福本 武久
ESSAY
Part 2
 福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
 新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。
西陣そして京都……わがルーツをさぐる
初出:シリーズ染織の文化A「織りの事典」(朝日新聞社刊)  1985.04.01

西陣小史
度重なる苦難にも、いつしか蘇る機音
新旧せめぎ合いのなかの伝統



 街並みに息づく長い歴史

 細い小路に軒先を接する家並みと瓦屋根、紅殻格子、路地にのびる石畳、奥まったところから、かすかにもれてくる織機の音……。いまも西陣といえばすぐに、こういう近代産業とはほど遠い光景が眼に浮かぶ。それは、ひとえに長い歴史の面影が街のたたずまいのところどころに刻みこまれていて、ひそやかに息づいているからだろう。
 高級織物の産地として知られる西陣は、京都市の北西部に位置している。西陣という地名があるわけではない。
 その由来は、応仁の乱にまでさかのぼる。西軍の総帥山名宗全(持豊)は、室町御所に陣取る東軍の総帥細川勝元に対峙して、大宮五辻の邸宅を本陣とした。それ以来、付近一帯を指して西陣と呼ぶようになったのである。
 織の街西陣というと、さらにその範囲は漠然としてしまう。あえていうならば、東は烏丸通り、西は西大路通り、南は丸太町通り、北は北大路通りに囲まれた矩形の一帯とみなしてよいだろう。
 西陣は奇妙な街である。表通りにはビルや立派な家屋が建ち並ぶが、一歩踏みこむと町家造りと呼ばれる独特の家屋がある。しもたや風の構えで、とても織屋さんには見えないのに、奥から機の音がかすかにもれてくる。裏通りに入ると、図案、故意匠、綜統、整経糸染などの下ごしらえ屋さん、さらには機織りの小道具をあつかう機料屋さんもある。生糸の束がひとたびこの街に持ち込まれさえすれば、撚りは撚糸、染めは糸染め、意匠は紋意匠、織りは織屋と、専門家の手によって、きらびやかな絹織物に織りあげられてゆく。西陣は織屋を中心に、その準備工程が分業化し、それぞれが自立した集落を形成している。入り組んだ細い小路、それは自立した専門家をつなぐ信頼の糸道なのである。


 織の街 西陣の起こり

 西陣は近世以降、高級織物の中心地として繁栄してきたが、機業地としての発祥はもっと古い。五世紀ごろには、秦氏をはじめとする帰化人たちが山城盆地に住みつき、養蚕を始め、絹織物を盛んに織っていたという。
 平安京の時代になると、官機としての織物工場が現れた。縫殿寮と呼ばれ、公卿たちの有職(ゆうそく)織物を調達する官庁である。その工人たちは織部町あたりに移住して、綾、錦、羅などを織り上げていた。西陣の機織り技術は、平安貴族たちの衣服織物を製織した縫殿寮の伝統を受け継いでいるのである。
 平安末期になると、高級織物が縫殿寮以外でも製織されるようになった。官機にたいする私機の起こりである。諸臣の下人たちが製織技術を習得して、織物生産を始めたのである。さらに王朝末期の動乱によって律令制が崩壊すると、縫殿寮の工人たちは為政者の庇護を失った。官機を離れたかれらは、技術を生かして独立自営の道をあゆみはじめる。工人たちは織部町(猪熊下長者町あたり)を中心に、大舎人町、大宮付近で機織りを始めるようになった。平安朝の官機の四百年におよぶ織りの技術は、このようにしていまの西陣界隈に受け継がれて鎌倉時代を迎える。応仁の乱よりさらに三百年も前に、すでにして織物産地としての基盤ができあがっていたのである。
 鎌倉時代のおよそ一世紀半は平穏な時代がつづき、日本有数の織物生産地として発展、大舎人綾、大宮絹と呼ばれる高級織物を生産しつづけた。しかし南北朝の動乱で京の街が戦乱の場になると、織の街は荒廃した。織工たちは家を焼失、行き場を失った。その織工たちに救いの手を差しのべたのは、西国の豪族大内弘世、義弘の父子だった。機織りしか生業の道のない織工たちの一部は、荒野にもひとしい京を後にして、長門の国に下った。かれらが頼った大内氏は京の街にあこがれ、小京都と呼ばれるほどに、山口の街づくりをすすめていた。新興の街で機織りを始めた織工たちが眼をみはったのは、中国産の高級織物だったろう。そのころから、すでに中国貿易を始めていた大内氏は、唐物と呼ばれる中国物産を大量に輸入していた。織工たちは生糸のほかに、金欄や鍛子などをみて驚嘆したにちがいない。
 京に残っていた大部分の織工たちも、応仁の乱の十一年間に、織の街が焼きつくされてしまうと、堺に避難した。堺は大内氏ゆかりの地、山口に下った織工たちの多くもそこに移っていた。京を逃れてきた織工たちは、貿易港である堺で諸外国の精巧な織物をみて、創造力をかきたてられただろう。山口、そして堺、そこでかれらは初めて、直に異国の織物技術に触れることができた。長年培われてきたかれらの技術は、異文化と出会うことによって、さらに一層飛躍的なものとなる。


 千両の荷が動く…江戸中期の繁栄

 戦乱の後、京にもどった織工たちは、再び大舎人町あたりで機織りを始めた。座の結成をみとめられ、室町幕府から保護奨励を受け、綾織物の独占権を手にした。大舎人座三十一家、これが今日の西陣織屋の始まりである。
 京都はそれ以来、西陣とともにある。いつの時代でも西陣機業は京都産業の中心であり、為政者によって強力な保護政策がとられてきた。安土桃山時代には秀吉の庇護を受けて目覚ましい発展をとげた。世情安定した江戸時代、有職故実の制度が整えられるとますます隆盛をきわめ、公卿、将軍家、諸侯の有職織物を独占するようになった。最盛期は江戸中期。今出川大宮のあたりは、毎日千両の荷が動いたので千両ケ辻と呼ばれるほどだった。
 技術革新もめざましかった。弘治年間(一五五五〜五八)の高機による紋織の発明は、西陣織を不動のものにしたといえる。それまでの織機は居坐機(いざりばた)と呼ばれ、平織の織物しか製織できなかったが、御寮織物師の一人である井関宗鱗は画期的な織機を考案した。経糸を操作しながら、地緯(じぬき)と絵緯(えぬき)を自由に組み替えられるもので、この機による技術によって紋織が完成したのである。
 織技、意匠ともにすぐれた西陣は、幕府にみとめられて高機八組という株仲間を結んだ。そして輸入生糸も一手におさめて、高級紋織物を織りつづけたのだった。
 こうした西陣は、いつも他国産地から狙いの的にされた。享保のころ(一七二〇年ごろ)国産の生糸がにわかに増加すると、丹後や桐生に機業が台頭した。けれども技術力では、とうてい西陣におよばない。技術盗りは奉公人を西陣に送ること、そして西陣織工の引き抜きだった。このようにして西陣の技術を導入した丹後や桐生は、自給自足の原料で織物生産を始めた。安価な田舎綿と呼ばれる織物が市場に現れて、西陣の足もとをおびやかした。西陣織屋は結束して田舎絹禁止願を所司代に提出、さらには技術の流出を防ぐため奉公人の取締令を求めた。西陣機業の保護は幕府の方針であったため、他国の産地はともに制限が加えられている。
 隆盛をきわめた西陣も、江戸後期になると暗い影がしのびよる。天明、享保の大火、天保の改革による奢侈禁止令などは、大きな打撃だった。さらには幕末の動乱、蛤御門の変の兵火にょる街のどんどん焼け=A維新の嵐にもてあそばれて明治を迎えることになる。


古い街、それでいて進取の気風

 明治維新とともに東京遷都。洛中庶民はもとより、西陣にとっても思いがけなかった。天皇につづいて皇后も京都を離れ、太政官をはじめ中央の諸官省も東京に移された。政治的変革が西陣に与えた打撃は計りしれなかった。西陣織の顧客は禁裡、堂上衆、徳川将軍家、諸国大名だった。顧客が京都を離れ、伝統的な儀式も廃れてしまった。だが、四千九百戸ほどもある織屋に機があるかぎり、綾、錦、金欄、椴子などの織物が毎日織りあげられてゆく。消費者を失った商品はたちまちに滞留しはじめた。深刻な恐慌の訪れ、それはかつて経験したこともない苦難だった。いくども災厄にみまわれても、西陣は培われた技術があるかぎり、いつしか街に機音はよみがえった。けれども需要構造の変革には、なすすべがなかった。
 西陣は京都の重要産業である。京都府は工業振興の第一に西陣の復興に着手した。まず産業基立金十万円のうち三万二千円を投じて、保護と奨励のために西陣物産会社を設立した。その下に、全織戸を十八に分けて業務を監督、資金の貸与などの援助を試みた。
 技術革新への機運も盛り上がってきた。積極的に産地の近代化をめざして、府当局ものりだしてきた。西洋の織機の導入と織法の習得が緊急の課題とされた。洋式織機ジャカードの導入、それはまさしく西陣の産業革命だった。明治の初め、この因習と伝統の街に産業革命が起こったということは、驚くべきである。古い街でありながら、つねに新しいものに目をむける西陣の気風を、そこにみることができる。
 明治五年の秋、織機の購入と織法の伝習という使命を背負って、織工佐倉常七、井上伊兵衛、吉田忠七の三人はフランスのリヨンに旅立った。ことばすら分からない異国の地で、新技術を習得することはいかに困難だったか……。それは、われわれの想像をはるかに超えた道程である。けれども、かれらはわずか八カ月で所期の目的を達成した。明治六年十二月、さらに伝習をつづける吉田忠七を残して、佐倉、井上はジャヵード、バッタンなどの機械を持ち帰ったのである。この洋式織機と技術が、のちに驚異的な紋織の発展をもたらしたことを考えるとき、かれらによってこそ近代西陣がひらかれたということができる。
 西陣の洋式技術の移入は、その後も活発に進められた。明治八年には、伊達弥助がオーストリア製ジャカードをもたらし、明治十五年には京都府のフランス留学生、近藤徳太郎が織物技術を理論的に学んで帰国した。
 ジャカードは、それまでの空引機に比べて約四倍の生産性を持つ画期的な織機であった。それほど革新的な機にもかかわらず、西陣に根を下ろすまでには時を要した。そこに新旧の技術の相克のすさまじさをみることができる。どんな革新的な技術でも、現実の場では古い技術と調和をもとめながらしか浸透していかない。数百年の伝統を誇る西陣だけに、なおさらである。ジャカードが定着するまでには、およそ三十年かかった。その歳月は西陣が西洋の文明に手荒にもまれながら、独自の織技を磨いていった歴史をよく物語っている。
 こうして普及したジャカードによる技術は西陣の体質を変え、他の機業地に一歩先んじて近代化に成功した。洋式織法のなかに伝統の技を生かし、新しい紋織が織れるようになったからである。
 西陣は、外からの刺激を受け入れつつ、その後も新しい織技をつぎつぎに開拓していった。そしていま、ジャカードの渡来につづく技術革新の時を迎えつつある。コンピューターによる機織りのシステム化がそれである。磨きあげられ伝承されてきた技術を、時代のニーズにマッチした織物づくりに生かしてゆく姿勢が、再び求められようとしている。いま、まさに真の伝統とは何か?″が、あらためて問い直されているといえるだろう。


目次
                
わがルーツの試み
「西陣タイムス」(西陣織工業組合) (1979.04.01)
「織匠」のふるさとリヨンと京都
「京都新聞」 (1980.12.07)
ジャカードのふるさとリヨン
「西陣タイムス」(西陣織工業組合) (1981.02.01)
二人の先駆者『織匠』覚書
雑誌「ちくま」(筑摩書房)1981年6月号 (1981.06)
カニューの生活と文化織物の街リヨンと西陣
雑誌「同志社時報」(学校法人同志社)No.72 (1982.03)
変革期を生きた無名の先駆者
「京都新聞」 (1984.03.23)
西陣小史ー度重なる苦難にも、いつしか蘇る機音
シリーズ染織の文化A「織りの事典」(朝日新聞社刊) (1985.04.01)
〈私の歴史散歩〉−京都  織の街西陣
雑誌「歴史と小説」(中央公論社)1984年5月号 (1984.05)
おいなりさんと私
雑誌「朱」(伏見稲荷大社)第29号 (1985.06.10)
恋の裁きのゆくえ
雑誌「ぎをん」(祇園甲部組合) No.142陽春 (1997.04.10)
四条大橋と祇園
雑誌「ぎをん」(祇園甲部組合) No.148秋季 (1998.10.10)
インターネットで訪れる祇園
雑誌「ぎをん」(祇園甲部組合) No.154新春 (1999.01.10)
鱧(はも)
雑誌「ぎをん」(祇園甲部組合) No.159陽春 (2001.04.10)
八坂の塔
雑誌「ぎをん」(祇園甲部組合) No.173新春 (2003.01.10)
遠 い 記 憶
雑誌「ぎをん」(祇園甲部組合) No.181新春 (2005.01.10)
宵  山
雑誌「ぎをん」(祇園甲部組合) No.187夏季 (2006.07.10)
あ  も
雑誌「ぎをん」(祇園甲部組合) No.193新春 (2008.01.10)
花見小路
雑誌「ぎをん」(祇園甲部組合) No.201新春 (2010.01.10)

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