福本 武久
ESSAY
Part 3
 福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
 新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。
新島襄とその時代……会津から京都へ
初出:雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1986年1月号  1985.12

 新 島 襄 と 同 志 社 大 学




「黒い眼の温かい光」を持った師

《……郵便脚夫の持つ様な革嚢(かばん)を左の肩にかけた洋服の人に手招きせられ、三寮下の教場に踉(つ)いて往って、これを読んで御覧と出された日本略史を、其洋服の人の黒い眼の温かい光に気を得て敬二(徳富廬花)はすらすらと読んだ。此れで入学試験は済みました、勉強なさい、と云はれて敬二は天にも上る心地になった。洋服の人は、校長飯島先生(新島襄)であった》

 『不如帰』で知られる徳富廬花は、自伝小説『黒い眼と茶色の目』で、新島襄と初めて会った時のことを、このように書いている。
 アーモスト大学時代に自分で造ったという赤はげた郵便袋のような革鞄を肩にかけて、生徒の前に現れる新島を、初めて見る者は誰しも校長先生などとは思わなかっただろう。
 新島は、生徒たちに決して大人ぶるところがなかった。反旗をひるがえして退学しながら、終生の師とした徳富蘇峰に与えた「大人にならんと欲せば、自ら大人と思う勿れ」という一言を、大人気取りばかり鼻につく現代の教育者は、よく噛みしめる必要がありはしないか。
 新島は誰に対しても「……さん」と呼び、「……くん」とは呼ばなかった。生徒だろうと車夫や用務員だろうと分け隔てがなかった。「自分を先生と呼ばずに、単に新島さんと呼んでください」と言ったが、それだけは生徒たちも納得しなかったという。
 新島は、あくまで民主的な姿勢を貫き、権威主義と官僚主義を嫌った。それは一〇年間過したニューイングランドで学んだピューリタニズムとデモクラシーの精神によるものだろう。
 新島襄は天保一四年一月、安中藩江戸屋敷内で生れている。父は右筆職で中流の藩士だった。襄もその職につくよう命じられたが興味を示さず、だからといって武士として剣に生きるつもりもない。一三歳のときに蘭学に興味を持ち、やがて英学に接近してゆく。
 当時すでに幕藩体制の将来に見切りをつけていたが、志士の運動にも巻きこまれず、だからといって開国論者でもなかった。けれどもどこかに、進取の気性を秘めた青年であった。一八歳のとき幕府の海軍伝習所に入り、代数、幾何、航海学を学び、航海術を実習、二二歳になって、密航を胸に秘めて、函館に向う。
 新島襄が、なぜ密航を決意したのか。それはペリーの米国軍艦や、かれが直接眼にしたオランダ軍艦による衝撃だった。欧米の科学・技術にはすさまじいものがある。西洋に学んで、その遅れを取りもどしたい。そして日本の国家独立に役立てよう。キリスト教への接近も、渡航前に関してはヨーロッパ・アメリカの合理主義へのあこがれだった。


 キリスト教主義で市民育成を

 函館から国外脱出に成功した新島は一年後に、念願のアメリカにたどり着く。ニューイングランドのボストンである。そこでハーディ夫妻という敬虔なクリスチャン実業家の後援を獲たことも、その後の運命を決定づけたといっていい。
 ハーディの支援を受けて、密航者新島はア一モスト大学で自然科学を専攻、その間に受洗、卒業後はアンドバー神学校に入学、明治七年に卒業する。
 新島はアメリカで何を学んだか。自然科学から西洋文明に接近したが、あくまで興味の持ちかたは、電信・電話とか表面上のものではなかった。アメリカ文明成立の背景を学んだのである。
 当時のアメリカは南北戦争直後で、精神的にもヨーロッパ文化から独立した活気あふれる国だった。植民地を持たないだけでなく、奴隷解放により国内の植民地さえなくしてしまった。自主・独立の気風に満ちた国だった。ニューイングランドで過した新島ほ、ピューリタンの精神とデモクラシーの精神がアメリカを築いたと考えるようになった。それを日本の若者に伝えることが自分の使命だと考える。
 新島の渡米中に日本は大きく変貌していた。明治の世になり、密航青年の新島も許されて正式の海外留学生となり、新政府から手を差しのべられる人材に一変した。明治四年、岩倉使節団の訪米のときは、通訳としてヨーロッパを歴訪、政府仕官を勧められる。だが終始耳をかたむけることもない。帰国に際して、アメリカの海外伝道会社から自由にキリスト教が伝道できるように帰化しないかと言われるが、これをも聞き入れない。
 新政府からもアメリカの海外伝道会社からも縛られない自由な日本人として、キリスト教主義の学校設立の夢を抱いていたからである。自由・自主・自立の精神もニューイングランドの風土から身についたものだった。
 新島の理想とした学校は宣教師の養成だけでなく、キリスト教の精神にもとづいた在野の市民を育てるもので、それにより国家に尽くそうとした。
 帰国に先立って新島はバーモント州ラットランドの海外伝道会社の大会で、日本にキリスト教主義の学枚をつくりたいと演説、五千ドルの寄付を得て、明治七年一一月に一〇年ぶりに帰国する。帰国して一カ月後に学校設立に着手、翌八年一一月に「同志社英学校」をひらいた。


「同志社英学校」の設立

 同志社は強い使命感に燃える新島を中心に、宣教師デビス、会津藩士山本覚馬による結社であった。
 デビスは大学在学中に南北戟争に参戦、北軍の兵士として戦いぬいた。奴隷制度廃止のために銃を取ったかれは、アメリカの自立・独立の精神を新生日本に伝えようとした。
 山本覚馬は、もと会津藩の砲術家であった。砲術研究から蘭学を学び英学に接近して洋学者となる。蛤御門の変では大砲隊を指揮して長州軍を撃退した。その直後に視力を失い、鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩に捕えられた。獄中で口述により新しい日本のありかたを説いた『管見』が新政府に注目され、許されて京都府顧問に迎えられる。京都は明治初期、日本で最も進んだ近代都市だったが、その産業政策・教育制度・医療制度は、すべて山本の『管見』にもとづいていた。
 新島襄とアメリカ精神を伝えたデビス、そして盲目の洋学者山本覚馬の結びつきは、おのずと薩長中心の新政府のめざす学校とは異なるところに同志社を位置づけていった。新島の「同志社大学設立の旨意」には、つぎのように記されている。
「一国を維持するは、決して二三の英雄の力に非ず。実に一国を組織する教育あり、知識あり、品行ある人民の力に拠らざる可からず。是等の人民は一国の良心とも謂ふべき人々なり。而して吾人は即ち此の一国の良心とも謂ふ可き人々を養成せんと欲す」
 つまり、一部のエリートを養成する官学とちがって、民間にあって時代のチェック機能を持つ若者の育成を理想としていた。そして、あくまで宣教師の養成だけにとどまらず、キリスト教主義による新しい人材「其の身命を衡って日本国の為に働くところの、政治家、実業家、宗教家、教育家」を養成し「我が日本国の独立を益々堅固ならしめる」ことを目的としたのである。
 ガリ勉型・立身出世主義の若者をもとめるのではなく、「知識あり、品行あり、自ら立ち、自ら治むるの人民」をもとめる、いわばボトムアップ運動をめざしたと言っていい。
 初期の同志社は自由と自治の雰囲気に満ちていた。教師は教壇に立つときも袴をつけず、教師と学生の区別もほとんど判別がつかなかった。上級生で成績優秀な者は下級生を教授することもあった。学生は独習するのが原則で教師は単に質問に答え、指導するのが役割であった。寮規則なども学生が主体的に定め、校内雑務も学生にやらせて勉学の資に充当させた。
 まるで私塾にもひとしい学校から明治・大正期を代表する各界の指導者が生れたことを考えると、自由闊達な精神が満ちあふれるところにこそ、真の教育が存在するのだということがわかる。
 新島襄の教育理念を反映してか、同志社はビッグな政治家や実業家を生み出さず、職業軍人などは全く見当らない。しかし、思想・宗教・教育の分野での指導者は数多い。
 明治・大正期のキリスト教界の代表的牧師・海老名弾正、小崎弘道、金森通倫、柏木義円。哲学者では元良勇次郎。早稲田の文学科の草創期を開いた大西祝、安部磯雄、そして浮田和民(法学博士)らは、早稲田に新風をもたらした人物だった。社会事業家としては救世軍の山室軍平、留岡幸助。ジャーナリストでは名高い徳富蘇峰。文学者では徳富蘆花、湯浅半月(詩人)など。実業界では日銀総裁になった深井英五がいるが、あくまで例外的な存在だった。
 初期の同志社の生んだこれらの人たちは、いずれも当時の指導的人物として異彩を放っていた。


 安部磯雄と新島襄

《最初は地文学の試験だった。西洋人が英語で試験するのかと思ったら、協志社(同志社)の教授で一方腫れぼったく一方は小さい片ちんばの眼をした矢部さん(安部磯雄)が、邦語で二三の試問をして、ある個所の訳読をさした》
 徳富蘆花は安部磯雄についても『黒い眼と茶色の目』のなかで、このように書いている。
 蘆花は明治一一年に同志社に入学、二年後に兄の蘇峰が新島襄に叛いて退学したときに一度故郷熊本に帰っている。六年後に再入学したときは、かつて一年後輩で英語の読本の手ほどきをしてやった安部磯雄は、教授として試験を担当していたのである。安部は冷汗を流しながら蘆花に向い合い、簡単な訳読だけで満点を与えたという。
 安部磯雄は早稲田大学教授として、社会民衆党総裁として、あるいは学生野球の父として知られているが、著書『社会主義者となるまで』のなかで、「宗教よりも、政治よりも、教育がもっとも適している」と自らを語っている。それは教育者としての新島襄に感銘を受け、自らの理想像を見出していたからだろう。
 安部は著書『青年と理想』のなかで新島襄について、「私が先生の謦咳に接したのは前後十二年であって、決して長いとは言えないが、然も先生の人格的薫陶を受けるには充分であったと信ずる」と書いている。
 新島の深い生徒愛についても、同書の「其時代の先生と学生生活」で、つぎのようなエピソードをあげている。
 「私が二年生であった時、疔(ちょう)に病んで臥床した際にも先生は親しく私を慰撫し、且つ見舞いとして蜜柑一包みを贈った。私の親友であった同窓生が京都府立病院で死亡した際にも、先生はそれが早朝であったにも拘らず、早速病院を訪問したのみでなく、棺の中に敷く蒲団を新調してこれを私共に届けた。最後に先生は此の学生のために葬式説教をなし、列席者を感泣せしめた」
 学生一人一人の人格を尊重し、等しく愛した師、民主主義的な気風にあふれ、権威に屈しない師の姿には、安部ならずとも惹きつけられるだろう。
 安部は後に社会主義者となるが、急進的ではなく温厚なキリスト者としての風貌を漂わせていた。それは、ほとばしる熱情を胸にひめながらも外に向っては、篤い信仰から穏やかさとなってにじみ出る新島襄の影響が大きかったからだろう。


 常に底辺の人に眼を向ける

 安部磯雄は、慶応元年二月福岡黒田藩士の岡本権之丞の次男として生れている。安部姓を名乗るようになったのは徴兵のがれのためである。当時六〇歳以上の扶養家族がいなければ徴兵免除の特典が与えられなかった。そこで六〇歳以上の老人のいる家を探して一五円を支払って名義上、安部家の養子となったのである。
 安部は明治一二年三月、小学校を優秀な成績で卒業したが、明治維新後実家が貧しかったので上級学校にはゆかず、地元の漢学塾に入門した。同志社に入学するきっかけは、義兄が磯雄の才能を惜しんだためである。義兄は海軍軍人を志し、英語取得のために同志社に入学していた。磯雄を海軍軍人にするために同志社に学ばせようと父親を説き、学資の援助を申し出たのである。
 入学当時、海軍軍人を志す安部は同志社がキリスト教主義の学校であることも知らなかったという。だが同志社で学んだ五年間が安部の運命を変えることになる。安部は「眼光桐々人を射るという半面には何人も吸引せねば止まぬという愛橋が溢れ」る新島襄に決定的に出会うのである。
 あの有名な校長自責事件は安部が入学した翌年四月に起こっている。事の起こりは明治二年九月入学の二年上級組と明治一二年入学の二年下級組とを生徒数が少ないので、学校当局が合併を決定したことにある。新島の旅行中のことである。上級組は不満だった。その不平組を最上級生の徳富蘇峰らが煽動、ストライキに突入するのである。
 旅行から帰った新島は説得に努め、騒ぎは収拾に向うが処分問題で苦悩する。処分を行わなければ校則違反を認めたことになり、処分を行えば不平組は学校を去ってゆく。
 新島は思案のすえ、三尺ばかりの白木の杖を持って朝の礼拝の壇上に立った。ストライキ問題に触れたあと、「教師の罪でもまた諸君の罪でもない。校長である私の不徳のいたすところである。校長はいまその罪人を罰するのだ」と言って、白木の杖で自分の手を打ちつづけたのである。
 学生を思い、たえず苦楽をともにする新島襄、そして自由でデモクラシーの気風に満ちた雰囲気に安部は眼を見はった。二年生になると海軍軍人志望を捨て、キリスト教を心の支えにするまでになる。
 同志社を卒業した安部は二年後に教授として迎えられ、翌年の明治二〇年四月に岡山教会へ牧師として赴任する。牧師時代は社会事業に眼を向け、大原孫三郎(倉敷紡績社長、大原社会問題研究所・大原美術館の創始者)らとともに岡山孤児院を積極的に支援した。
 明治二四年にはアメリカ留学の機会にめぐまれる。留学の目的は聖書と社会問題の研究であった。安部はハートフォード神学校で三年間学び、ベルリン大学に移る。ところが一年後に岡山教会が洪水で大被害を受けたことを知る。安部はすぐに帰国して教会の再建を果たし、明治三〇年一月に同志社にもどる。
 そのころの同志社は学園のありかたをめぐって紛糾していた。騒動に巻きこまれた安部は、在職二年で同志社を去り、親友の岸本能武太の推薦で東京専門学校(早稲田大学の前身) の講師となる。
 授業の傍ら社会主義運動に参加するのもこのころからである。級友であった村井知至が会長を務め、片山潜、幸徳秋水らが名を連ねる社会主義研究会に入会、同志社の精神を記した理論家として頭角を表す。同研究会を母体にした社会主義協会の中心メンバーとなり、明治三四年には、「社会民主党宣言書」を発表、社会民主党を結成した。同宣言書は安部の起草したもので、普通選挙法と比例代表制を要求するなど画期的なものだった。安部のもくろみは、あくまで議会制民主主義による社会主義の実現であった。
 こうした安部の穏健な思想が急進派に受け入れられるはずがなく、やがて社会主義運動のリーダーシップは、幸徳秋水、堺利彦らの手に移ってゆく。
 だが、安部は世の不正を許さず、社会の底辺の人々に眼を向けるというキリスト教的人道主義の立場を終生失うことはなかった。後に昭和三年の第一回普通選挙では、社会民衆党委員長として当選、国会に活動の舞台を移す。日中戦争が起こると、党員ですら軍国日本に同調してゆくが、安部は党員の地位を擲ってまで終始反対の姿勢を貫き通した。
 早稲田大学教授としてあるときも、その活躍ぶりはユニークだった。そのころの早稲田には政治学の浮田和民(同志社第一回卒業)、英語の岸本能武太がいた。安部は浮田らとともに早稲田にキリスト教的な学風を持込み、後に「同志社学風の輸血」と言われるように、新風をそそぎこんだのである。
 安部は大学では社会問題を講義した。ベルが鳴らないうちに教室にやってきて、時間通りに授業して、絶対に脱線しないという凡帳面さだった。学生たちは「夜昼がいっしょに来たか安部磯雄、起きた眼もあり寝たる眼もあり」と唄ったが、高度な理論と人間性豊かな人柄で学生たちからは親しまれていた。
 教壇だけではなくグラウンドでも学生に接し、明治三四年から二五年間にわたって早稲田大学の野球部長を務め、学生野球界の発展にも尽くしている。学生野球史に名を残す飛田穂洲(とびたすいしゅう)は安部の弟子に当る。
 安部磯雄には教育者・社会事業家・政治家、いくつもの顔があるが、キリスト教による人道主義という太い一本の線で貫かれていた。そのバックボーンとなっていたのは新島婁の自由・自治・平民主義であった。


 新島精神の純粋な継承者

 徳富蘆花と同級だった柏木義円も『黒い眼と茶色の目』に登場している。
「‥…入学から卒業まで五年間押通しに安子(中国、春秋時代の宰相)のごとく色の褪めた黒木綿の紋付羽織一枚をひっかけているにこにこ顔のソクラテスの柊さん」が柏木義円である。
 新島襄が大磯で四八歳の生涯を終え、その葬儀が行われるに当り、祈躊者に指名されたのが、この柏木だった。そのことはいかに柏木が新島から嘱望されていたかを物語っているだろう。
 学生間で行われる同志社十傑の投票でも〈思想家〉として選ばれていることからして、在学中から相当の信望があったといえる。
 地方教会の一牧師として生きた柏木義円を知る人は少ないが、非戦平和のキリスト者としての一生を見るとき、新島襄の自立の精神を最も純粋に受け継いだ弟子だったということができる。
 柏木義円は、大老井伊直弼が桜田門外で刺された万延元年三月、越後国三島郡与板に生れている。実家は浄土真宗の寺院であった。父の徳円はもと安中藩の武士であったが、出家して与板に移ったという。
 維新の変動で生家は貧しく星野恒私塾、東京師範学校に学び、卒業後は義兄の世話で群馬県碓氷郡の細野小学校に教師として赴任した。キリスト教に関心を持ち始めたのは、細野村村長の荻原州平と知り合ったのがきっかけだった。荻原は新島寒から洗礼を受け、安中教会の執事を務めていた。柏木は寺に生れながら仏教を信仰せず、キリスト教の社会性に惹かれてゆくのは、安中教会のキリスト教徒に触れたからだろう。
 明治一三年、柏木は同志社に入学、漢文を教えて学資を得ながら本科に学ぶが、学資がつづかず一年で中退、群馬県に帰らねばならなかった。
 明治一七年一月、安中教会牧師海老名弾正から洗礼を受けて間もなく、失意の柏木は思いがけなく新島襄から、はげましの手紙を受け取った。
「君、勉めよ。天国の途、花の山の如し。苦辛なんぞ恐れん」
 わずか一年で挫折した一学生にもかかわらず、新島襄は忘れていなかったのである。
 柏木は新島を慕って、その年再び同志社に入学することになる。同級生には徳富蘆花がいた。蘆花は九歳下だったが、死ぬまで柏木を尊敬し、夫人の愛子は柏木から洗礼を受けている。
 柏木は同志社でキリスト教、経済学、社会思想、文学などを学ぶ傍ら、徳富健次郎(蘆花)らとともにクラス雑誌「無名雑誌」を主宰するなど文筆活動にも積極的だった。
 明治二二年に同志社を卒業してからは、熊本洋学校の校長代理として赴任、明治二五年には再び同志社に帰り、予備校主任となって代数と作文を教えた。
 そのころの生徒に山室軍平、山川均がいた。山川は自伝のなかで、当時の柏木について「……先生夫妻の日常生活を見て、なるほどこれが聖徒の生活だなと思った」と、その清貧ぶりに感服し、山室は、言文一致の文章を学んだことを印象深く語っている。
 明治三〇年、同志社では学校のありかたをめぐって小崎弘道と湯浅治郎が対立した。柏木は小崎に殉じて浮田和民とともに辞職、第四代安中教会牧師として安中にもどった。
 以降三八年間、柏木は福音を説き、『上毛教界月報』を舞台に非戦平和を訴えつづけた。


 柏木義円と「非戦論」

 『上毛教界月報』は明治三一年一月、編集者柏木義円、発行者大久保真次郎で発刊された。この雑誌は安中を中心とした上毛地方の教会を結ぶミニ・コミ誌であった。一教会の機関誌ではなく、教派を越えての連帯をめざしていた。
 同誌は、内村鑑三、小崎弘道、海老名弾正、新渡戸稲造、安部磯雄、吉野作造など当時のすぐれた言論人が寄稿している。級友の徳富蘆花も文を寄せ、柏木自身も社会評論や時評を書いていた。
 民友社の徳富蘇峰はマス・コミのジャーナリストだったが、柏木はミニ・コミの先覚者で、草の根の文化運動をめざしたといえる。 非商業雑誌の同誌が長期にわたって毎月発行されたことは画期的なことだった。それは牧師でありながら、すぐれた評論家であり、ジャーナリストとしての手腕もある柏木にして、初めてできることだった。
 柏木の非戦論が展開されるのは、日露戦争のころからだった。
 日本のキリスト教は、日露戟争のころから、次第に国家権力にからめ取られてゆく。当時のキリスト数の指導者、小崎弘道、海老名弾正、植村正久なども日露戟争が始まると、ロシアの侵攻に対する防衛戦争だと主張するようになる。
 けれども柏木は、ヒューマニズムの立場から、戦争を非難し平和を説きつづけた。その宗教的立場からの非戦平和の提言は終始一貫していた。キリスト教界は平和を説きながら、戦争が始まると国家の方針に同調する節操のなさに柏木はがまんならなかったのだろう。
 明治四四年、日本組合教会が朝鮮総督府から機密費をもらって朝鮮伝道に着手しようとしたときも、湯浅治郎とともに猛然と反対した。キリスト教の伝道を軍部の大陸侵略の道具にしてはいけないと主張したのだった。
 このように柏木義円はキリスト者のなかでも、信念を貫いた特異な存在であった。
 同志社のなかでも、〈熊本バンド〉と呼ばれる創立期の人たち、たとえば小崎弘道、海老名弾正、横井時雄、徳富蘇峰などのように、後には世俗の権威と結びついた者もある。新島襄は同志社大学設立運動などで、大企業や権力者からも寄付を受けるが、あくまで自由と自立を貫くという稀有な才覚の持ち主であった。
 その意味で、公正な正義感にあふれた柏木は、新島の自立の精神をしかと受け継いでいたと言うことができるだろう。


「哲学的ビジネスマン」を生む

 深井英五は徳富蘆花の後輩に当る。後に民友社で机を並べることになる深井について蘆花花は、『黒い眼と茶色の目』のなかで、「入学早々英語にかけては図抜けた秀オと其評判は最早薄々敬二(蘆花)等の耳に入って居た浅井敬吾(深井英五)と云ふ少年」と書いている。
 深井は入学当初より注目され、徳富蘆花から何かと親切を受けたようである。
 日本銀行総裁となった深井は、人生の契機について三点をあげている。新島襄から同志社教育を受けたこと、徳富蘇峰の指導を受け国民新聞の門を経て世に出たこと、松方正義の知遇により大蔵省・日銀に就職したことである。
 松方に深井を推薦したのは蘇峰であり、蘇峰に出会ったのは、その弟廬花や級友の平田久を通じてであった。いずれにしても同志社時代の縁故によっている。そして同志社入学は新島襄との出会いに始まっている。
 深井自身が、「人生の心構えに就いては、新島先生に負う所が最も多く」と書いているように、人生の出発点は新島によって開かれたといえる。
 深井英五は明治四年一一月、上野国高崎で、旧高崎藩士の五男として生れている。生家は明治維新後は没落、小学校時代は弁護士を志したが、家庭の経済事情から望むべくもなかった。上級学校に進むこともできず、やむなく母校の助教員を務めながら、英語を学び始める。向学心に燃える英五の心をとらえたのは、英語学習のために出入りしていた教会の雰囲気である。当時キリスト教はヨーロッパ近代に連なっていた。失意の英五は、やがて洗礼を受けるまでになる。
 受洗は深井の向学心を奮い立たせる絶好のチャンスを引き連れてきた。
 明治一九年秋、新島襄が米国の友人ブラウン夫人から委託された奨学金の支給者を物色するために郷里の群馬県にやってくる。高崎キリスト教会の牧師星野光多は、深井を新島に推薦、一六歳の深井は直ちに同志社英学校普通科に入学することになる。
 在学の五年間、深井は得意の英語をはじめ政治、経済、社会哲学などを学んだが、最も興味を持ったのは哲学であった。哲学者ビジネスマンの素地は、すでにこの時代にできあがっていたのである。
 深井は同志社に入学してから毎月一度、新島邸を訪れ、襄から直接奨学金を受け取っていた。深井は、その時のようすについて次のように語っている。
「……然し毎月自ら金を手渡しにされると云うのは私に接触の機会を与える趣旨であったに違いない。又或る時の休みには何処かに旅行して来いと云われて別に金を下さったり、自分の家の柿を持って来て下さるとか、代金は先生の方で払われて写真を撮って来いなどと云われて、謹厳冷静の裡に私をして温みを感ぜしめられました」(講演「私と先生」)
 新島の深井に接する態度は、訓話をするという形ではなく、まるで友人に自分の体験を語るかのように人生の心構えを説いている。あまりにも淡々としていて、深井がむしろ拍子ぬけするほどだった。
 けれども教育者新島は折りに触れて、深井の心にクサビを打ちこんでいた。深井は印象に残る新島のことばとして、次の三点をあげている。
「第一には、自己の信念に立脚しなければならぬ、付和雷同や、誤魔化しではいけない……。第二には、単に自己生活の為に働くのではいけない、世の中の為になるよう心掛けなければならぬ……。第三には、何か仕事をしなければいけないと云うことであった」(講演「私と先生」)
 この平明なことばのなかに新島の教育精神が過不足なく盛りこまれている。「自己の信念」「世の中のために尽くす」「仕事をする」、深井は、後にこの三つのことばを思い出し、実践的人生を歩み始めるのである。


 高橋是清の「女房役」

 深井は明治二四年、二一歳で卒業するが、そのころ人生に懐疑的になり、苦しんでいた。職にもつかずにぶらぶらしている深井を救ったのは、徳富蘇峰であった。国民新聞社に勤務している級友の平田久の紹介により蘇峰は深井に手を差しのべるのである。
 蘇峰は深井の生活費のために、外国新刊書の抄録を書かせて民友社から出版することにした。この時、深井の胸によみがえったのが、新島の「仕事をせよ」という教えだった。「実行は正にある。その実行をなるべく良く成せばいい」と考え、蘇峰のもとで外国の政治・法律書をつぎつぎに読破してゆくことになる。明治二六年には国民新聞社の社員になり、後には外報部長にもなっている。
 国際法に興味を持ち、日本国際法学会の創立に参加、新聞記者として大隈重信、松方正義、青木周蔵など政・財界人とも接触した。 なかでも明治二九年春、蘇峰の欧米旅行に随行したことが、深井にとっては後に大きな幸運を呼ぶことになる。半年の旅行でトルストイに会い、国際法学の大家オックスフォード大学のホランド教授、タイムス紙のキヤッパーなどと親しくなり、深井の目は大きく開かれてゆく。
 明治三三年、深井は蘇峰の推薦より、大蔵大臣松方正義の秘書官になるが、長くはつづかなかった。内閣更迭で三カ月で浪人、松方の推薦で一年後の明治三四年一〇月に日本銀行に入行する。当時の日銀総裁は山本達雄、副総裁は高橋是清であった。
 深井は山本総裁から、「調査を以て行務に貢献せよ」と言われ、検査局調査役のポストを与えられるが、間もなく卓越した語学力と幅広い見識を生かすチャンスがやってくる。日露戦争が勃発、思いがけなく深井の実務家としての活躍の場が開けてくるのである。
 日露戦争は裏を返せば、イギリス、フランス両国金融資本の極東における主導権争いであった。ロシアが軍費をフランスからの外債によったのに対し、日本はイギリスに外債を求めた。ロンドン市場での外債募集の成功が日露戟争勝利の一因となったのだった。
 交渉委員には日銀副総裁の高橋是清が選ばれ、深井は補佐役として随行することになった。明治三七年二月、深井は高橋とともに横浜港を出港、三年間ロンドンで外債募集という重要な任務に全力を尽くすことになる。当時パリ市場では、ロシアの公債が値上がりしていたのに対してロンドンでの日本公債は値下がり気味で客観情勢は、きわめて不利であった。そうしたなかで高橋と深井はロンドンの銀行を説得しつづけ、戦費一五億円のうち一三億円を外債で調達したのである。
 緒戦の勝利が有利に働いたせいもあるが、何よりも世論を盛り上げたロンドン・タイムスのキャンペーンが大きかった。それは旧知の間柄になっていたタイムス紙編集次長キヤツパーを説得した深井の熱意によるものであった。
 高橋是清の深井に寄せる信頼は絶大だった。帰国後、営業局長になってからは、日銀の本流を登ってゆく。高橋の影に添うようにたえず深井がいた。昭和一〇年、高橋が大蔵大臣のとき、深井は日銀総裁に就任している。
 深井は実務家でありながら、哲学者になりたいという志を終生持ちつづけ、晩年はすぐれた哲学論文、経済、金融論を著わしている。国家の運命を自己の発展ととらえ、知性をもって国家に貢献しょうとした稀有なビジネスマンであった。


目次
近代女性の先駆山本八重
雑誌「福島春秋」第3号(歴史春秋社) (1984.01)
洋式銃砲を執った兄妹山本八重と兄覚馬
『会津白虎隊』(戊辰戦争120年記念出版 歴史春秋社刊) (1987.05)
同志社人物誌(57)新島八重
雑誌「同志社時報」No.80(学校法人同志社) (1986.03)
密航が生んだ基督者新島襄
雑誌「歴史と人物」(中央公論社)1984年3月号 (1984.03)
大学創立者から学ぶ 新島襄と同志社
雑誌「早稲田文化」N.35(早稲田大学サークル連合) (1994.04.01)
新島襄と同志社大学
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1986年1月号 (1985.12)
同志社への感慨
「同志社大学新聞」(同志社大学新聞会) 1984年1月20日 (1984.01.20)
これからの私学と同志社 ブランをドラスティックに
雑誌「同志社時報」No.86(学校法人同志社) (1989.03.16)
妻に宛てた二通の手紙
雑誌「同志社時報」No.88(学校法人同志社) (1990.01.23)
新島襄と私
? 新聞 (1994 ?)
山本覚馬と八重
雑誌「新島研究」82号別刷(学校法人 同志社) (1993.5)
新島襄とその妻・八重
群馬県立女子大学「群馬県のことばと文化」講義録 (2009.10.23)

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