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福本 武久
ESSAY
Part 3 |
福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。 |
新島襄とその時代……会津から京都へ |
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初出: ? 新聞 1994.? |
新 島 襄 と 私
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明治の先覚者であり、同志社をつくった新島襄は神田一ツ橋で生まれている。学士会館の南側に〈新島襄先生生誕の地〉と記された自然石の碑がひっそりと息づいている。かつてそこには安中藩江戸屋敷があった。江戸の古地図をみると、その界隈は一橋御門にほど近く、武家屋敷が建ちならんでいたことがわかる。 安中藩といえばいまの群馬県だが、新島襄の父親は江戸藩邸詰の家臣だった。襄は藩邸内の武家長屋に生まれているのである。身分のひくい武士の子だった襄は、いつも肩身がせまかった。身分の高い武士が通りかかるたびに道をあけ、ひたすら頭をさげていたという。 新島襄が生まれてからすでに150年がすぎた。かつての武家屋敷町はオフィス・ビル街になった。現代に生きる武士たちは、裃のかわりにダーク・スーツを着用、太刀のかわりに携帯電話とモバイルパソコンをもって、ひっきりなしに往来するクルマに神経をつかいながら、やたらせかせかと歩いている。それが一世紀半という時のへだたりというものだろうが、なんだか奇妙な感じがする。
私はこれまでに同志社をつくった新島襄と山本八重、そして近代京都の父・山本覚馬をテーマにした小説・評伝を四作ほど書いている。最初はあの戊辰戦争のとき、女性ながら大砲と洋銃で戦いぬいた八重を主人公にした『会津おんな戦記』、そして襄と八重をめぐる『新島襄とその妻』がつづく。二つの作品はテレビドラマになるというオマケまでついた。
作品成立の順序からみても分かると思うが、私の興味はもっぱら八重のほうにあった。『新島襄とその妻』のストーリーも八重の視点でなりたっている。なぜか? 襄は小説書き泣かせの人物であるからだ。
新島襄は全体像をとらえにくい人物である。いわゆる眼から鼻にぬけるような〈切れ者〉ではない。現存する史料からみるかぎり、どうもマジメすぎて人間の奥行きがとぼしいのである。こういう人物に真正面からぶつかれば、まちがいなしにはねとばされる。そこで妻の八重を鏡にみたてて、そこに映る襄を描くという仕掛けをつくった。つまり八重を仲立ちとして襄を描くというかたちとったのである。
作品のなかで新島襄はつねに〈ジョセフ〉として登場している。〈新島襄は……〉と書かずに〈ジョセフは……〉という記述になっている。違和感がある……と、何人もの読者から指摘された。けれども作者の私は、新島襄を〈ジョセフ〉ととらえることによって、初めて作品を書きあげられたのである。
当時の新島襄はアメリカ帰り、さらに耶蘇と白い眼でみられたキリスト教者である。襄と結婚するまえから英語を学び、洋装洋髪の女性として知られていた八重の眼からみても、襄の思考回路と行動パターンは外国人そのものだった。〈ジョセフ〉という表現は、そういう違和感の形象化なのである。
さらに、もう一つ。それは作者である私が襄に感じる距離感である。新島襄は人間として〈はみだす〉ところがないままに自己完結してしまっている。小説書きとして、とても太刀打ちできない人物なのである。そういう一種の畏怖みたいなものが、ごく自然に〈ジョセフ〉と呼ばせたといっていい。
神田一橋の生誕碑……。界隈を通りかかるたびに、私は同行者をかならずそこまで引っ張ってゆく。
「ほおう、こんなところに……」
誰もが意外そうな顔をする。
新島襄を知っていても、どこで生まれたのか知らない人が多い。同志社出身者も例外ではない。道ゆく人たちも立ちどまることもなく足早にゆきすぎる。明治の先覚者も今は忘れられようとしている。私も研究者でないから、あの小説を書いたあと、興味はほかに移っている。
けれども気がめいったり、精神が疲れたとき、ふと意識の底に影をおとすものがある。いったい何なのか。すぐには像を結ばない。心の眼をこらしつづけるうちに、やっとそれが新島襄だと気づくのである。きっとそれは、ケタはずれにはげしい情熱と他者に寄り添うような温かさをあわせ持つかれの人間性によるものだろう。
表通りでなく横道にたたずんで、植え込みの蔭からひっそりと歩道をゆく者たちをみまもっている。そういう生誕碑のたたずまいは、いかにも新島襄らしいなと思う。
(1994年ごろ、どこかの新聞に寄稿したと思われるが、初出は不明)
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