福本 武久
ESSAY
Part 2
 福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
 新聞花見小路、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。
西陣そして京都……わがルーツをさぐる
初出:雑誌「歴史と小説」(中央公論社)1984年5月号  1984.05

〈私の歴史散歩〉−京都
  織 の 街  西 陣




 早春の京都西陣を歩いた。
 ゆっくり織の街を見るのは、四年ぶりのことだった。
 ぼくがまだ小学校の低学年のころだったろう。祖母に連れられてよくあのチンチン電車(市電=北野線)に乗った。行先はいつも西陣界隈だった。乗物酔いのはげしかったぼくは、市電に乗るとすぐに気分が悪くなった。祖母は梅干をへソに当て晒を巻いてくれた。乗物酔いどめのおまじないだという。そのようにしてまで祖母についていったのにほ理由があった。西陣にゆくときだけ、祖母はみたらし団子やお菓子を買ってくれたからだ。北野天満宮で照国(当時の横綱)の土俵入りを見たのも祖母と一緒だった。「三十円もとるんかいな」と、祖母はぶつくさいっていた。気ばかり強い食えないばあさんだったが、西陣にゆくときは、ぼくのいうがままだった。
 ある繊維関連メーカーに就職してから、ほんのわずかな期間だったが、帯の芯地を売りにいったことがあった。けれどもそのときの記憶はなぜか脱け落ちている。
 細い小路に軒先を接する家並と瓦屋根、紅殻格子、路地にのびる石畳、奥まったところから聞えてくる織機の音……それらはいずれも、こどものころの遠い記憶のなかに息づいていて、いまとなっては幻の西陣だ。
 長編小説『織匠』(筑摩書房刊)を書く前にもよく西陣を歩いた。だが、そのときぼくの眼を通して切り取った街景は、あくまで現実とはほど遠い虚構の西陣というべきだろう。
 同じ街でも見るたび、ゆくたびに心惹かれるものが異なることがある。それは多分に時代やその時々の問題意識と深い関わりがある。こんども遠いいくつもの記憶をたぐり寄せるように街を歩いてみて、また新たな西陣の貌″を見出したように思う。


 西陣のおこり

 堀川通りを今出川通りから北に向かい、一筋目を西に入ると、山名宗全の邸宅跡がある。うつかりすると見落してしまうほどだが、民家にほさまれたところに石碑がある。
、応仁の乱のとき西陣の総帥山名宗全が、室町御所に陣取る東軍の総帥細川勝元に対峠して、そのあたりを本陣とした。西陣″の名はそのことに由来している。西陣という地名があるわけではない。京都市の北西部にひろがる付近一帯の通称なのである。
 だから織物の街、西陣といっても、その範囲は漠然としている。しかし一応のところ、東は烏丸通り、西は西大路通り、南は丸太町通り、北牡北大路通りにかこまれた矩形の一帯とみなしてよいだろう。
 西陣は近世以降、高級織物の中心地として知られるが、機業地としての発祥はもっと古い。平安時代に縫殿寮という有職織物を調製する官庁があり、織工たちが織部町あたりに移住しでいた。平安末期になると、律令制が崩壊し、官機をはなれた織工たちは、技術を活かして大舎人(おおとねり)町あたりで機織りを始めた。応仁の乱よりさらに三百年まえに織物産地としての基盤はできあがっていたのである。
 応仁の乱後、地方に移住していた織工たちは再び大舎人町あたりにもどって機業を復興させた。座の結成を許され、本格的に織物の生産を始める。これが織の街西陣の始まりである。
 京都はそれ以来、西陣とともにある。いつの時代でも西陣織は京都産業の中心であり、為政者によって強力な保護政策がとられてきた。
 安土桃山時代には豊臣秀吉の保護を受けて隆盛をきわめ、徳川幕府からも手厚い保護と奨励を受けた。最盛期は元禄以降、徳川中期。禁裡、堂上衆、将軍家、諸国大名の有職織物を独占してきた。高機八組という株仲間を組織し、輸入生糸も一手に収め高級紋織物を長年にわたって織りつづけたのである。
 徳川中期、桐生や丹後など地方機業が台頭、西陣の足もとをおびやかしたが、「田舎絹禁止願」を所司代に提出して切りぬけた。そのほか、職人徒弟の流出防止や、年季奉公人の取締りなどを請願して、いずれもみとめられている。明治になってからも、京都府はまず西陣機業の復興に着手し、近代化を推進した。いずれも織物の.産地としての西陣が京都産業そのものであったことをよくものがたっている。
 西陣は奇妙な街である。表通りにはビルや立派な構えの家屋がならんでいるが、一歩踏みこむと町屋造りとよばれる古い家並がある。おやっと思うところから機の音が聞えてくる。しもた屋ふうの構えなので、表からはとても織屋さんのようには見えない。裏通りをゆくと、図案、紋意匠、綜絖、整経、糸染など一の看板が目につく。機織の小道具をあつかう機料屋さんなどもある。
 西陣は織屋を中心に、さまざまな機織の準備工程が分業化、専門化し、独特な街を形成している。生糸の束がひとたびこの街に持ちこまれさえすれば、撚りは撚糸、染は糸染、意匠は紋意匠、織りは織屋と、それぞれのパートを受け持つ専門家の手によって、きらびやかな絹織物に織りあげられる。入りくんだ細い小路は準備工程と織屋を結ぶ毛細血管なのだ。
 西陣というとすぐに京格子の家並が想い浮かぶ。だが、こんど歩いてみると、それはずいぶん少なくなっていた。古い織屋の街を思わせるところは紋屋町界隈ほか、わずかしか発見できなかった。だからといって近代産業のイメージとはほど遠い。ぽくはいささかとまどいすら覚えた。
 紅殻格子もやがてなくなってしまうだろう。ぼくは通りを往きながら、なぜか手しごと〃のことばかり考えていた。エレクトロニクス文明の現代にあって、とかく手しごと″を軽んずる風潮があるからだ。そうしたなかで、手しごとの意味を問い直してみたいという思いに捉われたのである。


  巧緻な手技

 最初に訪れたのは巨シ陣小川英。天保十四年(一八四三)創業の綴織一筋の織屋さんである。織物産地としての西陣の歴史は古いが、織屋の消長は激しい。江戸時代からつづいでいる織屋はわずかに四パーセントでしかないという。同家はそのうちの一軒だ。
 京格子の町屋造りのたたずまい、すでに百二十年を経ているという。
 土間をゆくと黒光りした太い大黒柱が眼についた。少々の地震でもびくともしないという。奥に向うと、はしりにかまどがある。荒神棚がある。機場はまだ奥だ。
 西陣の織屋は紋様や色柄が生命であるため機場は奥に位置している。そのため間口のせまい、それでいて奥行の深い織屋建ち″という町屋造りが生まれた。同家の造りは、まさしく織屋建ちそのものだった。
 綴織の機場では六人の織手さんが織機に向かっていた。いずれも経験十年〜二十年のベテランぞろいだという。
 彩糸を収めたいくつもの杼が手許に一見無雑作にならべてある。織機にかかった経糸の下にはさんだ図案を透かし見ながら、緯糸(彩糸)を織りこんでゆく。手のはこびをよく見ていると、縫糸を織りこむたび、それを爪でこまめに掻き寄せているさまがわかる。
「綴れは平織ですけど、経糸をつつみこむようになってますから、外目からは経糸が、ちょっとも見えません」
 ご主人の説明によれば、緯糸を織りこむときに、杼を三十二、三度ななめに突き出すのが織法の特徴だという。織幅の長さに少しゆとりをもたせて緯糸を織りこむから、緯糸はうねりながら、経糸をつつみこむ。このようにして気品ゆたかな織物ができあがるのである。聞くはかんたんだが、高度の熟練を要する仕事だ。
 綴帯一本を織りあげるのに、約二十日から一カ月かかるという。綴織はジャカードの指図によらず、きめ細かな手の動きだけで織りあげるからだ。手練の技術の生み出した芸術品といえよう。
 つづいてとなりの機場を見せてもらう。こちらは綴織の静かな機場とちがって、機音がいく重にも絡まりあっていた。
 ジャカードがあった。『織匠』を書くとき何度も見たぼくにとってはなじみ深い織機だ。まさに鎧を想わせる紋紙がたれ下がっていて、小刻みに動いている紋紙は織物のデザインや組織を機に伝えるパンチカードのようなものだ。紋紙が一枚ジャカードにかかるたびに杼が走る。
 一台の織機が停止していた。整経(経糸を準備する)の途中らしい。経継ぎさん(経糸をつなぐ職人)が呼ばれていた。その仕事ぶりに見とれてしまった。指先を交差させるだけで新しい糸を一本ずつ結んでゆく。その手ぎわ良さは、まるで奇術を見るようだった。

 濱卯染工場は、昔ながらの手染による染屋さんだった。
 西陣織はすべて先染織物である。後染の友禅などとちがって、糸のまま染色し、その糸を使って模様ある織物を織りあげる。糸染には機械染と手染があるが、高級物はいまでも手染による。
 訪れたとき、ちょうど仕事が始まったところだった。
 染料の煮立った大きな釜がある。竹ざおにかけた糸束を、さばくように手かぎで上下させる仕事ぶりをしばらく見せてもらう。
「こうして、薄い色から順に染めていくんですわ」
 といって若主人は、染料を一サジ釜に入れた。
 織屋から持ちこまれた色見本どおりに、サジかげん一つで染めあげるのだという。長年の経験と熟練した技術の世界だ。
「糸の量も質もまちまちに持ちこまれますから、カンでやったほうが速いんですわ」
 若主人はそういってはばからない。
 けれども、とくに薄い色はごまかしがきかないからむずかしいという。一番苦心するのは、色見本より「二割濃くしてくれ」「一割淡くしてくれ」と注文のつくときだそうな。言うほうも言うほうなら、聞くほうも聞くほうだと思う。けれども、ほぼ依頼どおりに染めあげるというのだから驚きだ。
 そこにあるのは、まぎれもなく、熟練した職人同士たちのみに通ずる根強い信頼関係だろう。
「色柄が勝負でっさかい、織屋さんも、色合せにはうるさいんですけど、とくに最近はうるそうなりました」
 最後にグチめいた一言。それは西陣産地の景気停滞ぶりをものがたっている。だが暗さはなかった。
 手しごと=カンと経験の世界もバカにできない。熟練の職人の体内には、人から人へと伝承された技術とそれをわがものにした経験がシステム化されている。


  手しごとの誇り

 智恵光院通り寺の内角に、古びた木看板があった。ひいや″という文字が、かすかに読みとれる。そこが西陣でいまは数少なくなった杼屋さん一軒だった。
 できあがった小杼、すくい杼、両松葉などを見せてもらう。艶やかで美しい。ながめていると心が和らぐ。机の傍らに飾っておきたいと思った。
 杼は機にかかっている経糸に緯糸(よこ糸)を通す小道具で、織手にとっては手の一部にひとしい。物書きならば、さしずめ手なれた万年筆、使いこむにつれて手になじんでゆく性質のむのだ。
 杼には木製のものと鉄製のものとがあるが、手機に用いられる杼はほとんど木製である。舟型に削った胴のまんなかに緯糸を巻いた管が収めてあり、経糸のあいだに走らせると、糸が引出されてゆくのだ。唐織や綴織に使う手ごし杼″、帯の無地を織る飛杼″とおよそ二種に分かれる。
「織の種類や織手さんのクセ、手の大きさによって形や大小はちごうてきます」
 ご主人の増田さんによれば、杼は手になじみやすさがポイント、織手の個性や好みに合せて形状、サイズを決めるから、その種類はさらにふくれあがるという。
 もうかなりの高齢と思われるのに、増田さんの柔和な笑顔は、おやっというほど若々しい。生々とした語り口は小気味がいい。
 仕事台の周囲には、さまざまなヤスリやノミなどが無雑作にならんでいた。樫材を粗く削った製作中の抒もいくっかあった。
 その中から一つを取って増田さんはヤスリをかけはじめた。その姿勢には稟としたものが漂い始め、思わずハッとした。
 杼の形そのものは、きわめて単純だが、およそ百に近い工程を経てできあがる。杼一つにも長年にわたって伝承されてきた西陣の技術の歴史が息づいているといえる。
 増田さんの精魂こめた手しごと、それ自体がすでにして芸術品だ。

 小川通り寺の内上るに、日本では一軒しかない絹筬屋さんがある。北岡絹筬店、天正九年(一五入一)創業の老舗である。
 仕事場にあがらせてもらうと、北岡さんの手許にある古い物差が眼についた。竹製の鯨尺だった。べっこう色にかがやいている。裏には、「天保九年、鯨、蔦屋茂八」と刻まれていた。
 筬の歴史も古い。同家に残る古文書を見せてもらうと、宝暦四年(一七五四)に筬織二十九軒が筬屋仲間を結成、同八年には四十四軒にのぼったことがわかる。北岡さんのお店は、その最後の末裔だ。
 筬は杼とともに織物には欠かせない小道具である。経糸の位置を整え、緯糸の通る道をつくり同時にそれを打ちこむ役割をもつ。竹製の絹筬と金筬がある。しかし綴織や金欄などには綿筬が使われる。金筬では絹の微妙な風合いをそこねるからだという。
 竹といっても、どんな竹でもいいわけではない。
「昔から嵯峨の真竹を使います。硬うて、しかも弾力があるからです」
 北岡さんはたんたんと語る。
 嵯峨の真竹を煮沸して乾燥させたものを、専用の台で薄く羽のようになるまでへぐ(けずる)。へぐ〃ということばに実感がこもっている。こうしてできあがった筬羽を所定の長さに切って編みあげる。完成するまでのおよそ二十数工程はすべて手作業だ。
「目の荒れを直すのにいちばん注意がいります」
 緻密で根気のいる仕事だ。一日十四時間労働でも、二、三枚しか仕上がらないという。全国でー軒しかないのだから、注文をこなすには大変だろう。
「昔は注文のあと半年ほども待ってもらえましたが、いまはせいぜい三日ぐらい……」
 北岡さんは苦笑する。
 そのため、いつでも応じられるように材料を準備しておくのだという。
 完成した絹筬を手にとると、筬羽がびっしりつまっていて、そのならぴが美しい。一寸に七十から首二十枚の筬羽が組みこまれていると聞いて唖然とした。絹筬は時間とともに艶が出て、べっこう色になる。それ自体が装飾品としても立派に通用すると思った。
 杼や筬など小道具lつにも、歴史に培われた技術が生きている。西陣織は、こうしたすぐれた技術が集大成されたものなのだ。


  古い街それでいて新取の気風

 西陣織会館の傍らに「ジャカード渡来百年記念碑」がある。佐倉常七、井上伊兵衛、吉田忠七の肖像がブロンズ製レリーフに刻まれている。
 ぼくの祖母は佐倉常七の養女だった。
「久しぶりのご対面どっしやろ」
 と、西陣織工組の島田衛一さんにいわれて思わず苦笑いした。このところ久しく墓参すら怠っている。
 『織匠』の主人公である三人が、京都府の海外伝習生として、ブランスのリヨンに発ったのは、明治五年の初冬だった。
 そのころの京都府は遷都でさびれる街を蘇生させるため、積極的に工業化を進め、西陣機業をその中心に位置づけていた。佐倉たちは新しい織機の購入と織法の習得という使命をおびて渡航、八ヵ月後にジャカード、バッタンなどの器械を持ち帰った。
 ジャカードは機織のいわば頭脳、この洋式紋織機の導入により、四倍の生産性向上と新製品開発を可能にした。その技術がいまも基本になっている。西陣に産業革命をもたらし、今日をあらしめている三人は京都の先駆者でもある。
 瓦屋根と紅殻格子に代表される古風なたたずまい。けれどもそこには根強い伝統とともに、つねに新しいものに眼を向ける進取の気風が同居しているのである。
 そしていままさに、ジャカード渡来いらいの産業革命に織屋の街は揺れている。
 機織のコンピュータ化がそれだ。いま衣料の生産業界は、多品種少量生産とコストダウンという相反する命題をかかえている。和装業界も例外ではない。西陣はさらに熟練工不足という問題をかかえている。これらを時代の寵児エレクトロニクスで乗り切ろうというわけだ。
 若手経営者層によってすでに導入され始めているという。織屋の関心も高いが、全般的には、そのゆくえを静観しているのが、いまの現状だ。
 コンピュータ化は高度な技術革新である。だがそれは長年培われた蓄積技術の裏づけがあって始めて可能になるものだ。その意味では西陣の技術は確立しているから問題はなかろう。だがコンピュータ化が進み一時代経たあとは、どうなるだろう。かえってそれを支えてきた技術の総体が低下するのではあるまいか。だからといってぼくは伝統技術や手しごとばかりを重視するわけではない。自動化にも異を唱えない。新しい技術が時代を産業を変えていくと考えるからだ。だが陥奔もある。どんな産業でも、自動化は職人から手しごとを根こそぎ奪ってゆく構造をもっている。その陥穽を直視することが、いまは必要なときだろう。
 ジャカードの技術も、西陣のものとして昇華するまで三十年もかかった。新しい技術と伝統的な技術との息づまる葛藤の歴史……それが何であったかを問い直すときでもある。


 伝統のゆくえ

 西陣織会館の六階で、「西陣織服地発表会」を見た。洋装服地の展示会としては初めての試みだという。絹の持ち味を生かした紳士、婦人用の表素材が会場を飾っていた。絹一〇〇パーセントのスーツやジャケット、合繊混紡のドレスは、色あざやかでファッショナブルだった。
 洋装ファッションと室内装飾分野への進出が、新たな需要開拓の二本柱らしい。そのことは西陣が大きな転換期にさしかかっていることを象徴しているだろう。
 西陣織工業組合の調べでは、織屋数は一千四首七十二軒、生産高は三千二百億円(うち帯地が八〇パーセント)。ここ数年は数量ダウンを高級化志向で補ってきた。だが、それも限界に達したという。大手、中小の格差はひろがるばかり。
 産業構造の変化もいちじるしい。ひところ自家製織と出機(地方での下請製織)の比率が六対四であったが、いまは四対六に逆転、産地の空洞化現象が起っている。労働力不足、設備投資のむずかしさ、コストアップがその原因だ。そこで技術力もあり設備投資能力もある丹後地方などに依存するようになった。
 デザインカと色彩感覚さえあればよい。自家工場はなくてもよい。商人織屋が登場した。当然のなりゆきだろう。けれども、このベンチャービジネスは、不成功に終るケースが多いという。おもしろい話だ。織物の基本的な知識もないのだからさもあろう。だが、もう一歩踏みこんで、その原因を徹底的に掘りかえしてみたらどうか。あんがいそんなところから出口が見えるかも知れない。
 織の街を蘇生させるため、いまは和装からの転換と、自動化による技術革新が、メインテーマとなっている。洋装ファッションとインテリアへの進出など新企画、そしてコンピュータによる技術革新がそれだ。だが両者は不可分の関係にあるように思う。
 新しい試み いまはたしかに企画こそが問われる時代である。西陣に当てはめていうならば、真の伝統、長く磨きあげられ、伝承されてきた技術を、時代のニーズにマッチした商品づくりに活かしてゆくことだろう。コンピュータによるシステム化は、ただ省力化や自動化だけのものではなく、新しい織物づくりにこそ機能しなければならない。新しい紋織の道をひらいたジャカード導入の歴史を見れば、いっそうそのことは、明確になる。時代の寵児の使命はその一点にあるのではないかと考えさせられた。
 織物会館を出て、また街を歩いた。
 とある街角で連れだって歩く若い女性に出くわした。ジャケットもマフラーも、、スカートも黒ずくめ、おまけにストッキングも黒……昨今のさしてめずらしくないファッションだ。見なれているにもかかわらず、異様に感じられた。もしかしたら鈍化していたぼくの美的感覚が、西陣を歩くことで刺激をうけたのかも知れない。


目次
                
わがルーツの試み
「西陣タイムス」(西陣織工業組合) (1979.04.01)
「織匠」のふるさとリヨンと京都
「京都新聞」 (1980.12.07)
ジャカードのふるさとリヨン
「西陣タイムス」(西陣織工業組合) (1981.02.01)
二人の先駆者『織匠』覚書
雑誌「ちくま」(筑摩書房)1981年6月号 (1981.06)
カニューの生活と文化織物の街リヨンと西陣
雑誌「同志社時報」(学校法人同志社)No.72 (1982.03)
変革期を生きた無名の先駆者
「京都新聞」 (1984.03.23)
西陣小史ー度重なる苦難にも、いつしか蘇る機音
シリーズ染織の文化A「織りの事典」(朝日新聞社刊) (1985.04.01)
〈私の歴史散歩〉−京都  織の街西陣
雑誌「歴史と小説」(中央公論社)1984年5月号 (1984.05)
おいなりさんと私
雑誌「朱」(伏見稲荷大社)第29号 (1985.06.10)
恋の裁きのゆくえ
雑誌「ぎをん」(祇園甲部組合) No.142陽春 (1997.04.10)
四条大橋と祇園
雑誌「ぎをん」(祇園甲部組合) No.148秋季 (1998.10.10)
インターネットで訪れる祇園
雑誌「ぎをん」(祇園甲部組合) No.154新春 (1999.01.10)
鱧(はも)
雑誌「ぎをん」(祇園甲部組合) No.159陽春 (2001.04.10)
八坂の塔
雑誌「ぎをん」(祇園甲部組合) No.173新春 (2003.01.10)
遠 い 記 憶
雑誌「ぎをん」(祇園甲部組合) No.181新春 (2005.01.10)
宵  山
雑誌「ぎをん」(祇園甲部組合) No.187夏季 (2006.07.10)
あ  も
雑誌「ぎをん」(祇園甲部組合) No.193新春 (2008.01.10)
花見小路
雑誌「ぎをん」(祇園甲部組合) No.201新春 (2010.01.10)

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