西陣機業は古くから京都産業の中心であった。この因習と根強い伝統を重んずる街に、明治初期から中期にかけて、産業革命が起こった。洋式織機ジャカードの移入である。これは日本の織物史上にも残る出来事であり、古い伝統の街でありながら、つねに新しいものに目を向ける西陣の気風をものがたるものである。
西陣織会館の傍らに「ジャカード渡来百年記念碑」がある。ブロンズ製のレリーフには、佐倉常七、井上伊兵衛、吉田忠七の名が刻まれている。「西陣織」の高名さにくらべ彼らについては知る人も少ない。二人の織工と一人の器械工……この名もない三人の平民によって近代西陣が、そして維新の京都がひらかれたのである。
ジャカードの移入は彼らによって実現した。それは無名であるがゆえになしとげられた快挙というべきである。
フランスのリヨンといっても、当時の彼らには、どこにあるのかも知るはずもなかった。ことばさえ分からない。にもかかわらず技術伝習に旅立った。おそらく生きて帰れるとは思わなかったにちがいない。事実、吉田忠七は佐倉、井上に一年遅れて帰国の途についたが、伊豆沖で遭難している。そして八カ月の伝習を終え、ジャカード、バッタンなど機械をもたらすのだが、その行為が後に彼らの意図をはるかにこえて偉大なものになることも気づきはしなかっただろう。
佐倉と井上の評価は、洋式織機と織法をもたらしたことに終わるわけではない。むしろ帰国こそが出発点であった。洋式機織法の普及が真の使命であった。
リヨンでの八カ月も、つらかったろうが、帰国してからの半生はさらにまして苦闘の毎日だった。
ジャカードは、それまでの空引機(そらびきばた)に比べ、約四倍の生産性をもつ画期的な機であった。それはど革新的な織機であるにもかかわらず、西陣に根を下ろすのに時を要した。それはひとえに明治維新という時代性に起因している。
明治推新は好むと好まざるにかかわらず、欧米の文明が移入された時代である。半ば強制的に新しい産業技術が移入された。あくまで外から持ちこまれたもので、しかもシステム化されたものではなかった。それだけに混乱は激しかった。京都府の勧業も、その延長線上にあり、西陣のジャカード移入も、計画的に進められたものとはいいがたい。
ジャカードは織機の頭脳部分、それだけで真価を発揮するものではない。周辺技術がジャカードの機織法にそくして新たに編成されなければならない。問題点はそこにあった。西陣では準備工程のすべてが、分業化し、専門業として独立している。それらを一つ一つ手をつけてゆくとすれば、とほうもない遠い道のりだった。数百年の伝統を誇る西陣であるだけに新旧の技術(わざ)の相克はすさまじかったろう。
ジャカードが、ようやく織元に見直されるのは明治二十年前後からで、それは精巧な国産機の完成、新式紋彫器の渡来などとともに周辺技術が整備され始めたころと時を同じくしている。
どんな革新的な技術でも、現実の場でば古い技術と調和をもとめながらしか浸透してゆかない。技術もまた生きもの″だからである。
佐倉と井上が帰国後、直面したのは、そういう変革の時代だった。彼らは家業を投げうってジャカードとその織法の普及に半生を賭けた。荒木小兵衛の国産機開発や関連技術の整備にも指導的な役割を果たしたのである。
こうして普及したジャカードとその織法は、西陣の体質を変え、他の機業地よりも一歩先んじて近代化に成功した。それは洋式織法のなかに伝統の技を生かし、新しい紋織りづくりが可能になったからである。
その先駆となったのが、佐倉、井上、吉田であり、彼らの生涯をかけた情熱と職人根性だった。
西陣では、いままさにジャカード渡来につづく産業革命をむかえようとしている。コンピューターによる機織のシステム化だ。再び伝統の技術と新しい技術の息づまるような葛藤が始まる。明治のジャカード導入期と状況はよく似ている。その意味で、今は三人の先駆者の歩んだ歴史を問い直す時ではなかろうか。
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