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福本 武久
ESSAY
Part 2 |
福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。 |
西陣そして京都……わがルーツをさぐる |
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初出:雑誌「ちくま」(筑摩書房)1981年6月号 1981.06 |
二人の先駆者−『織匠』覚書
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織屋の街「西陣」は京都市の北西部にひろがる付近一帯の通称である。応仁の乱の時、東軍の細川勝元に対時して、西軍の山名宗全がその地に本陣を設けたことに由来する。瓦屋根のひしめく街全体が機業地であり、そこから生まれる織物は「西陣織」として知られている。
織屋の街・西陣の細い路地を行くと、町屋造りの紅殻格子(べんがらごうし)の奥から、機の音がくぐもって聞えてくる。それは明治六年、フランスのリヨンからもたらされた「ジャカード」と呼ばれる織機のひびきなのである。
西陣織会館の傍らに「ジャカード渡来百年記念碑」がある。佐倉常七、井上伊兵衛、吉田忠七の名がブロンズ製レリーフに刻まれている。「西陣織」の高名さに較べ、彼らについては、ほとんど知る人もない。
佐倉常七以下三名が京都府の伝習生としてリヨンに渡ったのは明治五年一一月であった。京都府は明治の初め、東京遷都でさびれる街を蘇生させるため、積極的なエ業化政策を実行した。染織、西陣幾業がその中心であった。三人の使命は新しい織機の購入と織法の習得にあった。佐倉、井上は八カ月の伝習を経て翌六年一二月、ジャカード、バッタンほかの器械とともに帰国する。吉田ほ帰国を延期してただ一人研修を続けたが、翌七年三月帰途、伊豆沖で遭難する。
いく重にも折重なる機音を聞くたびに、そのひびきはいつしか彼ら三人とその背後にあった竹内作兵衛の喊声にとって代り、彼らを主人公にした小説をものしたいという思いに駆られた。
しかし三人のリヨン渡航をテーマにした小説作品はすでにある。田村享子さんの『海底の機』である。私は失望した。それでも佐倉常七の縁者に繋がる者として佐倉家に残る古文書を漁り続けた。
そんなある日、常七の孫にあたる老女から「こんなものでも役に立つやろうか」と一文を遠慮勝ちに示された。「……組合役員様には小便を仕かけられ侯」という件がいきなり眼に飛び込んできて、私は思わず息を飲んだ。
墨筆で罫紙にびっしり書き込まれたその一文は、西陣織物館所蔵の常七の「伺書」と同一のものであろうと思われた。「渡航二五年記念」という語句が文中にあるから、明治三〇年暮あたりに、常七が西陣織物製造業組合に提出したものであろうと推測された。念のため西陣織物館でコピーをもらって突き合せてみた。文意は変らないが文脈と細部は微妙に食い違っている。とするなら、老女から入手したものは下書だったということになる。下書であるため、よけいにそこからもれてくる息づかいが生々しく感ぜられた。
いずれにおいても常七は「西陣にて器械の運動は何方が適され侯や。器械は元何人が御持帰りと相成侯や。、不分明に御座候間、この段御調べ下され侯」と強い調子でのべている。
明治三〇年といえば、ジャカードがようやく西陣に定着し始めたころである。
、常七は技術(わざ)のみに生きた男である。リヨン渡航以来、彼の半生はジャカードの伝播とその織法の普及に費やされたはずだった。だがその伺書の一文にみるかぎり、ジャカードとその織法をもたらした彼の先駆者としての事績は、ひたすらに歩み続けた二五年の間に、すっかり消失していたということになる。そのことは「常七の事績が認められたのは昭和五年ごろで、その時始めて明治五年にさかのぼって佐倉常七の名は世に出た」という佐倉家縁者の語り伝えと奇しくも一致する。
取材を重ねるうちに私は、その伺書が常七自身の意思で提出されたのではないと確信するようになった。確かに彼の事績は六〇年も埋れていた。だがそれは洋行人という誉れと無縁に生きた彼の意思によるものであろう。
佐倉常七は侠気のある純朴な気質であったと聞く。晩年は織屋としていかに逼塞していたといえ、恨みつらみを連ねただけの伺書のたぐいを提出したりするだろうか。文字もろくに書けない彼が、他人にゆだねてまで、赤裸々な怒りの文を記すことなど、およそ考えられないのである。
きっと身内の誰かの手によるものだろう……と当りをつけて、私は佐倉家の戸籍調べを始めた。常七ほこどもに恵れなかった。養女ヤエに婿養子平吉をむかえている。だが平吉は明治三〇年八月に入籍し、翌三一年五月には離縁となっている。わずか一年に満たない問に離縁となるには、よほどの理由があったにちがいない。伺書の主は平吉ではなかろうか。養父のためによかれと思ってしたことが、逆に勘気に触れる結果となってしまう。常七の略歴書のいくつかの末尾に「父の命により平吉之を記す……」と認められたものがある。平吉は、少くともそれができる立場にいたのである。技術のみに生きることを誇りとしてきた自らの生きざまを逆撫でされた常七の怒りは大きかったにちがいない。伺書の行間から、佐倉常七という人物が、にわかに生身の人間として私の前に現れてきた。
私はむしろリヨン渡航後の常七の半生に興味を覚え、反古同然の古文書を挺子にして、彼の内部に踏み入ってみたいと思った。
佐倉常七の主家に竹内作兵衛という人物がいる。田中緑江編『明治文化と明石博高翁』には、ジャカードの移入に触れて、「西陣物産会杜の世話役竹内作兵衛という機業家が、フランスにジャカードイとよぶ巧妙な紋織機のあることを知り、西陣のために購入しようと勧業場に申し出た」とある。
研究家の太田英蔵氏によれば、作兵衛はウィーソ万国博に西陣織を出品する時、それに添付する『西陣織物詳説』をわずか六カ月で編纂したほどの学識豊かな人物であったという。彼は当時のべストセラー『西国立志編』を読んでジャカードを知ったのではないかといわれている。
織機としてのジャカードは、一八〇一年、ジョゼフ・マリ・ジャオールがフランスのリヨンで貧苦と闘いながら完成した自動紋織機である。西陣において長年使われてきた空引機に較べて約四倍の生産性をもつ画期的な機であった。にもかかわらず西陣で受入れられるのにおよそ三〇年もかかった。そこには伝統的な技術と新しい技術の息詰るような葛藤があった。「御一新」という特殊な時代性に負うところも大きかったろう。
明治維新は欧米の文明が好むと好まざるに関らず移入された時代である。長く封建制を生きてきた日本人は、旧い生活習慣がぬけ切らないままに、西洋文明の上っ面だけ舐めようとした。そのため文化の総体として混乱は深まった。一産業技術の上でも同じことがいえる。「開国」の名の下に、半ば強制的に新しい技術が移入された。技術というのは本来的に創造的なものである。時代が技術を生むのではなく、技術が時代を産業を変えてゆくものである。ところが明治維新の殖産は、あくまで外から持込まれた技術によるもので、しかもシステム化されたものではなかった。京都府の勧業もその延長線にあり、西陣のジャカード移入も同じことがいえる。
どんなに革命的な技術であっても、現実の場では旧い技術との調和をもとめながら、ゆるやかにしか浸透していかない。技術もまた「生きもの」だからである。数百年の伝統を誇る西陣であるだけに新旧の技術の相克は凄まじかっただろう。佐倉常七の帰国後の二五年は、まさにそうした変革期のクレバスに落ち込んだ時代であった。
変革というものは、まず思想家が現れて、次いでそれを引継ぐ技術者によって具体化されてゆく。私は前者に竹内作兵衛を、後者に佐倉常七を想定する。
竹内作兵衛は、ジャカードによる新しい織物で西陣自体を変えてゆくのだ、と定かに意識していた。だがそれには長い歳月を要するであろうとみていた。だからこそ、彼が京都府からリヨン渡航を命ぜられた時、老齢を理由に固辞し、次代を担う佐倉常七たちに道を拓いたのである。
竹内作兵衛の脳裡に描いた「新生西陣」という紋意匠図を技術者としての常七が、一幅の織物して結実させた。常七は織殿教授人としてひろく全国に機織の技術を伝えた。織屋として独立した晩年も、桐生や岡山の花筵(かえん)に機織の技術をひろめた。だがあくまで殖産の囮に徹し、自身の織屋としての繁栄や名誉とは無縁の世界を生きた。
竹内作兵衛は跡継ぎに恵まれず、織屋としては一代で絶えた。作兵衛の位牌は佐倉家に受けつがれ、数年前常七の養女ヤエが没するとき、その棺に収められた。師弟の絆の強さをよく物語っている。
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