福本 武久
ESSAY
Part 3
 福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
 新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。
新島襄とその時代……会津から京都へ
初出「同志社大学新聞」(同志社大学新聞会) 1984年1月20日 1984.01.20

 同 志 社 へ の 感 慨




 繰り返しては見る夢がある。夢の中でぼくは、まだ学生のなのである。どういうわけか、長い間、講義に出ていないという状況設定なのである。明日は登校しようと時間割表を捜すが、それすらみつからない。苛立って途方に暮れているところで眼が醒める。だからぼくの意識はいつも宙ぶらりんのままである。
 ぼくが入学したばかりのころについては、キャンパスが、ただやたらと人ざかりで、むんむんしていたというほか、いまは何も憶えていない。語学や体育課目の登録のために何時間も列をなしてならんだ。
 そのころ「アラスカ魂」という映画が上映されていた。ゴールドラッシュをテーマにした作品である。いまだにそのテーマソングを耳にするたびに、当時の自分の状況がオーバーラップして面映ゆい気分になる。
 顧みると、ぼくは同志社人としては落ちこぼれである。
 チャペルにいった回数より、同立戦にいった回数のほうが、はるかに多い。講義に出た時間と学館の部室や西北荘、どちらが上回って居るか判断もつきかねる。
 新島襄の「自責の杖」の逸話も、現象的にしかみていなかったので、「何といやなやつなのだろう。目撃した者は、たまえらなかっただろうな」という想いを抱いたまま、卒業してしまった。
 そんなぼくが、このほど新島八重を主人公にした小説を2冊刊行した。夫人を主人公にすれば当然、新島襄にも触れざるを得ない。そんなわけで、ぼくなりに襄を理解しようと努めた。できるかぎりの資料に眼を通して新島襄の全体像を、おぼろげにつかみ、ようやく建学の精神や、あの自責の杖に連なる思想にも出会うことができた。
 その気になれば、在学中に知ることができただろうが、誰からも教わらなかったように思う。
「求めよ。さらば与えられん」という精神が脈々と息づいているからだろうか。建学の精神や伝統すら、あえて無理強いしようとはしない。そこにあるのは底ぬけにおおらかな自由さである。
 求める自由と、求めない自由をひとしく認めた上で、求めない者は、そのことでもたらされるであろう結果責任を引き受けてゆかねばならない。真の自由教育精神が、在ったのではないかと、いまあらためて思い返している。
「会津おんな戦記」(筑摩書房)「新島襄とその妻」(新潮社)2冊本を書いて、ようやくぼくは精神的な意味で卒業したのかも知れない。
 もうあの奇妙な夢をみて、うなされることもなくなるだろう。こじつけかもしれないが、そうあってほしい。


目次
近代女性の先駆山本八重
雑誌「福島春秋」第3号(歴史春秋社) (1984.01)
洋式銃砲を執った兄妹山本八重と兄覚馬
『会津白虎隊』(戊辰戦争120年記念出版 歴史春秋社刊) (1987.05)
同志社人物誌(57)新島八重
雑誌「同志社時報」No.80(学校法人同志社) (1986.03)
密航が生んだ基督者新島襄
雑誌「歴史と人物」(中央公論社)1984年3月号 (1984.03)
大学創立者から学ぶ 新島襄と同志社
雑誌「早稲田文化」N.35(早稲田大学サークル連合) (1994.04.01)
新島襄と同志社大学
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1986年1月号 (1985.12)
同志社への感慨
「同志社大学新聞」(同志社大学新聞会) 1984年1月20日 (1984.01.20)
これからの私学と同志社 ブランをドラスティックに
「同志社時報」No.86(学校法人同志社)  (1989,03.16)
妻に宛てた二通の手紙
雑誌「同志社時報」No.88(学校法人同志社 (1990.01.23)
新島襄と私
? 新聞 (1994 ?)
山本覚馬と八重
雑誌「新島研究」82号別刷(学校法人 同志社) (1993.5)
新島襄とその妻・八重
群馬県立女子大学「群馬県のことばと文化」講義録 (2009.10.23)
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