 |
福本 武久
ESSAY
Part 2 |
福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。 |
西陣そして京都……わがルーツをさぐる |
|
初出:「西陣タイムス」(西陣織工業組合) 1979.04.01 |
わがルーツの試み
|
|
幼ない頃、祖母に伴われて西陣界隈を散策した仄かな記憶がある。機音の聞こえる街並みをぬけ、とある神社で祖母にならって両手を合わせた。……あれは北野神社か、あるいは今宮神社であったろうか。ただリンゴを囓りながら歩いたきおくだけが鮮やかに脳裡に焼きついている。
祖母というのは佐倉ヤエであり、明治五年技術伝習のためリヨンに留学した佐倉常七の一人娘である。私が物心ついたころ、彼女は京都を離れて久しく、三重県の鈴鹿に住んでいた。祖父、平吉の郷里である。
よほど京都が懐しかったのだろう。三女(私の母)の嫁ぎ先である、わが家にやってきては半年を過ごすのが常であった。
私の幼少は祖母とともにあり、彼女に繋がる記憶は多い。今から思うと骨太で気が強いばかりの食えないばあさんであった。
祖母は二年前、波乱に富んだ一生を終えた。享年九十二歳であった。十二月半ばとはいえ風穏やかで春のように暖かい日であった。棺は重く、その一角を支えた私の額には汗さえ滲んでいた。
三回忌を終えた後、常七の遺品の多くが、何十年振りかで京都に舞い戻った。岩倉具視より賜った銀盃、リヨンで描かせた油絵の肖像画、賞状等々はいま私の手許にある。
佐倉の家系をたどる時、実に奇妙は事実にぶち当る。常七も養子なら、ヤエも養女、そして常七の養父、九兵衛もどうやら養子であったらしい。子宝に恵れぬ家系である。
その中でヤエだけは例外である。三男三女の母となっている。けれども男兄弟はすべて年若くして絶え、三姉妹だけが健在である。かって佐倉姓を名のったことのある彼女達が没すれば名実ともに佐倉家は絶えることになる。
祖母は晩年、そのことを憂えてか、私の弟を「佐倉の養子にくれ」と本気とも冗談ともつかぬことを言ったという。
先日、祝い事があって三姉妹がわが家に集った。はからずも祖母の話に及び、物書きの私の眼からみて、食指をそそるエピソードがいくつか出て釆た。
伯母たちの話によれば竹内作兵衛(常七の主人) は東京で没したらしい。そしてその位牌を佐倉家が預り、ヤエが承継していたという。この意外な事実は、作兵衛と常七の主従関係をを模索する上で興味深い。また常七が没した朝、作兵衛が門に立った、とまことしやかに言い伝えられている。
竹内作兵衛、まれにみる学究の人であつたと言われているが、謎多い魅力ある人物である。常七よりむしろ彼に興味を覚え始めた。
歴史の変動期においては必らず先駆者として一人の思想家が現れる。当時の西陣を取り巻く環増を考える時、まさに彼はそういう役割を担っていたのではなかろうか。
井上伊兵衛、吉田忠七、佐倉常七の渡欧、ジャカード渡来、そして西陣の復興と連なるストリーはすべて作兵衛の手によるもので、いわば彼の穿孔した紋紙によって製織された綿織ではないかとさえ思える。
物書きの道を歩み始めた私は、常七を突破口にして当時の西陣とそこに生きた人々の群像を活写してみたいと考えている。わがルーツの試みである。
とりあえず『小説佐貪常七小伝』を短編にまとめたい。私の曾祖父としての佐倉常七を描くのではない。あくまで織工、佐倉常七に肉薄してみたいと思う。次いで竹内作兵衛を中心にした長編に取組みたいと考えている。
だが田村喜子さんの「海底の機」にもつとも小説化しやすい部分を取られてしまった。吉田忠七にスポットを当て、女性の眠からみた男のロマンがうまく描かれている。だが私には男の眼からみた男のロマンを描く余地が残されている。
変動期に雄飛した町衆の心意気と、彼等の業績の持つ現代的な意義を明らかにすることが作品化に当つてのモチーフである。
西陣織会館、府立資料館に出向いて資料集めに没頭する中で、ようやく私の内部に灰かな人物の影が浮かび始めている。
彼等が動き始め、口角泡して喋り始めるには、いま少し時の経過が必要である。それには活字化された良質の資料よりも、むしろ生まの肉声の聞えるエピソードがほしい。私自身もどちらかいうと、そちらの方に興味がある。
口移しに言い伝えられて来た虚実入り混ったエピソードには、史実からもれ落ちた真実が密やかに息づいている。
祖母が生きていてくれたらなあ……と一人つぶやく。と、ふいに皺くちゃばばあが現れて「遅い遅い!」と、あかんべする。どこまでも食えぬぼあさんだ。(了)
|
|トップへ | essay2目次へ |
|