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福本 武久
ESSAY
Part 2 |
福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。 |
西陣そして京都……わがルーツをさぐる |
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初出:「西陣タイムス」(西陣織工業組合) 1981.02.01 |
ジャカードのふるさとリヨン
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フランス第二の都市リヨンは人口一二〇万、かつては絹織物で栄えたが、いまは紡績業、化学工業、機械工業が中心になりつつある。新しさと古さの溶けあった奇妙な街である。
リヨンを訪れる前日はパリを歩いた。街路樹の葉は黄ばみ、モンマントルの丘からの眺望はまさにユトリロの世界だった。パリの華やかさにくらべ、リヨンはどこかこぢんまりしていて街のたたずまいも落ち着いている。さすがは二〇〇〇年の歴史を誇る街だな、と思いながらフールビエールの丘に立った。
眼下には旧市街の時代を経たゴシック建築の家並みがひろがり、その向こうにソーヌ河が音もなく流れている。視線を北に転じると。クロア・ルースの丘に向かって赤い屋根がこんもり盛り上がっている。あたり一帯は薄く煙っているように感じられた。しかしそれは厚い雲に覆われているせいではなかった。むしろいくつもの色相が重ねられているためにかえって個々の色が失われてのではないか。それほどまでに旧市街のたたずまいは重厚に感じられた。その裏側から、いきなり佐倉常七。吉田忠七、井上伊兵衛の容貌が現れた。幻影であると思いながらも、その不可思議な一瞬に私はのめりこんだ。
私がこのたび書き上げた一千枚の小説『織匠』は明治の京都を背景に、西陣の先駆者、竹内作兵衛と佐倉常七の視点から殖産を支えた群像をとらえたものである。作品世界の登場人物に呼び寄せられるようにリヨンに向かったのは十一月の初めだった。曾祖父佐倉常七と奇しくも同年齢でリヨンを訪れることになる。
史実によれば、佐倉常七以下三名は、トロウザン一地番地に絹織工ジュール・シスレイをたずねるが果たせず、紆余曲折を経て、クール・モラン六十三番地に探し当てる。そしてシスレイの紹介でオルドウカリキ九十三番地に居をかまえる織工リガールの工場で織物伝習を始める。だがそれにも飽きたらず後にクール・モランに一戸を借り受け、独自に教師を雇い修業をつづける。ーー
「トロンザン……」という私の片仮名発音に案内役のリチャードさんも通訳の山崎さんも首をかしげて考え込んだ。「オー、トゥルゾン」とうなずいたのは、さんざん地図を眺め回した後だった。こんなふうだから、あの三人の辛苦は計り知れないものがある。
クール・モランはローヌ河左岸の新市街にある。「当時とはすっかり変わっていますよ」と、リチャードさんが言うように、モラン橋を渡ると街の雰囲気は一変、ルーズベルト通りに面する五十六番地あたりも、オルドウカリキ九十三番地あたりも、高層ビルが建ちならび、もはやあの三人の影を見出すことはできなかった。
機織り、カニューの街としての名残りは、いまやクロア・ルースの一角にしか見いだすことができない。この界隈に現在十四軒の織工場がある。だがいずれもいまは観光客相手に機を織っている。彼らの手になる織物はチャリティーに回され、カニューは市の職員となっている。
私の訪れた「カニューの館」もそうした一軒だった。スカーフ、ネクタイ、小物類が店頭にならべられ、織屋というよりみやげもの店の感が強かった。奥にはジャカード二機が据えられ、年老いたカニューが機を織って見せる。カメラを向けると五フランとられた。もはや、絹織物の地リヨンとカニューの親和性がまったく失せてしまっていた。
見失った常七たちの面影が、再び私たちの前に現れたのは、とある小さなレストランの片隅に色褪せた人形を見つけた時だった。コミカルな容貌のそれは、まぎれもなく人形劇の主人公ギニョールそのものだった。ギニョールはサン・ジョルジ界隈に住むカニューの化身だといわれている。台本を見るとその面白さは、無学な登場人物が俗語隠語で諸家をやりこめるところにある。皮肉や洒落好きで頑固者……これこそ私の作中に現れる織匠のイメージにぴったりだった。そう思って天井からぶら下がるギニョールを見ると、眼尻に滲む皮肉めいた微笑の向こう側に、油紙を貼った薄暗い工場で、美しい絹を織ってきたカニューの哀楽を垣間見ることができた。
彼らが常食したカニューの脳みそ≠ヘ、じゃがいも、韮、玉葱をきざみ牛乳で固めた白チーズである。豆腐の白あえに似ている。すり鉢のような容器に入れてテーブルに運ばれてきた。その筆舌につくしがたい不思議な味を私はいまでもぬぐい去ることができないでいる。あの三人もきっと揚げパンとカニューの脳みそで暮らす日々が続いたろう。そのなかにこそ絹織物の街リヨンの風土がやすらかに息づいているように思った。
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