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福本 武久
ESSAY
Part 3 |
福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。 |
新島襄とその時代……会津から京都へ |
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初出:雑誌「同志社時報」No.80(学校法人同志社) 1986.03 |
同志社人物誌(57)
新 島 八 重
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時代に対する感受性を一つの尺度すれば、人間の生きざまは、二つに大別されるだろう。
茫然自失の危機に直面したとき、前向きに〈現在−将来〉に新しい人生を切り拓いてゆこうとするか、それとも過去に閉じこもることで自分を守ろうとするか、つまりポジティブかネガティプかである。
ポジティプに生きた人物の時代に対する感受性は、なみはずれて豊かである。〈前時代〉と〈現在−将来〉のはげしいせめぎあいのなかで生きなければならない孤独さに堪えるだけの骨太さを内に秘めている。
新島八重の生涯はおよそ三時代に分けて考えることができる。会津若松に生まれ育ち、戊辰戦争で洋式銃を執って戦いぬいた娘時代、のちに兄の覚馬を頼って京都に出て新島襄と結婚、洋装のクリスチャン・レディとして生きた時代。そして襄の死後、篤志看護婦として日清・日露戦争時に救護活動に駈けつけた晩年である。
時代ごとに異なる貌を持つ女性として、立ち現われてくるのは、時代をポジティブに生きたゆえだろう。
戊辰戦争と娘時代
八重は弘化二年(一八四五)一一月三日、会津若松鶴ヶ城郭内米代四ノ丁で生まれている。父の権八が三九歳、母の咲が三七歳のとき三女として生まれたのだが、山本家にとっては五人目の子であった。一男二女は早逝し、八重は一七歳年上の覚馬と二歳下の弟、三郎とともに育った。
山本家は砲術師範の家柄である。『山本覚馬伝』(田村敬男編)によると、父の権八は黒紐席上士、家禄は一〇人扶持、兄の覚馬の代には一五人扶持、席次は祐筆の上とあるが、疑問がある。郭内の屋敷割地図を見ると、山本家の屋敷のあった米代四ノ丁周辺は百石から二百石クラスの藩士の屋敷が連なっている。幕末の山本家は、それ相応の家柄だったろうと情勢判断される。
八重の物おじせず快活な気質は生まれついてのものだった。後年、八重自身が『会津戊辰戦争』の著者平石弁蔵宛の手紙に、「私は一三歳のとき、四斗俵を四回も肩に上げ下げしました」と書いているように、男っぽく育っている。
「妾の兄覚馬ほ御承知の通り砲術専門に研究したいましたので、妾も一通り習いました」(『婦人世界』明治四二年一一月)
「……白虎隊の伊東悌次郎(飯盛山で自刃)は小銃習いによくきた。物置からゲーベル銃を出して教えました。(中略)外の白虎隊士も数名鉄砲習いに釆ました」(平石弁蔵宛の手紙)
八重白身が書いているように娘時代の興味は、女らしさとは無縁の鉄砲や砲術であった。その背後には兄の覚馬いる。
山本覚馬は嘉永六年(一八五三)ペリーが黒船をひきいて浦賀にやってきたとき、会津藩江戸藩邸勤番になっている。江戸での三年間、蘭学に親しみ、江川太郎左衛門、佐久間象山、勝海舟らに西洋の兵制と砲術を学び、帰藩するやいなや蘭学所を開設している。
八重にとって多感な人間形成期に兄覚馬の影響は大きかった。兄から洋銃の操作を習うことにより、知らず知らず洋学の思考を身につけていったのだった。
北原雅長『七年史』によると、「川崎尚之助が妻の八重は山本覚馬の妹也」とあり、徳富蘇峰『近世日本国史』にも同じ記載がある。川崎尚之助は但馬出石藩医家の生れで、蘭学と舎密術(理化学)を修めた若くて有能な洋学者だった。安政四年(一八五七)、覚馬の招きにより会津にやってきて、山本家に寄宿するようになっていた。尚之助は覚馬が開設した会津藩蘭学所の教授を勤めながら、鉄砲や弾丸の製造を指揮していた。
八重と尚之助の結婚の時期についての記録は定かではないが、元治二年(一八六五)ごろと推定される。八重一九歳のときである。
八重の後生を決定ずけたともいえる明治戊辰の戦は、尚之助と結婚して三年後に始まっている。
そのころ山本家には訃報が相次いでいた。明治元年(一九六八)一月五日、弟の三郎は鳥羽伏見の戦に参戦、淀で銃弾をあびて、紀州から海路で江戸に逃れたが、芝新銭座の藩邸で死亡。遺髪と形見の着衣が国元に届けられる。
大砲隊を指揮して蛤御門の変を戦った兄の覚馬は、それ以降眼疾にかかり、京都にひそんでいたが、混乱に乗じて蹴上から大津に逃れようとして、薩摩藩兵に捕えられる。会津の山本家には、四条河原で処刑されたと伝えられる。
新政府軍は三万の街道筋から会津を攻め。敵兵が迫り、入城を促す割場の鐘が雨中をついて聞えてきたのは、八月二三日の早朝だった。
八重は大小を腰におび、七連発のスペンサー銃を持って、母の咲、嫂のうら、姪のみねとともに、頭上をかすめる銃弾を避けなが ら、三の丸から入城したのだった。
「私は弟の敵を取らねばならぬ、私すなわち三郎だという気持で、その形見の装束を着て、一は主君のため、一は弟のため、命の限り戦う決心で、城に入りましたのでございます」(前掲『婦人世界』)と書いている八重は、髪を断ち男装、藩兵とともに銃撃に参加、夜襲にも加わっている。
砲術の心得のある八重は、夫の尚之助を助けて大砲隊の指揮も取った。
だが戦の勝敗は初めから決していた。新政府軍の洋式砲、洋式銃のすさまじい威力の前に火力の弱い城側の劣勢は歴然としていた。九月一四日に始まる総攻撃では、一日約二千発の砲弾をあびせられ死傷者が続出、藩主松平容保は降伏を決意する。
八重は降伏の使者が城門を出てゆくさまを見たとき想い出し、「当日の事を考えると残念で、今でも腕を扼したくなります」と語っている。
あすの夜はいづくの誰かながむらむ馴れしみ空に残す月影
この一歌は、城を去る前夜の一二時ごろ三の丸雑物庫の城壁に、八重が月明りを頼りにかんざしで刻んだものであるが、当時の心情が余すことなく凝縮されている。
八重は龍城戦を火の女として戦いぬいた。鉄砲、大砲という近代兵器に眼を向けていた婦女子は他に類がない。けれどもその戦いで父や天とも別れなければならなかった。
玄武隊上土組に編入されていた父の権八は九月一七日、一ノ堰の戦で討死。夫の尚之助は藩籍を持たないために、開城に先立って城外に去っていた。藩家が倒れただけでなく、すがりつくべき一切のものを失って、深い虚脱状態にあったといえる。
新島襄との出合いと結婚
八重が母の咲、姪のみねとともに故郷の会津を後にするのは明治四年(一八七一)二月である。『同志社文学』六二号「山本覚馬翁の逸事」(山本学人)によれば、「越後より攻め寄せたる薩兵の、会津以西三里許の一村落に宿す。其農夫は即ち翁が家の譜代のものなりき。薩兵夫れとも知らず、翁の事を語る。曰く翁は薩邸に在り厚遇を受け、恙がなき故、若翁の親族に遇はば之を伝えよ……」とあり、八重たちは開城後三年経ってから覚馬の無事を知る。一家はこうした経緯で京発ちを決意するのだが、覚馬の妻うらは会津を去ることを拒み、事実上の離縁となる。
覚馬は、すでに明治二年(一八六九)許されて、洋学者として京都府の顧問に迎えられていた。府政の強力なブレーンの一人として教育行政や殖産興業の指導的な役割を担っていたのである。
京都にやってきた八重は、覚馬の影響で英語を学ぶようになり洋髪洋装の婦人として生れ変わる。翌明治五年(一八七二)四月には、日本最初の女学校「女紅場」の舎監兼教師になっている。
兄覚馬のありようは、賊軍といわれた会津人の生きかたの一端を示すものであろう。薩長に敗れた彼らの生きる道は、将来にそなえて文化的主導権を握ることであった。そのために英語を学び、西洋文化を摂取しようとした。兄を頼って京都にやってきた八重もその延長線上にあり、英語を学び、それを媒介としてキリスト教に接近していったのである。
八重と新島裏の出会いは明治八年(一八七五)ごろである。
「……或る日のこと、何時もの通りゴルドンさんのお宅へ、馬太伝を読みに参りますと、ちょうど、そこへ襄が参っておりまして、玄関で靴を磨いて居りました。私はゴルドンさんのボーイが、ゴルドンさんの靴を磨いているのだと思いましたから、別に挨拶もしないで中に通りました」(永沢嘉巳男締『新島八重子回想録』)
明治七年暮に帰国した新島襄は、そのころ大阪にキリスト教主義の学校を開設しょうとしたが果たせず、京都に目標を定めていた。
その襄は『天道遡源』によりキリスト教に理解を示すようになっていた山本覚馬に接近、八重も三条大橋詰の旅館、目貫屋に逗留している襄に聖書を習いにゆくようになる。
新島襄は妻として迎える女性について、「日本の女性の如くなき女子」と父宛の手紙に書いているが、当時として珍しく自我に目覚めた八重は、ある意味で理想の女性だったろう。
明治八年一〇月一五日、八重は新島襄と婚約、翌明治九年一月二日、京都で洗礼を受けた最初の人となり、翌日、宣教師デビスの司式で結婚式を挙げる。襄三二歳、八重三〇歳だった。
キリスト教に対する反発が根強いなかで洗礼を受けることも、キリスト者と結婚することも勇気のいることだったろう。自ら正しいと思うことは、こだわりなく実行する八重の気質を物語る象徴的な出来事である。
仏教各宗派の激しい反対運動があったにもかかわらず、同志社英学校は明治九年一一月に開設され、明治一一年には同志社女学校が正式に開校された。八重はそこで礼法の教師を勤めることになる。母の咲も洗礼を受け、明治一一年から一六年まで女学校の舎監を勤、山本家の人々は、それぞれ新島襄を助けて同志社の基礎を定かなものにしたのだった。
英語を学び西洋文化に触れ、キリスト教に入信した八重。それはかって洋式兵器を操った八重の維新だったが、転生した新島八重の世評はかんばしくない。
京都は因習姑息の地である。すべて外国式の生活を指向する襄の思想と行動を、こだわりなく受け入れる八重に周囲の眼は冷酷なものがあった。洋装で夫と人力車に相乗りしたり、夫と対等に振舞うなど京雀には想像もできないことだった。生徒たちでさえ、徳富蘇峰などのように、花飾のある帽子をかぶり、和服に靴を履く八重を〈鵺〉とあげつらった。
周囲の冷やかな眼をあびても怯まなかったのは、自立心に富んだ本来の性格によるものだろうが、新島襄によって、それが引き出され活かされたせいもあるだろう。
襄は八重をたえず細やかに気遣っている。明治一七年から翌年にかけての欧米旅行中、アルプス登山で心臓発作を起したときのことを振り返って、「自分はそのとき非常に苦しんだ。諸君のことを思い妻のことを思い……」と、のち生徒たちに語っている。(徳富盛花『黒い眼と茶色の目』)
死を直前にした明治二一年五月には吉野の土倉庄三郎に手紙を書き、三百円を預けるから、「マッチ樹木植付のコンパネーとなし下され」と依頼するほどに死後の八重の行く末を案じている。新島襄にとって妻八重は、人生の友であり、同志であったことを物語っている。
八重は一四年の結婚生活のうち、約三分の一を襄の身体を気づかうことに明け暮れた。激務の谷間を縫うようにして療養する夫に付添って、北海道、鎌倉、伊香保、神戸にゆき、献身的に看病している。
明治二一年夏、襄が不治病に冒されていると医師から告げられたときのことを、八重は『亡愛犬襄の発病覚』のなかで次のように記している。
「妾は日夜の看病に疲労し、或時は亡夫の目覚め居れるを知らずして、寝息を伺はんと手を出せば、其手を捕へ、八重さん未だ死なぬよ、安心して寝よ。余りに心配をなして寝ないと、我より先に汝が死すかもしれず、左様なれば我が大困りだから安眠せよと、度々申したり」
新島襄は明治二三年一月二三日、枕として左手を差し出した八重に、「狼狽するなかれ、グッドバイ、またあわん」と最後のことばを残して四七歳の生涯を終える。たえず新島襄に寄り添い、夫の思想と行動をこだわりなく受け入れていった八重を見るとき、新島襄にとって、まさにふさわしい妻であったといえる。
社会福祉活動と晩年
八重は襄の死後は社会福祉活動につくしている。
明治二四年、日本赤十字社の正社員となり、日赤篤志婦人会にも名を連ねている。
明治二七年、日清戦争が始まると、二〇数名の篤志婦人会の会員を率いて、広島に駈けつけ、四カ月にわたって救護に勤めた。日露戦争当時は五八歳になっていたが、再び大阪で救護活動を指揮した。
看護学校の助教師として後進の指導に当りながら、積極的に戦時救護に尽くしたのは、戌辰の龍城戦を経験した八重ならばこそである。
同志社にあっては、「新島のあばあちゃん」と生徒からは親しまれていた。「社員たるもの生徒たちを丁重に扱う可き事」という新島襄の遺言を忠実に守ったのである。
『在学中、何よりも楽しかったことは、新島未亡人の御邸に催される正月のカルタ会に招かれることであった。(中略) 八重子刀自がおからだに似合はぬ優しい声で、「声聞くときぞ秋は悲しき」なんて、高らかに読み給いたる歌に応じ、嬉嬉と、時にはわざと女生徒たちの手を引き掻きつつ、遊ばせて頂いた:…』(東郷昌武『同志社校友会報』六一号)
と、あるように、生徒たちも八重を慕ってしばしば訪れている。
同志社を家とし、生徒たちをわが子とみていた新島襄の遺志を引き継いで、八重は遺産のすべてを同志社に寄付し、昭和七年七月一五日、急性胆嚢炎がもとで八七歳の生涯を終えた。
晩年の穏やかで物静かな容貌をみると、かっての女丈夫の面影や洋装のハイカラなイメージとはほど遠いものがある。
華道や茶道にも造詣が深く、晩年は建仁寺和尚黙雷と茶事を楽しむ毎日だった。和尚から袈裟を受けたため、世間では仏教に帰依したという噂がまことしやかにささやかれたが、終生敬慶なクリスチャンとして神と人に対する奉仕につくした。
八重の生涯を現代の視点から振り返ると、つねに人生を自らの手で拓いていった自立心に富んだ女性だったということができる。今日に伝わる悪評は明治という時代性ゆえだろう。近代的な女性の先駆者としてもっと注目されてもいいような気がする。
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