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福本 武久
ESSAY
Part 3 |
福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。 |
新島襄とその時代……会津から京都へ |
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初出:ムック本『新島八重―明治維新を駈け抜けた才女』」(三才ブックス) 2012.10.29 |
八重と蘇峰--反目から和解へ
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京の繁華街のあちこちで、ひそひそと囁きかわされるうわさ話……。
「ちょっと、あんた見たか?」
「見たで、見たで、もう、びっくりしたわ」
「なんちゅう嫁はんやろ。亭主を顎で使うてるやないの」
「あれではダンナはん、かわいそうやわ」
アメリカ帰りのキリスト者・新島襄と結婚した八重、かつて戊辰戦争では銃をとって戦いぬいた烈女の新しい人生は、こんなふうに京の町衆たちの陰口をあびて幕あけた。
新島夫婦の暮らしはすべて西洋式であった。外出するとき、フロックコート姿の新島襄と洋装洋髪のモダン・レディー八重が人力車に相乗りしてゆく。
教会にゆくとき、祈祷会にゆくとき、街に買い物にゆくときも、歩いてもそれほど遠くない三条寺町の三嶋亭へ牛鍋をつつきに行くときでさえも、あえて相乗りしていった。
明治の日本に「近代」を根づかせようとする新島襄は衆目の面前で、アメリカ風にレディー・ファーストを実行するのであった。
「八重さん」
と、やさしく声をかけ、「そろそろ車におのりになりませんか。次の店に行きましょう」と、八重の手をとって人力車のいざなう。降りるときも、先に降りてから、彼女の手をとって完璧にエスコートする。
「ジョーさん、ちょっと、車のなかにバッグをわすれました」
「わかりました。ならば、わたしが……」
「おねがいします」
良人と対等にふるまう八重のさまをみて、京の町衆は度肝をぬかれた。家という古いしきたりのなかにしばられ、結婚でさえも自分できめることがゆるされない時代の女性たちにとって、それは信じがたい光景だった。
新しい国づくりには教養にあふれ、自立した女性の力が必要である。新島襄はそのように信じて疑うことがなかったが、維新の世とはいえ、日本はいぜん「前近代」の影を色濃くひきずっていた。非難の矛先はもっぱら女性の八重のほうにむけられ、そんなところから悪妻伝説がもちあがった。
足もとの同志社英学校でも、たちまち悪しきうわさが蔓延した。まっさきに反八重ののろしをあげたのは熊本バンドの連中だった。
黒繻子の着物を着てボンネットをかぶり、靴をはく和洋折衷の八重のファッションをとらえて、徳富蘇峰は「頭と足は西洋だが、胴は日本、まさに鵺のごとき女性がある」と演説会で誹謗したのである。さらに『蘇峰自伝』のなかでも次のように書いている。
「新島先生夫人の風采が、日本ともつかず、西洋ともつかず、いわゆる鵺のごとき形をなしており、かつ我々が敬愛している先生に対して、我々の眼前において、余りに馴々しき事をして、これもまた癪にさわった。」
蘇峰をはじめ熊本バンドの連中は、アメリカからまねいた教師がキリスト者だったという理由で廃校に追い込まれた熊本洋学校からやってきた生徒たちだった。かれらは、ほとんど着の身着のままで京都の同志社にころがりこんできたのである。
かれらは学問的レベルが高く、さらに鼻っ柱の強さもきわだっていた。キリスト教に入信し、英語の専門書を自在に読みこなすことができ、化学や物理の知識にも長けていた。同志社英学校のレベルはひくく設備も貧弱だと失望し、アメリカ帰りの新島襄とて、たいしたことがないとうそぶく生意気な生徒たちだった。
校長の奥さん八重にたいしても容赦がなかったのである。
英語を学び、キリスト教に入信したかれらもまた「鵺」にほかならなかったが、そういうもののみかた考え方は女性にむかって働かない。八重はいわばエアポケットに放っておかれるかっこうだった。
「近代」を背負うと言いながら、その一方では「前近代」にとじこめておこうとするかれら男たちの、女にたいするこの態度は、なんともはや公平性を欠いている。
周囲がそんなふうだから、八重は最初から孤独地獄におちていた。良人の新島襄はむろん妻の八重のこの立場をよく理解していた。夫婦であるとともに同志として、ともに戦っているつもりだったろうが、女が「近代」をひきうけようとするときの孤独は、とても男の場合ととくらべものにならないのである。
京都は寺院が多く、線香臭い街である。明治六年(一八七三)、キリシタン禁制の高札がとりはらわれても、いぜん「前近代」から脱しておらず、キリスト教への反発は根強いものがあった。新島襄は、そんな京都のどまんなか、神道の権化とうべき京都御所と仏教の大本山相国寺のあいだにキリスト教主義の学校をつくろうとしていた。
僧侶や神官が騒ぎ出した。街のあちこちで反対の大集会をおこない前代未聞の大騒動になるのは当然のなりゆきだった。
当時の新島襄はどのようにみられていたか。さしずめ新興宗教の怪しげな教祖というところだろう。そんな男と結婚すれば、自分も同じ立場にさらされ、過酷な戦いを強いられることが眼にみえていた。事実、八重は襄と婚約しただけで、教師として奉職していた女紅場及新英学校を解雇されているのである。
襄は危険人物とみられ、常に密偵がはりついていた。妻の八重にも監視の目がひかっていたのである。だから結婚したものの、前途はけわしく、八重と襄をとりまく周囲との関係はつねに緊迫していた。ふたりの夫婦生活はおろか、同志社英学校でさえも、いつ音を立てて崩れ去っても不思議はなかったのである。
それでも襄は男である。「同志社は神の御手にある」と堅く信じて疑わず、「日本を近代国家にするのだ」という。立派な大義をふりかざして苦難をしのぐ。だが女の八重には最初からそんなものはない。あるのは、ひたすら「近代」をひきうけようとしたときに集積する女の孤独だけだ。
「近代」を担おうとする女性がいかに生きにくかったか。
たとえば宣教師の妻たちも同じ運命にさらされた。明治六年以降、多くの宣教師が日本にやってきた。かれらの多くは夫婦でやってくる。キリスト校の布教活動には妻の果たす役割もおおきかった。何があっても堪え忍び、使命に忠実な良人の活動をささえ、ともに歩んでゆくことをもとめられる。
腹をくくってやってきているはずなのに、その厳しさは想像以上だった。たとえば京都にやってきたある米人宣教師の妻は精神を病んでしまった。不眠症と頭痛におそわれて、病は重くなった。とうとう良人とこどもたちをのこして帰国することになったのだが、横浜から乗船した汽船から投身自殺してしまった。使命をおびて布教に没頭する良人の影で、妻は底なしの孤独地獄におちていたのである。
京都に地縁も血縁もない八重もまた異国で戦っているにひとしかった。だが、厳しい視線をあびても、怯むことなく、信じがたいような強靱な精神力で、必死に持ちこたえていた。
自分の立場をよく理解してくれる襄がいるから、八重は周りから悪妻といわれようと、「鵺」といわれようと耐えることができた。だが夫婦であり同志である良人の襄が、志なかばで病に斃れてしまった。八重の八八年の人生にあって、そのときほど不安なことはなかっただろう。
だが、そんな八重の理解者が現れた。
襄が天に召された日のことだった。あの徳富蘇峰が、八重に向き直って、過去の非礼を侘びたうえで、「あなたを先生の形見としておつかえさせていただきます」と宣し、二人は和解したのである。かつて「鵺」と罵倒した当人だけに、八重は思いがけなかったことだろう。
八重のもとから去ってから一〇年、蘇峰はようやく、あのとき、おのれこそが「鵺」であったことを悟ったのである。
蘇峰はあの有名な自責の杖事件にまつわる学内騒動で責任をとるかたちで同志社を去った。終生の師としてあがめた新島襄の制止もふりきってとびだしていった。新聞人ををめざして東京に出たのだが世間はそれほど甘くはなかった。蘇峰が民友社をおこし、新進の論客として注目されるまでには、それからおよそ一〇年の歳月を要したのである。
明治・大正・昭和と三時代にわたり言論人として活躍した蘇峰は晩年になると世俗の権力に迎合してゆく。だが、そのころは新島襄のいう「平民主義」をかかげ、薩長中心の藩閥政治に向かって立つ新進のジャーナリストとして異彩をはなっていた。国家の発展には女性の地位向上が必要だと説き、女性の参政権をもとめる言論活動を展開するなど、かつて欠落していた女性への視点も補完されて、もはや鵺ではなくなっていたのである。
「先生の形見として……」と言った蘇峰のことばに嘘はなかった。
かれは思想家、歴史家、評論家、さらに政治家として、きわめて多忙だったが、つねに後見人として八重に目配りしていた。関西に出向いたおりには、かならず新島邸に立ち寄って、独り暮らしの八重の話し相手になり、おりにふれ季節の果物や珍しい菓子などを送りとどけ、たまには小遣いもわたしていた。
晩年の八重にとって最も緊迫したのは日清戦争のときの従軍だった。日赤の篤志看護婦人会の会員だった八重は、監督者の立場で、京都支部の看護婦二〇人をひきいて広島予備病院におもむいている。野戦病院にゆくわけではないからそれほどのことはないと思われがちだが、実のところは命がけだった。
女性の看護婦が男性ばかりの病院にはいるのは初めてのケースで、男女間の不祥事が懸念された。名誉ある軍人が女性に介抱され、もし失態があれば皇国の恥、その責めはすべて一方的に女性側にあるとされ、そのため八重のような監督者は死をもって償う覚悟をひめていたのである。八重は持ち前のチャレンジ精神を発揮して救護活動にリーダーシップを発揮、看護の仕事は男性より女性のほうが適していることをみごと実証してみせた。
蘇峰はこのときも報道関係者として広島に滞在、背後から八重を見まもっていた。このように八重が天に召される昭和七年(一九三二)まで、およそ四二年にわたって、蘇峰は新島襄の形見である八重を物心両面にわたってささえつづけたのである。
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