絹織物の伝習のため西陣の織工・佐倉常七、井上伊兵衛、吉田忠七がリヨンに旅立ったのは明治五年一一月の中旬であった。彼らによって今日も西陣を支える紋織機ジャカードとその織法がもたらされた。
私がこのたび書き上げた長編『織匠』(来春刊行予定)は、明治の京都を背景に変革期を生きた彼らの栄光と挫折を描いたものである。
当時リヨンへの道程は海路でマルセイユへ入り、そこから汽車によるほかなかった。彼らおよそ五十数日も要した旅路を私はジャンボジェットでわずか16時間でパリへ、そしてエール・アンテールに乗り継ぎ一時間でリヨン・サトラ空港に着いてしまった。
奇しくも作中の主人公、佐倉常七と同い年でリヨンの街に降り立ったのである。
パリの華やかさにくらべて、どこかひっそりしたたたずまいのリヨンはフランス第二の都市。十七世紀から十八世紀にかけて絹織物で栄えた街である。明治の京都を支えた産業は染織であるが、その技法はリヨンからもたらされている。姉妹都市パリよりもずっとゆかりが深いといえる。
「リヨンと京都には三つの類似点がある」
案内役のリチャードさんがいみじくも言った。「ジュリアス・シーザーがローマ軍を率いて陣を構えた街、二千年の歴史を誇る街である。パリなんかよりはるかに由緒がある」と彼は胸を張った。もう一つは「二つの川(ローヌ川とソーヌ川)にはさまれていること」そして最後は「絹織物の街であること」だという。
「……もうひとつあるんじゃないですか?」私は言った。「もう一つ? 私には解らない」彼は驚きの眼で私を見つめ返した。「それじゃ、リヨンを離れる時に教えましょう」私は謎めいた微笑みでそう応えた。
翌朝まだ薄暗い七時、私はペラッシュ駅で一人『織匠』の主人公たちが現れるのを待った。夢でも幻でもいい。彼らの影を見つけることができたら旅の目的は達せられる。
九時になって街案内をお願いしたリチャードさんと通訳の山崎さんがホテルにやってくるまでに、私は自らの手で旅の決着をつけておきたかった。
冬の訪れの色濃い肌を刺すような冷たい風に堪えきれなくなってコートの衿を立てたときだった。毛布を頭から被った小柄な人影が三つ、折り重なるようにして傍らをすりぬけてゆくのを、私は紛れもなく見たのだ。
彼らはベルダン広場を東に向かい、ローヌ川沿いに北上し始めた。ギョッテニール橋、ウィルソン橋、ラフィット橋と、私は憑かれたように後を追った。モーラン橋を眼の当たりにしたときだった。ふいに一行から低い喊声がもれた。見ると川面に水鳥が群れて舞っている。若い父親と幼い男の子が投げるパン屑を、うなじが白く嘴の赤い水鳥が空中で見事にかっさらった。
「都鳥や」
毛布をまとう三人は口々に叫び川に身を乗り出した。
私は思わず「あの鳥の名は?」と通じるはずもないのに英語で問いかけていた。若い父親は「ムエット」と微笑んでこたえた。
それは紛れもなく鴨川にやってくるゆりかもめ≠セった。ロシアで繁殖するゆりかもめが、秋になると、このリヨンにもやってくるのか……。三人の言いしれぬ感動が私のものになった時、影に覆われていた彼らの顔貌(がんぼう)が一瞬、くっきりと浮かび上がり、それっきり姿もろともに消え失せた。
私はモーラン橋の中程に佇み、しばらく呆然とトゥゾンからクロアルースの丘を眺めていた。
午前中、リチャードさんの案内で私の小説の主人公たちの足跡を追ったあと、昼食はベルクール広場にほど近いひなびたレストランでとった。
「ところでもう一つというのは……」
彼は私の顔をのぞき込んだ。
「それは料理の味の細やかさです」
私がそういうと彼はゆっくり微笑んでブランデーグラスを高くかざした。前夜のあの高名なポール・ボキューズでの料理は私の舌を驚かせたが、西陣の袋小路のようなところにひっそり息づいているその店の料理もなかなかのものだった。
そのとき一口舐めただけだったが、カニュー(織工)の脳みそ≠ニいうチーズの味が奇妙に印象に残っている。その昔、カニューは、芋、牛乳、韮、玉葱からなる粗末なチーズばかり食っていたという。その味はきっとあの三人の舐めた辛苦の味だったのではあるまいか。
豆腐の白あえに似たその酸味がかった奇妙な味にとまどいながら、私はリヨンでの二日を終えた。
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