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福本 武久
ESSAY
Part 3 |
福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。 |
新島襄とその時代……会津から京都へ |
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初出:雑誌「同志社時報」No.94(学校法人同志社) 1992.11.19 |
故郷喪失者の近代ー山本覚馬・八重兄妹
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日本人にとって〈戦後〉といえば、暗黙のうちに太平洋戦争を起点にしている。けれども会津若松では、いまでも明治元年の戊辰戦争をさすのだという。会津藩士であった山本覚馬と妹の八重にとっても、鶴ケ城での籠城戦は終生わすれることができなかった。
覚馬はこの戊辰戦争を京都でむかえている。京都守護職勤番にあったかれは、鳥羽伏見の戦いのときに新政府軍にとらえられ、薩摩藩邸に拘禁されていた。妹の八重は女性でありながら鉄砲で籠城戦を戦いぬいた。
落城とともに故郷を喪失した八重は、のちに兄をたよって京都にやってくるが、覚馬は籠城戦のようすについて、なんども八重に聞きたがった。
「それから、どうした? 話してくれ」
覚馬は夜になって、ひとたび床についても、むっくり起きあがっては、八重に話のつづきをせがんだという。
郷里をうしなった兄妹にとって、戊辰戦争とは、いったい何だったのか。藩家がたおれてしまい、八重は家屋敷だけでなく父もなくした。さらに最初の良人ともわかれなくてはならなくなった。覚馬はどうであったか。獄中にあったかれは、戦争をやめさせることもできず、だからといって参戦することもできなかった。
覚馬はもともと会津藩にあって、数すくない非戦論者であった。公用人として藩主の手足になって奔走していたかれは、つねに「国内では争うべきではない。現在は諸外国の脅威にそなえるべき時なのだ」と説いていた。
覚馬が獄中にありながら薩摩藩主に上申した「時制之儀ニ付拙見申上候書付」のなかに〈弊藩モ私共并両三輩同論(=薩長との対立回避)申立得共貫徹不仕之始末ニ至リ……〉という一節がある。さらに大政奉還後、幕府側と薩長との緊迫した事態をむかえたときにふれて、〈万事一洗彼此嫌疑氷解仕度奉存候ニ付作卯年六月私儀赤松小三郎ヲ以テ御藩(=薩摩)小松氏西郷氏江其段申述候処御同意ニ付幕府監禁エモ申談候得共更ニ取合不申猶夫是奔走周旋罷在候〉と書いている。
覚馬は鳥羽伏見の戦いの直前まで、両勢力の衝突回避に奔走していたのである。それだけに自分のふがいなさをかみしめ、故郷会津藩の悲惨な結末にふかく心をいためていた。そういう原体験が京都に骨を埋めた覚馬と八重の半生を決定づけていった。
覚馬と八重の兄妹は会津若松城下の武家屋敷で生まれている。覚馬は一八二八年(文政一一)一月、八重は一八四五(弘化二)年一一月生まれだというから、一七歳のひらきがあった(父は権八、母は佐久)。山本家は砲術師範をつとめ、禄高は一五〇石、中級藩士の家柄というところである。
満八歳で藩校日新館にはいった覚馬は武術で頭角をあらわし、二五歳になった一八三五年(嘉永六)夏、選ばれて江戸遊学、木挽町で砲術師範の看板をかかげていた佐久間象山の塾に入門、西洋式砲術と蘭学を学んでいる。象山塾の門弟名簿「及門録」によると覚馬の入門は嘉永三年である。同年には勝麟太郎、津田真道が名をつらね、武田斐三郎とならんで覚馬の名がしるされているが、覚馬がこの年に江戸にのぼったという記録はない。おそらく、三年まえに象山が会津にやってきたとき、将来の入門をみとめてもらい、束脩(入門料)を支払っておいたのだろう。
象山塾は幕末・明治に活躍した優秀な人事を輩出している。「及門録」をみると、嘉永四年には小林虎三郎、吉田寅次郎(松陰)、宮部鼎蔵、五年には河合継之助、加藤弘之、六年には坂本龍馬、七年には橋本左内、真木和泉などの名がある。覚馬はこれらの他藩から選ばれた精鋭にまじって、砲術はもちろん蘭書の訳本『三兵答古知機』によって西洋の軍制、さらには西洋事情を学んだのであった。同門の勝海舟が赤阪田町でひらいていた塾にも出入りしていたようである。
一八五六年(安政三年)会津に帰ると、日新館に蘭学所を設置、みずから教授人となった。覚馬は語学としての蘭学を学んでいたわけではない。翻訳書によって西洋情勢や兵学を習得、指導にあたったのであった。西洋式の銃砲による藩の兵制改革にも成果をあげ、軍事取調役兼大砲頭取になった。会津藩の若きリーダーとなるにいたる足どりは、覚馬が一八六三(文久三)年、藩主に提出した海防「守四門両戸之策」にみることができる。
海国日本は海防を充実させて、諸外国の侵略にそなえなければならない……と、覚馬は主張している。日本の海岸線はひろいが、外国艦隊の瀬戸内海進入を想定した四門(下関海峡、豊後水道、鳴門海峡、紀淡海峡)と、両戸(伊勢湾と江戸湾周辺)に重点をしぼればいいという。砲台をつくるよりも大砲を搭載した蒸気船の船艦によるべきだというのが、この意見書の特徴である。移動性にとぼしい砲台よりも、自由にうごきまわれる戦艦を重視している。費用は地区ごとの大名の禄高をベースにして比例配分したらいい……とのべ、具体的に計算までしてみせている。四門両戸の地形までを分析、蒸気船や大砲の必要数、費用の捻出や負担方法まで克明に計算しているのである。まるで企業の経営計画書をみるようで、経済的センスゆたかな覚馬の資質がうかがえる。
当時の武士といえば数字にくらかったが、覚馬はちがっていた。それは師佐久間象山の影響である。西洋兵学が数学を基礎にしていることに着目した象山は、詳証術(数学)はすべての学問の出発点であるとまで言いきっていた。その象山は一八四二(天保一三)年上申した意見書「海防八策」で、すでに洋式大砲と鋼鉄の軍艦による強力な海軍の編成を提言していた。幕臣・勝海舟、肥後藩士の横井小楠もまた幕府は諸侯とともに協力して海軍をつくるべしと主張していた。幕府の政事総裁職についていた松平慶永のブレーンだった横井は、幕府と諸侯が石高に応じて負担する〈課金〉で海軍を建設すべきであると説いていた。覚馬の海防意見書は、かれが三傑としてあがめる象山、小楠、海舟の持論をさらに発展させたものだった。
妹の八重は、そういう覚馬をみてそだった。満一〇歳のときから七年間、いわば人間形成期にあたる多感な一時期ゆえに、兄からうけた影響はおおきかった。もともと八重は男まさりの気質に生まれついている。覚馬から洋式小銃や大砲の操作をならい、のちには白虎隊の隊士に操銃法をおしえるほどになってゆく。そしてあの戊辰戦争では火の女になる。洋式銃をもって入城、髪を断って、男装して大砲隊の指揮までとるようになってゆくのである。女性が手にする兵器である薙刀には眼もくれず、西洋式の新鋭銃や大砲をえらんだ。すでにして近代女性としてうまれかわる素質をそなえていたのである。
一八六四(元治元)年、三六歳になった覚馬は、京都守護職についていた藩主松平容保によびよせられた。二月に京都に出発したかれは、ふたたび故郷にもどることはなかった。
同年七月の禁門の変では、みずからが調練した大砲隊をひきいて長州勢を撃退した。その功により公用人となったが、武人として致命的な眼の病にとりつかれた。
一八五六(慶応元)年、覚馬は遊学生を引率して長崎にくだっているが、眼科の名医である蘭医ボードインの手術をうけるというもくろみもあった。けれども覚馬の眼疾はもはや最近の西洋医学でもどうにもならないほど重症だった。
覚馬はこのときの長崎遊学によって、おおくの外国人と知り合った。その豊富な人脈が海外事情の情報源となり、おおきな財産となってゆくのだった。
眼を病んでからの覚馬は、〈武〉のひとから〈文〉のひとに変貌してゆく。公用人として藩主の助言者をつとめながら、洋学研究にもみがきをかけた。砲術や兵法だけでなく、政治、経済、文化の諸制度にいたるまで、諸外国のありかたに学んでいたのである。
一八六八(慶応四)年、一月の鳥羽伏見の戦いで、幕府軍の残党としてとらえられた覚馬は、一年あまり薩摩藩邸に拘禁されている。かれが獄中にいるいだに新政府軍は江戸城を手中にして、故郷の会津に攻めのぼる。そういう悶々とした日々のなかで、覚馬は私憤をすてて、「管見」という口述の意見書をかいて薩摩藩主に提出した。あたらしい日本のグランドデザインをえがいた建白書である。
「管見」は日本をとりまく国際情勢を念頭において、諸制度をどのように改革すべきかをのべている。諸外国はかならず日本の国情を混乱させて、攻め込んでくるだろう。だから確固不変の国家方針をつくって、富国強兵を実現しなければならない。そういう理念を前提にして二二項目の新しい文明制度を提言している。口述のせいか、それらは体系づけられないまま項目の羅列におわっているが、政治、経済、産業、文化、教育とひろい範囲にわたっている。
覚馬にとって〈富国〉とは商工業を中心に産業をおこすことであった。産業振興を軸にして各項目を整理すると、商工業振興をのべる「建国術」、基幹産業ともいうべき製鉄の育成を説く、「製鉄法」という項目が頂点に位置づけられる。そうした産業の発展をささえるには金本位制をかかげる「貨幣」の制度が必要になり、さらに「港制」や貿易振興のための損害保険制度を提唱する「商律」などが整備されなければならない。産業界に有能な人材をおくりだすためには「学校」の制度の充実、女子教育の重要性を説く「女学」の制度も強化すべきである。勉学にも労働にも生活の改善が必要だという観点から、「衣食」の項では、肉食の奨励と毛織物衣料の着用をあげている。そして三権分立の思想をかかげる「政体」、議会を二院制にすべきだという「議事院」、平等な遺産相続を説く、「平均法」など、民主主義的な思想にうらづけられた項目は、あたらしい国づくりの基礎条件として位置づけられる。
覚馬が「管見」にたくした思想は、〈あたらしい国づくりには、封建領主のような強大な権力をもった独裁者によらず、国民をあげてのぞまねばならない〉ということになる。それは勝海舟をして幕末・維新の最高の思想家といわせた横井小楠の思想とほとんどかわるところがない。
国家は〈私〉の政治ではなく、国家と国民の利益を優先させる〈公〉の政治を背景にして、〈富国〉の政策をすすめなければならないというのが、横井小楠の思想であった。このようにかんがえると、「管見」は覚馬が佐久間象山から学んだ〈世界のなかの日本〉という認識、勝海舟の持論であった〈産業振興と貿易の奨励〉、横井小楠の〈公共の政〉の理論などを具体的に展開したものだとみることができる。
覚馬にとって「管見」は、あたらしい国づくりの原理・原則であったが、明治の世を生きるみずからの原理・原則にもなっていった。一八六九(明治二)年夏に拘禁をとかれた覚馬は、翌年に京都府顧問にむかえられ、ただちに東京遷都でさびれてゆく京都の〈都市おこし〉にとりかかる。権大参事(のちに二代目知事となる)槇村正直のブレーンとして、かれは持てる学識をいかしきった。
京都府は一八七一(明治四)年から、本格的に西洋式技術による殖産を展開、明治一〇年前後には日本一の産業都市になった。経営センスにめぐまれた覚馬は、事業計画のプランナーとして役割を果たしたのである。
教育制度や社会資本の充実も実現された。日本最初の小学校、中学校、女学校が京都に生まれたのも「管見」によるものだった。療病院、癩病院(日本最初の精神病院)、駆黴院、化芥所(塵埃処理場)なども「管見」でしめされた提言にもとづいていた。このようにして京都府は全国にさきがけて産業、教育、社会、文化面で近代化を実現したのであった。
明治中期までの日本のなかで、都市とよべるものは京都しかなかった。京都はあらゆるいみで日本一の近代都市だった。新政府がつくった東京とは異なる方法で〈都市おこし〉を実現したのである。
覚馬がなぜそれほどまでに京都の再興に心血をそそいだのか。それは〈反中央〉意識によるものだろう。覚馬は維新政府をつくった薩長の人間ではない。奸賊といわれた会津藩士であった。それゆえ中央政府のめざすものとは異なる道をあゆんだ。あくまで薩長中心の新政府におもねることなく、ひろく世界に眼をむけた原理・原則で第二の故郷である京都の再興に全力をあげたのである。
新島襄をバックアップして、同志社を京都につくったのも、そういう精神のありかたと無関係ではない。維新の動乱をうまくかいくぐってアメリカにわたった新島も、維新政府というものを、まったく信用していなかった。二人の結びつきは当然のなりゆきというものである。
同志社英学校は一八七五(明治八)年一一月に開校した。覚馬と新島が出会ってから、わずか七ヵ月後であった。中央政府のつくった官立の大学のように、一部のエリート官僚の養成ではなく、「一国の良心」となる人材の育成をめざすというのが、同志社にたくした新島のねらいであった。覚馬がそれに共鳴したのは、やはり薩長にやぶれた会津藩士だったからだとおもう。
八重はそういう兄が後援する新島襄と結婚することになる。一八七一(明治四)年秋に母の佐久、覚馬のひとり娘みねと京都にやってきた八重は、故郷を逃げ出してきたにひとしかったが、過去にとじこもるような女性ではなかった。
銃と大砲でたたかった籠城戦のくるしみをバネにして、積極的に自分の人生をきりひらいてゆこうとした。そういう自我のつよい女性だった。八重は女紅場(日本最初の女学校)の教師をつとめながら英語を学び、宣教師ゴードンから聖書を学びはじめる。キリスト教に接近していったのは、やはり悲惨な落城を経験したからだろう。
一八七五(明治八)年一〇月、新島襄と婚約、翌年一月二日、京都で洗礼をうけた最初の人となり、一月三日に結婚式をあげた。
当時の京都人の眼には〈ヤソといわれる得体の知れない男としか映らなかった新島との結婚である。自立心にとんでいた八重ならばこその勇断であったと思われる。結婚後の八重は周囲から白い眼をあびても、ひるまなかった。西洋式の模範的なクリスチャン家庭をつくろうとする新島襄の思想をうけいれ、同志社女学校が開設されると、みずから教師をつとめた。
時代の変革期にひっそりと登場した偉大な先覚者、それが山本覚馬であり、八重は近代女性の先駆者というべきであろう。
いくどとなく八重は会津籠城のようすをかたり、兄の覚馬は静かに聞きいっていた。けれども、ふたりは過去の怨念ばかりにとらわれていたわけはない。
未来を的確にイメージできる者だけが、過去を鮮明にとらえることができる。まず故郷会津の滅亡を直視して、そこから〈未来〉にむかって積極的に働きかけていたのであろう。この兄妹の〈戦後〉の生きざまが、それをよくものがたっている。
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