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福本 武久
ESSAY
Part 3 |
福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。 |
新島襄とその時代……会津から京都へ |
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初出:『会津白虎隊』(戊辰戦争120年記念出版 歴史春秋社刊) 1987.05 |
洋式銃砲を執った兄妹‐山本八重と兄覚馬
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処は会津若松城の黒金御門と称する天守閣附近の楼門の下である。(中略)某日包囲攻撃が最も猛烈であって、砲弾が四方八方から飛来爆烈した頃のこと、一人の妙齢の女丈夫が藩公の御前に召されて、敵軍から間断なく城内へ打込み来る所の砲弾に就いて説明申し上げたのであった。その砲弾は四斥砲と称して、当時に於ては新式の利器であるが、前述の妙齢女丈夫は着発しなかった一弾丸を携え来って、君公の御前に立ち、之を分解して、その中の盛られた数多の地紙型の鉄片を取り出して、此の砲弾が着発すれば、此の鉄片が四方に散乱して、多大の害を及ぼす物である云々と、極めて冷静に且つ流暢に説明して四座を驚かしたのは、誰あろう当時芳紀まさに二十三才の八重子女史……
鶴ヶ城(つるがじょう)にこもって戦った砲術師範の娘山本八重について、会津藩主松平(まつだいら)容(かた)保(もり)の小姓であった井深(いぶか)梶之(かじの)助(すけ)(明治学院創始者)は、このように記している。
あの戊辰戦争の鶴ヶ城籠城戦のとき、新政府軍の砲撃で城側に死傷者が続出、八重は藩主松平容保に呼び出され、説明をもとめられたのである。
八重は水をかけて消し止めた大砲の弾をもって藩主の御前に進み出て、砲弾を分解してみせ、着発すると、弾のなかにある無数の鉄片が周囲にとびちって、それで負傷者が出るのだと、理路整然とのべたというのである。
西洋式砲弾の構造を説明するには、銃砲の知識と操作法について、よほど長じていなければ不可能だったろう。八重のそんな姿に誰もが眼をみはった。
戊辰戦争では、中野竹子らの娘子隊(じょうしたい)に代表されるように女性も薙刀(なぎなた)で戦場に出た。だが八重は薙刀などには眼もくれない。七連発の洋銃を持って城にこもり、さらには大砲隊の指揮もとった。八重が勇婦として戦史に名をとどめるのは、女性でありながらも近代兵器に眼を向けていたという一点につきる。その八重を精神面で支えていたのが兄の覚馬であった。
覚馬は、若くして江戸に遊学、洋式兵学と砲術を修めた英才藩士であった。彼は戊辰戦争のはじまる約一〇年前に、すでにして会津藩の最大のウイークポイントは、銃砲にあると見ぬいていた人物である。
めぐまれた家庭環境で 才能をみがく……覚馬
山本覚馬は文政一一年(一八二八)一月一一日、会津若松鶴ヶ城下の郭内米代四ノ丁にあった山本家の長男として生れている。山本家は兵学をもって仕えた家柄、祖父佐兵衛の代から津田流火縄銃師範を勤めていた。母の佐久は佐兵衛の独り娘である。一七歳のとき、後に権八と改名した藩士永岡繁之助を婿養子に迎えていた。
祖父の佐兵衛は砲術家として藩内に名を知られ、父の権八も兵学・槍術・砲術に長じていた。覚馬は、この祖父と父のすぐれた素質を継承して成長、幼いころから文武両道に逸材ぶりを発揮している。五歳には唐詩選の五言絶句を諳誦(あんしょう)するほどになり、兵学、槍術(そうじゅつ)、鉄砲の操作法と学んでゆく。九歳のときから藩校日新館で武芸を学び、撃(げき)剣(けん)・槍術でたちまち頭角を現す。とくに槍術では群をぬいていたという。
青年期の覚馬はすっかり豪放な武士に成長していた。他人より一年先んじて二四歳で弓馬槍刀の師伝を得、藩主から恩賞を受けている。大束髪(そくはつ)で月代(さかやき)は剃(そ)らぬまま、打裂(ぶっさき)羽織(はおり)に擦れて光った袴(はかま)姿で腰には大剣を帯び、鉄扇(てっせん)を片手に歩くさまは、いかにも剛毅で周囲の者を威圧するに十分だった。
武芸を修めた覚馬は、やがて知識を海外にもとめて蘭学(らんがく)に接近してゆくのだが、彼の成長の影には、いつも母の佐久の姿があった。佐久は明治維新後、覚馬を頼って京都にやってきてからは、同志社女学校の舎監(しゃかん)を勤めたほどで、教育には熱心な女性だった。覚馬も八重も母から感化を受けることが多かつた。
「決して自分からは、仕かけるな。けれども先方から争いを挑まれた場合はあくまで対抗して、ただ自らを守るだけでなく、進んで勝ちを得なければならない」
佐久は、このようにこどもたちをいましめていた。
覚馬や八重の後年の歩みをみると、この母の訓育(くんいく)の負うところが大きかったようである。覚馬自身も後年、〈母の聡明(そうめい)さにはとてもおよばなかった〉と語っているほどである。
すぐれた素質や潜在的な能力が、彼らの生きた時代や会津という風土、さらにはめぐまれた家庭環境を土壌として、次第に開花してゆくのである。
裁縫よりも鉄砲……八重
八重が兄の覚馬と会津ですごしたのは、九歳までと、一二歳から二〇歳までの前後一八年間である。とくに後の八年間は多感な人間形成期だけに、この兄に感化され、まさに人生感が一変するほどの大きな影響を受けたにちがいない。
成年期の覚馬は、単に勇猛果敢な武士というだけでなく、視野のひろい人物に変貌していた。三年間の江戸遊学が、彼をひとまわり大きく成長させていたのである。
覚馬が林(はやし)権助(ごんすけ)に随行して江戸の会津藩邸勤番についたのは、嘉(か)永(えい)六年(一八五三)であった。彼は三年間にわたって、洋式砲術の研究をつづけ、操作法から小銃や弾丸の製造法まで学んでいる。さらに洋式兵学を学ぶ必要性から蘭学に接近していったのである。
江川太郎左衛門や佐久間象山、勝海舟らと親交を深めたのもこのころであった。覚馬は当時の先覚者から時勢を説かれ、次第に非戦の思想をいだくようになる。世界の動向とそのなかの日本の位置が見えるようになると、攘夷論(じょういろん)にわきたつ日本の現状は、いかにも視野がせまいと思い知る。国内で権力闘争していては諸外国に乗じられるだけだ……という考えかたに目覚めてゆくのである。
世界からみれば、日本はいかに小さな島国なのか……。会津は、その日本のなかでも東北の山国のひとつにすぎない。覚馬は蘭学を学ぶことによって、自らの世界観が一変してしまった。
八重は、そんな覚馬と決定的に出会ってゆく。
「妾(わたし)の兄覚馬は御承知の通り砲術を専門に研究していましたので、妾も一通り習いました。」
八重が自ら語るように、洋式銃砲の操作法も覚馬から学んでいる。彼女の娘時代の興味は、女らしさとは無縁の鉄砲や洋学であった。
当時の女子教育といえば、和裁が重要な役割を果たしていた。すぐれた子弟は和裁に秀でた母から生れているともいわれる。山本家に近くの高木家では、藩主容保の小姓をつとめた盛之助の母が裁縫所を開いていた。八重も少女時代から通っている。外出する機会も少なく、道で出会っても私語を交わすことも戒められていた時代にあって、裁縫所は娘たちの数少ない社交場の一つであった。しかし八重は裁縫の時間が終ると、いつも、あわただしく帰宅したという。
彼女は山本家を訪れてくる白虎隊の隊士の何人かに操銃法を教えている。
「隣家の悌(てい)次郎(じろう)(伊東)は十五歳のため白虎隊に編入されぬのを終始残念がって居りましたが、よく熱心に毎日来ました。そこで妾はゲーベル銃を貸して機(はた)を織りながら教えました。」
八重から小銃の操作を学んだ伊東悌次郎は、年齢を偽(いつわ)って白虎隊に入隊、後にあの飯盛山(いいもりやま)で自刃(じじん)してしまうのである。
幼少時から男っぼく育っている八重にとっては、和裁よりも砲術のほうに魅力を覚えていたようである。兄の覚馬から洋式銃砲のあつかいかたを習うことにより、その原理を形成している西洋の合理主義的な思考を身につけていった。後に近代女性の先駆者として生れかわる素地は、兄とすごした会津時代から育まれていたのである。
非戦を説く独創的な兵学者……覚馬
覚馬は江戸から帰落した安政三年(一人五六) から元治元年(一八六四)までを会津ですごしている。八年間の活躍ぶりには、めざましいものがあった。
帰藩すると同時に藩校日新館の教授となった覚馬は、翌安政四年(一八五七)に会津藩蘭学所を設置している。
蘭学所の教授として、覚馬に招かれた一人に川崎(かわさき)尚之(しょうの)助(すけ)がいた。尚之助は但馬(たじま)出石藩医(いずしはんい)の子として生れている。江戸で蘭学と舎(せい)密術(みつじゅつ)(理化学)を修めた彼は、当時加藤弘之や神田孝平らとならぶ若くて有能な洋学者であった。
山本家に寄宿していた尚之助は、覚馬とともに銃砲の改良にとりくんでいる。蘭語や学理を教えただけではなく、舎密術の知識をフルに生かして鉄砲や弾丸の製造を指導、銅製のハトロン(薬莢)などを考案した。覚馬も江戸勤番のころ海辺で拾った外国製の弾丸に想を得て、元込式小銃や弾丸を発明した。会津の鍛冶職に小銃を遣らせ、さらにはゲーベル、ミュッヘルなどの洋式銃を江戸にもとめている。
兵器の改良に着手した覚馬は、兵制改革にも眼を向けていた。それは火縄銃に替えて洋式小銃を採用すること、この小銑隊を会津藩兵の主力部隊にするというものであった。
当時、鉄砲隊は足軽中心で組織されていた。鉄砲などは、武士の手にする兵器ではないとされていたからである。とくに江戸や京都から遠く離れた山国の会津にあっては、藩士たちの視野がせまく、いぜん刀槍が中心の装備に固執していた。
覚馬が兵制改革を建言したとき、藩内は騒然となった。「鉄砲なんかは足軽の武器で、野蛮人の兵法だ」という意見が藩士たちの大勢を占めた。覚馬は「あなたがたは剣や槍の利点は知っていても、鉄砲の利点は知らない。わたしは両方を比較したうえで、西洋の兵器がすぐれていると判断したのだ」と反論、「疑う者は剣なり槍なりで立ち合ってみよ」と言い放ったという。三百ヤードの距離から、百のうち八五まで的中させる覚馬の射撃の腕前に藩士たちは驚嘆、誰ひとり立ち合う者はなかった。
覚馬の兵制改革論は画期的なものであった。それゆえ保守派と対立、重臣たちとも激論におよび、一年間の禁足を命じられている。けれども覚馬はひるまない。根気強く藩内の説得につとめた。その熱意は、やがて時勢に目覚めた林権助などの重臣たちによって認められ、覚馬の建言は全面的に採用されることになる。
軍事(ぐんじ)取調役(とりしらべやく)兼(けん)大砲(たいほう)頭取(とうどり)に任命された覚馬は師範役として、新設された日新館の射撃場でみずから射撃を教えたのであった。
覚馬は〈国内では争うべきでない〉というのが持論であった。兵制改革もあくまで海外諸国の驚異を意識したものであった。それは、文久二年(一八六三)に彼自身が著わした「守四門両戸の策」を見れば、明らかである。
日本の海防を提言したこの論文で、覚馬は外敵に備えて「海国ノ日本海軍ノ備整ハズシテハ千万年経テモ海賊ノ西洋ヲ防グ事難ナリ……海軍ヲ整へ四門両戸ノ守備ヲ仝シ給ハン事ヲ仰望スル」とのべている。四門とは山陽・四国の内海口の四個所で、具体的には紀伊水道の両岸にある加太と鳴戸(淡路島をはさむ形となるため、東門は二門となる)、豊後水道をはさむ佐田岬・佐賀関(南門)、長州の馬関(西門)である。両戸としては、江戸と伊勢湾の入口、つまり浦賀の周辺三里と鳥羽口と伊良湖の周辺一里を挙げている。
覚馬は「四門両戸」を海防の要所として、砲台の設置場所、蒸気船や大砲の配置数までも詳細にわたって論述している。それは、おそらく江戸勤番のときにペリーの黒船を見た畏怖が生みだしたものなのだろう。
会津時代の青年覚馬は、つねに眼をひろく世界に向け、〈時代〉を先取りしようとする進取の気性にあふれていた。兵法家としても、独創的な理論を計画性ある行動で、自ら実現しようとしていたのである。
京都と会津で奔走する兄と妹
八重と川崎尚之助の結婚は元治元年(一人六四)〜二年(一八六五)ごろと推定される。媒酌人は野村(のむら)監物(けんもつ)であった。尚之助は会津にやってきて、すでに八年経っていたが、藩士ではなかった。藩籍を持たない尚之助と八重の縁組は、不可解さがつきまとう。おそらく有能な尚之助を会津に留めるために、意図的に運ばれたものと考えられる。
八重が妻としてすごした約三年間に会津をとりまく情勢はめまぐるしく変転してゆく。
京都では元治元年(一八六四)七月、蛤(はまぐり)御門(ごもん)の変があり、兄の覚馬は砲兵隊の指揮をとった。二日にわたる戦闘で覚馬は長州軍に壊滅的な打撃を与えている。しかし、これを契機にして、〈国内で争うべきではない〉という彼の持論とは裏腹に、時勢は戊辰戦争への道をひた走るのである。
しかし覚馬の行動は、あくまで冷静であった。騒然とした時代にもかかわらず、京都の地で洋学所を開き、津和野藩士西周や勝海舟と親交を深めている。長州征伐のさなかにもかかわらず鉄砲購入に長崎までおもむいた帰途、馬関にも立ち寄っている。真偽のほどはわからないが、変名で伊藤博介に会ってきたというから驚くべきである。さらには藩の重臣を説得して、このとき一万五千挺のスナイドル銃をドイツ人ルドルフ・レーマンに発注している。
大政(たいせい)奉還(ほうかん)のころの覚馬は眼を病み、すでに視力を失っていたが、公用人として戦いの回避に努めている。幕府側の主戦派を「世界の大勢、国家の大計は、君たちにはわからん」と退けたという。
鳥羽伏見の戦のとき、覚馬は京都に残っていて、薩摩藩に囚(とら)われるが、「自分を関東に派遣してくれるなら、将軍や藩主を説得して戦いをやめさせてみせる」と薩摩藩の重臣にのべている。新政府軍の東征が始まると「会津には神保修理がいるから大丈夫だ」と周囲にもらしていた。しかし覚馬が最後の頼みとした非戦論者の神保修理は、主戦派から卑怯者とされて江戸で切腹して果ててしまうのである。
新政府軍の会津攻めが始まるなかで、会津の八重のもとには、悲しい知らせが相次いでやってくる。明治元年(一八六八)一月五日、鳥羽伏見の戦に参戦した弟の三郎は、淀で銃弾に倒れ、負傷したまま紀州から海路で江戸に逃れるが、芝新銭座の藩邸で息絶える。八重のもとには遺髪と形見の着衣が届けられる。薩摩藩に囚われている兄の覚馬についても、四条河原で処刑されたと伝えられていた。
新政府軍は三方から会津国境に迫ってくるなかで、八重は銃を執って戦う決意を固めていった。
銃を手に、男装で龍城……八重
「妾(わたし)の実家は会津侯の砲術師範でござましたので、ご承知の八月二十三日、愈々(いよいよ)城内に立(たてち)籠(こも)もることになりました時、妾は着物も袴(はかま)も総(すべ)て男装して、麻の草履(ぞうり)を穿(は)き、両刀を手挟んで、元込七連銃を肩に担いでまいりました。
他の婦人は薙刀(なぎなた)を持っておりましたが、家が砲術師範で、妾もその方の心得が少々ございましたから、鉄砲にいたしたのでございます。」
八重は八月二三日の入城の心境を、このように書いている(『婦人世界』明治四二年一一月刊)。彼女は大小を腰に帯び、七連発のスペンサー銃を持ち、母の佐久、嫂のうら、姪のみねとともに、三の丸から鶴ヶ城に入ったのであった。
覚馬は獄中で新政府軍の東征を知ったとき、「もし会津を攻めれば、会津人は死ぬまで戦うであろう」と言っている。八重はまさに会津人の典型だったということになる。
城にこもってからの八重の活躍ぶりは、勇婦という名にふさわしい。兵糧炊き、傷兵の看護など女の仕事には満足しない。髪を断って男装、藩兵たちとともに銃撃に参加するのである。
さらに砲術の心得のある八重は、夫の尚之助とともに大砲隊の指揮もとった。だが、火力弱い城側の劣勢は歴然としていた。九月一四日に始まる総攻撃では、一日約二千発の砲弾をあびせられ死傷者が続出、藩主容保は降伏を決意するのである。
英国製のアームストロング砲をはじめとする最新式の洋式砲や小銑を装備した新政府軍に、旧式砲しか持たなかった会津藩は敗れたのである。小銃に至っては火縄銃などの先込式の和銃が中心だった。洋式銃としてゲーベル銃や白虎隊が所持していたヤーゲル銃などがあったが、雷管を用いない旧式銃のため、雨天ではほとんど使用できなかった。
皮肉にも覚馬の購入したスナイドル銃一万五千挺は、紀州藩の手にわたり、会津攻めに使用されていたのである。覚馬の提言した兵制改革がもっと早期に実現され、徹底されていたら、あるいは戊辰戦争ももうすこしちがった展開になっていたかもしれない。
逆境にめげず、新時代を拓いた会津人
覚馬は砲術家というよりも洋学者、近代京都を築いた人物として知られている。彼は明治維新後、好賊といわれた会津人にもかかわらず、岩倉(いわくら)具(とも)視(み)や西郷(さいごう)隆盛(たかもり)をはじめとする新政府の要人に認められ京都府顧問に迎えられた。そして、殖産興業と教育の指導者として維新京都の活性化に手腕をふるった。京都府議会が開設されると初代議長を勤め、さらには商工会議所の会長にもなっている。その間に新島襄と出会い、同志社英学校を創設した。眼病で視力を失い、さらに下半身不随という障害をかかえながらも六五歳で没するまで行政、経済政策のブレーン、教育者、キリスト者として、つねに先頭に立って活躍したのであった。
八重も明治以降は近代女性の先駆をなした。兄覚馬を頼って京都に出てからは、英語を学び新島襄と結婚、洋装・洋髪のクリスチャンレディとして生まれかわる。以降は女子教育者としての道を歩み、晩年は社会福祉活動につくした。日清・日露戦争のときは、日本赤十字社の篤志婦人会の会員を率いて、救護活動を指揮している。
覚馬と八重は逆境を跳ね返し、つねに時代の先端を生きたが、この兄妹にとって戊辰戦争は終生、反中央という意識の源泉として息づいていた。
明治の京都が積極的に近代化を図ったのは、東京を強く意識していたからである。覚馬と八重が同志社の創立に手をかした裏には、薩長中心の新政府が設立した官立大学に村抗するためだったというのはうがちすぎだろうか。
それはともかく覚馬、八重兄妹の後半生には、戊辰戦争で薩長に敗れた会津人の生きかたが象徴的に表れているといえるだろう。
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