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福本 武久
ESSAY
Part 2 |
福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。 |
西陣そして京都……わがルーツをさぐる |
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初出:雑誌「同志社時報」(学校法人同志社)No.72 1982.03 |
カニューの生活と文化−織物の街リヨンと西陣
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街なみをそれて、ふと踏み入った路地にそのレストランはあった。店内は小じんまりとしていて、しつとりした落着きがあった。妙に取りすましたところのないのがよかった。カウンターに四、五人の先客がいた。コーヒーをすすりながら、くつろいでいた。年配のウェイターと何ごとか快活にことばを交し、笑いが絶え間なく弾けていた。緊張し放しのぼくは、ふと心和んだ。
「この店はほとんど常連客ばかりです」
まる二日間をさいて街案内を買って出たRさんは言った。そのレストランもぼくのためにわざわざ予約しておいてくれたのだ。店内の光景には裏町の庶民生活が潜んでいた。
リヨンでの三日間はあっという間だった。三時間後には空港に向わねばならない。ぼくの怪しげな英語に、しばしば首を傾け、それでも根気よく付き合ってくれたRさんともお別れだ。最後の食事に、気の張らないその店をえらんだ彼の心遣いがうれしかった。
あらためて店内を見渡した時、いきなりぼくに微笑みかけてくるものがあった。思わず息をのんだ。
「酔いどれのニャフロンだ」
気配を察してRさんが応えた。人形芝居ギニョール″の登場人物ニャフロンが黒ずんだ壁から、ぼくを見下ろしていた。
ギニョール芝居は一八世紀末、リヨンで生まれた。主要人物はギニョール、その女房マデロン、そして靴職人ニャフロンの三人。主人公ギニョールはクロア・ルースとサン・ジョルジ界隈に住む絹織物の職人=カニューの化身である。機織工はフランスの職人階級の代表であり庶民である。
絹織物の街リヨン、ぼくは明治五年、京都府の留学生として当地にやってきた佐倉常七、井上伊兵衛、吉田忠七の足どりを追っていた。彼らは八カ月の伝習を経て、日本の織を今日あらしめているジャカード織機とその織技を絹の街西陣にもたらしたのである。
前日ぼくはクロア・ルースから一五〜一七世紀の街並をいまも残す旧街を、あてどもなくさまよった。
壁にぶらさがるニャフロンの真赤に腫れ上がった鼻をながめるうちに、ふいにギニョールやマデロンの姿が現われ、オールドリヨンの街並にぽくを誘い始めた。ぼくの脳裡にしかとある街景とR氏の話がオーバーラップして夢現の世界にのめりこんだ。
何世紀も時代を重ねたゴシック様式の建物が狭い路の両側を埋めている。重く沈むあたりの雰囲気にそれらが溶け合って、その一角だけが時の流れに耐え、カニユーの街の面影を育んでいる。
およそ一〇〇年前の街並に佇むぼくの前に、いきなり現れたのほ、古い写真でしか姿形を知らぬ佐倉、井上、吉田の三人だった。彼らの洋服姿はどこか借物めいていて胡散臭かった。くわえタバコも板につかず、異国の地で精一杯力んでいる証としか思えなかった。
黙したまま彼らは路地裏のとあるカフェにぽくを案内した。
薄暗い店内に何人もの男の影が揺れていた。三人は申し合せたように指笛を吹いた。室内は一瞬静かになった。と、板を立てかけて幕を引いた舞台の袖から、指人形が現われ唐突に芝居が始った。ギニョールがニャフロンが、そしてマデロンが現われた。語尾をことさらに引っ張る発音には独特の節回しがあって、意味が解らなくても滑稽だった。指人形であるために登場人物の身のこなしはぎくしやくしていた。そのためにかえって人形使いの心が人形に乗り移って妙にリアリティがある。マデロンが棒をかざして、口汚なくののしりながらギニョールとニャフロンを追い回すところで幕となった。店内は笑いの渦で満ちたが、ぼくには不可解さだけが残った。
「どこが面白いのかね」
ふともらしたぼくの一言に、三人は鼻白み姿もろとも掻き消えた。
「ギニョール芝居の風刺や皮肉はフランス人でないと解らないでしょう」
リヨン生れのRさんの一言でふとわれに返った。登場人物の台詞には、世相が盛り込まれ、庶民の側から権力に対する批判がこめられているという。演者と観客は一休化し、芝居は相互のコミニュケーションの手段でもある。
「カニューは正直で善良な小市民です。貧乏生活のうさも女房をひっぱたくことぐらいでしか晴らせない。一八世紀の庶民生活を象徴的に語っています。彼らが好む洒落やジョークにもそういう憤懣がこめられているのです」
ギニョール芝居の真の面白さは、俗語、隠語、語呂合わせ、駄洒落、もじり、にあるとRさんは言う。借金あるパン屋を「残パン売りのオケラ野郎」酒屋を「酒壜の毒殺者」とののしり、時事問題から、政治問題まで茶化してみせる。フランス語を解せないぼくには、そのほんとうの面白さは解らない。
リヨンと同じく京都西陣もまた絹織物の街である。Rさんのギニョール芝居についての説明を聞きながら、『西陣天狗筆記』に描かれたカニューたちを想い浮かべた。
リヨンから佐倉たちがジャカード織機(ジョセフ・マリ・ジャカールが一八世紀末に発明した自動紋織機)を持ち帰るまで西陣では空引機が使われていた。二人織の機で、一人が上部から経糸を持ち上げ、もう一人が緯糸を通して筬で締める。四肢と眼はいそがしいが、口までは使わない。そこで本文句をもじって、掛け合いパロディをやる。
浄瑠璃『妹背山婦女庭訓』の漁師鱗七の台詞「ああ有難やと押し載き」と一人が誘うと「朝起きは、ああ明け方じゃと星いただき」ともうー人が受ける。『絵本太閤記』十段目、光秀登場「心はやたけ薮垣の」は「尼神の、所は八幡やく神の」となる。『小倉百人一首』の「花の色はうつりにけりないたずらに」は「嵐山より大井川、花の色はうつりにけりな下つらに」と。冠句づけや小倉づけも得意とするところである。たとえば「横にして」という題では、「横にして立ててすすめるはしご売り」と上句を受ける。
西陣のカニユーたちもまた、このようにしてつらい長時間労働に堪えてきたのである。
「カニューは即興詩人ですね」
ぽくは思わずつぶやいた。
油紙を貼った窓あかりだけを頼りに、美しい織物をものしたリヨンのカニューたちと同じように、西陣のカニユーもまた天窓からのわずかな光の下で機を織ってきた。もじりや語呂合せの上質なユーモアがギニョール芝居の諧謔に通じるものがあるのはきびしい労働から生まれた生活文化に共通点があったからだろう。
王侯貴族そして禁裡や堂上衆のきらぴやかな衣裳を調製してきたリヨンと西陣のカニユーたち。単なる職人ではなく芸術家なのだという誇りと自負、それゆえにきびしい世界に生き、報われることの少なかった彼らのねじくれた心境がそこにこめられていると思った。
「カニューはアーチストです」
はからずもRさんは言った。そして「これはリヨン特製なのです」としきりにブランデーをすすめた。眼を細めてグラスに注ぐRさんを一瞬ぼくはまじまじと見つめた。壁にぶらさがるニャフロンが降りてきたのではないかと思った。促されるままに一口含んだ。洗練されてはいないが奇妙な味わいがあった。
筆舌につくしがたいその芳香は、いまもリヨンの、そしてカニユーの生活の香りとしてぼくの舌先に残っている。
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