 |
福本 武久
ESSAY
Part 2 |
福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。 |
西陣そして京都……わがルーツをさぐる |
|
初出:雑誌「ぎをん」(祇園甲部組合) No.142陽春 1997.04.10 |
恋 の 裁 き の ゆ く え
|
|
恋の裁きかジュリーをつけて
粋な裁判してほしい
こんな俗謡が祇園町界隈で流行った。明治六年の夏から秋にかけてのころである。
当時、京都では一大事件がもちあがっていた。大参事(副知事) の横村正直が捕縛されて東京で拘禁されただけでなく、知事の長谷信篤までもが司法省に出頭をもとめられた。
事のおこりは、小野組転籍事件にあった。小野組は三井組、島田組とともに明治新政府の財政をささえてきた豪商であった。それまで京都に本店をかまえていたが、商取引の舞台が東京中心になりつつある情勢から、本籍を東京にうつしたいと京都府に願い出た。
小野組のような豪商に京都を去られては税収が減少、府の財政にも影響が出てくる。
明治三年ごろからの京都は、遷都によって人口が急減、大不況にみまわれていた。第二の奈良になってしまうという危機意識から、〈都市おこし〉がはじまった。東京に負けたらあかん……というわけで、外国人の技術者をまねき、西洋式の工業によって近代化をすすめたのである。京都府は工業だけでなく農業にも洋式技術を導入して、一九におよぷハイテク事業を展開していた。たとえば石鹸やガラス、ラムネ、レモネード、ビール、牛乳なども、すでにつくられていた。京都はたちまち日本一の近代産業都市になったが、府の財政負任はふくれあがっていた。
新事業をとりしきっていた槇村正直は知事の長谷と相談して、小野組の申請をにぎりつぶした。腹の虫がおさまらないのは小野組である。転籍をもとめて京都裁判所に訴訟をおこした。京都府と中央政府が真正面からにらみあうかたちになった。司法省は、京都裁判長に天誅組の生きのこりの北畠治房をおくりこんできた。槇村は北畠と激しい論戦をくりかえしたが、裏舞台でもうひとつの暗闘があった。槇村と北畠は千代という祇園の芸妓をめぐって張り合っていた。槇村の寵愛する千代に北畠が横恋慕したというのが真相らしい。槇村が捕われた裏には、恋の鞘当てもからんでいたというのである。
お裁きは陪審制の法廷でおこなわれることになった。俗謡にある〈ジュリー〉というのは陪審員のことである。
はたして〈恋の裁き〉は〈粋〉なものになったかどうか。当時の中央政府はそれどころではなかった。征韓論をめぐつて政局は泥沼の混迷、一〇月の政変で北畠を派遣した江藤新平も辞職してしまった。すったもんだのあげく、槇村は岩倉具視の一声で釈放となった。審理もせずに腰くだけ。なんとも不粋な幕ぎれにおわったのである。
粋な裁判してほしい……。俗謡のこの一節には探長な皮肉がこめられている。結果のすべてをみとおしたうえで、素知らぬ顔で相手の反応をうかがっている。表世界だけでなく裏世界にも精通した祇園町なればこその批評精神をみる思いがする。
|
|トップへ | essay2目次へ |
|