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福本 武久
ESSAY
Part 3 |
福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。 |
新島襄とその時代……会津から京都へ |
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初出:雑誌「同志社悲報」No.93(学校法人同志社) 1992.03.16 |
山本覚馬と新島襄
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ペリーが来航した嘉永六年(一八五三)六月、数え年で山本覚馬は二六歳、新島襄は一一歳であった。なぜ年齢などを持ちだすかというと、歴史の変革をもたらす大事件を何歳でむかえたかということが、世代として果たすべき役割を決定づけたと思われるからである。
黒船の来航は、新しい国づくりのきっかけとなったといういみで歴史的な大事件であった。幕藩体制を激しくゆすぶり、やがて国内政治は修復できないほど混迷してゆく。そのなかから近代国家づくりの機運がもちあがってゆくのである。その主役となった人物像をながめてみると、かれらの役どころと嘉永六年時点で、どの世代に属していたかということが無縁ではないように思えてくる。
たとえば倒幕のリーダーであった西郷隆盛は二七歳、大久保利通は二四歳、木戸孝允は二一歳、板垣退助は一七歳、大隈重信は一六歳、伊藤博文はわずか一三歳でしかなかった。かれらによって維新が実現されるのだが、その背後にいたのが嘉永六年当時すでにして四〇〜五〇代になっていた佐久間象山、緒方洪庵、横井小楠、島津斉彬などであった。つまり明治維新は四〇代〜五〇代の開明家の思想的な影響をうけた一〇代から二〇代によって達成されたといえる。山本覚馬も新島襄も、この世代に属している。
会津藩士の山本覚馬は維新戦争で倒された幕府側の人間であり、国外に脱出していた新島襄は幕末動乱の蚊帳の外にいた。けれども時代のメンタリティーに関していえば、明治をつくった同世代の人物群とほとんど変わるところがなかった。
嘉永六年の夏、藩命によって江戸藩邸に出府した山本覚馬は、おそらく黒船をみたにちがいない。ペリーは翌年一月にもふたたび浦賀にやってきて三月まで停泊していた。会津藩は江戸湾警固についていたから、覚馬の眼にふれる機会は十分にあった。かれが三年間の江戸遊学中に洋式砲術を修め、にわかに洋学を志すようになったのは、やはり黒船を目のあたりにしたから、としか考えられないのである。
覚馬は江戸遊学で〈国家〉という意識、さらに〈世界のなかの日本〉という意識に眼ざめた。やがて欧米諸国におしつぶされない強い国をつくらねばならない……と考えるようになる。それは洋式砲術の師佐久間象山、勝海舟を通じて知った横井小楠の影響であろうと思われる。佐久間象山は積極的な開国を唱えて人物として知られ、横井小楠は尊攘派志士に開明思想をふきこんで開国討幕派に転化させた思想家である。かれらはともに海軍の建設を提唱していたが、覚馬が後になって著した海防意見書『守四門両戸之策』には、師の象山と小楠という先達の影がほのみえるのである。
新島襄は万延元年(一八六〇)秋、江戸湾に停泊しているオランダ軍艦をみて、欧米の科学文明に畏怖をおぼえた。欧米の先進科学を学びたいという思いから、やがて国外脱出を決意するのも、やはりペリーやプーチャーチンがひきいる外国艦隊が来航してから、はげしく動きはじめた時代の雰囲気と無縁ではなかっただろう。
外国に学んで欧米諸国の侵略に屈しない強い国家をつくりたい……。覚馬も襄も同じように考えていた。それは明治をつくった伊藤博文をはじめとする同世代の人物とほぼ同質の思想なのである。
維新を実現した群像と思想的に同じ地点にありながら、山本覚馬は倒された側の人間として明治を迎えた。新島襄はがむしゃらに突っ走った。かれは国禁の密航を企て、維新戦争という内乱でもみくちゃにされずに明治をむかえている。それは一五歳という年齢のひだたりのせいだろう。
嘉永六年当時すでに二六歳だった覚馬は、三〇歳前後で動乱の世をむかえている。分別盛りの年齢ゆえに世の中がみえすぎていた。さらに覚馬は『徳川第一にせよ』という藩祖の遺訓にしばられていた会津藩士である。新島襄のように冒険的な行動に出るわけにもゆかなかず、だからといって志士にもなれなかった。幕末の動乱をみずからの運命にしたがって生きぬき、苦悩しながら果たすべき役どころをみつけなければならなかったのである。
山本覚馬にはいくつもの貌がある。撃剣・槍術の達人、西洋式砲術家、洋学者、教育者、産業振興のプランナー、実業家……。剣と槍を執るいかにも剛毅な会津武士だったかれは、ペリーが来航した嘉永六年に江戸に遊学して、眼をひらかれ、洋式砲術家となった。藩主松平容保が京都守護職についたときは、大砲隊の副隊長として京都にのぼった。蛤門の戦いでは大砲隊を指揮して長州勢を撃退したが、このころから眼疾に悩みはじめる。視力を失ってからは、〈武〉の人から〈文〉の人に変貌してゆく。からが三傑にあげている佐久間象山、横井小楠、勝海舟らの開明思想、さらには長崎遊学中に知り合ったボードインら外国人から学んだ世界情勢をベースにして、新しい国づくりに眼をむけてゆく。それらは鳥羽伏見の戦いで倒幕軍に捕らえられ拘禁された薩摩藩邸で、かれが口述により著した意見書『管見』にもりこまれている。
故郷の会津が滅亡してゆくのを傍目にしながら、覚馬が作成に没頭した『管見』は、ひろく世界に眼をむけた文明の原理・原則であるとともに、かれ自身が新時代に生きる原理・原則でもあった。口述ゆえに項目の羅列委終始しているが、『管見』の背後にあるのは西洋のデモクラシーと合理主義精神である。旧幕時代の独裁者による〈私〉の政治ではなく、国家と国民の利益を優先させる〈公〉の政治を背景にして、〈富国〉の産業政策をすすめなければならないという思想が読みとれるのである。
『管見』は新政府の要人からも高く評価され、覚馬は京都府の顧問として産業振興に参画することになる。かれの明治は東京遷都でさびれつつあった京都の再興に着手することではじまった。
明治の世になって、京都は日本で最もすすんだ近代産業都市になってゆく。その裏には山本覚馬がいた。かれは獄中で描いた〈世づくり〉のビジョンを、京都の〈都市づくり〉に生かしたのである。
かれは維新政府をつくった薩長の人間ではなく、賊軍といわれた会津藩士である。それゆえに中央政府のめざすものとは異なるユニークな行政をめざした。征服者のつくった中央政府にこびることなく、第二の故郷ともいうべき京都を再建しようと考えたのである。新島襄とともに同志社をつくったのも、そういう決意にいたる精神の巡歴と密接な関係があると思われる。
山本覚馬が密航青年の新島襄と出会ったのは明治八年(一八七五)四月であった。覚馬は数え歳で四八歳、襄は三三歳である。
一〇年のアメリカ留学を終えて帰国した新島襄は、キリスト教主義の学校づくりを模索していた。日本を近代化するには、欧米の文明を移入するだけではなく、自由・自治・自立にめざめた青年を育てる。それこそが先進文明に学んだ自分が、祖国にむくいるただひとつの道だとかれは考えていた。
そういう精神のありようが山本覚馬の心をとらえたのだろう。新島襄は明治維新政府というものをまったく信用していなかった。訪米中の岩倉使節団の通訳をつとめたかれは、新政府に仕官しないかと誘われるが、きっぱりと拒絶してしまう。密航の罪を不問にして、正式に留学生として認めようといわれても、聞きいれなかった。政府の奴隷になりたくないというのである。日本に帰国するとき、伝道教会からアメリカに帰化しないかといわれるが、それもはねつけた。あくまで誰にもしばられない身で、キリスト教主義の学校をつくろうと考えていたのである。
新島襄は偶然とはいえ幕末の動乱をうまくのがれてアメリカに渡った。覚馬のように挫折感がなく、新政府に対するコンプレックスもまったくなかった。それゆえ、ほとんど対等の立場を保つことができた。当時としては、まれにみるユニークな人物だったといえる。
維新戦争に敗れた覚馬にしてみれば、薩長の新政府にこびることのない姿勢に共感を覚えただろう。それゆえに山本覚馬が新島襄という人物に、新時代を担う青年を育てるに最もふさわしい教育者像を見いだしていたとしても不思議はない。
山本覚馬は新島襄の構想に賛成、二人はただちに京都での学校設立に着手する。その年の六月に襄は覚馬の自宅に住居を移し、英学校設立に奔走するのである。やがて山本家は家族をあげて新島襄をバックアップするようになるのだが、それは覚馬自身が教育に強い関心をよせていたせいもある。
かれはすでにして青年時代から、すぐれた教育者であった。たとえば江戸遊学から帰藩するやいなや藩校日新館に会津藩洋学所を開き、京都にやってきてからも藩主に建言して洋学書を開設している。京都府顧問になってからも自宅で政治・経済講座を開き、京都を代表する政治家や実業家を生みだした。かれは『管見』のなかでも〈学校〉の項で教育の重要性を力説している。《欧米の先進国とならぶほどの文明国にすることが緊急課題である。そのために先ず人材を育成すべきである》と書いているほどである。つねに次代を担う人物の育成につとめていたのである。
同志社英学校は明治八年(一八七五)一一月に開校した。密航青年の新島襄、元会津藩士の山本覚馬にくわえて宣教師のディヴィスの三人でできあがった。同志社は中央政府のつくった官立大学のように、一部のエリートや国家に奉仕する官僚を養成する学校ではなかった。新島襄のことばでいえば「一国の良心となるような人」の育成である。それはっしずめ民間にあって、時代のチェック機能を果たす自立した人材ということであろう。薩長中心の新政府のめざす学校と異なるところに、同志社が位置づけられえいったのは、創立者である三人の思想や経歴からみて当然のなりゆきだった。
同志社の結社人として名を連ねた山本覚馬は、たえず背後から社長の新島襄をささえつづけた。開校当時のかれは、すでにして四八歳であった。そのころになると、かれが心血をそそいできた京都の〈都市おこし〉のアウトラインは完成して、もはや実行あるのみという状態だった。いわば一定の事業をなしとげ、人生の役割を果たしおえようとしていた時期である。だからこそ次代を担う青年の教育に熱い眼ざしをそそいでいた。覚馬は自らの夢を新島襄に託し、かれをバックアップすることで、最後の仕事をなしとげようとしていた。
もし山本覚馬がいなかったら、同志社の設立はもっと遅れていただろう。アメリカ帰りの新島襄はほとんど外国人にひとしかった。キリスト教への国民感情も実際には分からず、政府や京都府に折衝する呼吸も知るわけもなかった。とても幕末の修羅場をくぐった覚馬の比ではなかった。
四八歳という年齢にくわえて京都府顧問にあった山本覚馬は、手練手管のネゴシエーターであった。かれには会津藩士時代に公用人をつとめたという経験があった。たとえば文久二年(一八六二)、京都にやってきた師の佐久間象山のもくろんだ彦根遷都という密謀にもかれは参画していた。皇居を彦根にうつして、天皇を幕府の手中におさめ、一気に公武合体と開港の国是を得ようというのであった。覚馬は会津藩内の工作はもちろん、他藩にも働きかけていたのである。
会津と同盟関係にあった薩摩との亀裂が生まれようとしたときも、かれは勝海舟とともに衝突回避に奔走した。慶応二年(一八六六)王政復古の大号令のあと、幕府側と薩長がにらみあったときも、内戦にならないよう最大の努力を重ねている。かれが後年に記した意見書『時制の儀ニ付拙見申上候書付』によると、六人の非戦派の藩士とともに藩内の説得にあたり、幕府の監察や薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛に働きかけていた経緯がのべられている。「国内で争うべきではない。今は国をあげて外夷の脅威に備えなければならない時なのだ」と、非戦を説いていた覚馬は、鳥羽伏見の戦いの直前まで、開戦の回避に奔走していたのである。
山本覚馬のネゴシエーターぶりは、同志社の設立にあたっても、いかんなく発揮されたとみる。京都府当局や知事より権力をもっていた槇村正直への根回しは、すべて自分の仕事だと腹をくくっていた。当時の京都は西洋文明を積極的に導入していたとはいえ、キリスト教を前面にかかげた学校の設立はむずかしかった。
切支丹禁制の高札は、明治五年(一八七二)に取り除いてもいいとされていたが、積極的にキリスト教を解禁したわけではなく、諸外国の圧力によって黙認しただけにすぎなかったのである。同志社はキリスト教をひとたび切り離したかたちで英学校の開設に踏みきったが、それは覚馬の知恵だっただろう。事実かれは近代科学の教授を表看板にしたほうが。学校設立は早く実現するだろうと考えていたのである。
たえず新島襄の背後にあって、元会津藩士の山本覚馬は盲目でありながらも、どっしりと構えてにらみをきかせていた。かれは仏教徒の反対運動や、同志社にたいするさまざまな中傷、京都府との関係改善などを一手に引き受け、いかにも会津武士らしい剛毅さで解決にあたっていた。それこそが一世代うえの自分が果たさねばならない役割だと考えていたのである。
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