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福本 武久
ESSAY
Part 3 |
福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。 |
新島襄とその時代……会津から京都へ |
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初出:「同志社時報」No.88(学校法人同志社) 1990.01.23 |
妻に宛てた二通の手紙
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新島襄は書簡の人だったといわれる。現存するものだけでも六百数十通を越えているらしい。なかでも注目されるのは、妻八重に宛てた手紙の多さである。いかに旅行の機会が多かったにしても、あれだけ妻に手紙を書いた人は、ほかに見当たらないだろう。どんなに筆まめでも、相手が自分の妻となると、テレが先に立つものである。生来の律義さゆえか。それとも、もしかしたら……。臆面もなく妻に手紙を書くという行為そのものに、新島襄と八重の夫婦としてのありようを解く鍵があるとみた。
『……御母上様御機嫌克く御越年、殊に御母様には八十四年の御高齢に達され候よし、實に目出度き事と存じ奉り候。右に付ても御年寄の事故、只々日々便りに相成り候は、私と御前様のみ、然るに私は大学の為と申し乍ら、八十餘目も留守に相成り、此の正月も家におらず、此上御前様が御留守に為され候はゞ、実に私の病気がよろしからざるより、御出向の事思し召され、御心配の餘り、若し不慮の事などこれ有り候はゞ、私は甚つらき事にこれ有るべく候』
明治二三年一月三日付の手紙は、このように始まっている。
当時、襄は大磯の百足屋で療養中であった。前年の一〇月、大学設立資金の募集のために東上した襄は、一一月に前橋で胃腸カタルを病んだ。一二月半ばに東京に引き返し、保養のために大磯に向かい、そこで新年を迎えたのである。
妻八重には一二月一四日付の手紙で病状を知らせている。八重は直ちに看病のために東上すると返信したらしい。それに応えて、再度したためたのが、この手紙なのである。
『……成丈け先きの短く爲られ在る御母様へは、私に代わり御つかへされ候て、先き當分御出の義御見合せになし下され度く候、私の病気よろしからざる時には直に御知らせ申すべく候間、其節は御出下され候になし下され、私も此の冬は成る丈け用心致し、病気にかからざる様仕るべく候』
新島襄は長文の手紙を、このようにしめくくっている。京都の自家で病臥している老母を案じ、八重に上京を思い止まるよう説いたのである。さらに翌一月四日にも、同じ趣旨の一文を書き送くるという念の入れようである。
『昨日も一筆申し上げ候通り、御前様の関東に御出の事は、考ふれば考ふるほど上出来とは思われ申さず』と筆を起こし、『殊に八 十四歳にも成られ候御年寄を寒の最中に見捨てて関東に御越し下され候共、御前様にも不安心、又私にも心に甚だ快からず。若しもの事これ有り候節は、耳に御互ひに残念、又世間にも申澤なき次第、又如何にも情として忍び難き所あり』
重ねて東上を見合わせるよう厳命するとともに、「私も男なり又クリスチャンなり。少しばかりの事は辛抱仕るべく候間、私に御仕え下され候御積りにて、返す返すも御母様に御仕え下され度く候』と、八重にとっては姑にあたる新島とみに孝養を尽くすよう言いふくめている。
二つの書簡はほとんど同一内容である。伝えるべきは三日の手紙で十分つくされているのに、あえてタメ押したのはなぜなのだろうか。おそらく八重が襄の病状を案じるあまり、東上して自ら看病したいと強く言い張ったのではないかと情勢判断される。
夫の発病を知ったとき、八重は気が気ではなかっただろう。明治一九年、ヨーロッパ旅行から帰った襄はつねに病気がちだった。八重は結婚生活の約三分の一を夫のからだを気遣うことに明け暮れていた。激務の間をぬうようにして療養する実に付き添って、北海道、鎌倉、伊香保、神戸にゆき、献身的に看病しているのである。
心臓病という不治の病は、何時どんなきっかけで暴れだすか分からない。わずかな体の変調でさえ、それが引鉄となり心臓病が再発、死に至らしめるかもしれないという危険な状態にあった。八重は明治二一年の夏、医師から夫の病状がきわめて深刻な状態にあることを知らされている。事実、この手紙を書いた一週間後の一一日に襄の病状は悪化、一七日には危篤状態に陥り、二三日に四八年の生涯を終えているのである。
そんな八重の心情とは裏腹に、襄は 『國の一大事の爲、斯くの如くも関東に止まり、身も度々病に伏し、種々の不自由を感じ申候へ共、私は元より覚悟の上の事、男子の戦場に出ると同様なりと存じ候。然し、御年齢高き御母様には、杖とも柱とも頼むは、只だ私共両人のみ、その壹人たる私は八十餘年も孝養を欠きき申候上、御前様も関東の御越し遊ばされ候はゞ、義理と云い人情と云い、何分申譯の立たぬ事共なりと存じ候』などと書いている。
母とみの看病を重ねて依頼し、『日々のめしあがりものは、柔らかにして甘きもの、何ぞ魚の軽きものか又は茶碗むしの類を、日々御さし上げ下され、此上は少しも御不足のなき様御注意なし下され度く候』 (一月四日付)と、食事のメニューまで具体的に指示するという徹底ぶりだった。襄が母とみの食事の世話まで細ごまと書き記したのは、この手紙がはじめてではないのである。前年の一二月一四日付の文でも、次のように書いている。
『……食物も甘きやわらかき魚類を御さし上げ、最早餘り長き命もこれ有す間敷く候間、御病気の不爲めにならぬ丈けに、御馳走も御さし上げ下され度く候。又クズ湯・あめ湯類は御老體によろしく候間、御差し上げ下され度く候』
病身の老いた母を想うばかりの気遣いからだったろうが、度を過ごせば嫌味が先に立つ。八重はどのように思っただろうか。武家育ちの八重は、たしかに男まさりの気性だった。あるいは家事も不得手だったのかもしれない。けれども、これほどまで度重なれば、妻として嫁としての面子はまるつぶれである。
「そんなことは、男のアナタに言われなくても、よく承知しています。私なりに考えて、精いっぱいやっているつもりです」
ふつうならプライドを傷つけられて、怒りくるうところである。
八重と姑のとみは、とくに折れ合いが悪かったとは思われない。病身の姑をかかえているのを知りながら、あえて関東で発病した襄のもとに旅立とうとしたのは、ただのわがままからではなかったとみる。八重はおそらく襄との関係、つまり夫婦の関係性を第一に考えていたからだろうと思われる。
新島襄と妻八重はどういう夫婦だったか。二人の結びつきにさかのぼって考えてみる必要がある。
八重は会津藩士の娘、維新の戊辰戦争では男装して鶴ヶ城のこもり、銃砲隊を指揮して戦いぬいた。落城後しばらくして兄の山本覚馬をたよって京都にやってくる。京都の近代化の父ともいうべき兄覚馬の影響で英語を学び、近代女性の先駆者の道を歩みはじめる。しかし賊軍といわれた会津人である。明治維新後の社会、とくに京都では、よるべないストレンジャーであったとみなければならないだろう。新島襄もすでに密航したときから故郷喪失者であったということができる。元治元年六月に函館から脱国した襄はアメリカに渡る。ボストンでキリスト教に入信して、アーモスト大学で学ぶうちに、教育者として生きることを決意、使命感に燃えて明治七年に帰国するのである。ただちにキリスト教主義の学校を開設しようとして、最初は大阪にねらいをしぼったが、果たせず京都にやってくる。そこで八重と運命的に出逢うのである。
ストレンジャー同士の結びつき、それが新島襄と八重の夫婦としての出発点であった。それゆえ夫婦の関係は、当時の日本にあって特異なものだったろう。
結婚を家と家の結びつきと考える日本では、地縁や血縁が背後にある。さまざまな〈縁〉が集団として夫婦を支え、たがいにぶらさがる。襄にも八重にも、そんな強力なバックグラウンドはなかった。故郷を喪失した者同士が、見知らぬ京都の地で偶然に知り合い、結婚したにすぎないのである。しかも、ふたりとも〈耶蘇〉と白い眼でみられる存在であった。とくに襄には、たえず密偵の眼が光っていた。同志社英学校そのものの基盤も、まだまだ脆弱なものであったろう。自分たちを取り巻く周囲との関係は、たえず緊張していたといえる。二人だけで、たがいに支え合ってゆかねばならなかったのである。
襄と八重は、夫婦であると同時に、同志の関係にあった。それゆえ夫が病に倒れたと知ったとき、八重は東上すると強く言いはったのであろう。無意識のうちに〈夫婦〉 のありようを第一に考える習慣がついていたのである。夫婦単位でものごとを考える。それはアメリカ的な男女関係のありかたである。
襄は八重の立場と心情を十分理解しつつも、あえて次のように書いている。
『西洋風ならともあれ、私共は日本人にして日本に働きを爲す身にこれ有り候はゞ、夫婦の間柄よりも親の御事は重んじ申候』
この一文からみるかぎり、襄は日本的なクリスチャンのモデル家庭をつくろうとしていたと思われる。大学設立とともに伝道による教化にも情熱を燃やしていた新島襄にすれば、当然の帰結なのである。
二つの手紙から、ほのみえてくるものは……。ひたすら完壁な結婚生活や家庭のビジョンを追い求めようとしていた襄と八重の葛藤である。
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