■□  略歴副読本 (整理中です)□■

月刊『ペン』(1974.12)に掲載された平岡正明氏による「スラップスティック快人伝_奥成達&ヒズ・ギャング」は、当資料室にとっては略歴副読本的チョウ超貴重な論文である。その掲載誌についてはこちらを御覧いただくとして、内容については、平岡氏に深い敬意を表しつつ、「奥成達資料室略歴副読本」として以下に引用させていただいた(黒文字表記部分)。だいたいの年代分けとその見出し的表現(灰色に白文字の部分)は当資料室が加えたものなので、そのあたりを混同されることなくお読みいただきたい。
「略歴頁」は、ガッコウ提出用スタンダートタイプと思っていただいて、それとこちらとを右に左に赤に青に御覧いただければ、貴方の目の前に奥成達が立体的に浮き上がってくるでしょう。

当資料室略歴頁へは、左の年代項をクリックすれば該当年にいきます。当資料室関係頁、及びその他関連サイトに様々リンクしてますのでどうぞお楽しみ下さい。

年代 奥成達&ヒズ・ギャング     平岡正明 当資料室関係頁参考サイト
回転の速さとリズム感は、ベアリングのなかで生まれたせいだろう
1942 彼は1942年、品川区大井町で生まれた。一族は石川県能登の出、平家の落武者の家庭であると伝えられる。実家はベアリング製造であったから、それいらい彼の回転は滑らかだ。男四人・女二人の三男坊として誕生し、長じて番長になった。漁師の町、銭湯に行けばクリカラモンモンが湯につかっているのもめずらしくない。大井町の、浜川中学の番長として威をふるい、というのは彼は早熟で身体も大きかったからだが、洒落がでたついでに言えば彼は身心の早熟さがその転々とする足跡に刻まれていることに注意する必要があるが、この時代の同期生は、男は松葉会の幹部になり、女は旧品川遊廓の芸者になった。そんなわけで、性的開眼もはやく、ハイティーン時代には、はやくも横浜で娼婦相手にバカスカやっている。 『よにん』
『まど』
『現代詩入門』
大井町
ベアリング
クリカラモンモン
湘南”非行”ボーイはすでに神格化された詩人であった
1957 ”太陽の季節”の時代を逗子ですごした。一家は逗子に移り、近所に川地民夫や小高雄二が住んでいた。覚えているかなぁ、かれらは日活の二線級太陽族映画の主演者だったのだ。彼は横須賀線に乗って都立城南高校に通った。当時、鎌倉在の白石かずこと知りあい、北川冬彦の門に入り、詩誌『時間』に寄稿したり、北川冬彦の犬の散歩役をやったりした。ジャズにイカれ、横浜の”ダウンビート”や”ちぐさ”に通い、高校二年の時、同人誌『新人類学』のパーティを銀座の三井ビルでひらき、三百人ほどをあつめて、はじめてツイスト・パーティーのかたちをつくりだしたそうだ。新宿で言えば、”きーよ”時代である。白石かずこは、その当時から今まで、一貫不惑で踊りつづけている。城南高校の一年後輩の西脇英夫ー彼は現在も奥成達と組んでいて、映画評論、パロディ、コラムニスト、劇画の原作などを書いているーによれば、奥成達は、高校時代にすでに神格化された詩人であったそうだ。

詩集『サボテン男』(思潮社刊)は1957年から61年にかけて書かれた彼の少年期の作品であって、さらにその前に『湖底のなにか』という詩集を出していたりする。

現在は処女出版および処女喪失の年齢はだいぶはやまっているが、五十年代末ごろは、十代で処女詩集を出すというのは同級生たちから神格化されてもしかたのない時代だった。ハハアン、と思う。『サボテン男』から、三つほど引用してみよう。

「<月は純金の一枚の鉄板である と、講義している天文学者がいた。/詳しいことをよく知っているな、と感心してたずねてみると、月の人だった。」(月の人)

「月は今夜は眼鏡をかけていない。」<ふふん、これでは0.1ぐらいだな/わたしの顔を眺めておりてきた月は、どうもボンヤリしている。」(近眼)

「鏡を見ていたら、可笑しげな女が笑いころげている。自分が写っているのか、と思って鏡に手を入れてみたが、手ばかりでなく、体まで入ってしまって、慌てているうちに、その可笑しな女に手を噛られてしまった。」(ファニイ・フェイス)

何に似ているのだろう?そのとおり、稲垣足穂「一千一秒物語」だ。この作風は彼が長年私淑した藤富保男的というより、やはり足穂的だと解したい。そして、最初の稲垣足穂選集がユリイカから刊行されたとき、申込者の一番目は石原慎太郎だったという逸話は五十年代の末に有名だったことを思い出す。奥成達は高校生太陽族の一典型であり、湘南ボーイの先頭の一人だった。だめだめ、俺はごまかされんぜ、当時こちらも高校生だもの、俺だってあやうく天才詩人の汚名をきる危機の時代があったのさ。

奥成達はそのように非行少年であった。

稲垣足穂のダンディズムは、そのように湘南ボーイ太陽族の陰のムード決定項であり、足穂を読むのが非行の一状態であり、そのようにこの時代に、不良少年とは別範疇の非行少年というものがうまれたのだ。不良には型(フォルム)がある。しかし非行には型がないのだ。奥成達は、この時期に、大井町の不良少年から逗子の非行少年に転位した。
『時間』
藤富保男
『サボテン男』
『湖底のなにか』
『新人類学』
新人類学のパーティ
白石かずこ
太陽の季節
川地民夫
小高雄二
日活
都立城南高校
北川冬彦
稲垣足穂
「一千一秒物語」
ダウンビート
ちぐさ
きーよ
西脇英夫
家出して「インテリ牛乳」「ティンゲリのわかる染物屋」になる
1960 1960年夏、18歳の彼はとつぜんに家出をする。文字どおりそのままフラリとだ。何ももたず、とぼとぼと首都に足を向け、逗子から歩いて夜が明けたのは、川崎の牛乳屋の前だった。店員募集広告を見て、彫刻家になるつもりが、当面、牛乳配達をやることにきめた。住み込みが可能だったが、近くのアパートを借り、無休の牛乳配達をまる一年つづけた。店の近くに「まりも」という喫茶店があり、新聞少年、牛乳配達の少年などのたまり場で、人はいいが気の弱い仲間たちの間で”インテリ牛乳”と呼ばれた。お椀を黒いパネルにいくつも貼りつけた彫刻(今でいうポップアート)の個展をひらいたりしたからだ。”インテリ牛乳”の次に”ティンゲリのわかる染物屋”になる。場所はうつって神楽坂。吉本という国画会の油絵の先生について染めものを習い、わが奥成達はジャスパー・ジョーンズやジャクソン・ポロック風の帯を染めあげたりして男をあげた。だれがこんな帯をしめるのだろう?。染物の仲間には、天理教の熱心な信徒や、肺病の中学女教師などがいた。店主に気に入られ、ハワイ支店を出す際にハワイ行き候補にされ、半年でやめた。わが友奥成達は民族主義者なのである。

生まれた土地近くの川崎で、牛乳少年や新聞少年にまじって一年働き、盛り場だが、坂の町の哀歓の色濃い神楽坂で、まあ、こちらが小説家なら小説じたてにしてみたくなるコホンコホンとかるく咳込む中学の女英語教師......
「その人は樋口一葉みたいな美人だったろうか」
「それがまた、ドブス、ドブス」
という人たちにまじって、ジャスパー・ジョーンズ風帯の絵柄など書いていた彼の青春譜は、それぞれの環境にあって、すこしづつピッチが狂っているように見える。このピッチの狂いのなかから、後年の彼の庶民感覚、ルポ感覚(主宰した『東京25時』の今様カストリ雑誌からの探訪記の味わいを記憶しておられる人もいるだろう)、そして雑学のセンスが萌芽してくる。
アートの才
『東京25時』
まりも
ジャスパー・ジョーンズ
ジャクソン・ポロック
樋口一葉
ジャーナリズム・デビュー時はカットのかける若者であった
1961 それから彼のボールベアリング的回転はめまぐるしい。ザッと素描しておこう。
毎日新聞社系の『日本団地新聞』に入社。業界誌である。彼はカットのかける若者として入社したが、たちまち、原稿書き、わりつけ、取材をかねるようになり、旬刊のこの新聞を一年間つづけた。アニタ・マンスフィールド(むろん女優アニタ・エクバーグとジェーン・マンスフィールドの合体)作、奥成達訳と銘うって、怪奇・キワモノ・ポルノ小説を書いて記事をうめたりした。今でもこのペンネームをときどき使っているらしい。これが最初のジャーナリズム世界への登場だったが、社長が蒸発、給料が出なくなったのでやめた。
アニタ・マンスフィールド 『日本団地新聞』
エリート湘南ボーイの流浪「泣イチマッタヨ」
1962 次にバーテン時代。飯田橋の喫茶店”ラモンド”に入り、チーフを殴ってやめた。理由は当時、東京は水飢饉で、断水騒ぎが毎日あり、水汲みばかりさせられていたからだ。人知れず、黒人霊歌の「ウォーターボーイ」を聴いて涙したこともある、としておこう。なあ奥成、一度くらい、泣いたことにしておけよ。オリンピック前の東京の水飢饉を覚えておいでだろうか。当時建設相だった故河野一郎が、利根支流の水をまわすことによって解決したという話もあった。その他、バーや喫茶店を転々。彼は60年代における農村人口の急激な都市流入によって、あたかも形成されはじめた流動する都市下層社会に降りたったのだ。彼の場合は、農村からの流入ではなく、エリートの湘南ボーイの流浪という変わったケースであったが、この波の間に間にただようことによって、60年代の、諸”軽”文化、つまりジャズや、演劇や、若松プロ映画や、劇画など、もっとも白熱したジャンルの、エネルギー変換装置の一つに自分を変えることができた。二流の漫画週刊誌(じつは旬刊誌)を舞台に、一挙に無名の劇画家、マンガ家が簇生する潮流のなかで、最優秀なオルガナイザーとして動いたのは奥成達だったと思う。 若松プロ映画
ラモンド
「ウォーターボーイ」
河野一郎
追放される前に飛び出すことに成功したデザイン界
1963 彼はそのようなオルグとしてあらわれる前に、デザイン会社を転々とする一幕がある。長谷川竜生、粟津潔の会社というふれこみで入ったが、御大は出社せず、新日文残党がくすぶっているだけなので二か月でやめた会社だとか、日宣美の会員でボデイビルにはげむデザイナー志村正信の会社に入って、「おまえをデザイン界から追放する」と言われてやめたとか。 長谷川竜生
粟津潔
志村正信
「エスピレチン」で元気倍増、ラクして働き、ナリユキで辞める
1964 二十二歳の時、SS製薬の宣伝課に入社。薬のパッケージのデザインをやっていたが、当時この会社は”風邪をバッサリ、エスピレチン”で大当たりしていた。ボーナス年四回の好景気。ジャズで言うと、”ギャラリー8”時代であり、彼は冨樫論、ドルフィー論などを書く。この時代に相倉久人と知りあう。一年半つとめる。SS製薬時代の宣伝部長が、のち、奥成達の拠って立つアグレマン社(『東京25時』発行、佐伯俊男第一画集の発行など)社長となる宮崎宣久だった。
「どうして辞めたの?」
「主婦と生活社の試験に受かったからさ」
「ジャーナリストになろうと思ったのですか?」
「いいや。ナリユキ主義者でね。夏の募集を見てたら試験をうけてみたくなってね。SS製薬は楽すぎたし、もっともアンプル風邪薬の発売中止で、年四回のボーナスという時期は去っていたけどね、おれが仕事を転々とするのは、かたちができてしまうとおもしろくなくなるからだよ」
そうなのだな。ひとつのジャンル、ひとつのパターン、ひとつの理論、ひとつの論策が 完成してしまうと、自己破壊衝動がおこるのだ。鏡を見るのもいやになる。この自己破壊衝動によって、奥成達は下層志向を保っているのであり、俺は体系化へ向かうことを阻止している。髪をのばしたり刈り取ったり、髭をつけたりおとしたり、会うたびにスタイルと職業のちがっている奥成達に会う一時期があった。ジバンシーの服などを着て、安酒場をドロドロになって渡り歩いている姿を見かけたことがある。身体障害者のふりをして一人で六本木の街を歩いている彼を見かけたこともある。彼は七種類のビッコをひきわける。ある夜、九種類のビッコをひきわける秋山ミチヲと対決して、秋山ミチヲやや優勢のうちにおわったが、山下洋輔、荒戸源次郎、俺のリクエストに応じてビッコをひきくらべ、それぞれヒイキを応援して「秋山がんばれ」「奥成負けるな」とワイワイ声援し、千変万化のビッコをひきわけて、全員、くたびれた。
彼は詩人仲間で余興にこれをやるので、詩人たちからは嫌われている。詩人というのは心がせまい喃。
『あしあと』
『東京25時』
『スィング・ジャーナル』
SS製薬
エスピレチン
ギャラリー8
相倉久人
秋山ミチヲ
荒戸源次郎
山下洋輔
宮崎宣久
主婦と生活社
泣きの奥成、裏でクールにジャズあけくれの日々
1965 主婦と生活社ではグラビア課に籍をおき、”泣きの奥成”と言われた。サリドマイド、筋ジストロフィーなどにとりくみ、きわめて有能な記者だった。やさしさ、なんて語が流行らない前から、彼は無類に心優しい男であり、この時代に俺は彼と知りあった。ジャズは「オレオ」時代であり、初めて会ったころ、彼は新進のジャズ評論家だった。彼は詩人とは自分を呼ばなかった。
いま植草さんの『宝島』11月号にジャズ評論誌の回想記事が載っているので、俺なりの意見を述べておこう。冨樫カルテットを中軸に白熱化し、昂揚をつづける日本ジャズシーンを背景に、ジャズ評論の新方向がうちだされて行くが、その方向を担ったのはVOU派と第三世界革命派だった。これが両極だ。詩壇的に言えば、ジャズを論じジャズと詩の結合を試みる詩人たちは正確にはVOU派ではないが、しかし、ようするにVOU派だ。諏訪優、清水俊彦、中上哲夫などがキラリとジャズを論じていて、ジャズ評論成立の一角をなしていることはたしかである。
一方第三世界革命派は『アワー・ジャズ』同人をふくめて、この方向にひかれていたのだからようするにこの呼び方でよろしい。VOU派と第三世界革命派のポイントが明確になるにしたがって、逆に油井正一を中心とするもっともジャズ評論家らしいジャズ評論家の文脈も形成されたのだと見る。その全構図をおさえるのは相倉久人でなければならない。そして人の世は妙であって、文脈的にはVOU派の奥成達と、反対極の俺とが親しい。ことに山下洋輔トリオへの熱愛において親しい。彼は生まれた自分の子を洋輔と名づけた。
『VOU』
自分の子、洋輔
オレオ
植草甚一
『宝島』11月号
『アワー・ジャズ』
油井正一
冨樫カルテット
諏訪優
清水俊彦
中上哲夫
外国行かずに雑誌を出すよ
1967 主婦と生活社時代に、彼は、美術課に在籍した及川正通と組み、写真家の山村雅昭と友人になり、イラストレーターと呼ばれていた時代の上村一夫、浜野安宏、沢渡朔などと友人になった。
主婦と生活社を辞めて雑誌『NON』を創刊する。この創刊は『情況』と同年同月である。「外国へ行こうか、雑誌を出そうか考えたのさ」と彼は言った。その間、テレビ構成に顔をだし、星野哲郎と共同構成の「歌う王冠」(クラウン・レコードにちなむ)をつくったりした。この仕事で、上村一夫を通じて作詞の阿久悠と知り合う。自分で作詞もし、無名時代の尾崎紀世彦が属していたGSの”ワンダース”吹込みになる「僕のマリア」がちょっと売れた。
『NON』創刊、『東京25時』創刊の時期に、彼はパロディスト、コラムニストとして毒を放射しはじめる。佐伯俊男の才能を発見し、佐伯を通して三上寛を知るのもこの時代だ。奥成達は人の才能を見抜くのに慧眼であり、知られざるオルガナイザーとして大変な伎倆を持っているのだ。俺はそれをひそかに”奥成シンジケート”と呼んだこともある。このあたりの事情はかくし味にするのが粋なのだ。
『東京25時』廃刊の理由を記そう。
それは”サザエさん”パロディ事件である。記憶している方もあるだろうが、『東京25時』誌にはテディ片岡原案、フジオプロ木崎しょう平の絵で、「サザエさま」というパロディ漫画が掲載されていた。サザエさんの性交シーンがあったり、サザエさんが死んだり、オヤジ波平の禿頭に残る一本のれいの毛を、タラちゃんが(※1)プツリとちぎったりしたものだ。これが長谷川町子の告訴するところとなり、裁判で負けて奥成達は五十万円を弁償した。不愉快なことがある。徹底抗戦を主張する奥成をなだめ、罰金支払いということにし、編集部が勝手にやったことだからと社長の宮崎宣久は逃げた。借金は奥成の肩にかかった。彼がパロディ集団”ツーホット・ワンアイス”を結成し、マンガ週刊誌にパロディを書きまくった理由の一つは、この罰金支払いのためである。

資料室注:(※1)この部分につき、後日須田勝之さんより以下の情報をいただきました。「...ここのところですが、犯人は「タラちゃん」でなく、「ワカメ」です。今、見直したら、そうでした。特集の「おお帝国陸海軍」や「臨時召集令状」は当時の雑誌に秘められたストレートなアイデアの力強さを感じますね。(2002.3.30)」須田さん、ありがとうございます!!「サザエさま」拡大図版をどうぞ。
『NON』
「歌う王冠」
「僕のマリア」
佐伯俊男と三上寛
サザエさんに訴えられたこと
ツーホット・ワンアイス

及川正通
山村雅昭
上村一夫
浜野安宏
沢渡朔
『情況』
星野哲郎
尾崎紀世彦
阿久悠
サザエさん
木崎しょう平
テディ片岡
長谷川町子
パロディで奪われたものはパロディで取り戻すというジンギ
1968 ここで、かれ(ら)の書き散らしたパロディの数々からほんの一部を、たたかいの記録としてとどめる。
「東千代之介に屍姦はできないのだ」「もうオ××××なんか要らないよ」「あらゆる中折れは悲劇的である」「性交譜の研究」(以上奥成達名で『漫画天国』に四十回ほど)
「バカ人間のススメ」「疥癬人間のススメ」「ホモ人間のススメ」「純愛をしてしまおう」「ウンコ人間のススメ」「大々的閏房人間のススメー日中国交回復記念パロディ(二女喰一玉茎名で)」「吉本便明・共同便想論序」「同棲のススメ」(以上、ススメ・シリーズ『ヤング・コミック』『ポップ・コミック』)
「三波春夫の徹底的研究」「女子高校生の徹底的研究」「男の化粧法」「性豪の徹底的研究」「ブスの徹底的研究」「花も実もある三十男の徹底的研究」「戦争中のくらし」「即席ラーメン料理術」「現代盗み学の研究」(以上『マンガ・ボン』『ヤングコミック』『エロトピア』など、徹底的研究シリーズ)
あと採点簿シリーズだとか、『アサヒ芸能』の「日本縦断女旅行記」連載だとか、『JUNON』の赤塚不二夫名による「女の歳事記」だとか、やたらに、奥成達とそのグループの手になるものだ。奥成達&ヒズ・ギャングのパロディスト集団は、しとう・きねをのパロディ・ギャングに比して市民的格調は低く、赤瀬川原平の桜画報に比してイデオロギー的バックボーンを正面に出さないが、夕刊紙や二流漫画誌に出没して、より俗であり、よりバカバカしく、より雑学であり、より無方向に爆発し、机の上にスクラップの山をつみあげたとたん、現代現象の一大奇観を呈す。まさにこれが”ストリート・ジャーナリズム”の真骨頂なのである。奥成達と俺とはだいぶ似ているなと思うのだ。
赤塚不二夫との出会い
二代目・赤塚不二夫 
『漫画天国』
『ヤング・コミック』
『ポップ・コミック』
『マンガ・ボン』
『エロトピア』
『アサヒ芸能』
『JUNON』
赤瀬川原平の桜画報
かくし芸キメ業を披露させてしまう渦
1974 九月二十日、彼の『サボテン男』出版記念パーティが新宿の”ゴールデンゲート”で行われ、参会した面々の、かくし芸キメ業大会の観を呈し、彼の生き方の一集約点を見るおもいがして楽しかった。メニューを御披露しよう。
高信太郎の司会と悪ふざけで進行したものは、「猛毒商売」の川本コオの三面相(野坂昭如、林家三平、一瞬だけ似ている渡辺貞夫)、上村一夫のギター弾き語り、中村誠一の円生のものまねによる一席「ジャズの変遷」、三上寛のものまね二題、寺山修司と、彼の青森県警時代の恩師三崎先生(これは本ものをだれも知らないが、みんなが”そっくりだ”という至芸である)、森山威男と中村誠一のピアノ連弾による「森の木陰でドンジャラホイ変奏曲」、同森山による菅原都々子・橋幸夫の物真似、イラストレーター加藤実の五十人連続声帯模写、白石かずこのダンス、詩人吉原幸子の「ジャングル・ブギ」、三上寛の物真似による寺山修司と中村誠一の物真似による三遊亭円生の芸術論争、松田政男や長谷邦夫や俺まで歌わされ、まじめなところで三上寛が歌い、浅川マキと山下洋輔のデュエットがあり、奥成達自身も三上寛のもち歌を歌った。奥成達がいると、こういうスイングする雰囲気が自ずとかもしだされるのだ。彼は異魔人として『瞑想術入門』『図解神通力入門』などの数冊をしあげ、すでに異魔人も完成したとして次のステップを考えている。なあ、わが友奥成達よ、このメンバーで紅白歌合戦へのアテツケ番組をやろうぜ。ドタバタ・メンバーならこちらにも準備がある。
『サボテン男』の会
『瞑想術入門』
『図解神通力入門』
異魔人
ジャックの豆の木
高信太郎
川本コオ
中村誠一
森山威男
加藤実
吉原幸子
松田政男
長谷邦夫
浅川マキ
紅白歌合戦