絶対平和主義 2004.05.29
最近、平和とはなにか、非武装や戦争放棄が平和をもたらすというお便りを頂いたのでそれについて考えた。
    世の中はさまざまである。
  • 世界平和を実現しようと主張する人がいる。
  • 平和憲法とは平和実現を誓ったものだと叫ぶ人がいる。
  • 非武装は平和の第一歩とかさまざまなご意見をいただく。
  • さらに驚くべきことには、絶対平和主義という発想もあるのだ。
    それは宗教かもしれません。人を殺すことが正義と命じる宗教もあるのですから、絶対平和の存在を信じる宗教があっても罪ではありません。
しかし私は平和主義とはなんなのか?世界の平和を理想とする?いったいそれはどのようなものなのだろうか? quest.gif 世界平和とは何なのかさえ分からないじじいである。きっとすばらしいものなのでしょうが私には想像も理解もできません。
それ以前にはたして世界平和とか絶対平和というものが存在しうるのだろうか? 実は私は世界平和というものは存在しないように感じるのだ。しかし感じるだけでは説得力がない。本日は少しそれについて考えてみたい。
私の生い立ちである品質管理で重要なことは三現主義、すなわち現場、現物、現実を知ることである。この方法は品質管理に限らず使えそうだ。いずれにしても将来を考えるために過去と現在の事実を知ることは重要である。
過去より平和を願った人々は多いだろう。いや平和を願わなかった人はいないはずだ。アレキサンダーも始皇帝も織田信長も明智光秀も自分の考える平和を目指し、フビライもヒトラーもナポレオンもシーザーも自分の思い描いた平和を構築しようとした。現代においてもブッシュもフセインも自分の平和を目指し、そして今現在は菌将軍が自分の王朝の安泰を願っているのである。そしてまた自虐史観の人々も中国もしかり、私もしかり、これをお読みになっているみなさんもまたしかり、 しかし、その平和を目指す手段、手法はそれぞれ異なっている。なぜならそれぞれが考える平和が違うのだから到達点からして異なるし、あるいは目標が同じグリーン上の1点であってもアプローチが同じということはありえない。

busou.gifある人は重武装が平和をもたらすと考え、あるひとはそれでも足らずに軍事同盟が必要であると考える。
ある人は中立がよいといい、ある人は非武装中立だという発想をする。
ところで非武装とか戦争放棄というのはなぜか響きがよい。そりゃそうだよね、戦争が好きか、平和が好きかと訊けば「戦争が好き」という人はまずいないだろう。
もっともこの質問は語義的には矛盾しているのだが、
この60年間コップの中にいて戦争を知らない日本は非武装とか平和というのが自然界の安定状態であるかのような錯覚に陥っている。

錯覚ではないと?

私は三現主義という観点から話しているのだが・・・

こんな史実を聞いたことがある。3000年前の中東でのこと、二つの小国が争い、今まさに戦端を切ろうとした時、偶然にも日食が始まった。双方ともこれは神のお怒りであると受け取り、矛を収め速やかに講和し、永遠の平和を誓ったということだ。
これは事実である。日食という事実により日時も場所も特定されているそうだ。
じゃあその二国は末永く平和に過ごしたのか?
なんて冗談を言ってはいけない。双方ともあっというまに近隣の強国に飲み込まれてしまった。 
イスラエルとパレスチナの問題を「武装解除」という方法が解決するだろうとお便りしてくれた方がいる。
なるほど、この日本にいるとそういう発想が出てくるのかもしれない。
オット、この私が海外生活が長いなんてことはない。通算たった1年弱、あとは観光旅行くらい
でも事実はどうだったのか考えてみよう。本を読むとわかる。今から60年前、イギリスは第二次大戦を有利に進めるために空手形を乱発した。戦争協力するとなにをあげる、なにをさせると・・・・。その甘い言葉を信じユダヤ人はイスラエルが手に入ると信じた。しかし戦後イギリスは騒乱を恐れてユダヤ人をイスラエルに上陸させなかった。ああ、「エクソダス(栄光への脱出)」を音楽と共に思い出す。
労苦の果てにやっとたどり着いた約束の地は、彼らのものではなくアラブの土地であった。ユダヤ人の間で国家を作るために武器を取れという人と、取ってはいかんという人の間で議論があったそうだ。
まさにここが「嫌われる強者となるか虐げられあざけられる弱者」となるかの分かれ道だったのだろう。
そしてあるラビ(ユダヤ教の聖職者)が武器を取ることは許されているという解釈を示したことにより、それからのイスラエルがあり、いまの中近東がある。
過去よりさまざまな思想は歴史を動かしてきたが、銃弾と爆弾が歴史を決定してきた。

パレスチナ問題を「勇気ある武装解除」や「非戦闘宣言」が解決するだろうか?
それは心地よい響きがある、誰もが表立って反対できない正当性をかもしだしている、すばらしいお言葉です。しかしその選択はきっと4000年前のエジプト虜囚が再現したのではないかと思います。なにしろ歴史が証明していますからね。
最年少自爆テロリスト まじめな話、抵抗せずに奴隷になることを選ぶことができる人がいるのでしょうか?
それができないのはユダヤ人だけでなく、パレスチナ人も同じようです。だからこそ今現在、現実の世界で命を捨てて自爆テロをしているのでしょう。50年前のイスラエルを論ずるまでもなく、今パレスチナに行って『勇気ある武装解除や非戦闘宣言も答えの一つだ』と語ることができるのだろうか?
そう叫ぶことができても共感を得られないのではないかと愚考いたします。

机上の空論はいろいろある。どんな考えであっても許される。思考実験では何を考えてもよいし、考えなくてはならない。しかし現実には取りうる選択肢は最大多数の最大幸福あるいは自分にとっての最低限すなわち生存を、そして可能ならば最大限を確保するものでなければ意味がない。
台風が来る時死んでもいいからと何もしないでいるわけにはいかず、火事のとき逃げないと死にます。
攻めてくるわけがない、殺すはずがない、殺されるはずがないと思い込むことはできません。

中近東は例外なのだ。南米とか南太平洋を見ろとおっしゃいますか?
オカシイナア?

サヨクの方が楽園の例としていつも持ち出すオーストラリアは原住民にとっては地獄の歴史である。オーストラリアでは害獣を駆除する感覚で原住民を殺しました。死人に口なしというのは万国共通のようです。indian.jpg今生存している原住民はそのジェノサイドから幸運にも逃れた人たちなのである。
殺される側が力を、最新技術を持っていたならば決して今白人の楽園ではなく原住民の楽園があったことでしょう。
おっとアメリカのインディアン退治も忘れてはいけません。ある騎兵隊の隊長が言いました『良いインディアンとは死んだインディアンだ』と
もう少し遡れば南米のスペインやポルトガルによる大虐殺も思い出すことでしょう。南米の人々がイスパニアのやくざに勝っていたなら、今の南米にも楽園があったことでしょう。
なんでもジュネーブ協定というのがあって、毒ガスや細菌兵器の禁止だけでなく、敵対する兵士に20ミリ以上の口径で直接射撃をしてはいけないのだそうだ。
ホウ、じゃあ、石と棍棒以外の武器を持っていない人に対する銃器での攻撃を禁止すべきだったはずだよね、
でもヨーロッパ人もバチカンも南米の原住民を人間と見なしていなかった。
多くの人が最後の楽園と考えている南太平洋も地獄の歴史を持っています。
エッツ?日本軍の占領ですって?そんなのどかなことではありません。本当の地獄があり、そしてそれは今でも続いているのです。 bom2.jpg
アメリカがビキニ環礁で核実験を行った。
フランスはポリネシア・ファンガタウファ環礁で100回以上の核実験を行った。もちろんフランスは平等精神が旺盛でサハラ砂漠でも核実験をしている。
イギリスは1957年から58年に中央太平洋のモルデン島・クリスマス島で核実験を行った。
なぜそこで核実験をしたのでしょうか?
そこは彼らの植民地であって、本土から遠くはなれて自分たちには害が及ぼさないと考えたんでしょう。

ひどい話だ!

今現在ですか? やはり力のないものは侵略を受けるのが定めのようです。チベットでも、バルカンでも、へたをすると極東の地でも民族浄化が起きるかもしれない。
『非武装はすばらしい、コスタリカを見よ』なんてことを言い出すボケもいるがそれについては過去に語った。

絶対平和というならすべての人にとっての平和ということなのだろう。それはいかなるものなのか?まずその状況を説明して欲しい。
宗教が異なり、肌の色が異なり、価値観が異なり、タブーが異なり、偶像を禁じるものからあがめるもの、いったいどうしたらいいんだ?

フセインも満足、ブッシュも満足、イラク国民も満足、アメリカ国民も満足、アルカイダも満足、中国様も満足、日本も満足・・・・・・・世界には200の国があり、テロ集団はその数倍あり、そのすべての国家・団体が満足する状態とは想像を超える!
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私たちISOの世界の人間は定義を明確にせよという言い方をする。『世界平和』の定義があいまいでは話にならない。
法律でも第2条は定義と決まっている。定義なき議論は支点のない「てこ」と同じだ。あいまいを敵としては神々の戦いもむなしいのだ。


武装解除が争いを終結するというならばその理由を説明して欲しい。あるいは史実を明示して欲しい。もちろん強者が弱者を皆殺しにして平和がもたらせることについては私も異議はない。
実例としては中国がチベットで今まさに実践中です。
もっともイギリスもオーストラリアもアメリカもそれを非難することができるのか?私はわかりません。
もし、私を戦争大好き、平和大嫌い人間とお考えになった方がいるかもしれない。
そう思うのは勝手だが、残念ながらそうではない。
戦争と平和とは何かを明確にしましょう。戦争の反対は平和ではないし、平和とは形あるものではない。
『平和を守る』という表現がある。あなたは平和を守ることができると考えているのか?
それならそれは発想そのものが間違っている。
日本語で『平和を守る』というが英語では『peace keeping』である。

PKOやPKFの PK である。ペナルティキックではない。

peaceとはもの(object)ではない。英英辞典を引くと「ある国家あるいは地域において戦争や騒乱のない状態(situation)または期間(period)」というのがでてくる。状態(situation)や期間(period)であるならそれを城壁や武器で守ろうとしてもできるわけがない。

しかし平和という状態を維持することならできる。
そしてそれは非常に困難なことであるのだが、


『平和を維持する』ということは一旦何事かを行えば終わりというものではない。機械も同じだが調子の良い状態を保つ(keep)には定期点検や整備、そしてときどきオーバーホールを行うことが必要だ。
自衛隊があれば平和が守れるなんて単純なものではない。あるいは安保条約があれば東アジアの平和は大丈夫だとも言い切れない。

平和を維持するとは急流をいかだ下りをしているようなものであって、あの岩にぶつからないように、まともに波を食らわないようにと常に舵を取りバランスをとっていくことなのだ。
そして私たちは止まることも戻ることもできないのだ。

繰り返す、
かって制空権という言葉がありました。今は使いません。今は航空優勢といいます。それはかたちあるものではなく状態だからです。
平和もそういった感じがします。
平和とは状態であって、形あるものではない。平和を維持するとは、利害が相反するそして常に欲求が変化する複数の関係諸国に対して、軍事力の行使を除いてあらゆる手段を用いて、戦争にならないようにしていく国家的活動なのである。
平和を維持するとは風に煽られぐらぐら揺れている不安定なものを、一生懸命倒れないように支えているようなことだと思うのです。

パックスアメリカーナを悪だと語る人は同時にパックスチャイナを悪だと叫ばなければ、自らを嘘つきと白状しているに等しい。(どちらにしても資金は日本から出るようだが)
この世界を戦争から防ぐには『平和主義』と称して戦争反対を叫ぶことではなく、平和憲法を称えるのではなく、利害の拮抗するあるいは目的が異なる複数国家の欲求を戦争という手段でなくて実現することを提唱しなければなりません。
もし平和主義とはそういったフィードバックシステムを意味するならまさしく『主義ではなく』、平和という固定したものがあると考えているなら認識不足ではないか?というのが私の直感です。
なにせ証明はできませんものね、
絶対平和主義の方、ぜひ、世界平和を守る方法を教えていただきたい。

平和、平和と無邪気に語る人は、本当にそう信じているのか?あるいは悪意に基づくものなのか私はわからない。
なおかつ、善意の人が行っても結果が善になるとは限らず、悪意の人が行っても結果が悪になるとは限らない。


長文をお読み頂き感謝いたします。


平和について、いろいろなご意見をいただきます。
大変うれしいのですが私の主張はこのウェブサイトにアップしております。意見交換する前に下記をご一読ください。
なお、コスタリカが非武装とかオーストラリアは理想の国だというご意見はお便りいただく前にもう一度百科事典や年鑑やインターネットなどでお調べください。


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