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福本 武久
ESSAY
Part 3 |
福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。 |
新島襄とその時代……会津から京都へ |
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初出:雑誌「福島春秋」第3号(歴史春秋社) 1984.01 |
近代女性の先駆ー山本八重
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砲術師範の娘として男っぽく育つ
山本八重(後の新島八重)の生涯はおよそ三時代に分けて考えることができる。
会津若松に生まれ育ち、戊辰(ぼしん)戦争で洋式銃をとって戦いぬいた娘時代、のちに兄の覚馬を頼って京都に出て新島襄(にいじまじょう)と結婚、洋装のクリスチャン・レディとして生きた時代。そして襄の死後、静かに自適の生活をおくりながらも、たとえば日清・日露戦争のときのように、篤志(とくし)看護婦として救護活動に奔走した晩年である。
時代ごとに異なる貌(かお)を持つ女性として、立ち現れてくるのは、時代をポジティブに生きたゆえだろう。つねに時代の先端をアクティブにあゆんだトッブレディであった。
八重は弘化二年(一八四五)一一月三日、会津若松鶴ヶ城下の郭内(かくない)米代(よねしろ)四ノ丁で生まれている。弘化二年は阿片(あへん)戦争が終わってから二年後にあたり、イギリス船が長崎にやってくるなど、日本沿岸がにわかに騒がしくなったころである。いわば日本の夜明けといわれる時代に生まれており、八重のその後の生と考え合わせるとき、きわめて象徴的だといえる。 山本家の遠祖は甲州武田信玄に仕えた山本勘助である。系譜をたどれば会津藩祖保科正之につかえた武田家ゆかりの山本道珍なる人物にゆきあたるが、道珍の祖先が山本勘助だというのである。
保科政之は徳川二代将軍秀忠の第四子だったが、信州高遠の藩祖保科正光の養子にむかえられ、寛永八年(一六三一)信州高遠藩三万石を相続、五年後に出羽最上藩に移封となり、さらに寛永二〇年(一六四三)会津藩二三万石の藩主となり、会津松平家の藩祖になった。
道珍は保科正之が信州高遠藩主だったころ、遠州流の茶師として江戸で召し抱えられている。八重の山本家は道珍の次男の系列にあるのだが、いずれにしても先祖は藩祖保科正之の移封にともなって高遠から出羽最上へ、そして会津へとやってきたのである。
山本家は代々兵学をもって仕え、八重の祖父左兵衛の代に砲術師範を拝命している。左兵衛は江戸に出て高島流の西洋砲術を伝習、それを国もとの会津につたえ、小銃の鋳造にのりだすなど火砲の改良につとめ、会津藩ではじめて藩士たちに小銃や大砲の操作法を教授した。
『改訂増補山本覚馬伝』(田村敏男編)によれば、父の権八は黒紐席上士、家禄十人扶持、兄の覚馬の代には、十五人扶持、席次は祐筆の上とあるが、それはおそらく職棒であろう。郭内の地図によると山本家の屋敷のあった米代四ノ丁周辺は、百石から二百石クラスの藩士の屋敷が連なっている。藩公から馬を与えられ、馬手の者をふくめて若党、小者も何人かいたところから情勢判断すると、山本家も幕末時は百石から百五十石の家柄であったろう。
八重は父権八が三九歳、母のさくが三七歳のとき三女として生まれているが、山本家にとっては五人目の子であった。
母のさくは八重にとって祖父にあたる佐兵衛の独り子で、一七歳のとき、婿養子として藩士永岡繋之助を迎え、繋之助は後に権八と改名している。さくは嫡子覚馬を産んだ後、一男一女を幼少時にうしなった。そのため八重は一七歳年長の兄と二歳ちがいの弟、三郎とともに育った。
八重の物おじせず快活な気質は生来のもので、さらに「私は十ニ歳のどき、四斗俵を四回も肩に上げ下げしました」と。彼女自身が後年『会津戊辰戦争』の著者平石弁蔵に語っているように、どちらかといえば男っぽく育っている。そういえば八重の残した書や和歌をみると、その筆づかいは男性的で、歌調も素直に自らの心情を熱っぽく表現したものが多い。
娘時代すでにして白(びゃっ)虎隊(こたい)の少年に操銃を教えるまでに、近代兵器である洋式小銃を操作することのできた八重。「妾(わたし)の兄覚馬は御承知の通り砲術を専門に研究していましたので、妾も一通り習いました」(平石辨藏『會津戊辰戦争』と、自ら語っているように、彼女の娘時代の興味は、女らしさとは無縁の銃砲や洋学であった。その背後にたえず見え隠れするのは兄覚馬の影である。
八重の兄、山本(やまもと)覚(かく)馬(ま)は明治二年(一八六九)京都府顧問となり、新島襄が同志社を設立するときはその結社人として名を連ね、以降京都府会議長、京都商工会議所会長を歴任、明治期の京都の発展を支えた人物である。
覚馬の年譜をみると、嘉(か)永(えい)六年(一八五三)ペリーが黒船をひきいて浦賀にやってきたとき、会津藩江戸藩邸勤番となっている。江戸での三年間、蘭学に親しみ、江川太郎左衛門、佐久間象(しょう)山(ざん)、勝海舟(かつかいしゅう)から西洋の兵制と砲術を学んだ。帰藩するやいなや、蘭学所(らんがくじょ)の開設と新式銃による兵制改革を建言したのは、黒船を眼のあたりにしたからだろう。
八重にとっては人間形成期にあたるこの時期、兄覚馬の影響が大きかったとみる。覚馬から洋銑のあつかい方を習うことにより、知らず知らずのうちに洋学の思考を身につけていった。西洋の合理主義的な思考をわがものにする素地は、すでに会津時代から育まれていたのである。
最初の結婚
北原雅長著『七年史』によると、「川崎尚之助が妻八重は山本覚馬の妹也」とあり、徳富蘇峰(とくとみそほう)著『近代日本国史』にも同じような記載がある。
川崎尚之助は但馬出石藩医師の倅(せがれ)で、戊辰戦争時は三一歳であったという。江戸で蘭学と舎密術(理化学)を修めた彼は当時、神田孝平、加藤弘之らとならぶ若くて有能な洋学者であった。覚馬の招きにより会津にやつてきて山本家に寄宿するようになったのは、安政四年(一八五七)である。
尚之助は覚馬が中心となって開かれた会津藩蘭学所の教授として蘭(オランダ)語や学理を教えただけでなく、舎密術の知識を生かして鉄砲や弾丸の製造を指揮し、ラッパや銅製のハトロン(薬莢)を考案した。 尚之助はアイディアマンで軍略家としても独創的なものがあった。『史実白虎隊』の著者である早川喜代治氏によると、戊辰戦争の直前に、とてつもない戦略を提言している。
いわば巨大砲による防御戦略とでもいおうか。まず背炙山の山上に大きな溶鉱炉を造って、会津にあるすべての寺院の釣鐘をあつめて溶かし、砲身三間半の巨砲を二門つくる。砲門一門について、円行燈のような砲弾を一二個用意して、一〇里先の白河、二本松、越後国境の鳥井峠や母成峠から攻めてくる敵勢を迎え撃つというのである。背炙山から見下ろしつつ砲撃すれば勝利はまちがいないとかれは豪語していた。
後に尚之助はあの籠城戦で銃砲隊の指揮を執り、八重とともに籠城戦を戦いぬいた。尚之助はおよそ一一年にわたって、会津の弱点というべき銃砲による戦略を支えつづけたのである。
八重と尚之助の結婚は、元治二年(一八六五)ごろと推定される。八重二十歳のときである。尚之助はそのころ会津にやってきてすでに八年経っていたが、まだ藩士として取立てられてはいなかった。
藩士の子弟の婚姻には藩庁の許可を要する状況からみて、藩籍を持たない浪人の尚之助と八重の縁組みはなんとも不可解である。ましてや当人同士の意思によるわけもなく、二人の結びづきは彼らのまったくあずかり知らぬところで意図的に運ばれていたと考えるほかない。
有能な尚之助を会津にとどめておくために、八重を妻(め)合(あ)わせた。そして、そこには兄の覚馬の意思が介在していたのではないか。
男装して近代兵器を操る
八重の後生を決定づけた明治戊辰の戦は、尚之助と結婚して三年後に始まっている。
戊辰正月の五日、弟の三郎は鳥羽伏見の戦に参戦、淀で銃弾をあびて、紀州から海路で江戸に逃れたが、芝(しば)新銭座(しんぜにざ)の藩邸で死去、その遺髪と形見の着衣が国もとに届けられる。
兄の覚馬も消息がとだえていた。蛤御門の変で砲隊をひきいて長州勢を撃退した覚馬は、それ以来眼疾(がんしつ)にかかり、京都にひそんでいたが、鳥羽伏見の戦いのさなか、薩摩藩兵に捕まえられえいたのである。会津の山本家へは、四条河原で処刑されたと伝えられていた。母のさくはそのとき、「決して流言にまどわされてはならぬ」と言いふくめ、一家の動揺を鎮めたという。
新政府軍が会津若松に迫り、入城をうながす割場の鐘が雨中をついて聞えてきたのは、八月二三日の早朝だった。
八重は大小を腰におび、七連発のスペンサー銃を手にして、母のさく、嫂(あによめ)のうら、姪のみねとともに、頭上をかすめる銃弾を避けながら、三の丸から入城した。
「私は弟の敵を取らねばならぬ。妾すなわち三郎だという気持で、その形見の装束を着て、一は主君のため、一は弟のため、命の限り戦う決心で、城に入りましたのでございます」(前掲「婦人世界」)とあるように、八重は決意をしめすがごとく男装で城にはいった。
「入城後、妾は昼は負傷者の看護をして居りましたが、夕方になり、今夜出撃と聞きましたので、妾も出ようと脇差しにて髪を切り始めましたが、なかなか切れませんので、高木盛之輔の姉ときをさんに切って貰いました。/城中婦人の断髪は妾が始(はじめ)でありました。それから、そっと仕度をして大小を差し、ゲーベル銃を携え、夜襲隊とともに正門を出ました。(中略)妾は命中の程は判りませんが、余程射撃をしました」
八重自身がのちに『會津戊辰戦争』の著者・平石辨藏に語っているように、昼間は負傷者の救護や兵糧(ひょうろう)づくり、弾丸づくりと運搬などにあたり、夜になると大小を腰に差し、銃をもって夜襲隊にもぐりこみ、城外にとびだしていったのである。
新政府軍の洋式砲の威力はすさまじく、火力の弱い城側はたちまち劣勢になった。城の東にある小田山が制圧されてからは、山頂にアームストロング砲、メリケンボード砲が集められ、間断なく城中に砲弾をあびせられた。
とくに九月一四日から始まった総攻撃の時には、一日に約二千発の砲弾が撃ちこまれた。砲弾が城内のあちこちに炸裂して土煙をあげた。飛来する砲弾を水にぬらした布団などでくるんで消しとめるのも八重たち女性やこどもの仕事であった。
城側は主力砲を三の丸から豊岡社に配置して応戦したが、砲術の心得のある八重は、このとき夫の尚之助とともに砲隊の指揮をとった。
「総攻撃開始、銃砲弾丸縦横に飛び、猛火東西に起り、天守閣は殆(ほと)んど弾(だん)巣(そう)となり、昼夜無数の砲弾を被(かぶ)り、附近の樹木折れ、瓦石は飛び、百雷絶えず鳴動する如(ごと)く、死傷従って相踵(つ)ぎ、時々刻々凄惨の状を極(きわ)む。之に対し、城砲只(ただ)一門、護衛隊とともに豊岡社にありて、小田山の敵砲と相対す。砲師川崎荘之助(=尚之助))克(よ)く戦い、山本八重子亦(また)能(よ)く之を助け……」(前出の『会津戊辰戦争』)
だが城側の死傷者は日を追ってふえつづけた。
鶴ヶ城のまもりは堅固で、新政府軍もかんたんには攻めこめなかった。だが城内では兵糧がそこをつき、武器弾薬も不足、なによりも死傷者が続出、やがて場内の井戸の多くは死者でいっぱいになってしまうほどだった。。さらに同盟関係にあった奥羽越諸藩のほとんどが降伏、会津の孤立はふかまっていた。やむなく藩主父子松平容保、喜徳は降伏を決意、九月二十二日に開城すると告げられた。
降伏の白旗を三流用意しなければならなかったが、白布はすべて繃帯に使いつくされていた。やむなく小布を集め、女子たちの手で白旗に縫い合されたのだった。泣きの涙で針はすこしもすすまなかったという。
後に八重は「当日の事を考えると残念で、今でも腕を扼(やく)したくなります」と、みずから語っている。
戦の最中に十字架の死を見る
あすの夜はいづくの誰かながむらむ
馴れしみ空に残す月影
この歌は、城を去る前夜の一二時ごろ三の丸雑物庫の白壁に、八重が月明りを頼りに記したものである。戦いに敗れた当時の心情が余すところなく凝縮されている。
八重は籠城戦を火の女として戦いぬいた。鉄砲、大砲という近代兵器に眼を向けていた婦女子は他に類がない。けれどもその戦いで父や夫とも別れなければならなかった。
玄(げん)武隊(ぶたい)上士組に編入された父権八は、九月一七日、一ノ堰(いちのせき)の戦で討死。夫の尚之助とも開城のときが別離のときとなった。開城後の行方についてもいまひとつ判然としないものがある。尚之助は日新館の教授として俸給を受けていたものの正式な藩士ではなかった。会津にのこる記録の多くには「浪人砲術師」とあり、山川健次郎でさえも「但馬辺の浪人」(『山川先生遺稿』)と書いている。ならば尚之助は藩籍を持たないため、開城に先立って城外に去ったとみるのが最も自然だろう。すがりつくべき一切のものを失った八重はまさに深い虚脱状態にあったといえる 。
八重の兄覚馬は、西郷頼母(さいごうたのも)、神保(じんぼ)修理(しゅうり)、河原善左衛門などとともに、会津藩のなかで数少ない非戦論者の一人であった。
黒船を眼のあたりにして、外(がい)夷(い)の驚異を皮膚で感じた彼は、「国内では争うべきでない」と力説し、藩主容保にまで言上していた。
八重は籠城戦で洋式小銃を握り、大砲隊を指揮しながらも、たえず兄のことが念頭から離れなかっただろう。だが藩家に仕える家柄の者として戦わなければならない。戦わなければ家屋敷はおろか生命までも奪われてしまう。彼女はおよそ一カ月の城ごもりの間、そういう苦悩に苛まれていたのである。
会津戦争を戦った女性としては、たとえば中野竹子に代表されるように、薙刀(なぎなた)で戦った娘子隊(じょうしたい)があまりにも有名で伝説化されている。だが、当初より洋銃で戦をするつもりでいたという八重に勝る婦女子はいない。近代兵器で戦った女性は他に類がないからである。
火の女となって戦った八重が眼にしたものは、次々と砲弾に斃れてゆく藩兵、女子こどもであったろう。その戦死者のおかげで彼女は生き残ったのである。戦死者は身代りとしてすべての罪を背負って果て、生き残った八量は救われた者として、その恵みにあづかったのである。無意識のうちに十字架の死を見出したのではなかろうか。
開城そして京都へ
八重が母のさく、姪のみねとともに兄を頼って京都にむかったのは、明治四年(一九七一)一一月である。
「同志社文学」 六二号「山本覚馬翁の逸事」(山本学人)によれば「越後より攻め寄せたる薩兵の、会津以西三里許の一村落に宿す。其農夫は即ち翁が家の譜代ものなりき。薩兵夫れとも知らず、翁の事を語る。曰く翁は藩邸に在り厚遇を受け、恙なき故、若翁の親族に遇はば之を伝えよ……」とあり、八重たちは覚馬の無事を開城後三年経ってから知った。
一家はこうした経緯で京発ちを決意するが、覚馬の妻うらは会津を去ることを拒み、事実上の離縁となる。
覚馬はそのころ京都府顧問の地位にあった。日本最初の小学校を開設、教育や殖産興業の指導的役割を担っていた。もともと京都勤番のときから市内に洋学所を開いていた彼は、西周(にしあまね)を始め多くの洋学者と親しくしていた。たえず西洋の事情に眼を向けており、薩摩藩邸の獄舎(ごくしゃ)にいた時も、新しい国家のありかたを模索しつづけ、口述による意見書『管見(かんけん)』を著している。それが薩摩藩の重臣だけでなく、中央政府の要人にも認められ、明治二年(一八六九)に許されて京都府に迎えられたのである。
京都にやってきた八重は、覚馬の影響を受けて英語を学ぶようになり、洋髪洋装の婦人として生まれ変る。翌明治五年(一八七二)四月には、日本最初の女学校「女紅場」の舎監兼教導試補に任じられている。
明治六年(一八七三)にひらかれた京都博覧会のとき、初めて外国人の入京がみとめられたが、このとき英文の『京都名所案内』(活版印刷)が刊行されている。それは覚馬のアイディアによるものだったが英訳したのは八重だったのである。
覚馬のありようは、賊軍(ぞくぐん)といわれた会津人の生き方の一端を示すものであろう。薩長(さっちょう)に敗れた彼らの生きる道は、将来にそなえて文化的指導権を握ることであった。そのために英語を学び西洋文化を摂取しようとしたのである。政治の場から閉め出された旧幕臣の多くも、同じ道をたどっている。
兄を頼って京都にやってきた八重も、その時代の流れと無縁ではなく、英語を学び、それがきっけけでキリスト教に接近していったのである。
新島襄と出合い、そして結婚
八重と新島襄の出合いは明治八年(一八七五)初めのころである。
新島は元治元年(一八六四)六月に函館から脱国、アメリカに渡り、アンドバー神学校、アーモスト大学で学び、明治七年(一八七四)暮に帰国、大阪にキリスト教主義の学校を開設しようとしたが果せず、そのころ京都に目標を定めていた。
「或る日のこと、何時もの通りゴルドンさんのお宅へ、馬(マ)太(タイ)伝を読みに参りますと、ちょうど、そこへ襄が参っておりまして、玄関で靴を磨いて居りました。私はゴルドンさんのボーイが、ゴルドンさんの靴を磨いているのだと思いましたから、別に挨拶もしないで中に通りました」
と八重自身が、その出会いを語っている。(永澤嘉巳男篇『新島八重子回想録』以降は「回想録」と記す)
やがて襄は、山本覚馬がすでに 「天道(てんどう)潮源(そげん)」を読んで、キリスト教の本質を理解していることを知り、たびたび山本家を訪れてくる。八重も三条大橋西話の旅館、目貫屋(めぬきや)に逗留していた襄に聖書を習いにゆくようになる。だがその時、まだ八重は襄の眼中になかった。
襄の理想の女性は、「日本の女性の如(ごと)くなき女子」であると、父宛の手紙でのべている。もっと具体的に彼の理想の妻像を語る部分が「回想録」にある。
或る折、槙村さんは襄に向って、「あなたは妻君を、日本人から迎えるのか、外国人から迎えるのか」と尋ねられました。襄は、「外国人は生活の程度が違うから、やはり日本婦人をめとりたいと思います。しかし亭主が東を向けと命令すれば、三年でも東を向いている東洋風の婦人はご免です」
つまり夫にただ仕え従うだけの女性を望んではいなかったのである。それならば、ふさわしい女性がいる……と、知事の槇(まき)村(むら)正直(まさなお)が推したのが、八重であった。その経緯が伏線となって、明治八年(一八七五)の夏、二人は決定的に出合う。そのくだりを「回想録」から引用してみる。
「私はあまりの暑さに耐えかねて、中庭に出て、井戸の上に板戸を渡して、その上で裁縫をしておりました。その時ちょうど、襄が兄の許へ遊びに来て、「妹さんは大危ないことをして居られる。板戸が折れたら、井戸の中へ落ちるではありませんか」と注意しました。兄は「妹はどうも大胆なことをして仕方がない」と話しました。その時、襄は槙村さんから聞いた話を思い出して、もし私が承諾するなら婚約しょうかと、その後、私の挙動に目をつけるようになったそうであります。」
襄が八重に理想の女性像を見出したのは、キリスト教の本質を理解していると判断したからだろう。日本人は木々や草、花など自然のすべてにさえ神を見る。井戸には水神さまが宿っているとみる。だからそのうえに座ることなど、罰あたりこのうえもない行為となる。
キリスト教の神は唯一絶対である。世上のすべてのものは造り主としての神の意思で存在している。「神」のとらえ方が根本的に異なっている。
井戸の上に座るという八重の姿を見て、襄は咄嵯に、彼女が日本的な発想にとらわれておらず、キリスト教の「神」の意味も定かに認識していると思ったのではなかろうか。
八重は新島襄と明治八年(一八七五)一〇月一五日に婚約、翌明治九年(一八七六)一月二日、京都で洗礼を受けた最初の人となり、翌日、宣教師デビスの司式で結婚式を挙げた。新島襄三二歳、八重三〇歳だった。キリスト教に対する反発がまだ根強く、「耶蘇(やそ)」と後ろ指を差され、白眼視される風潮のなかで女性が洗礼を受ける。それは勇気のいることだったろう。正しいと思うことは、こだわりなく実行する八重の気質を物語る象徴的な出来事である。
新島襄の最大の理解者として
仏教各宗派の大反対があったにもかかわらず、明治九年(一八七六)一一月、官許同志社英学校が開設され、明治一一年(一八八八)九月には同志社女学校が正式に開校した。
八重はそこで礼法の教師を勤めることになる。母の佐久も洗礼を受け、明治一一年から一六年まで、女学校の舎監(しゃかん)となり、山本家はそれぞれに新島襄を助けて同志社大学の基礎を定かなものにした。
英語を学び西洋文化に触れ、キリスト教に入信した八重。それはかつて洋式兵器を操(あやつ)った八重の明治維新であったが、転生して新島八重となってからの世評は、かんばしいものではなかった。
洋装で夫の襄と人力車に相乗りするさまに、京雀たちは白い眼を向けてきた。当時生徒の徳富(とくとみ)蘇(そ)峰(ほう)は、花飾りのある帽子を被り、和服に靴を履く八重の姿を見て、「鵺(ぬえ)」とあげつらい『蘇峰自伝』のなかでも、八重が自分たちの面前でさえ、新島襄に馴々しくするのが、しゃくにさわった、とのべている。「男女七歳にして席を同じゅうせず」という時代に、臆することなく夫と人力車に相乗りし、夫と対等にふるまう八重にがまんならなかったのだろう。
すでに男女同権の思想を抱き、新しい国づくりには女性の自立が必要であると説いていた襄にしてみれば、"人力車の相乗り"は、一種のデモンストレーションでもあった。その夫の思想と行動をこだわりなく受け入れた八重をみるとき、新島襄にとって、まさにふさわしい妻であったといえる。
周囲の冷やかな視線をあびても怯(ひる)まなかったのは、自立心に富んだ本来の性格によるものだろうが、新島襄によって、それが引き出され、活かされたのだと思う。八重は幸せだったろう。
新島襄はそんな八重をたえず細やかに気遣っている。ほほえましいエピソードを、二、三あげてみよう。
結婚後まもなくのころである。八重が外出しようと、靴箱から英国製のハイヒールを出したら、いつのまにか踵が低くなっている。驚いて襄に告げると、「あなたが倒れてはいけないから、襄が切りました。実は結婚前からそれが心配でならなかったのです」と、こたえたという。
新島襄は明治一七年(一八八五)から翌年にかけて欧米旅行したが、アルプス登山で心臓発作を起した。「自分はそのとき非常に苦しんだ。諸君のことを思い妻のことを思い……」と、後に生徒たちに語って聞かせている。(徳富蘆花「黒い眼と茶色の目」)
心臓病に罹り、死を直前にした明治二一年(一八八九)年五月には吉野の山林王といわれた土倉庄三郎に手紙を書き、三百円を預けるから、「マッチ樹木植付のコンパネーとなし下され」と依頼するほど、自分の死後の八重の生活を案じている。襄にとって妻八重は、人生の友であり、同志であったということをよくものがたっている。
八重は一四年の結婚生活のうち、約三分の一を、襄のからだを気づかうことに明け募れた。明治一九年(一八八七)、欧米旅行から帰国した襄はつねに病気がちだった。激務の谷間を縫うようにして療養する夫に付添って、北海道、鎌倉、伊香保、神戸にゆき献身的に看病している。
明治二一年(一八八九)夏、襄が不治の病に冒されていると医師から告げられたときのことを、八重は 「亡愛夫襄の発病覚」で次のように記している。
「妾(わたし)は日夜の看護に疲労し、或時は亡夫の目覚め居れるを知らずして、寝息を伺(うかが)はんと手を出せば、其手を捕へ、八重さん未だ死なぬよ、安心して寝よ。余り心配をなして寝ないと、我より先に汝が死すかも知れず、左様なれば我が大困りだから安眠せよと、度々申したり」
小康を得たときは、くつろいですごすこともあった。
「……襄が死ぬ前の年の明治二十一年(実際は二十二年春=筆者)でしたが、神戸の和楽園という僻地に参って居りました。他に何も慰めがなかったので、縁のところで、空気銃で的を打って、数取りなどして遊んでいましたが、数取りでは、何時も私が勝っていました」(回想録】)。
いかにも八重らしくて、ほほえましい。
襄は明治二三年(一八九一)一月二三日、胃腸カタルから腹膜炎に罹(かか)り、大磯の百足屋(むかでや)で四七歳の生涯を終えた。
枕として左手を差し出した八重に、「狼狽(ろうばい)するなかれ、グッドバイ、またあわん」と最後のことばを残して絶命した。
たえず新島襄に寄り添い、夫の思想と行動をこだわりなく受け入れていった八重をみるとき、新島襄にとって、まさにふさわしい伴侶であったといえる。
社会福祉に眼をむける。ー晩年−
八重は夫襄の死後四十数年を社会福祉活動につくした。
明治二四年(一八九二)、日本赤十字社の正社員となり、日赤篤志看護婦人会にも名を連ねている。
明治二七年(一八九五)、日清戦争が始まると、二〇数名の篤志看護婦人会の会員をひきいて、広島に駆けつけ、四カ月にわたって救護に当った。日露戦争時は五八歳になっていたが、再び大阪で救護活動を指揮した。
看護学校の助教師として後進の指導にあたりながら、積極的に戦時救護に尽力したのは、いかにも戊辰の籠城戦を経験した八重なればこその行動だといえる。
そして同志社にあっては、「新島のおばあちゃん」と生徒たちに親しまれていた。「社員たるもの生徒たちを丁重に取扱う可き事」という襄の遺言を忠実にまもった。八重自身がこどもに恵まれなかっただけに、生徒をわが子のように思い、慈愛にみちた眼を向けたのだろう。
「在学中、何よりも楽しかったことは、新島未亡人の御邸に催される正月のカルタ会に招かれることであった。(中略)八重子刀自がおからだに似合はぬ優しい声で、「声聞くときぞ秋は悲しき」なんて、高らかに読み給ひたる歌に応じ、嬉嬉と、時にはわざと女生徒たちの手を引き掻きつつ、遊ばせて頂いた……】(「同志社校友会報」六一号、東郷昌武)と、あるように、生徒たちも八重を慕ってしばしば訪れている。
同志社を家とし、生徒たちをわが子とみていた襄の遺志をひきついで、八重は遺産のすべてを同志社に寄付し、昭和七年(一九三二)七月一五日、急性胆嚢炎がもとで八七歳の生涯を終えた。
晩年の穏やかで物静かな容貌をみると、かつての女丈夫な面影や、洋装のハイカラなイメージとはほど遠いものがある。
華道や茶道にも造詣が深く、晩年は建仁寺派管長の竹田黙(もく)雷(らい)と茶事を楽しむ毎日だった。黙雷から袈裟(けさ)を受けたため、世間では仏教に帰依したという噂がまことしやかにささやかれたが、終生敬虔なクリスチャンとして、神と人に対する奉仕につくした。
十字架のうえより さしたるひかり
ふむべきみちをば てらしておしう
八重の愛唱した賛美歌の一節だというが、まさにそれにふさわしい生きかたであった。
八重の生涯を現代の視点からふりかえると、つねに人生を自らきりひらいていった自立心に富んだ女性だったといえる。今日に伝わる悪評は多分に徳富蘇峰、蘆花らの喧伝(けんでん)によるものだが、それは明治という時代の暈(かさ)の範囲にとどまるものである。
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