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福本 武久
ESSAY
Part 3 |
福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。 |
新島襄とその時代……会津から京都へ |
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初出:雑誌「歴史と人物」(中央公論社)1984年3月号) 1984.03 |
密航が生んだ基督者新島襄
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元治元年、函館から米船で密航、青春の九年
間をボストンで過した彼が得たものは何か?
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海がカべ″であった時代の青年
鎖国令により近世日本は海をカベ″としてきた。列島の周囲はすべて海であるにもかかわらず、海をカベ≠ニすることで、幻の泰平にまどろんでいた。
近海に外国船が出没しはじめても、海がカベ″であるかぎり、ひたすら外敵から身をまもることしか念頭になかった。
嘉永六年〇八五三)ペリーが黒船四隻をひきいて浦賀沖に、プーチヤーチンが長崎にやってきて開国を強いられても、形骸化した幕藩体制下の支配者には、事態を解決するすべもなかった。海をカベ〃とする意識を突破できなかった。
変革期はいつも若者の時代である。ほとばしる清新なエネルギーが、時代を創造してゆく。国禁を犯してカべ″の向うに密航を試みた若者がいる。吉田松陰と新島襄である。ともに海外を知り、新しい時代を拓・こうとした精神的開国″の先駆者である。だが二人の思想と行動はきわめて対照的である。
吉田松陰が下田に停泊するペリーの軍艦に小舟で接近し、渡航を懇願したのは、安政元年(一八五四)であった。ペリーは日本との正式国交をもとめて来航した米国使節であるゆえに、国禁の密航に手を貸すわけはなかった。捕縛され、安政六年(一八五九)に刑死した松陰に較べて、新島七五三太(幼名)の行動は冷静でしかも計画的である。
新島が海を渡って新しい学問と知識を身につけようと、ひそかに決意したのは、万延元年(一八六〇) 一七歳のとき、江戸湾でオランダ軍艦を見たときである。西洋文明のすさまじさに驚嘆したが、松陰のようにすぐに決行はしない、
彼の行動はあくまでも慎重である。オランダ語を学び始めていた新島は、まず航海術を学ばねばならないと考える。そのため幕府の海軍伝習所に入所、天文、物理書を読み、代数、幾何学を修め、航海術へと接近していった。備中松山藩の蒸気船に乗りこんで航海術の実習もした。いよいよ脱国を決意したときも、その船で函館までいった。アメリカ商船に乗船するについても.自分の志に共鳴する友人を通じて船長に同意をもとめてから行動している。日本脱出の地として函館を選んだこと、民間商船に眼をつけたこと、新島の開国″への道のりは、沈着で、しかも合理的だったといえよう。
新島が米商船ベルリン号の船倉の闇のなかで出航の汽笛を聴いたのは、元治元年(一八六四)六月一五日の早朝だった。脱国を心に決めてから四年目、二二歳の夏である。彼にとってその四年間は、自らの意思で開国を実現した歩みであり、明治七年(一八七四)帰国するまでの一○年の歳月は、西洋に学び、キリスト教にもとづく、自由教育の開拓者として生まれかわる軌跡であった。
天父との出会い
新島七五三太は天保一四年(一八四三)東京神田の安中藩邸内で生まれている。父の民治は板倉家の祐筆であり、七五三太を後継者とするため幼少より習字を教えたという。
「少年時代は多年の間、日々其半ばを習字のために費さざるを得ざりき」と、のちに新島自身、その当時を回想している。
乗馬や剣道があまり得意でなかった新島の興味は自ずと学問に向けられた。一四歳のとき漢学に熱中、その才能をみとめられ、藩主から選ばれて蘭学を学ぶ機会を得た。彼にとって異国との初めての出会いであった。
漠としたものであったにせよ、眼の前に新たな世界がひらけたのだろう。それ以後、封建社会に対する懐疑めいたものを抱くようにもなってゆく。
一六歳になって祐筆職についても、その職務に満足できなかった。平身低頭して藩主を送迎し、藩の記録を保管する仕事に退屈を感じ、同僚と茶を飲みながら世間話ですごす毎日を、ばかばかしいと思えてならなかったという。
友人から借りたプリッグマン著『アメリカ合衆国の歴史』を繰返し読んだのは、そんなころだった。大統領制を知り、合衆国の民主政治と幕藩政治を較べ、そのちがいに呆然とした。自由にあこがれをようになり、米国の事情を知りたいと考えるようになった。だがその方法はない。当時、欧米を知ろうと思えば蘭学によるほかなかった。新島は師をもとめ蘭学に熱中するようになった。祐筆の任務を怠るほどで、そのためきびしく叱責されることもあった。
物理学や天文学書まで読めるほどオランダ語を修得すると、やがて数学を基礎から学ぶ必要を感じ、海軍伝習所に入所した。江戸湾でオランダ軍艦を見たのはそのころであった。
巨大な軍艦は海を圧し、周囲の伝馬船や蒸気船は卑小にさえ見える。外国人はこのように科学的な軍艦を造ることができる。その知識に日本人はとうていおよばないと驚嘆した。海国日本は、まず海軍を充実して国をまもらねばならない。そして外国貿易を盛んにするために商船も建造しなければならない。そのために自分は航海術を学ぼうと考えるようになった。
勉学が進むにつれ、外国にゆき西洋文明に直かに触れたいという思いが募ってゆく。だが国禁を犯しでの渡航は、藩主や両親に背くことになる。新島は漢籍を読んで育ち、その学才は藩主もみとめるほどであった。それゆえに儒教の教えから脱することができず、そのしがらみに、何日も悩みつづけた。
そんなとき、たまたま友人から借りた書の中に漢訳の『聖書』をみつけた。新島が読んだのは「創世記」の天地創造の物語であった。
この世のすべての物は神の見えざる手によって創造された。そして、その神は「天の父」とよばれている。それは藩主や両親への忠孝を最高の道徳とする儒教の思想をはるかに超えるものであった。
自分を今日あらしめているのは、「天の父」なのだ。その瞬間に新島は、自分を縛りつけてきた藩主や両親に対する絆を断つ勇気を持つことができた。自分は自分の道を歩まねばならない。「天の父」つまり神との初めての出会いである。もちろんキリスト教に対する理解はまだ十分ではない。だが巨大な西洋文明、その背景にある精神的な豊饒、それはキリスト教ではないかと、漠然と意識するようになった。
船の中はすでに異国
新島が海外渡航を胸に秘め、品川沖に停泊する快風丸(備中松山藩所有)に乗船したのは元治元年(一八六四)一二月一二日だった。
四月ニー日、函館に着いてほどなく、生活費を得るため、ロシア領事館付の司祭ニコライ(のちに神田のニコライ会堂を創設した)の日本語教師となり、密航の機会を待った。新島はニコライの館に寄宿し、二人の英国人から英語を学ぶようになったが、二〇日後に早くも海外渡航の決意を打明け、助力をもとめている。
ニコライはそのとき、自分の館にとどまり英語を学び、聖書を研究するようのべ、新島に翻意を促している。ニコライは領事館付という公の地位にあった。しかし彼の真のねらいは、キリスト教の伝道にあっただろう。それゆえに、国禁を犯しての密航に助力することは立場上できなかったのである。
英国人ポーター商会の支配人富士屋字之吉と知り合ったのはそのころである。彼は新島の計画に賛同、停泊する米国商船の船長に交渉し、密航を快諾させた。
六月一四日、ニコライが避暑に出かけた留守をねらって新島は一書をのこして函館を去った。函館にやってきて、わずか二カ月足らずで海外渡航の夢は現実のものとなったのである。
新島が乗りこんだ米商船は、函館から、上海まで鮭と昆布を輸送するベルリン号であった。とりあえず上海までゆくことを考えたのだろう。
旅費が支払えるはずもない新島は、船員として労役に服したが、ことばの障壁は厚かった。そんな彼を見かねて、船長セポリーは、船室の調度品を指差しては、ゆっくりと発音し、英語を教えてくれるようになった。船員たちからも仕事を通じて、英語を習った。日常そのものが、活きた学習だったのである。
馴れない船員としての毎日の仕事は楽ではない。自分の下着も自分で洗わねばならない。夜中、下着を洗いながら「これが武士のすることか」と唇を噛みしめたという。
ある日、指示されたことが理解できず、外人船員を苛立たせてしまい、殴打された。新島はそのとき船室にもどり、刀を握りしめて駈け出そうとした。新島は気が短く、怒りっぽいところがあったが、それでいて、どんなに激怒しても、すぐに自制してしまう不思議な気質の持主でもあったという。そのときも自分の旅は始まったばかりだ、将来もっとつらい目に遇うやも知れぬ、と思い直した。船の中はすでにして異国であることをあらためて思い知った。
上海を目前にして新島は、揚子江の川水で褐色に濁った海をみつめ、髷を切っている。
それは前途に襲いかかるであろう試練に耐えようとする決意の現れだったろう。
上海から乗船したワイルド・ロバー号も米国商船であった。新島は船長テイラーに長刀を贈り「アメリカに連れていってください」と懇願、船長付ボーイとしで、その望みがかなえられた。勤務しながら船長から英語を習い、テイラーとともに毎日、船の位置を測定することで航海術も実地に学ぶことができた。夜は香港で購入した漢訳の新約聖書を読みつづけた。
ワイルド・ロバ一号はマニラ麻、硫黄、獣皮などを仕入れるために八力月、香港を中心に航海し、慶応元年(一八六五)四月八日、マニラからアメリカに向かりた。インド洋から喜望峰を回り、大西洋へ、そしてポストンに投錨したのは七月ニ日であった。函館を発ってから一年あまりが過ぎていた。
新島襄の生涯を顧みるとき、旅はいつも生命を賭したものであり、理想を現実のものとするためのものであった。眼にするものすべてが彼にとっては出会いである。
このときの航海中も、新島は、きわめて冷静な眼で事物を観察している。
中国人や東南アジア人など米食人種には、風俗習慣に類似性があることを発見。熱帯地域に棲む肌色の異なる人種の生活を見て、この世には理屈だけで解決できない社会があることも知った。フランス、イスパニア、オランダ領のそれらの諸国を見るにつけ、強国が力で他民族を支配するのは道徳的に理不尽ではないかと思った。
「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信ずる者がひとりも滅びないで、永遠に命を得るためである」
ヨハネ伝三章一六節が、きわめて印象深く感じられた。愛するためには知らねばならず、知るためには愛さねばならない。
新島は聖書を読むことで、ますます事物を見る眼も拓かれたものとなっていったのである。
停泊するたびに欧米人も見た。新島の眼には、英米人に較べフランスを始めラテン系の民族は、どこか精神が退廃しているようにみえた。祖国日本では、英米をバックにする討幕派とフランスをバックにする佐幕派の対立がつづいているが、その勝負のゆくえも、もはや明らかだと思ったという。
ボストンに着くまで一年あまりを要しているが、その船の長旅で新島の世界観は一変、そこまで正確に物事を洞察できるほど成長していたのである。もはや函館を発つときとは別人であった。
当時、世界文化の中心は英米中心になりつつあった。そうした情況を新島は知るはずもなかったが、ロシアやヨーロッパにゆかず、アメリカを選んだことは、賢明であったといえよう。
ロビンソンノクルーソーになぞらえる
念願がかないボストンにやってきたとはいえ、西洋文化により日本を改革しようという大望を胸にした新島の旅は、まさに始まったばかりだった。高層ビル街にあって、そそり立つ金色のドーム、汽車や自動車、街に出た新島は眼にするものすべてに眼を奪われた。
火事を目撃したのも、ボストン到着まもなくのころだった。火勢すさまじかったが、蒸気式ポンプがホースを向けると、たちまち鏡火した。祖国が内乱をつづけている間に、海外の物質文明は、考えもおよばぬほど進歩している事実を見せつけられる思いだった。
ボストンに到着直後の新島は、およそ一〇週間を、ワイルド・ロバ一号の船番としての労役に服している。ことばも未熟で頼るべき知人もなかった彼にとつて、最も不安に揺れた時期であった。当時のアメリカは南北戦争直後で、物価は 高騰、失業者があふれていた。
波止場にたむろする男に、「何をしにやってきた?」とたずねられ、教育を受けるためだ、とこたえる新島を見て男は、「それには金がかかる。陸じゃ、おまえを救ってくれる者など一人もいないよ」と、冷笑したという。そのときほど、つらくてみじめな気特に苛まれたことはなかったろう。
働く気力も失われ、暗澹としていた新島に光明を与えたのは、ディフォーの『ロビンソン・クルーソー漂流記』であったという。かつて和訳本で読んだことのあるその書をワシントン街でみつけ、船室で読みつづけた。
孤島で不安な生活をつづけをロビンソン・クルーソーが祖国に帰れるよう祈り、それによって勇気づけられるさまに心を惹かれたのは、そのときの新島の心情そのものだったからだろう。新島はひとりでに脆いていた。
「どうか私に目的を遂げさせて下さい」
彼は祈りつづけた。キリスト教徒ではなかったが、祈らずにおれない気持が突きあげてきたのである。
そんな新島の祈りに誘われるように、ある日、船長テイラーが、ワイルド・ロバ一号の船主アルフェース・ハーディーを伴ってやってきた。ハーディ−にとって新島は、見も知らぬ東洋の一青年にもかかわらず、その熱意に打たれ、留学の後援者になることを快諾した。ハーデイーが新島の生涯にわたる恩人であったことを考えると、まさに運命的な出合いであったといえよう。
ジョー″からジョセフ″ヘ
ハーデイー一家に引取られた新島は、アンドバーのフィリップス・アカデミーに入学した。英語力をつけなくてはならないとするハーディーの配慮からである。
アンドバーでの寄宿先、ヒッドン夫妻や、隣家のフリント夫妻から英語の特別教授を受けた。クリスチャン・ホームに身を置くことで外国の家庭生活を知ることができた。新島が眼をみはったのは家庭での女性のありかただった。外人女性は何と教養にあふれていることか。男性と対等に口を利き、男性もそれを許している。外出するときほ、きまって夫婦同伴で、夫に手を取られて車に乗る。家庭生活や社交について女性は男性以上に力がある。アメリカでは女性も男性にひとしく教育を受ける機会が与えられでいるからだろう。それにくらべ日本の女性は家庭に入ると、自分の意思を通すこともできず、炊事や育児にかまけてしまっている。それが文明の妨げになっているのではないかと考えるはぅになった。、
新島は慶応二年(一八六六)一二月、アンドバー神学校の教会で洗礼を受けている。それは、一時として不安から解放されることのなかった船旅における神体験が、きっかけとなり、毎夜聖書に親しみ、ヒッドン家の人々と教会にゆくようになったからだろう。
船中ジョー”と蔑まれていた新島に、ハーディーはジョセフ″と名づけたが、彼はその呼称にふさわしく生まれ変ったのである。(ジョセフは『旧約聖書に登場する七大人物の一人)
慶応三年(一八六七)九月、新島はアーモスト大学に入学し、、明治一ニ年(一八七〇)にはアンドバー神学校へと進学する。新島の九年におよぶ滞米中、この時期は最も彼の人生観、世界観の形成に大きな影響を与え。その後の生すら決定づけたといってよい。
アーモスト大学は、ニューインダランド、マサチューセッツ州の中部山岳地にある閑静な街、アーモストにあった。ピューリタンの伝統が色濃く、牧師を養成するだけの大学ではなく、だからといって職業に役立つ専門教育機関でもなく、あくまで人間教育に重点をおく、りべラル・アーツ・カレッジであった。後に内村鑑三も同大学で学んでいる。
在学中、新島は数学、物理学、化学、植物学、鉱物学、地文学、地理など、自然科学を中心に学んでいる。彼の勉学意欲は旺盛で、夏期休暇中も鉱物採集、地質調査の旅行に出かけ、さらに兵器工場、製鉄・伸銅工場、織物会社、製紙工場などを訪れている。貪欲なまでに西洋文明に学ぼうとする新島は、細密に観察し、教百ページにおよぷ記録を残している。それは西洋の科学文明により、新しい日本を建設しょうという熱意のあらわれであろう。
自然科学により西洋文明に接近していった新島は、同時にキリスト教を学問的に研究するようにもなっていた。
自分の眼にした西洋文明は、ただ単に知織のみで築かれたものではない。知識は人間を豊かにもするが、滅ぼしもする、いわば諸刃の剣ではなかろうか。知識のゆくえをコントロールする道徳原理が、その根底にひそんでいる。それはキリスト教の精神にちがいないという考えに新島は捉まえられるようになってゆく。キリスト教主義の教育者としての開眼である。
学問上も人間形成上も、最も影響を受けたシーリー教授は、そんな新島の勉学ぶりを評して言った。
「金にメッキすることはできない」……と。
愛国者、それでいてコスモポリタン
駐米少弁務使、森有礼とボストンで会ったのは、新島がアンドバー神学校に入学した翌年の明治四年(一八七一)であった。森の取りなしで脱国の罪は許され、日本政府の旅券と留学免許状が与えられた。
岩倉具視一行の使節団の通訳として、アメリカ、ヨーロッパを巡訪するようになったのは明冶五年(一八七二)三月だった。もうそのころになると新島は、政府から手を差しのべられる人物になっていた。政府から任官するよういくども勧められるが、彼は終始拒みつづけている。キリスト教民主主義教育者として生きようとする決意が、彼の内部に芽生え始めていたからだろう。
一〇ヵ月間、使節団とともに欧米八ヵ国を視察したが、ニューイングランドしか知らない新島にとっては学ぶところが多かった。同じキリスト教国であっても、新教の国と旧教の国とでほまるでちがっており、新島はヨーロッパに失望感すら覚えている。
パリの美しい街景の裏側で、フランス人ほ安息日でさえ、釣をしたり、居酒屋入りぴたっている。精神はひどく怠惰である。ドイツ人の科学万能主義、イギリス人の利己主義も鼻についた。ニューイングランドですごした新島には、異様なものに見えたという。
欧米旅行中、国情や教育制度を綿密に調査して新島が得た結論は、西洋科学文明の移入により日本を改革するために、最も必要なのは人心の道徳的改革であるということだった。人格を陶冶してこそ豊かな国を建設することができる。それにはキリスト教の精神によらねばならない。近代化の道具としてキリスト教を捉えるのではなく、それまでの道徳に代るものとして国民生活の根底に置かねばならないという考えを一層強く持つようになってゆくのである。ヨーロッパ旅行は新島にとって、漠としていた自らの思想を検証するものであったといえる。
新島がこのような思想をわがものにした背景として、ボストンで学んだということを無視できないだろう。ニューイングランドは、ビューリタニズムとデモクラシーの伝統が根強く、そこには人格の尊厳、良心、自由、平等、自主独立、自治の思想にあふれていた。
青年期にあたる九年間、ボストンで過した新島は、生活様式までわがものにし、デモクラシーやピューリタニズムの本質に迫り、自己の人生観、世界観を完成させたのである。欧米の文化を表層だけ学んだのではなく、その根底まで探究したといえよう。
新島の視野は国際的なものとなり、もはや日本人の枠を、ほるかに超えていた。
アシドバー神学校を卒業する明治七年(一八七四)七月には、すでに自分の理想とする学校を建設し、教育者として生きる決意を固めていた。
祖国を諸外国の侵略からまもり、近代化するためには、欧米の近代文明を移入するだけでなく、キリスト教主義のリベラル・アーツ・カレッジを創り、自主独立の人民を育成しなければならない。キリスト教主義による政治家、実業家、文学者、宗教家を養成し、日本の独立を強固なものにしよう。それが新島にとっての祖国に報いる道だった。
同志社英学校の創立はキリスト教主義の大学設立への夢を育むものであった。新島はその理想実現のために生涯を賭けた。政府や仏教徒たちの偏見や抵抗にも屈せず、ひたすら自らの理想に向かつて歩みつづけた。
同志社の学校運営にアメリカン・ボードの財政援助をもとめるという姿勢は、キリスト教思想を背景にした新島のインターナショナリズムからすれば、当然のことであったが、政府からは誤解され、反対されもした。しかし新島のインターナショナルな思考ほ、国家に役立ちたいとするところからのもので、彼自身としては、国家主義に強く根ざしたものだったのである。
愛国者″それでいてコスモポリタン″。この一見相反するとも思える精神が、新島襄の意織のなかで両輪となっていたのは、明治初期という時代の所産ではあるまいか。
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