 |
福本 武久
ESSAY
Part 3 |
福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。 |
新島襄とその時代……会津から京都へ |
|
初出:雑誌「早稲田文化」N.35(早稲田大学サークル連合) 1994.04.01 |
大学創立者から学ぶ
新 島 襄 と 同 志 社
|
|
新島裏がアメリカ商船ベルリン号の船倉にうずくまりながら、出航の汽笛を耳にしたのは、元治元年(一八六四) 六月一五日の早朝だった。満二一歳の夏である。
函館から日本を脱出した新島裏は、一年あまりかかってボストンにたとりついた。それから明治七年(一八七四) に帰国するまでの九年は、新島襄の人生そのものを変えた。
もし新島襄が密航を思いとどまっていたとしたら……。おそらく明治維新後は安中にひきこもり寺子屋の師匠にでもなって、平凡な一生をおくつたにちがいない。
アメリカの建国精神に感動
神田一ツ橋、学士会館の南側歩道に面した一角に〈新島襄先生生誕の地〉としるされた自然石の碑がある。かつてそこには上州安中藩邸があった。天保一四年(一八四三)、襄は邸内の長屋で生まれている。江戸城にほど近い武家屋敷街で育ったがゆえに、ペリーの来航をきっかけに、転換期をむかえた時代の雰囲気も皮膚で感じるものがあった。
「欧米の科学・技術はすさまじい。日本の国家独立のために、外国に学んで、遅れをとりもどしたい」
ペリーの軍艦に衝撃を受けた当時の若者がみんなそのように考えた。
襄もそのひとりであった。江戸湾に碇泊しているオランダ軍艦をみたときの衝撃が、密航へとむすびつくのだが、かれは吉田松陰のようにすぐには決行しない。
密航にいたる道のりは、あくまで慎重であった。まずオランダ語と英語を学ぶことからはじめ、幕府の海軍伝習所に入って航海術を修めている。さらに備中松山藩の機帆船にのりこんで航海実習も重ねている。密航を決意したときも函館までいった。アメリカ商船に乗船するときも、自分の志に共鳴する知人を通じて船長に同意をもとめている。日本脱出の地として幕吏の眼がとどきにくい函館をえらんだこと、民間商船に眼をつけたこと、きわめて計画的な行動だった。
アメリカに渡った新島襄は、ボストンの実業家ハーディーの支援をうけて、アーモスト大学、アンドバー神学校で学ぶことができた。襄が眼のあたりにしたアメリカは南北戦争直後であった。奴隷解放を実現、さらにヨーロッパ文化圏からはなれて独自の路線を歩みはじめていたころである。とくにボストンを中心とするニューイングランドは、アメリカでも最も活気にあふれていた。なによりも自由・自主・自立・独立の気風にみちていた。
どうして、こんなすばらしい国ができたのだろう?
先進国の科学・技術という表面的なものにあこがれていた襄は、だんだんアメリカ文明の背景に眼をむけるようになっていった。
アメリカという国をきずいたのは…。
きっとデモクラシーの精神とピューリタニズムにちがいない。襄はそのように考えた。
諸外国の侵略から日本を守るためには、欧米諸国の先端技術を導入するだけを考えていてはいけない。アメリカをつくつた精神を日本の若者に伝えなければ……。それが自分にとって国家に報いる道なのだと、新島襄は考えたのである。
同志社英学校設立
明治七年(一八七四)、十年ぶりに帰国した新島裏は、ただちに学校設立に着手、翌八年一一月に「同志社英学校」を開設した。
同志社は中央政府につくつた官立大学のように、国家に奉仕する有能な官僚を養成する学校ではなかった。新島襄のことばでいえば「一国の良心になるような人」の養成である。あくまで在野にあって、批判精神をもつ自立した人材ということであろう。
初期の同志社は自由、自立、自治の気風にあふれていた。権威主義と官僚主義をきらった新島襄は、校長であるにもかかわらず、けっして先生ぶることはなかった。生徒にたいしても「……さん」と呼びかけ、「……くん」とは呼ばなかった。
教師も袴姿で教壇に立つことがなかった。学習も学生の自主性にまかせられ、教師は助言者にすぎなかった。寮規則などもすべて学生の自主的なとりきめにまかせられた。だれが生徒か、先生かわからない。襄は〈めだかの学校〉のようなありかたを理想としていたようである。
「全責任は校長にあります…」
新島襄を語るとき、いつもきまって登場するエピソードがある。〈自責の杖〉事件である。明治一三年(一八八〇)の春であった。当時の二年生は入学月のちがいから上級、下級の二組にわかれていた。両クラスとも少人数だったので、教師会が合併させようとしたのが事件の発端だった。上級組は学校側の決定に不満をもち、全員が無届け欠席してしまった。上級組の意向を無視した教師会の決定にも問題があったが、無断欠席は明らかに校則違反であった。五年生から校則違反の処分をせまられて、学校側は頭をかかえてしまった。襄は思い悩んだすえに、ある朝の礼拝のあと、杖をもって学生の前にあらわれた。
罪は教師にも生徒諸君にもない。紛争の全責任は校長にあります。校長である私は、その罪人を罰します……。襄はそう言うなり、杖で左の掌をはげしく打ちつづけた。杖は三片に折れてふっとんだという。
〈自責の杖〉伝説は、どこか芝居がかっているが、学校というものは、あくまで学生中心に運営されなければならない……という新島襄の原理・原則がよくあらわれている。
今日の同志社は、英学校当時と比較にならないほど巨大化している。規模の増大とともに経営問題や運営面ばかりに眼がそそがれ、〈学生が主人公である〉という精神がまもられているかどうか。新島襄が生誕一五〇年をむかえたいま、〈自責の杖〉を伝説としてとらえるのではなく、同志社の現状をみつめる鏡として位置づける必要があるだろう。
現代版新島襄とは
新島襄が生きた幕末から明治は、ひろい意味での学生が日本をうごかしていた。昭和になってからも、学生の若いエネルギーが国の転換期をクローズアップしてきた一時期がある。もし新島襄が現役の学生だったら……。かれの密航の青春が、その答えを導き出してくれるだろう。
襄が国禁をおかしてアメリカに渡ったのも同志社をつくつたのも、国家に役立ちたいという使命感からだった。
欧米に学んだ日本は、経済的にみて世界でも有数の豊かな国になった。けれども今日の繁栄は、ある意味でアジア諸国を踏み台にして達成されたという側面もある。アジアにどのように関わるか。それは国家として大きなテーマである。
襄ならば持ち前の鋭い時代感覚で、アジアに関わろうとするだろう。かれが欧米に眼を奪われるあまり、見落としていたのがこのアジアへの視点であった。日本にやってくるアジア人たち、なかでも留学生の援助や処遇の改善問題に眼を向けるだろうと思う。
合法であるか非合法であるかを問わず、日本にやってくるアジア人留学生は、かつての襄白身でもある。かれらが日本に幻滅することなく、襄のように希望をもって祖国に帰ってゆけるように組織的な活動に取り組もうとするだろう。
彼が渡米したとき、見ず知らずの東洋人にもかかわらずハーディ一夫妻をはじめ多くのニューイングランドの人たちは、打算ぬきで温かい手をさしのべた。襄は学生本来の清新な批評精神と行動をもって、先進国の使命とは何か……を訴えつづけるにちがいない。
|
|トップへ | essay3目次へ |
|