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福本 武久
ESSAY
Part 2 |
福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。 |
西陣そして京都……わがルーツをさぐる |
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初出:雑誌「ぎをん」(祇園甲部組合) No.148秋季 1998.10.10 |
四 条 大 橋 と 祇 園
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鴨川、東山、祇園……。京都のイメージをかきたてる三つのキーワードを同時にとらえられる恰好のスポットといえば、四条大橋のうえだろう。
鴨川にかかる橋のまんなかに立って、西をのぞめば河原町、東に眼をこらすと、八坂神社の朱色の楼門に行き当たる。京都でもっとも繁華な四条河原町界隈は現代的な街、「舞妓はん」 で名高い祇園は昔ながらの風情をのこす街。四条大橋はそのどまんなかにあって、二つの街を、しつかりとつないでいる。
橋の東詰は京阪四条駅、西詰は阪急のターミナルになっているのをみても、四条の橋こそが、鴨川をはさんで東西にのびる一大繁華街の中心にあるといえるだろう。
鴨川にかかる数ある橋のなかでも、四条大橋は、すでに明治の初めから特別あつかいされてきた。木造だった橋は、明治七年、最初の鉄橋として生れかわっている。
京都で唯一の鉄橋を誕生させたのは、京都府と祇園の町衆だが、隠れた生みの親は廃仏穀釈という社会的現象なのである。
仏教を排斥する廃仏毀釈は明治五年ごろからはじまっているが、そのきっかけは維新時にさかのぼってみることができる。明治新政府のスローガンは王政復古、祭政一致であるから、まず天皇の絶対性を確立しなければならなかった。明治元年の神仏分離令はその具体的あらわれである。それが引き金になって国家宗教として権勢をほこっていた仏教は、神道にひれふさなければならなくなった。
廃仏毀釈は全国的なものだったが、仏教の本山をかかえる京都は大騒動であった。とくに 「神さん」と 「仏さん」が、ごちゃまぜになった神仏合体の神社は、きびしい選択を迫まられた。
たとえば北野天満宮は北野神社と改称、社内の仏像をとりはらい、二重塔をうちこわした。石清水八幡宮も男山神社と改称させられている。もともと 「八幡さま」をまつりながらも仏教的な色彩の強い神社で阿弥陀仏などの仏像が安置されていた。京都府はそれらをすべて撤去させ、諸坊のとりこわしを命じた。「祇園さん」も例外ではなかった。それまでは 「感神院」あるいは 「祇園社」とよばれていたが、八坂神社と改められた。社僧は俗名に改めさせられ、薬師如来などの仏像は移管された。神仏合体の神社はいずれも「仏さん」部門を切り捨てて命脈を保ったのである。
廃仏毀釈というリストラの嵐のなかで、多くの寺院が廃寺に追いこまれ、本尊の仏像だけでなく仏具や什器類まで没収された。府庁に次つぎと運びこまれた金属製の仏具類、それが四条鉄橋の鉄材に再利用されたのである。
京都で最初の鉄橋・四条大橋の架橋費用は約一万七千両、京都府はすべてを祇園町に負担させている。四条の橋は祇園への入口だから、受益者負担というわけなのだろうが、当時の京都は遷都によって経済的に大きな打撃をうけていた。花街・祇園も深刻な不況にみまわれていたはずだが、二万両ちかい大金を差し出す底力があった。「うなぎの寝床」という家構えさながらに、フトコロが深いというべきか。
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