倉具視の使節団がやってきます。そのときに新島襄のようなアメリカにいる日本人は通訳に呼び集められるのですが、まず最初にどんなことを考えたか。
 使節団と会うときに、日本流にアタマをさげて挨拶しようか、それともアメリカ式に握手でいこうか。そんなことを考えているんです。
 新島襄は国が禁ずる密航でアメリカにやってきた人物です。普通だったら、政府の人間がやってくるといったら、小さくなってしまうところでしょう。ところが、アメリカ式に握手でいってやろう……と。
 そうして新島襄は使節団の通訳をつとめ、ヨーロッパまでも随行しております。その働きがみとめられて、新政府への仕官をすすめられるが、これをきっぱり拒絶しています。帰国してからも時の文部大臣・田中不二麿にしつこく仕官をすすめられるのですが、いっさい聞ききれておりません。
 通訳をつとめたのがみとめられて、森有礼(後の文部大臣)のあっせんで留学生として正式にみとめられるようになります。つまり脱藩の罪がゆるされたわけです。当然、政府から学費を出すよ……といわれますが、これもきっぱりことわっています。それだけでなく自分が身をよせているハーディー夫妻に、絶対受け取らないでくださいとまで言っております。なぜかというと、政府の奴隷になりたくない……というのです。
 明治政府というものを、まるっきり信用していませんでした。きっと信教の自由をまったくみとめない国など信用できないという意識があったのでしょう。
 日本に帰国するにあたって、アメリカンボード(教団組織)から、アメリカに帰化しないかといわれますが、これもむろん拒絶です。
 あくまで誰にもしばられない日本人として、キリスト主義の学校をつくりたいと考えたのでしょうね。襄の理想とした学校は、宣教師の養成だけではない。キリスト教主義にもとずいた人材造りを念頭においておりました。だから、後年、同志社ができてから、日本に来ていた宣教師だちが、養成学校にしようとしたときも、猛然と反対しております。
 新島襄のそういう自主自立の精神はニューイングランドですごした間に、おのずと身に付いたものでした。
 当時のアメリカというのは、ヨーロッパから精神的にも独立して、みんな活き活きとしていました。とくに女性たち、新島襄の世話をやいてくれた女性たち、みんな自立心の強い女性だった。日本とちがって、女性が家庭でも、社会でも大きな発言権をもっている。そういう印象を強くもったようです。
 山本八重と出会うまえに、こういうプロセスがあったのです。


火の女・山本(のちに新島)八重

 その山本八重ですが、彼女の人生は、およそ3つにわけて考えられます。会津にうまれそだった娘時代。新島襄とともに生きた京都時代。そして社会福祉につくした晩年……です。
 そのうち会津若松の娘時代が、後の2つの生きざまを決定づけた。なぜかというと幕末の戊辰戦争で、いろんな意味で彼女は人生の岐路に立たされたからです。会津戦争で彼女は歴史ののこるような活躍をしています。
 八重は弘化2年(1845)会津若松にうまれています。ちょうど日本の沿岸がうるさくなってきたころ。イギリス船が長崎に来たり、沿岸がさわがしくなってきた。いわゆる日本の夜明けといわれるような時代です。
 八重の生まれた山本家は会津藩砲術師範の家柄でした。父の権八の禄高は200石ですから、それほど身分の高い武士ではありません。
 八重は幼いころからたいへん活発な女性で、14歳のときには4斗俵(60q)を4回、肩からあげさげして見せたと、八重自身が語っているほどですから、並の女性ではない。たいへん男っぽい女性でした。
 もっぱらの興味は、女性としてのたしなみのひとつである裁縫とかそういうものではなくて、もっぱら武術のほうでした。砲術師範の娘だからというわけでもないでしょうが、砲術とか鉄砲のあつかいになどについていて興味をもっていたようです。
 白虎隊にひとりとして自刃した伊東悌二朗という少年がいますが、かれに銃のとりあつかいを教えたのは八重でした。悌二朗は年齢をいつわって白虎隊に入隊して死んでしまうのですが、八重は「もし自分が銃の操作をおしえなかったら、白虎隊なんかに志願しなかっただろうに」と、後年になってもくやんでおりました。
 そういう女性になる道筋には兄の影響が考えられます。八重の兄・山本覚馬の影響を色濃くうけております。
 山本覚馬は文政11年(1828年)生まれですから、18歳ちがいです。この覚馬は、のちに新島襄とともに同志社をつくった人物で、結社人(いまでいう理事長)として名をつらねております。
 覚馬はペリーがやってきたあの嘉永6年(1853)、江戸藩邸勤務になって3年間をすごしています。会津藩は江戸湾警備についていたから、おそらく黒船をみていることでしょう。江戸で蘭学を学び、西洋の兵学、砲術を学びはじめていますが、それは、おそらく黒船をみた衝撃からだと思われます。
 江戸にいるあいだに、江川太郎左右衛門、佐久間象山、勝海舟など当代一流の人物と親しくなっています。たいへん刺激をうけて会津のもどってきて、城下で蘭学所をひらいております。そのときに教師のひとりとして江戸から川崎尚之助という人物をつれてかえっています。尚之助は当時たいへん有能な洋学者であり、砲術家であり、理化学に知識に長じた人材でした。
 覚馬は会津藩に西洋式の銃砲中心による兵制にせよ……などと建設的な提案をしますが、そういう開明派の武士でした。けれども会津藩というのはきわめて保守的で、アタマの固い重臣たちは承知しません。覚馬は重臣たちと大喧嘩して禁足になるという事件もありました。
 八重はそういう兄から西洋式の銃や大砲のあつかいをならう。知らず知らずのうちに西洋学の考え方が身につけていった。そういうところで西洋式の合理主義をうけいれる下地がおのずとととのっていった。そんなふうに思います。 


戊辰戦争で銃砲隊を指揮する

 八重は会津時代にいちど結婚しております。相手はさきに話をしました川崎尚之助です。そうして結婚して3年目にあの明治戊辰戦争を迎えるのです。この戊辰戦争が八重の運命を決定づけたといっていいでしょう。
 明治戊辰の会津戦争、それは女性、こども、老人までまきこんだ悲惨な戦争でした。
 幕末の動乱については詳しくのべる時間はありません。ようするに徳川慶喜が大政奉還をしたあと、幕府側と新政府側の薩長との緊張が高まって、とうとう鳥羽伏見の戦いにいたるわけですが、そこで幕府軍は敗れ、慶喜は八重たちの藩主である松平容保とともに江戸に逃げてかえります。そういう一連のながれのなかで、新政府軍と幕府軍の最後の戦いの場が会津若松になるのです。
 いわば明治維新の総仕上げ、幕引きというか、会津を最大の敵として戊辰戦争がはじまります。
 そのときに八重をとりまく山本家の人たちはどうだったのか。兄の覚馬は少し前から藩主にしたがって京都にいっておりました。大砲隊の指揮官として蛤門の戦いでは長州勢を撃退しております。その後、眼をわるくしておりましたが、藩主の側にあって公用人をつとめておりました。京都におりましたが、鳥羽伏見の戦いのとこには薩摩藩にとらわれてしまいます。会津の生家には四条河原で処刑されたなどと伝えられておりました。
 八重には弟に三郎というのがおりました。この三郎は鳥羽伏見の戦いで負傷して、江戸へ引き揚げましたが、そこで落命したとつたえられておりました。
 山本家は60歳の父・権八、母・さく、覚馬の嫁のうら、娘のみね、八重の夫の尚之介がのこっておりました。
 新政府軍がひたひたと迫ってきて、城下に鐘がひびきわたるのを合図に、山本家のひとたちは全員、若松城にはいります。城にこもって戦うことを決意したのです。
 八重はそのときに髪を立ち、断髪、形見としてとどいた死んだ弟の着物で男装、腰には大小を差して、7連発のスペンサー銃をもって入城しました。
 城にこもった女性の仕事というのはどんなものか。それには3つありました。兵糧焚き(5000人分)、負傷兵の看護、そして弾丸づくり……です。
 けれども八重はそんなものに満足しません。夜になると銃をとって、夜襲に参加しています。会津藩では女、こどもが戦いの場に出ることを禁止していました。なぜかというと兵がいないことをものがたることになる。藩として恥だ……というわけです。
 けれども八重は聞き入れません。藩のほうはこまりはてて、照姫の護衛役にしてしまえ……と、姫様の側近役をおおせつかるのですが、それでも抜けだして夜襲隊に参加していたそうです。
 籠城戦はおよそ1ヶ月つづきましたが、勝負は最初から眼に見えていました。日に日に劣勢になって行く。とくに城の東南にある小田山を占領されてからは、ひどいことになります。
 イギリス式のアームストロング砲という最新鋭の大砲で1日に4000発ぐらい撃ち込まれました。死傷者が続出しました。城側では三の丸に大砲をあつめて応戦するのですが、劣勢はいなめません。
 城内の大砲隊の総指揮にあたっていたのは八重の夫・川崎尚之助でしたが、戦いの後半になると大砲を指揮するモノも少なくなってしまった。やむなく八重が駆り出されて指揮をとったこともありました。
 八重が藩主にも呼に出されたのは、そんなときでした。城内であまりにもおおくの死傷者が出る。これはなぜか、説明せよ……というわけです。当時、藩主容保の側近として井深梶之助(明治学院をつくったひとり)がおりましたが、かれが後日、そのときのようすを語っております。
 そのときに八重は水をかけて消し止めた大砲の弾をもって藩主の御前に進み出て、堂々と説明しました。砲弾を分解してみせ、着発すると、弾のなかにある無数の鉄片が周囲にとびちって、それで負傷者が出るのだと、理路整然とのべたというのです。
 八重は文字どおり火の女のように戦いましたが、そういう男っぽいところばかりではありません。
 戦力の差はどうしようもなく、やがて落城のときをむかえるわけですが、城を立ち去らねばならない前夜のことです。三の丸の倉庫の白壁に、月の光をあびながら、八重は一歌をのこします。

「あすの夜は、いづくの誰か ながむらむ、なれしみ空にのこる月影」

 かんざしで書きつけたのですが、そういうあたりは、いかにも女性らしいといえます。 落城のあと山本家は女性ばかりがのこりました。母と兄嫁、姪です。父の権八は城外に打って出て戦死しています。八重の夫・尚之助はもともと藩士ではありませんから、落城のまえに城を去っておりました。
 戊辰戦争から三年後のことです。死んだと思っていた兄の覚馬が生きて京都でいることがわかった。覚馬は生きているというわけです。
 幕末に眼を悪くした覚馬は鳥羽伏見の戦いのときに捕まり、京都の薩摩藩邸にとじこめられておりました。閉じこめられてといっても、かなり「緩め」の閉じこめだったようです。
 なぜかというと会津と薩摩はかっての同盟関係にありました。覚馬にしてみれば、蛤門の戦いでは薩摩と一緒になって長州を追っ払った同士であったわけです。それに大砲隊の指揮者として覚馬は薩摩の人たちにもよくしられておったのです。
 覚馬が囚われの身であるとき、獄中で口述筆記させて建白書をしたため、薩摩藩に提出したのですが、その内容は「あたらしい国のありかた」をのべた文章でした。それが小松帯刀らの眼にとまり、たいへん高い評価を受けます。
 維新の世になって、それがきっかけで許され、京都府の顧問にむかえられるのです。
 明治の京都府は西洋から先進技術をとりいれて、日本一の産業都市になってゆきます。琵琶湖疎水をつくり、水力発電をやり、電車を走らせ、街の電灯をともしました。日本で初めて小学校の制度的につくった。そういう近代化はすべて覚馬のプランにもとづいておりました。
 八重たちはそういう兄のいる京都にやってきます。京都にやってきた八重は、いちはやく洋装、洋髪の女性になり、英語をまなびはじめています。覚馬の近代化プランによって京都には「女紅場」という日本最初の女学校ができますが、八重はそこで教師をつとめ、英語を学びやがてキリスト教へも接近してゆくことになります。
 八重は過去にとじこもらずに、そういうふうに前へ、前へと進んでゆける女性だったわけです。そういう八重と10年7カ月ぶりで日本にかえってきたアメリカかぶれの新島襄が出会うのです。


新島襄と同志社

 新島襄は最初、大阪にキリスト教主義の学校をつくろうとしていました。しかし大阪の知事が良い返事をしなかった。そこで京都にやってきます。その当時の京都は積極的に外国人をうけいれていました。とくに2代目の知事になった槇村正直は開明派の知事として知られ、話はとんとん拍子ですすみます。
 同志社をつくるにあたっては新島襄を中心にして、宣教師デビス、八重の兄で元会津藩士の山本覚馬が協力、3人の結社としてできあがるのです。
 この3人をはきわめて個性の異なる人たちでした。山本覚馬は八重の兄ですが、会津藩の砲術家であり、洋学者でもありました。会津は明治戊辰戦争では幕府側ですから、明治の新政府からは、閉め出された人物になります
 覚馬という人はたいへん懐のひろい人物で、佐久間象山、勝海舟とも親しかった。幕末から明治の啓蒙家としてしられる西周、当代きっての思想家・横井小楠なんかとも親しい間柄にありました。
 さらに薩摩とも太い人脈をもっていました。すでにのべましたが覚馬は鳥羽伏見の戦のとき薩摩藩に捕まえられ、京都の薩摩藩邸にとじこめられました。そのときに口述で「意見書」をまとめましたが、これはひろい角度から新しい日本のありかたを説いた建白書というべきもので、ゆるされて京都府顧問になったのは、これが岩倉具視や薩摩藩の小松帯刀にみとめられたからでした。京都府顧問になり、のちには初代の府会議長、商工会議所の会頭にもなっています。京都府の顧問というのは、いわば知事の槇村正直のブレーンです。
 宣教師のデビスは南北戦争を北軍の兵士として戦った人物です。だからアメリカのデモクラシーと自主独立の精神を体現した人物だといえます。
 だから同志社というのは密航青年の新島襄、会津藩士で新政府からしめだされた山本覚馬、アメリカ魂の持ち主であるデビスによってつくられています。経歴、個性もまったくちがう人たちのコラボでできあがったといえるでしょう。
 だから、おのずと薩長中心の新政府のめざす学校とは異なるところに同志社は位置づけられていきました。
 だからといって反権力ではない。いわば反中央意識ですね。当時の京都が率先して近代化をすすめたのは、東京には負けたくないという意識からです。遷都によって街をさびれさせてはいけない。だから反中央意識というものが根強かった。そういう流れのなかに同志社もあった。反権力ではなく、あくまで反中央意識です。
 さて新島襄のことばのなかに「一国の良心となる人々」を養成するんだ……とありますが、この「一国の良心となる人々」というのはどんな人なのでしょうか。
 それは民間にあって時代のチェック機能を果たす人々だろうと思います。つまり批評精神のある人たちのことです。
 だから同志社というのは立身出世だけをもとめるエリート・官僚を養成するものではない。人間的にすぐれた人物を養成するんだという意識を強くもち、それを理想としていました。

先生らしくない先生

 新島襄という人物のおもしろさはいくつもあげられますが、なかでも「先生ぶることがなかった」という。そこに新島襄の最大の特徴があります。
 たとえば徳富蘆花は自身の小説作品『黒い目と茶色の眼』のなかで、新島襄はアーモスト大学時代に自分でつくった赤はげた郵便袋のような革鞄を肩にかけて、ひょこ、ひょこと歩いていた……と書いています。
 とても校長先生なんて思われない。そんな風体であったというのです。蘆花でなくても初めて眼にする者は、とても校長先生だとは思わなかった。先生らしくない先生という印象だったといわれています。
 あくまで平民主義というか民主主義的なありかたをつらぬいた先生だったんですね。生徒に対してもまるで友人に語るような接し方をする。頭ごなしに説教するようなところはまったくありませんでした。
 それはやはり10年におよぶ海外経験のせいでしょう。海外でいろんな人に出会って、その人たちに助けられてきた。海外を脱出するときもおおくの友人たちが自分の身の危険をかえりみずに助けてくれた。密航するときは船長たち、アメリカでもハーディ夫妻などが、まるで自分のこどものように援助してくれた。そういうなかで人と人を結びつける絆というものが何であるかを知ったからだといえそうです。だから信用を裏切るようなことをすれば、ものすごく怒りました。
 学校内で、他の教師たちとの関係も、生徒との関係もほとんどイーブンでした。先生として助言はするけれども「こうしなさい」なんてことは絶対に言わない。上下の関係というものを持ちこまないで、個人、個人の意見というものを大切にする。つねにそういうことを心がけておりました。
 初期の同志社は学習というものは生徒たちが主体的にするものだ。教師は単なる助言者なんだというかたちだったようです。そういう自由闊達な精神にみちあふれたところが同同志社であり、そこにあるのが新島精神だったといえます。


新島襄と八重 

 八重はそういう新島襄と結婚します。二人は明治8年(1875)8月に婚約しております。同志社ができる3ヶ月前ですね。そうして明治9年(1876)1月3日、デビス邸でデビスの司式にもとに日本で最初のキリスト教式の結婚式をあげるのです。
 ひるがえって考えてみますと、新島襄と山本八重の結びつきはなるべきしてなった。運命的なものであったと私はみています。
 八重は会津戦争で敗れ、故郷を追われるようにして京都にやってきた人物です。新島襄は許されたとはいえ、国禁を犯した密航青年です。そういう二人、どちらかというと明治の世では、どこかハミ出た存在です。
 事実、新島襄にしてみれば、ざっと周囲をみわたして、八重ぐらいしか結婚相手がいなかっただろうと思います。
 当時の新島襄というのは、ヤソといわれる男です。得体の知れない新興宗教にのめりこんでいるとんでもない男、そういう見方をされていたことでしょう。事実、新島襄にはつねに密偵が張りついていました。当時はキリスト教への反発はまだまだきびしいものがありました。京都はとくにお寺の多い、さらに京都人というのは閉鎖的なところもありましから、他郷の人間で、しかもヤソだといったら、きびしい眼をむける。それが当時の京都人の一般的なありかたでした。
 そういう男と結婚するということは、たいへん勇気が要ることです。京都の女性はおそらく寄りつきもしかなったことでしょう。だから、やはり八重しかいなかったのです。
 当時の八重は英語を学ぶことで、キリスト教に接近しておりました。そして近代というものをうけいれる下地ができていた。さらに自立心に富んでいて、前に前にとすすんでゆける女性だった。正しいと思うことは、なんでもこだわりなく実行する。そういう女性だから、新島襄にもとびこんでゆけたんだろうと思うわけです。
 襄自身も「亭主が右を向けといったら、いつまでも右を向いているような女性はゴメンだ」といっていますから、まさに、そんな襄の理想にかなう伴侶だったということになります。
 襄夫妻の日常生活はすべて西洋式でした。旧新島邸をみるとすべてそうなっています。寝室はベッド、応接間も洋間になっており、椅子式、暖炉があり、オルガンなんかもありまして、これは八重がつかっていたもので、いまでも演奏可能です。
 台所もほとんど現代の家庭の台所とおなじです。床のうえにかまどがあり流し台がある。井戸も室内にある。おもしろいのはトイレです。洋式になっているが木製の板張り、これが日本最初の洋式トイレだといわれています。
 二人が外出するときは人力車に夫婦相乗りです。新島襄は八重のことを「やえさん」と呼び、八重のほうは新島襄のことを「ジョー」と呼ぶ。もちろんレディーファーストですから、人力車にのるときも、降りるときも、襄のほうから手をさしのべます。
 襄たちはアメリカ式の生活を実践しているわけですが、周囲からみれば「これはナンダ」とたいへんなことです。
 けれども新島襄は意識的にやっていたのです。かれは男女同権の考え方をもち、新しい国造りには女性の自立が必要だと考えておりました。おそらく襄がすごしたボストン、ニューイングランドの女性たち、襄は彼女たちにたいへん親切にしてもらっていますが、彼女たちはみんな自立した女性たちでした。
 けれども当時、周囲の眼はきびしいものがありました。京都人にしてみれば八重は「なんという嫁はんや。夫に手をとらせるとは何事や」と、囂々たる非難をあびたにちがいありません。同志社の生徒である徳富蘇峰、蘆花でさえも、八重のことを目の敵にしていました。
 新島襄のほうは意識的にやっている。腹をくくってやっているのですが、それを受け入れる方はたいへんな覚悟がいります。非難されるほうは八重のほうですから。でも、八重はそういう新島襄のやりかたを、こだわりなく受け入れていった。周囲の眼にもひるまなかった。自立心に「とんだ本来の性格というのもあるが、新島襄によって、そういう人間性がひきだされたともいえます。だが周囲の眼は容赦がありませんでした。

 もともと。二人のむすびつき、故郷を喪失した者同士が、見知らぬ京都の地で偶然に知り合い、結婚したにすぎない。しかも、ふたりとも〈耶蘇〉と白い眼でみられる存在でした。
 とくに襄には、たえず監視されている。同志社英学校そのものの基盤も、まだまだ脆弱なものであったはずです。自分たちをとりまく周囲との関係は、たえず緊張していました。さから二人だけで、たがいに支え合ってゆかねばならなかったといえます。
 そういうふうに考えると、二人は日本の近代の幕開けをしたという意味で、同志だった。夫婦であるとともに同志であった。そして八重は日本の近代をひらいた、先駆をなすような女性だったとみることができます。
 そういう八重を新島襄はつねに気遣っています。たとえば台所をつくるのにも、八重の身長から流し台の高さをきめている。竈(かまど)も井戸も屋外につくらずに、すべて室内においています。
 こんな話もある。
 八重は かかとの高い靴を履くんです。ハイヒールを履きます。あまりにも踵が高いので、新島襄は気が気ではなかった。みかねて低く切ってしまった。ある日、八重がみると「かがとが低くなっていた」。それで襄に聞くと「ころぶといけないと思って、私が低くしておきました…と応えています。


書簡にみる新島襄と八重

 新島襄は書簡の人だったといわれます。現存するものだけでも六百数十通を越えています。なかでも注目されるのは、妻八重に宛てた手紙の多さです。
 新島襄が旅にでる機会が多かった。けれども、あれだけ妻に手紙を書いた人は、おそらく、ほかにはいないでしょう。事実、襄は大学設立運動、募金活動に、あるいは伝道のために日本全国を旅してまわり、海外へも二度でかけています。旅先から妻の八重に手紙を書くのです。
 襄がいない家庭では、八重が年老いた舅・姑のめんどうをみなければならない。ところが八重は自己主張の強い女性です。ちょっと当時の女性としてはなみはずれたところがあります。ところが舅・姑のほうは古い人間です。衝突がおこらないはずがないわけです。 八重は誰にも文句をいう相手がいないから、きっと襄に手紙で愚痴っていたんでしょうね。それに答えた新島襄の手紙ものこっています。たとえ明治二三年一月三日付の手紙は、次のように始まっています。

『……御母上様御機嫌克く御越年、殊に御母様には八十四年の御高齢に達され候よし、實に目出度き事と存じ奉り候。右に付ても御年寄の事故、只々日々便りに相成り候は、私と御前様のみ、然るに私は大学の為と申し乍ら、八十餘目も留守に相成り、此の正月も家におらず、此上御前様が御留守に為され候はゞ、実に私の病気がよろしからざるより、御出向の事思し召され、御心配の餘り、若し不慮の事などこれ有り候はゞ、私は甚つらき事にこれ有るべく候』

 当時、襄は大磯の百足屋で療養中でした。前年の一〇月、大学設立資金の募集のために東上した襄は、一一月に前橋で胃腸カタルをわずらい、一二月半ばに東京に引き返し、保養のために大磯に向かいまして、そこで新年を迎えたのです。
 妻八重には一二月一四日付の手紙で病状を知らせている。八重は直ちに看病のために東上すると返信したらしい。それに応えて、再度したためたのが、この手紙なのです。

『……成丈け先きの短く爲られ在る御母様へは、私に代わり御つかへされ候て、先き當分御出の義御見合せになし下され度く候、私の病気よろしからざる時には直に御知らせ申すべく候間、其節は御出下され候になし下され、私も此の冬は成る丈け用心致し、病気にかからざる様仕るべく候』

 新島襄は長文の手紙を、このようにしめくくっています。京都の自家で病臥している老母を案じ、八重に上京を思い止まるよう説いています。さらに翌一月四日にも、同じ趣旨の一文を書き送くるという念の入れようです。

『昨日も一筆申し上げ候通り、御前様の関東に御出の事は、考ふれば考ふるほど上出来とは思われ申さず』と筆を起こし、『殊に八 十四歳にも成られ候御年寄を寒の最中に見捨てて関東に御越し下され候共、御前様にも不安心、又私にも心に甚だ快からず。若しもの事これ有り候節は、耳に御互ひに残念、又世間にも申澤なき次第、又如何にも情として忍び難き所あり』

 重ねて東上を見合わせるよう厳命するとともに、「私も男なり又クリスチャンなり。少しばかりの事は辛抱仕るべく候間、私に御仕え下され候御積りにて、返す返すも御母様に御仕え下され度く候』と、八重にとっては姑にあたる新島とみに孝養を尽くすよう言いふくめているのです。
 二つの書簡はほとんど同一内容です。伝えるべきは三日の手紙で十分つくされているのに、あえてタメ押したのはなぜなのでしょう。おそらく八重が襄の病状を案じるあまり、東上して自ら看病したいと強く言い張ったのでしょう。
 夫の発病を知ったとき、八重は気が気ではなかった。襄の心臓病が相当重かった。八重はそのことを医者から知らされていました。
 そんな八重の心情とは裏腹に、襄はいい気なもので 『國の一大事の爲、斯くの如くも関東に止まり、身も度々病に伏し、種々の不自由を感じ申候へ共、私は元より覚悟の上の事、男子の戦場に出ると同様なりと存じ候。然し、御年齢高き御母様には、杖とも柱とも頼むは、只だ私共両人のみ、その壹人たる私は八十餘年も孝養を欠きき申候上、御前様も関東の御越し遊ばされ候はゞ、義理と云い人情と云い、何分申譯の立たぬ事共なりと存じ候』などと、のんきに書いています。
 母とみの看病を重ねて依頼し、『日々のめしあがりものは、柔らかにして甘きもの、何ぞ魚の軽きものか又は茶碗むしの類を、日々御さし上げ下され、此上は少しも御不足のなき様御注意なし下され度く候』 (一月四日付)と、食事のメニューまで具体的に指示するという徹底ぶりでした。
 襄が母とみの食事の世話まで細ごまと書き記したのは、この手紙がはじめてではないのです。前年の一二月一四日付の文でも、次のように書いています。
『……食物も甘きやわらかき魚類を御さし上げ、最早餘り長き命もこれ有す間敷く候間、御病気の不爲めにならぬ丈けに、御馳走も御さし上げ下され度く候。又クズ湯・あめ湯類は御老體によろしく候間、御差し上げ下され度く候』

 襄と八重は、夫婦であると同時に、同志の関係にあったという側面もあります。ともに時代や社会(周囲)と闘っていて、そういう緊張感がまた夫婦の絆を太いものにしていた。だから、夫が病に倒れたと知ったとき、八重は東上すると強く言いはったのでしょう。さらに無意識のうちに〈夫婦〉のありようを第一に考える習慣がついていた。夫婦単位でものごとを考える。それはアメリカ的な男女関係のありかたですね。
 襄はそんな八重の立場と心情を十分理解しつつも、あえて次のように書いています。

『西洋風ならともあれ、私共は日本人にして日本に働きを爲す身にこれ有り候はゞ、夫婦の間柄よりも親の御事は重んじ申候』

 この一文からみるかぎり、襄は日本的なクリスチャンのモデル家庭をつくろうとしていたと思われます。大学設立とともに伝道による教化にも情熱を燃やしていた新島襄にすれば、それは当然の帰結だったのです。


教育者・新島

 新島襄についてお話するときに、最後にいつもとりあげるのですが、新島襄の教育精神を簡潔に言い表したことばがあります。たいへん単純明快なことばで、3つあります。
 ひとつめは「自己の信念にもとづかないといけない。付和雷同やごまかしはいけない」、ふたつめは「世の中のたまになるように心がけなさい」、最後は「そして何か仕事をしなさい」
 これはご当地・高崎出身で、のちに日本銀行総裁になった深井英五にあてたことばです。しかし深井英五に言ったといっても、三つのことばをまとめて言ったわけではない。もともと新島襄は説教するようなかたち、あるいは訓話をするようにかたちで生徒たちに接することはありませんでした。
 生徒たちは緊張して校長のまえにゆきますが、いつも、これということも言わないので、かえって拍子抜けしてしまった……と、当時の生徒たちは語っております。だから深井英五も、あらたまったかたちで聞いたわけではないんです。
 深井英五は当時、高崎から出てきて同志社で学んでいましたが、学費と生活費は毎月、親元から新島襄のところに送られていました。だから毎月一回、深井英五は新島襄のもとにいって、これをうけとっておりました。そのときに襄と顔を合わせるのですが、あらたまって、まとまったことはいわない。話のついでに、なにかチョコッと短く話すというありまでした。
 先にあげた3つについても、深井英五が後年になって、「そういえば、新島先生は、こんなことを繰り返して言っていたなあ」と、思いだして整理したことばで、まとめれば、この3つになるというのです。
「自己の信念」というのは、自主、自立、自治の精神につながります。そして自己の信念をもつということは他人の信念をみとめるということにも通じます。
「世の中のため」というのはひとつには奉仕の精神があるでしょう。そして「自己の信念にもとづいて」「世の中のために」とつなげて考えると、「自分というモノを大切にしながら、それと同じだけ、他人も大切にせよ」ということになます。
「個人」か「社会」か あるいは「自分」か「他人」か…というように二者択一のかたちでモノを考えてはいけないよ……と。個人を大切にし、それと同じように社会全体を大切にしないといけない。自分を、個人を大切にしない人は、他人も社会も大切にできるわけがないだろうというわけです。
 つまり、自分を、個人を、他人との関係、社会との関係のなかでとらえ、生きて行くのが、ほんとうの生き方である。こんなふうに言っておるように思います。
 最後に「仕事をせよ」というわけですが、これには、いろんな意味がふくまれます。しかし要するに「実践」せよということでしょうね。
 だから……。世の中のために、自己の信念にもとづいた行動を起こせ……。いかにも新島襄らしいことばで、現代の私たちの胸にも突き刺さることばとして生きつづけている。そのように考えます。
 どうも長時間ありがとうございました。

(本稿は群馬県立女子大学の公開講義「群馬県のことばと文化」(2009年後期)第4回の講義内容をまとめたものである)

目次
近代女性の先駆山本八重
雑誌「福島春秋」第3号(歴史春秋社) (1984.01)
洋式銃砲を執った兄妹山本八重と兄覚馬
『会津白虎隊』(戊辰戦争120年記念出版 歴史春秋社刊) (1987.05)
同志社人物誌(57)新島八重
雑誌「同志社時報」No.80(学校法人同志社) (1986.03)
密航が生んだ基督者新島襄
雑誌「歴史と人物」(中央公論社)1984年3月号 (1984.03)
大学創立者から学ぶ 新島襄と同志社
雑誌「早稲田文化」N.35(早稲田大学サークル連合) (1994.04.01)
新島襄と同志社大学
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1986年1月号 (1985.12)
同志社への感慨
「同志社大学新聞」(同志社大学新聞会) 1984年1月20日 (1984.01.20)
これからの私学と同志社 ブランをドラスティックに
「同志社時報」No.86(学校法人同志社)  (1989,3.16)
妻に宛てた二通の手紙
雑誌「同志社時報」No.88(学校法人同志社) (1990.01.23)
新島襄と私
?新聞 (1994?)
山本覚馬と八重
雑誌「新島研究」82号別刷(学校法人 同志社) (1993.5)
新島襄とその妻・八重
群馬県立女子大学「群馬県のことばと文化」講義録 (2009.10.23)

|トップへ | essay3目次へ |