ニムの木かげの家日時計 2002. 1月

 
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2002.0101(火)

 大晦日のうちに早々とTVを消してしまい、静かな年越しとなった。連れ合いも、年越しそばのあと次男を寝かせたまま沈没。昨年は、年が変わったとたん長男を引っ張って近所の氷川神社に行ったのに、年取ったのか疲れたのか。サザンが休業の年だったので年越しライブをしなくて残念。

 黒豆がいまいち思ったような出来でなく気に入らない。豆によって柔らかさにばらつきがあったりするので、豆のせいかも…週末にでもリベンジするぞ!昆布巻きもあと一息と言うところでちょっと気を抜いて一部焦がしてしまった(;.;)

 明日朝義母の所へ行くはずが、半日つぶれるのが全員面倒になり、夕飯抜きで出発。とうちゃん運転ご苦労様、とはいえこの人は運転がまったく苦でないので、助かります〜。義母宅は、とっても寒い。義母は慣れて平気だけど我々はストーブやこたつから離れられない。

2002.0102(水)

 朝起きたら雪が少々積もり、日中も断続的に舞っている。夕方日が差してきたと思いきや、夜になってまたマジメに降る。夕食後、町内のイルミネーションを見にドライブ。プロテスタント系の大きな研修施設があって、クリスマスからこちらずっと、庭や別荘風の母屋や、大きな四阿に窓を入れたような建物などにイルミネーションがしてあるとのこと。屋根の電飾にうっすら雪が積もり、にじんだようで綺麗なこと。ゆっくり車を走らせるが、屋根も道も雑木林も一面雪に覆われて、幻想的と言う言葉がぴったりの眺めだ。スキー場のナイター照明も紫色にけぶって水彩画のようだ。しまった、カメラをもって出るんだったと思ったが後の祭り。

 義母が知り合いに頂いて冷凍してあった、キジとカモ(いずれも知り合いが仕留めたもの)で、お雑煮とソテー。うーん濃いお味っ!しかし大晦日からの食べ過ぎで苦しい〜。

2002.0103(木)
購入本
イアン・バンクス/『エスペデア・ストリート』/角川書店
P・コラム/『北欧神話』/岩波少年文庫
アラン・ゾラ・クロンゼック&エリザベス・クロンゼック/『ハリー・ポッターの魔法世界ガイド』/早川書房

 昨日からの雪は止むどころか、一晩中降り続けて、気の毒に連れ合いは寒い中チェーン着装である。高速道路はチェーン規制である。出る頃(混雑を避けて朝9時半頃)には雪は止んできたので、高速に乗ってしまえばチェーン不要だろうが、インターまでの道がチェーンなしでは無理。雪は数センチから十センチくらい積もっている。義母宅は基本的に夏を旨とした家なので、とにかく寒い!しかしおかーさん薄着だよ〜。私の方は、小鳥じゃないが、体温を保つことだけにエネルギーが消費されていて全然動けない。ううう〜、寒いっ!

 高速に乗ったら予想通りチェーンはまったく必要なく、ちょっと走ってすぐはずす。空はどんどん晴れてきて、車内から見る限りまるで早春のようだ。実際には気温はかなり低い。混雑もなく昼前には帰宅し、午後は根津神社に初詣、長男のリクエストで神保町界隈へスキー用品の買い出しなど(あっ三省堂に寄った)。日が落ちて来るに従い、身にしみる寒さである。

 昨晩はSFマガジン1月号ルーシャス・シェパード「輝ける緑の星」読了。おはこのヴェトナムものである。少年と父、近未来、サーカス、座長とその美しい姪、フリークス、脳内チップ、等々。この人の静かな語り口が好きだ。

 今年はどういうふうに本を読んでいこうか、と何となく考えてみる。

 bk1、イアン・バンクス著者紹介の「鉢工場」って何〜。ハリポタの関連本は買う気がしないのでこれまでまったく手を出していないが、『ハリー・ポッターの魔法世界ガイド』は、ネタとなった様々な魔法的事物の背景や資料が解説してあると言う事なので、むしろハリポタの資料本としてではなく購入。炎のゴブレットまでの事物が取り上げられていて、本編のどこに出てきた事項か分かるようになっている(ご丁寧に3作目までは静山社版のページが、4作目についてはアメリカ版のページが書いてある)。

2002.0104(金)

 今日まで休み。長男はまたもや朝からスキー合宿@金食い虫。午前中母の薬を取りに病院へ。今日は夜の回のハリポタを見に行こうと思う。次男がいるので日本語吹き替え版、せっかく英語を聞けるチャンスなのに、まあ仕方ない。

 その英語。来週から会話教室なので、初めてテキストを開いてみる。…これ、難しいよ。なになにテキストをよく読んで問題集をやって、CDを聴いて口に出して、宿題もある?週一回とは言え予習復習をきっちりやらなくちゃダメそう。ただ会話をするレッスンじゃなくて、文法的事項を復習しながらそれを会話に生かしてゆくというコースなのだ。投資した分、回収しなくちゃ(;.;) 大丈夫か>自分

 TVでやっている指輪物語(というより「ロード・オブ・ザ・リング」)の予告編をちらっと見て、娘も、長男も、次男も、それぞれ別個に「あっ、今の何これ!?」と言う。「見たい!」はい私も大変待ち遠しいですっ。娘は今ハリポタ読み中、終わったらさっそく指輪をあてがおう(もちろん赤表紙本)。予告サイトのキャスト紹介で見る限り、ガンダルフはやや弱そうだけどまあイメージ通りか。フロド以下ホビットたちもまあイメージを壊すふうではない。見てびっくりしたのは、ビルボ。画面の前で口を開いてしまった。だって、そのまんまだったんだもの!サルーマンもぴったり。馳夫さん(はあと)は、んー、まあ許す。エルフたちはやはり生身の人間が演じるだけに、イメージと違うのは仕方ないよね。予告編のモリアの部分なんてすごいぞ。黒の乗り手が原作よりずっと迫ってきて怖いという情報あり、ああ〜早く見たい〜!私はトム・ボンバディルが好きなんだけれど、出てくるのかしら?彼は映画には出てこなくてもいい。でもエントは出てくるんだよね…?(以下止まらない)

2002.0105(土)

 昨日のハリポタ映画は、期待よりもう少し面白かった。

 様々なエピソードや人物を、ちらりと見せてあとは時間的にカットせざるを得なかったので、どうしても物足りなさは残る。けれども入れ物や背景がリアリティ溢れているので迫力充分。建物も景色も暗くイギリスっぽく素敵〜。クィディッチが原作よりもスピード感がはるかにある肉弾戦になっていたのが面白かった。スニッチはもうすこし妖精的に軽やかな質感だとよりよかったのに。あれはちょっと重そうだ。クライマックス近くのロンのチェスシーンもよかった。また、ハリーがスリザリン寮ではなくグリフィンドール寮を望んだ事、思いがけず賢者の石を手にしたわけ(ダンブルドアから説明される)など、ハリー自身が自分から選択して、「あの人」の側につく事が出来るがそうはしないという姿勢が、原作より強調されていたように感じた。この図式、主人公が善と悪のどちらにも働きうる強大な力を持っていて、往々にして悪の側に誘惑されるが、自分から選択して善の道を選ぶ、というのは、スターウォーズでもそうだし、指輪でもそう。指輪では完全に選択したとは言えないか。

 やはりマギー・スミスがいいよねえ。マクゴナガル先生にしてはやや年齢が上で、神経質さが少ないように感じたけれど、ちょっとメアリー・ポピンズふうで好き。一方セントールやトロルがちょっとちゃっちかった。ことに、個人的にセントール族というものは勇気と気品ある知恵の人だと思っているので、もうすこし知性ある顔立ちにして欲しかったのだ。あれでは間の抜けたシュワちゃんかジャイアント○場みたい(しつれい)。

 本編以外でとても残念だったのは、ポップコーンの行列に時間がかかり、席に着いたらすでに「指輪物語の予告は終わっちゃったよ」だったこと。半ばそのために行ったようなものだったのに、悔しい〜っ!(ちなみにこの映画館では携帯ストラップつき前売り券は扱っていない)。代わりにスターウォーズエピソード2の予告が見られたがこれは新年からか?大きくなったアナキン、やたらに目つきが悪いぞ。また、4月にETが再上映されるとの事、帰宅後娘に教えたら「ほんとっ!見に行こう!」と喜んでいた。うちはETは映画館で見損なっているのだ。ポップコーンと共に、ついついハリポタのドリンク・蛙チョコレート・CD-ROMセットも買ってしまったのであった。この森永製の蛙チョコレートは、原作&映画のようなリアルな形ではないので念のため。百味ビーンズもあればいいのにな。たまたま私がだいぶ以前から知っているジェリービーンズも、ずいぶんいろんな味があります。

2002.0106(日)

 板橋区立美術館の企画展「あの世の情景−描かれた地獄と極楽−(江戸文化シリーズ17)」を見に行く。昨年12月にポスターを目にした次男が、「あっ地獄だ。あっ鬼だ。あっ龍だ。」と興味を示していたのだが、忘れているうちに終わったのだろうと思っていたら、今朝の読売新聞に「今日まで」というコメント付きで記事が出ていた。今日までの展覧会を今日取り上げなくても、と思ったが、これは「行きなさい」と言う指令だろう(誰からの?)と解釈して、早速次男と足を運ぶ。それが、この美術館自サイトがないのだ。せめて板橋区のサイトの中の美術館の所に、イベント情報くらい載せておけばよいのにまったく。

 これでもかこれでもかという地獄の責め苦の数々。それでもどこかマンガちっくな表現に、凄惨とか恐怖とかいう感じは受けなかった。それはこの現代だからだろう、ほんの百年か二百年前の人々には他人事とは思えない恐ろしさがあった事だろう。しかしその中でも、鬼に釜ゆでにされた人を目の前にして、あまりのむごさに思わず法衣の袂で目を覆うお地蔵様の姿や、間引きされた赤ん坊たちが手に手に白い布(自分たちがそれによって間引かれた)を持って、責め苦にあっている母親の回りに群がってその息の根を止めてやろうとしている図などは、いたく印象に残った。また、ある人の臨死体験を綴った絵巻物(生前信心深かった父母によってあの世からこの世に帰されたという)も面白かった。ちょうど親子向けのガイドツアーがあったので参加してみたが、子ども向けとは言え、解説も大してないままただずるずると移動するだけ、ほんのちょっとした質問(「この首だけの人たちは何と言う名?」とか「この車はなんですか」とか)にもろくに答えられないガイドたちでは役にも立たず時間の無駄に近かったのは残念。もうちょっときちんと企画したまえ〜。

 カニグズバーグ『クローディアの秘密』読了。読んでみたら遠い、遠〜い昔に読んだ気がする。切れ切れに覚えていると言うより、全体を、淡くプリントした薄い布のように覚えていた、という感じ。カニグズバーグは全集も刊行され始めている事だし、今年は順次読んでゆくつもり。

 アーモンド"Heaven Eyes"再開。ちいさな子のようなHeaven、記憶に障碍があるようなそのGrandpa。主人公Erinのエスケープの相棒Januaryは彼らを「気が違ってるんだから早くここを出よう」と言うが、Erinは妙に心惹かれて彼らの住みかを立ち去る事が出来ない。

2002.0107(月)

 あーあ、また日常が戻ってきた。お正月休みを挟んで職場もすっかり冷え切ってしまい、暖まるのに半日以上かかり、寒い寒いを連発する。ポトスやオリヅルランなどいくつかのささやかな観葉植物たちはすっかりしおれて、しなびた野菜みたいなお姿に。これも一日かかってやっと元の勢いを取り戻した。

 "Heaven Eyes"はおよそ半分まで。Erin達の舟が漂着したところに現れた女の子Heavenは、指の股に水かきを持っている。彼女は自分がGrandpaによって泥の中から掬い出されたと信じている。いつか同じ泥の中から彼女の姉妹や兄弟も見つかるのだと。Erinに「年は幾つ?」と訊かれても彼女はその意味が分からない。「ママは?」と問われて「ママって何のこと?」と無心に訊ね返す。「分かってないのね」と言われて「え、何の下に立っているって言ったの?」と答える。"understand"という言葉を知らないのだ。「見る」は"see"ではなく"eye"、「聞く」は"hear"でなく"ear"と言う。彼女は、亡くした母を恋い求めて闇の中に文字通りうち沈んだErinを、どうにかして捜し当てる。不思議な魅力を持つ物語だ。作中の泥にはまるように、私の気持ちも作品の中にじわじわと抗しがたく引き込まれる。これまでの3作いずれも共通した独特の世界を持っているが、前作よりもむしろ"Skellig"のほうに雰囲気が似ているかも知れない。

2002.0108(火)

 英会話レッスン初日。あら夕方って混んでるのね、昼間申し込みに来た時はガラガラだったけれど、6時、7時は大層混み合っている。でも私のクラスは先生一人に生徒3人。鉄面皮というか厚顔無恥(無知)というか、ろくに予習もしなくてしゃべれなくても平気、と思っていたら、30分経過する頃から何やら胃がしくしくしてきた。予想外である。人間幾つになっても、新しい自分を発見する事が出来ることを知った(;.;)

 

Heaven Eyes "Heaven Eyes"読了。ううう〜、後半は殆どずっと泣きっぱなしだった。たとえ涙がこぼれていなくても、胸の内は涙の池状態。
 身よりのない子どもの施設に住むErin、January、Mouseの三人は、そもそも自由を求めて小舟で川を下り始めたのだが、海に出るどころか、船出するとまもなく夜の闇と霧に飲み込まれ、川の中州の泥地にはまってしまった。霧の中から忽然と現れたのがHeaven eyesと名乗る少女だった。管理人と称するGrampaは泥の中から掬いだしたちいさな女の子にHeaven eyesと名付けて守り育ててきたのだが、彼女はこのうち捨てられた川の中州の倉庫や工場とGrampaしか知らない。たまに遠くから目にする人間のことも、彼らはghostと呼んで避け通している。彼女は、ごく幼い頃の記憶らしきものを夢に見るが、夢という語彙も彼女にはなく、それをsleep thoughtと呼ぶ。文字通り、記憶の底に眠っている思い。Grampaがかたくなに守っている秘密の箱は何か、彼らは一体何者なのか、彼女はどこから来たのか、いや、彼女は幻ではないのか?対岸の街のくぐもった騒音がここまで聞こえるのに、この場所は別世界のようだ…。
 簡潔で透き通るような文章は本当に美しい。題名やHeavenのものの言いかた、Erinの大切な記憶など、作中で用いられている言葉には二重三重の意味が込められている。子どもたちそれぞれの心の揺れも身を切られるようだ。泥の中から掬いだされたというHeavenの珠のようなうつくしさが壊れないで、こわさないでと切に願わずにはいられなかった。そして作中でも、ErinやJanuaryが心から願った事は、やはりそれぞれの形で叶うのだ。Heavenが言うように、なんてlovely as lovely、still as stillな物語なのだろう。
 あーしばらくこの世界から抜けられない。"Skellig"(『肩胛骨は翼のなごり』)も原作を読むべき?これを読んだ時はそれ程はまると思わなかったのに。

2002.0109(水)

 もう昨日の余韻でいっぱい。デーヴィッド・アーモンド、ほかの本も注文してしまった。今日読み出したのはミルハウザー『イン・ザ・ペニー・アーケード』(短編集)、最初のは自動人形の話。

2002.0110(木)
購入本
『日経ネットナビ 2月号』/日経BP
『ダ・ヴィンチ 2月号』/メディアファクトリー
J・D・ケルーシュ/『不死の怪物』/文春文庫

 久しぶりに行った本屋で日経ネットナビ最後の一冊を見つけ、付録のCD−ROMで職場のぱそ子にOperaを入れてみた(ミーハー)。日本語化キットと併せてインストールしてちょっと見てみただけ。うちのにはこれからおいおい入れてみよう。

 ミルハウザー『イン・ザ・ペニー・アーケード』の最初、「アウグスト・エッシェンブルク」読了。古色蒼然としたドイツらしい雰囲気で書かれた、不思議な作品だ。19世紀後半、からくり人形に魅せられた時計屋の息子アウグストは、天才的な手腕で芸術の域にも達した、精緻な、生きているかのような自動人形を次々と作り出し、人々はそれに驚嘆する。その卑猥な模倣を作って人々におもねり金儲けをするハウゼンシュタインはアウグストに語る。

 エッシェンブルクの自動人形が、新たな時代の真のシンボルたる、安物の模造品にやがては駆逐されてしまうだろう(略)…世紀全体が凡庸さに向かって邁進していた。すなわち、偉大なもの、高貴なもの、美しいもの、独創的なものを目にするたびに、それを凡庸なレベルに引きずり下ろしたい、何がなんでも矮小化したいと本能的に願わずにはいられない精神、それを指して下人というのである。 (p.59〜60)

 下人(ウンターメンシュ)とはニーチェの超人(ウーバーメンシュ)に対してハウゼンシュタインが持ってきた概念である。下層階級を指すのではなくて、「もっぱら精神のありようを指し示す言葉である」。模倣の、コピーの文化。昨年読んだイアン・マクドナルドの『黎明の王 白昼の女王』の後半でも、「究極のレミックス・カルチャー」が大きな比重で取り上げられていたのを思い出す(200109281006)。このあたりの考察というのは、誰かがやってきているのだろうとは思うのだが、まさか19世紀のうちから実際にそれを見通していたものがあろうとは思えないけれど。サブカルチャーの「サブ」とは、どういう意味でつけられた言葉か知らないが、結果的に、模倣・コピーという意味を事実上含んでいる言葉だということになるのかもしれない。

 次の「太陽に抗議する」はまた打ってかわった書きぶりだ。まだ最初のあたり。

  『ダ・ヴィンチ 2月号』は、幻想文学の東へんしうちょうが「癒しの霊性(オカルト)」と「ミステリー・ ダ・ヴィンチ」の伝奇小説に登場でございます。ご真影(*^_^*)あります。もしや、すこしおふ**になりましたか。何気なく手に取った『不死の怪物』の帯にもご登場。

2002.0111(金)

 TVでナウシカを見ていたら、つい酸の湖のところで寝てしまった。いつ見ても音楽との組み合わせがいいよねえ。見ると必ず原作を読み返したくなる。原作未読の人にはぜひぜひ原作に出会って欲しいとおもう。

 『イン・ザ・ペニー・アーケード』読了。特に第3部(「雪人間」「イン・ザ・ペニー・アーケード」「東方の国」)が非常に気に入った。このうちのどれが一番と言い難いそれぞれの魅力がある。強いて言えば東方>雪>ペニーか。東方は、山尾悠子を想起させる所がある。こうしたはっきりした幻想的部分と共に、第2部、ペニーなどに端的に現れている、現実の中のほんのちょっと視点をずらした部分に描き出される魔法的感覚がミルハウザーの身上だ。ずっと前に最初だけ読んでそのままになっている『三つの小さな王国』へ進むことに。

2002.0112(土)
購入本
ダイアナ・ヘンドリー/『魔法使いの卵』/徳間書店

 天気がよく気持ちよさそう!ということで昼から娘と原宿へ(なぜに…)。本当は公園みたいな所がよかったのだけれど、まあ散策がてらと言う事で表参道(;.;) じゃあそれなら、と、クレヨンハウスで4時からの高楼方子の講演会を聞く事にする。先日から「行く?どうする?」なんて言いっこしていたまこりんを急遽呼び出す。娘は5時からバイトがあるので、まこりんとご対面してさよなら〜。

 高楼方子さんは、やや小柄で色白で髪の長い、ファニーな声の、落ち着いていながら楽しそうな方だった。もうすぐ発売という絵物語(佐野洋子・絵)を朗読してくださったが、文章も楽しいし、その読み方、声色が実におかしくって、随所で笑ってしまった。今日の儲けもの。小さい子ども向きのものはこれまで殆ど読んだ事がなかったので、今度いくつかまとめて読んでみたい。ためらいつつもやっぱり決心して質問しようと思ったら、惜しくも時間切れ。あとの質問はサイン会で、と言う事だったが、きょうは並ぶ気がなかったので、申し訳なかったが退席されるところを捕まえて数メートル歩きながら質問。「『時計坂の家』の舞台は?」「函館です」あっ、そうだった、わすれてた(だめじゃん)。次、「時計坂は、クライマックスなど特に、怖い、その怖さが安房直子に通じる気がするが、ご自分ではその点はどう思われるか?」「そうですか!?そう言われたのは初めて!それはとても嬉しいことです。」(以上大意)でも時間切れ&お知り合いに声をかけられたりでこれだけでおしまい。うーんちゃんと復習してしっかり質問すべきだったか!せっかくと言えばせっかくの機会だったのに、と反省。

2002.0113(日)

 ミルハウザー『三つの小さな王国』、以前読んだときそこで止まっていた、冒頭の月夜の散歩のパートを過ぎ、快調に進む。なぜ前回は、魅了されながらもここで足踏みしてしまったかなあと思う。やはりその「時」があるということなのだろう。『リトル・ビッグ』もそう。再挑戦してみたら、なぜもっと早く読まなかったかと思うのだろうが、その「時」ではなかったのだと考える事にしよう。

 なんだか最近は一種の飽和状態で、物理的にも家中に本は飽和しているし、精神的にも、読みたい本、読まなくちゃといわば強迫観念に駆られている本、などで飽和しているように思う。けれど読書傾向はおのずとある方向に傾いているわけだし、それに緊縮財政でもある事だし、買うのも読むのももう少し見極めることが必要らしい。でも病気なのよねえ…けれど今日は娘と池袋に行ったが、本屋には断固足を向けなかった。何て強い精神力でしょう(じつは歩き回って草臥れたからという単純な理由らしい)。

2002.0114(月)

 引きこもりっぽく一日をだらだら過ごす。夕方になってようやく本を読み始める。『三つの小さな王国』の「J・フランクリン・ペインの小さな王国」を終え、次の「王妃、小人、土牢」へ。フランクリンが作りだす彼の密やかな「小さな王国」は、彼のペン先から紡ぎ出される膨大な数の絵による漫画映画である。小さな驚異であるそれらのストーリー、何よりも驚くべきは文章による視覚的効果だ。たやすく映像化されそうでいて、決してそうはなり得ないだろうと思わされる。この漫画映画と、フランクリン自身の物語とが、あたかも入れ子のようにどこか相似形をもって感じられる。「ちらちら動く背景」にこだわり続けた彼の作品と実人生がどのようにして溶けあうか。全編彼の視点からだけこの世界は語られ、その結果迎えるラストの歓喜と感謝のシーンはただただ圧倒的と言うほかない。

2002.0115(火)

 『三つの小さな王国』の「王妃、小人、土牢」は一転して中世的な、城とその城下町の物語である。宮廷内部の物語と、城を見上げる町の住人の語りが、微妙に距離と視点を変え、時制までも入れ替えて、縒り合わされると思えば解きほぐされて再び投げ出される。「フランクリン・ペイン」といずれ劣らぬ素晴らしさ!中世的な舞台だからと言うのではないけれども、ここへ来て、ミルハウザーが誰かを思い出させると感じていたのは多分アンジェラ・カーターだと思った。次の「展覧会のカタログ」はこれまたかなりの集中力を要求するように思える。ミルハウザーの感想は非常に書くのが難しい!

 先日デヴィッド・アーモンドの本を2冊注文してわくわく待っていたのが届いたので、まずそちらを読んでしまおうか?と迷っているところ("Secret Heart"と"Counting Stars")。  

 今日のえいかいわ教室は、ううー、ほかに誰も来なくて先生とマンツーマンだった。\(^O^)/と書くべきか、(;.;)と書くべきか。

2002.0116(水)

 職場のネットワーク機器全取っ替えのためほぼ一日陸の孤島。夕方にはほぼ復旧し自分のぱそ子も設定し直してネットワークあっさり復旧。机や椅子に載っかって、天井近くを這うネットワークケーブルのつなぎ替えや、長いのを整理などする。

 さて一段落して自分のぱそ子の画面を見ると、エラーメッセージが出て凍っている、あらら〜、せっかくさっきはすんなり繋がったのに。このあと1時間ほど、何をしても、再起動>エラー>アプリケーションの強制終了>アクティブデスクトップの復旧>再起動…のループに陥る。たまに一見正常の画面になる事があるが、その時にはデスクトップのフォルダーはひとつとして開く事が出来ず、スタートメニューもクリックすると凍り、また無限地獄へ…。ああああ、Windowsの再インストールか?ようやくネットワーク更新作業が一段落した同僚に助けを求めると、彼が落ち着き払って言うことには、「それはMeによくある話で、ネットワークケーブルを引っこ抜くと直ります。でもまた繋ぐと起きます。直ったかと思って淡い期待を持ってもう一回繋ぐでしょ、ところがダメなんです。二度と直りません。Windowsの再インストールか、XPにアップグレードするしかありません。○○さんも、××さんもそれで散々悩んで、○○さんはXPにアップグレードしたし、××さんはMeの再インストールしました。うまく動いた隙にデータのバックアップ取っておいて、あとは一ヶ月くらいWebをさまよったらいい知恵が見つかるかも知れませんね、ははは、頑張ってください〜(^^)/~~~」

 肩を落として、おっしゃるとおりにケーブルを抜いてみると、あらま、確かに何事もなかったように動くのである。Meのせいなのか?しかし、抜く時の手応えに気になるものを感じた。なんとなく緩かった気がするのだ。それで、淡い期待を持ってケーブルをしっかり繋いでみた。…あっらー、直った。よかったあ〜!ただでさえすぐにエラーメッセージが出るこのぱそ子、お願いだからもう少し長持ちしてよね。Windowsのインストールし直しはいやだあ(やった事ない人)。ほぼ同じ時期に買って似たようなソフトを入れているのに、家のぱそ子(Compac)は快調で、よりスペックが高い職場のぱそ子(Epson)はなんとなく不調。当たりはずれとか、相性とかいうことなのだろうなあ。ふむ〜。

 ミルハウザーの続き。(架空の)作品とその背景を語る事により、一編の物語として、画家の姿が織りなされてきた。

 ははは、自サイトをOperaとNetscapeで見るとスタイルシートが死んでる(^^ゞ

2002.0117(木)
購入本
ピアズ・アンソニイ/『魔法使いの困惑』/ハヤカワ文庫FT

 今朝出勤して、ちょっと濃いめの期待を持ってぱそ子を立ち上げてみたら…やっぱりだめだった。昨日の帰り際の回復は一瞬の夢だったのねえ。合間を見て、データのバックアップ。いえもちろん仕事のデータは、普段からバックアップしていますけどさ…。連れ合いは「だからWindows2000にしろって最初から言ってるでしょ」と言うけど、家のぱそ子もMeのを勝手に注文したのはあなた様だし、職場のを何にしようかって相談した時も「扱いやすいからMeにするんだね」って言ったのもあなた様。はい私が自分で決めなかったのがいけないのね。でも職場の同僚もあれこれ知りつつ「Meにしたら」と言ったのよね、どうしてみんな自分はMeを敬遠しておきながら人には勧めるよ?そしてどうしてみんな「最初から2000にするんだったね」って言うのよ?

 水難の日というのは時々あるけれど、今日は危難もとい機難の日。パソコンに続いて、デジカメもなぜか不調でせっかく撮ったシーンのいくつかが残っていない。また別の時、ネットワークが使えないので印刷が出来ないため、MOにデータを入れて別なパソコンに持っていったら、なぜかその画面が勝手に死んでる。すわディスプレイが古くなっていかれたかと、ほかのと入れ替えたが同じ症状。結局人知れず本体がフリーズか何かしていたらしい(あっこれもMeだ)。帰る道々では私物のMDプレイヤーが、曲のスキップができなくなった(結局これは勘違いだったのだが)。機械の故障は間違いなく接触感染すると思う。G4noteも逝かれるかと思った。

 娘が先日念願のピアスを開けて、「髪の毛が引っかかって血が超出た」とか「このまま膿むんだろうか」とか騒ぐ。はっは、傷が乾くまで何週間か辛抱するんだね〜。私はどちらかというと傷が治りにくいたちなので、開けた時傷が落ち着くまで結構かかったのだ。もう一つ開けたらと言われるけれど手当てが面倒なのでもう開けない。

 『三つの小さな王国』読了。いや最後の「展覧会のカタログ」はすごかった。デモニッシュとでも言うのか。そしてみんな折り重なって死んでしまうのだ。どうしてミルハウザーはもっと訳出されない?これから『夜の姉妹団』に行く。『バーナム博物館』は持っているから、あとは『むずかしい愛』と『エドウィン・マルハウス』(絶版)。ちょっと疲れるかもしれない。『夜の姉妹団』はずっと積ん読本の上位にいたのだが、ようやく最上層に浮上。ほかにもクロウリーとかカーターとかが収録されている。この表題作を読んでからAlmondへ。

2002.0118(金)

 「夜の姉妹団」、「古代の遺物」(ジョン・クロウリー)、「ジョン・フォードの『あわれ彼女は娼婦』」(アンジェラ・カーター)を読む。「夜の姉妹団」はその題名から想像していたのと雰囲気の違う作品だったのだが、これもやはり主観と客観、現実と非現実、感覚と超感覚、といったものの狭間をとらえ感じさせる。

 時間の流れる速さは決して一定ではない、幼い頃は時間のたつのが実に遅く感じられ、年を取ると時間はあっと言う間に過ぎ去るように感じられる、というのがまさにその証拠なのだと。この考えが正しいのかどうかは知らないが、この考え方のもたらす一種のコペルニクス的転回(おおげさ?)が好きだ。ミルハウザーを読んでいると、この考え方をなぜか思い出す。

 クロウリー、カーターそれぞれにらしい作品。ミイラの粉が混じった肥料を撒いたため、村中の男が「不倫疫病」にかかる「古代の遺物」。350年以上昔の作家ジョン・フォードが兄妹の愛を書いた『あわれ彼女は娼婦』、これが現代のジョン・フォード(映画監督)の手にかかったらどうなるかを描いた「ジョン・フォードの『あわれ彼女は娼婦』」。ことにカーターは思わずうう〜むとうなってしまう。あにといもとの物語は、大抵なんとも苦しいのだ。そもそもアダムとイヴだって、どっちかというと兄妹みたいなものじゃないか。スターウォーズはせっかくそうなりかけて逃げちゃった。昨日読んだ「展覧会のカタログ」は二組の兄妹の話だった。これから『むずかしい愛』の拾い読みにかかる。

 気分は「さらばMe〜(^o^)/~~~」なんだけどまだフマジメにちびちびバックアップ取り中。いらないファイルをゴミ箱に捨てようとすると「このファイルは使用中の可能性があります」と言って捨ててくれないことがあったり、CD-Rに書き込み中にいきなり「explorer応答なし」と言って止まったりする。連れ合いはWin2000用のいろんなドライバが入ったCD-Rをひらひらさせて待っているのだが、いろいろ設定し直しか〜と思うと踏ん切りが付かない。

2002.0119(土)
購入本
古川日出男/『アラビアの夜の種族』/角川書店
シャーリイ・ジャクスン/『くじ』/早川書房
向山淳子・向山貴彦/『ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本』/幻冬舎

 うちの仲良し姉弟は一緒にお洋服買いにお出かけ。ときどき(しばしば)お話の外で見ているだけの母である。あした早起きできれば、ジョニー・デップを見に行くのにご一緒させていただけるかも(フロム・ヘル)<弱気

 『むずかしい愛』中の「ロバート・ヘレンディーンの発明」(ただいま読み中)は、『バーナム博物館』に入っているのを発見。でも『むずかしい愛』にはクロウリーの「雪」も入っているからね。

 夕刻より、まこりん主催の新年会@新宿。参加者は青月にじむさん大江戸さんかめにいさん木の実さんMAKIさんわっちょさん、私。集合場所だった紀伊国屋で買った本のご披露とか、昨年のベスト本とか、実の親子の話とか、連れ合いはどのくらい必要かとか、スカーレット・ウィザードやら空色勾玉やらハリポタやら恩田陸やらエトセトラ。今年は、話題になってるから買わなきゃという本の買い方はやめようとか。二次会では近くのテーブルのお若い集団のエネルギッシュな盛り上がりに終始押されていた(いやはやものすごい騒ぎ)。誰かの問い「ストレスってどうやって解消してる?」に、誰も確たる返答をしなかったのは、皆たいしたストレスはないってことでしょうか。あるいは「やっぱり本を買う/読むことがストレス解消かな?」とそれぞれの脳裏に浮かんだか。

 それにしても夜の新宿の混みようのすごいこと。帰りの電車もほんとに痛勤電車なみ。

 文藝春秋の「本の話」に連載の池上永一「夏化粧」読んでね>MAKIさん

2002.0120(日)

 娘にしっかり起こされて(10分後に目覚ましがかけてあったのに)、ぶじ「フロム・ヘル」観に行った(初回ガラガラ)。期待よりずっとよかった。デップさまぁ(はあと)!19世紀末の暗いロンドンに深紅の血の色が印象的。鮮血はもとより、赤いろうそく、レアのローストビーフ、メアリの胴着など。行ってみて初めて15歳未満禁止と知ったのだが、題材の割に実際には別にグロではなかった。切り裂きジャックの手で次々に惨殺される娼婦仲間を演じる女優たちがよかった。相方の巡査部長も。王室の侍医ウィリアムを演じているイアン・ホルムは、指輪ではビルボ役。彼に「感情がない」と評される若い外科医が、風野ドクターを思い出させる風貌(ハンサムで品がいい)でした。風貌だけですよ。でもオチがああ来るとは思わなかったなあ、うるうる。「耳に残るは君の歌声」も観たいのだけれど。

 本日のミルハウザーは、「ロバート・ヘレンディーンの発明」から『バーナム博物館』に横滑り中。「アリスは、落ちながら」を終えて「シンバッド第八の航海」の頭の部分。「ロバート〜」も「アリス〜」も、これまでのと同じように、終盤にさしかかっての加速感、一挙に渦に巻き込まれる感じが何とも魅力だ。「アリス〜」ではどうしてマーマレードじゃなくてラズベリージャムなのかな?

2002.0121(月)

 「シンバッド第八の航海」読み終える(シンドバッドかと思ったらシンバッド表記だった)。これはまさに渦に巻き込まれてました。次に読んだ「青いカーテンの向こうで」で構造が分かり易く捉えられるのだが、どの作品も、と言いたいくらい、物語と別な物語との一種四次元的な入れ子構造や視点の転換を表し出そうとしている。「物語と別な物語」の組み合わせとは、現実と夢であったり、実体と非実体であったり、語り手(の側の物語)と登場人物(の側の物語)であったり様々ではあるが、読み進むに連れてこの感は深くなる。「アリス〜」の後半や「シンバッド〜」など、彼の作品の秘密が次々明かされるように思えて、スリリングですらあった。今振り返ると最初に読んだ「アウグスト・エッシェンブルク」は、緻密な細部を埋める作業への情熱がむしろストレートに書かれていた分、読みやすかったのかも知れない。

 もしかしてWinMeをまっさらにしてWin2000にするのって、じつはなんかとっても大変なんじゃなかろうか。どうしたらいいのでしょう(俄然弱気)。

2002.0122(火)

 頭痛のため一回休み(^^;;

 今日は長男の誕生日なのだけれど、連れ合いは夜遅いし、娘はバイトでいないし、私はえいごだしで、お祝いは週末に延期。本人も学校が推薦受験の日のため2日間お休みでだらけ切っている。

2002.0123(水)

 プルマンが、Whitbread賞の、全部門通しての年間ベスト賞をとった!(>Whitbread賞のサイトBBCニュースYahooニュース)やたー!

 この作品は必ずしも児童文学という枠組みの中に収まるものではないので、「児童文学が賞を取った」と大げさに言うとかハリポタ現象と関連づけるように「児童書の地位が高まった」と言うのは的を射ていないように感じる。

2002.0124(木)

 職場のぱそ子、逝かれてから1週間。ネットワークケーブルを抜いてあればまあなんとか、一見さほど問題なく動くのだが、何と言ってもネットに繋がないと印刷も出来ず不便。とりあえず必要なもののみ載せるつもりで、これも経験のうち、とMeの再インストールをした。Meのプレインストールマシンであるため、再インストール自体はリカバリーCDを使用すればよいので簡単だったけれど、その前(バックアップ)と後(アプリケーションのインストールや諸設定)が結〜構めんどくさい。Win2000に換えるのはもっと大変そうだけれど、もう発注しちゃったので初志貫徹(大げさ)。私と同様の症状が職場で複数件起きているのだが、広い世の中ではこういうことは起きていないのでしょうか(Meって何らかの条件下でネットプロテクトかかるのか?<MSの陰謀説)。しかし再インストール直後から既に訳わかんないエラーメッセージが出るってどうして。Win2000自体は2万いくらから3万いくらだが、新しいウィンドウズマシンの値段が下がっている昨今、買っちゃった方が早いし簡単だよ、という声もあり。でも買ってまだ8ヶ月余りだし、安いとは言え、さすがにそのン万を職場の乏しい予算から出すわけにもいかないぢゃない?

 『バーナム博物館』を読み終わったら何と言っても現在評判の高い『アラビアの夜の種族』を読みたいのだが(ほらこうやって横道に逸れてゆく)、頭痛とか、睡眠不足とか、昼休みに珍しくみんなでお昼を食べに行ったとかのためになかなか進まない。ピシピシ(鞭)。

2002.0125(金)
購入本
サルマン・ラシュディ/『ハルーンとお話の海』/国書刊行会
仁賀克雄/『図説 切り裂きジャック』/河出書房新社
野溝七生子/『ヌマ叔母さん』/深夜叢書
マイケル・ムアコック/『グローリアーナ』/創元推理文庫
E・E・スミス/『銀河パトロール隊』/ 〃
古川日出男/『13』/角川文庫
『SFマガジン 3月号』/早川書房
『別冊 文藝 1月号』/文藝春秋

 午後職場から新宿まで行く用があったので、帰りに久しぶりに本を買った。重かった。やっと最寄り駅まで帰り着いて、重さをひしひし感じながらとぼとぼ歩いていると、後ろから自転車がゆっくり近づいてきた。あやしい気配にハッと見ると、なんだ、学校帰りの長男が気の毒そうに笑っているのであった。有無を言わさず前カゴに重い荷物を突っ込んで「よろしく〜」。持つべきものは優しい息子。

 ミルハウザーの合間にダイアナ・ヘンドリー『魔法使いの卵』読了。題を見て、つい魔法使いが実際に何かの卵(中に魔法そのものとか不思議な世界とかドラゴンとかが入ってる)を所有していてそれを巡るお話かと思ってしまったが、そうじゃなくって、卵とは、これから魔法使いとして認定されようとする少年の事だった。「たまご」とか「タマゴ」とか書いて欲しかった(;.;) 日常の世界の中に魔法使いとそうでない「フツウ人間」が共存している。両親とも魔法使いのスカリー少年は、間もなく正式な認定を受けようとしている見習い魔法使いで、魔法の勉強に励んでいる。そのせいもあっていつも(フツウの)学校でぼうっとしているスカリーに、校長は、一日勉強や宿題の面倒を見る「お守り」をつけてしまった。赤毛でミニスカートにブーツ、「お守り」っていう感じじゃないよな、と彼は思う。父親は、市場で時計屋としてフツウの生活をしているが、しょっちゅう時間旅行をする魔法使いだ。彼は「魔法のしずく」が隠してある大時計を預かっているが、それをねらう一団の魔手が迫り、スカリーは彼らにさらわれてしまう。…金持ちだが普通らしく振る舞っているクラスメートの少女リジーとの交流がからめられて、ほのぼのとしたエンディングになっている。むりに子ども向きの文体に訳さないほうがよかったのでは?「フツウ人間」というのはハリポタの「マグル」というところだが、こういうのって何もそう定義しなくても、物語の背景の中で、魔法的人間と普通の人間がどう共存しているかいないかを語ればいいのではないだろうか?こういった点などに安直さを感じるが、全体としては軽くて楽しい読み物だ。ナメクジはいやだけどワラジムシは許す。

2002.0126(土)

 ちょっと朝寝。ひさしぶりに誰も学校、勤務のない日だ。ひたすらだらだら非生産的に過ごす。あちこちの本をぱらぱら見るが、気が散るばかりで結局何も読めずじまい。昨日買った『別冊 文藝 1月号』の山之口洋さんのを読むが、なーんだいいところで次号へ続くだ。非常にまっとうな読みやすい文を書く方なので、安心して読むことが出来る。

 ラシュディ『ハルーンとお話の海』を読み始める。なにかその時の波が同じようなところへ打ち寄せると言うことはあるもので、古川日出男『アラビアの夜の種族』を横目でにらみながらミルハウザー「シンバッド第八の航海」を読み終わったところへ、またアラビアンナイトっぽいこういうものが出版されたのが目に付くとは。この本は国書刊行会から刊行されたものなのだが、造本のせいらしく平積みになっていたものの表紙がどれも反ってしまっている。時々そのような本を見るが、安っぽい感じ、心がこもっていない感じがして気に入らない。中味はそんな事はないのだが。

2002.0127(日)

 昼頃までひどい荒れ模様。娘が午後からの英検を受けに行く頃にタイミング良く晴れ間が見え始める。午前中の荒天が嘘のように晴れてすっきりした青空になったので、次男に「とうさんと凧揚げしておいで」と言ったのも束の間、再び風が吹きまくり始めて断念。夕方になってやっと風がおさまってきたので父子はほんの1時間ほど走り回ってきた。先週はちっとも風がなかったので今日は楽しめた模様。カイトって少しでも風があると、飛びたくて仕方ないようにバタバタし出すのが生き物のようで、カイトの興奮が持ち手にもびんびん伝わってくる。

 ラシュディ『ハルーンとお話の海』読了。ラシュディの名高い作品は残念ながらひとつも読んでいないのだが、想像力が溢れていくらでも物語が紡ぎ出されてゆくタイプと思った。

 ハルーンは、「空想がいっぱいの海」あるいは「戯言(たわごと)の王」とあだ名される、町で人気のストーリーテラー、ラシード・カーリファの一人息子。よその家にはたくさん子どもがいるのに、どうしてうちは一人っ子なのかと父親に尋ねると、ハルーン一人でうちの子ども枠はいっぱいなのだという返事が返ってくる。「四、五人は入れるところを、きみが一人でいっぱいにした。だから、きみには何人分もの目に見えない力があるんです」。さてラシードのお話の源は、「大きなお話の海」から複雑なシステムでやって来るのだという。あるときラシードはどうしたことか、それまですらすら口から出ていた素晴らしく楽しいぶっ飛んだお話が、まるで出てこなくなってしまった。お話の源を絶たれてしまったのだ。その原因が自分にあると、ハルーンは何とか解決しようとして思いもかけない旅に出るが…。

 ナンセンスや言葉遊びの要素をたくさん持ち、しかも次々にお話が繰り出され、読者は文字通りお話のイメージの大海を泳ぐかのよう。たぶんに比喩的、風刺的でもあるが、ストーリーテリングの魅力がいっぱい詰まっているので、とにかく楽しめるゴキゲンな作品だ。カーリファという名前をついカルシファーと読んでしまう私でもある(カルシファーはDWJ『ハウルと火の悪魔』に出てくる火の悪魔の名前)。ほらまたここにも打ち寄せる同時性の波。

 つい久しぶりにネットアイドルウォッチングをしてずるずるリンクをたどり懐かしい〜っとか読みふけりそうになり、こりゃいかんと止めにした。猫をダシにするのは気に入らないぞー、んもうっ。

2002.0128(月)
購入本
古屋兎丸/『Marieの奏でる音楽 上』/幻冬舎バーズコミックスデラックス

 朝からMoMA展@上野の森美術館へ行く。突然2月3日で終了と気付いたのだ。9時半会場のつもりで9時半に行ったら10時開場との事、そこそこの行列が出来ている。けれども会場の準備ができ次第開けるとのことで9時40分ころに入れた。数の多いのがマティス、ピカソなどで、ほかにブラック、カンディンスキー、ミロ、マグリット、ルソー等。私の好きなボナールも1点あったが、近代もののなかにあってはかれらの持つ不作法なまでのインパクトとは異質であった。私は結構近代も好きなので楽しめた。形と色について手を替え品を替えの実験、挑戦そのものが手段の追求を越えた目的になっている。ピカソの無常を感じさせる作品や、マティスの美しく伸びやかなリズムある色彩、マグリットの石化、風化する絵などが印象に残る。ゴッホを出すならゴーギャンも出してね(ゴッホよりずっと好き)。

 芳林堂のコミックプラザで『Marieの奏でる音楽 上』を見つけた。先日bk1で注文したら下巻だけ届いて上巻は品切れだったので憮然としていたところだったのだ。古屋兎丸は初めて。一気読みしたが、いやこれが良かった。ちょっとイバラードに似た一種牧歌的な風景の中に、歯車などの硬質な、でもいわゆるローテクの機械類が満ちあふれている。主人公カイとピピの見上げる空には、巨大なMarieの姿が。カイは人が聞き取れない様々な物音を聞き分ける特別な能力を持っているが、それはある事のために目論まれたものだった…。コミックは手を出してしまうと際限ないので波津彬子あたりと大島弓子くらいしか読まない事にしているが(最近大島弓子はちっとも描かない)、これは非常に気に入った。掲示板で薦めてくださった睡月さんありがとう!

 なぜかハウフ『隊商』を読み返したり。

2002.0129(火)

 なけなしの知恵を絞ってcssのお勉強。絞っても出るものがないらしい。

 久しぶりに読んだハウフ『隊商』を終える。アラビアン・ナイトや、ラングの童話集と記憶の中でどこかだぶっているが、終始感じられる毅然とした雰囲気がそれらと一線を画しているように思える。ほかの作品も改めて読んでみたくなった。

 おおもうすぐ『琥珀の望遠鏡』の発売ですわね。と言っていないで、『バーナム博物館』を終えてしまわないと何も進まない。ちょっと寄り道が多すぎて自分の中で収拾がつかない。

 指輪物語を、話題だから読んでみようと言って、万人向きの面白さを期待されたらそれはちょっとね。それはともかく、次男の同級生のお母さんに、ハリポタやらホビットやらを貸す。ここらの図書館でも指輪はやっぱり1巻のみ貸し出し中。長い事殆ど死蔵状態だったのに、嬉しいというか何というか。

 リンドグレーンが亡くなった。新聞の記事を見て思わず声を挙げる。私が好きなのは、ピッピよりもやかまし村、さらにそれよりも『ミオよ、わたしのミオ』と『わたしたちの島で』が特別に好き(『はるかな国の兄弟』も好きだけど)。イロン・ヴィークランドの絵がまたぴったりで、良くまねして描いたものだ。『わたしたちの島で』はめずらしく17歳の少女が主人公で、夏休みにスウェーデンの多島海に点在する小島のひとつに避暑に行く一家の話だ。彼女(名前忘れた)が母のいない一家の主婦役になって、うだつの上がらない貧乏小説家である父と、やんちゃな、あるいはいたずら者の弟たちの面倒を見ている。小説家を目指す彼女の日記という体裁を取り、子どもみたいに無邪気な父親と、島の天衣無縫な女の子チョルベンの年齢を超えた友情や、弟たちの様々な悩み、彼女自身の恋、素晴らしい自然が生き生きと描かれる。皆が心底気に入ったおんぼろの貸別荘一軒も買う事の出来ない父親は、自分自身のふがいなさに涙するが、終盤で、彼自身と末っ子との働きにより、喜びの結びになだれ込む。この作品がなかったら、リンドグレーンに対する思いがもう少し減っていたに違いないと思うくらい、好きな作品である。リンドグレーンに、長い間ありがとうと言いたい。

2002.0130(水)

 駐車場のお引っ越しをすることにした。今までより少し近くて値段は8割。でも急に空いたので、今までの所の契約上、2月分は払わなくてはならない。うー、もったいないっ!

 『バーナム博物館』の続き、「セピア色の絵葉書」を読む。殆ど主人公の目に映った事実だけを客観的に記述しているかのよう。なめるようなカメラ目線は、ときにズームインしズームアウトする。錯覚なのかそうでないのか、彼の意識の中のみの出来事なのかそうでないのか、主人公の目に映るものと観客(読者)の目に映るものとが微妙に重なり合うようであり時に分離するようでもある。絵葉書の中の荒々しい情景と現実の雨、雨、雨の旅行先の町の情景とが二重写しに描かれる。やや実験的な印象も受ける。

2002.0131(木)
購入本
フィリップ・プルマン/『琥珀の望遠鏡』/新潮社

 帰宅すると『琥珀の望遠鏡』が届いていた。前2冊よりさらに厚い!ついつい、あちこちを拾い読みし、思わずそのまま読み続けてしまったりする。また随所でうううっ…!と涙する。日本語だとこんなにあっと言う間に読めるのね(;.;) けれどもナマで読めて本当に良かったと改めて思った。迫ってくるものが違ーう。

 昼休みに、職場近くのおフランス料理屋のランチ1000円。朝、娘にこの予定を話すと、あんな所にそんな店があるわけがないと言いたい様子。一応そんな店ではあったけれど、いつまで持つやら?

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最終更新
2002.02.02 15:17:23