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10月に突入してしまった。台風21号の直撃で、日中から雨。風の方が強い感じ。私が帰宅した6時半頃すでに、通り道である公園の出口付近で、竹藪の竹が1本道路側に折れて歩道をふさいでいた。夜8時頃からものすごい風になる。9時頃にはうちの向かいの公園の奥の方で、トタン屋根の飛ぶ音(のような音)が聞こえていた。小学生の頃、友人の家が畑をつぶして作った卓球所のトタン屋根が、台風でそっくり持ち上がって、隣の庭兼畑にそのまま落ちたことがあった。あのころはしょっちゅう、物置のトタン屋根とか波板とか板塀とかが飛んだが、そんなものがありそうもないこの近辺で、さっきの音の正体は何だろう。公園の鳥小屋(フラミンゴとか孔雀とか小鳥たちが飼われている)の屋根か?10時を回って、さっきの風が嘘のように静まる。台風は猛スピードで走り去り、この頃には水戸あたりとのこと。この風で咲き残りの金木犀もすっかり吹き飛ばされてしまったことだろう。
昨夜『グラン・ヴァカンス』読了し、続けてSFM11月号「蜘蛛(ちちゅう)の王」を読み中。『グラン・ヴァカンス』から「夏の硝視体」を振り返ると感慨がひとしおだ。これらを経ないでいきなり「蜘蛛の王」を読んだら、むしろ普通のSFとの印象を受けるのではないか。『グラン・ヴァカンス』はノスタルジーとどこか繋がる純粋な痛み。ゲスト側の持つ残虐性が今ひとつダイレクトに表されなかった方が、より物理空間とこの電脳空間の危ういバランスや奇形性が際だったかも知れない。
眠くてたまらない日々が続いていたが、ついに今朝30分寝坊してしまい、結局悪あがきせず1時間休を取る。昨日帰りがけにちょっとした議論をした同僚が、「あのせいだろうか」と気にしていたとか。べつに口論した訳じゃあるまいし、そんなことで休むと思われていたとは情けない。それにしても眠い!メラトニンって日本では売られていなかったのだね。
『アバウト・ア・ボーイ』の続き。映画のなかのマーカス、可愛かった。
えいごの新米の先生、なぜにそう頻繁にあくびする?自分でしばしば単語や文例を間違えておきながら、我々が怪訝な顔をすると「混乱したか?このサブジェクトはムズカシイからね。いやーみんなベリーグッド、エークセレントでした」お、おまえねえ…。いつか言い返してやる。ていうか、クラス変わりたい。でも、行ける曜日と時間帯に、ちょうど該当するクラスがないのだ。あと3ヶ月経つと次のクラスになるのだが、それまで辛抱するにはちょっとレッスン代高すぎ。何とかせねば!
喧嘩状態を続けていたおじさん二人、フレームメイルをたたきつけ合ってついにそれぞれが所長へCCメイル。あちゃ〜…。もう、こちらは陰で、双方が抜き差しならない羽目に陥らないようにあれこれフォローしているというのに、まったくワカンナイ人たちだ。来週雁首揃えて某委員会の審議の俎上に乗ることになるつうに。もはやどちらの肩を持つことも出来ませんからね、「〜だよね!?」と同意を求められてもどちらにもうんとは言えまへん。潔く青天のもとでお裁きを受けなさい。お裁きする人たちがいかに事情を知らなくて不適切な判断を下しても、私は存じませんからね。あー、だけどそうなっちゃうと私の部署は後々ホントに困るんですが(;.;)
と人のことは言いつつ、私自身、自分の部署の再雇用のおぢさんの身勝手さ(久しぶりに登場)には冷静でいられない。「ああ〜もうお願いしませんから結構です!」と言いたいのを抑えて努めて平静な顔で応対しようと思いながらも、頬が引きつっているのが自分でわかる。このセリフと同じ中味をどんな言い回しに変えて言ったら、相手にそれと悟られないで済むだろうか、それを考えることで辛うじてキレるのを怺える。えーん、人間出来てないよ、とすっかり落ち込むのだ。
来ました来ました来ましたよ。「ロード・オブ・ザ・リング コレクターズエディション」が!週末はこれで決まり。それから、佐竹美保さんからの郵政省メイルがうちにも来ました>H2さん。『江戸川乱歩の少年探偵団展』@弥生美術館に、10点程出品するとのこと。期日は今日から12月24日(火)だそうだ。
『アバウト・ア・ボーイ』もう少し。問題少女エリーが、ちょっとストレートに物わかりよすぎないだろうか。ま、そういう役割だから。登場人物がみな、そういう感じ。でも変わり者のマーカスとウィルによって、微妙に振れる子どもたちの心の機微をうまく表していると思う。小さい声でまたロンドン行きたい。
守人シリーズの新刊『神の守人』はいったいいつ発売かな?と偕成社のサイトを見に行ってみたら、悲しいかな、来年の1月ですと。しかし、2冊とは予想外!\(^O^)/
『アバウト・ア・ボーイ』読了。終盤は映画とは違った解決になっている。映画では、ウィルとマーカスが自分らの不格好さと、しかし誠実さを皆の前にさらけ出すが、小説では、劇的な盛り上がりには欠けるが、もう少し彼らの内省的な部分が微妙に描かれている。マーカスが急に成長し、その代わりに何かを失ったとウィルが感じる部分では『ほんとうの空色』のラストをそのまま思い出したのであった。
午後からDVD鑑賞会に突入。 「ロード・オブ・ザ・リング コレクターズエディション」本編&特別編、「ほしのこえ」、夜になって次男向けにまた「ロード・オブ・ザ・リング」吹き替え版。あああ〜、やっぱり大画面で見たい!じつは昨夜も「天空の城ラピュタ」鑑賞会だったのだ。これがなぜか、やや長い周期で画面が明るくなったり暗くなったりする。何度ディスクをセットし直してもふたを閉め直してもレンズを掃除しても直らないので、「千と千尋の神隠し」の二の舞か?と思ったが、やはりふたの閉まり具合が不調だったためと判明。長男が「これは安かったからね」と笑う。このDVDのキカイは2000年の暮れにビックカメラで、100人に一人お買いあげが無料になるというのに当たったものなので、たしかに安い!
夜になって申し訳のように部屋の片づけとか旅行の整理とか。8月は、旅行の下調べ(全くの個人旅行だったので)やら、ピアス、ボストンの読み返しなどで他の読書が捗らなかったのであった。旅行の下調べは大半がインターネットで、国内サイトではイギリス旅行とか児童文学とか、イギリスのサイトでは各地の情報、宿、ツーリストインフォメーション、天気、地図、鉄道等々、実にたくさんの情報があること!鉄道では詳しい時刻表検索が利用でき、Yahooの「路線」みたいに乗り換え駅や所要時間が細かく検索できるので非常に助かった。地図はmultimapというのが便利で、航空写真が見られるのが、実感が掴めて面白い。宿も3カ所中2カ所はネットで探してe-mailで予約。地元のツーリストインフォメーションセンターに、事前にどこそこへの行き方や宿の情報を問い合わせたりしたが、対応は非常に親切だった。遠さを一番感じたのは、当たり前かも知れないけれど飛行機だ。着いてみたらちっとも異国という気がしなかったのは不思議だ。もっと「外国だ〜」という感慨があるのかと思ったけど。世界は狭いよねえ。
いつの間にか買っていたサトクリフ『ヴァイキングの誓い』(ほるぷ出版)を昨夜から読んで、読了。イングランドの生まれ故郷からヴァイキングに拉致された少年が、ヴァイキングの友情と復讐の誓いによって、ヴァルト海を経てキエフ、さらにドニエプル川を下って遙かコンスタンチノープルへと旅することとなり、ビザンティン帝国の皇帝の近衛兵となったのち、ようやく自分の天職に出会う。『ケルトとローマの息子』(→感想)に似て、帰属すべき部族を持たない少年を主人公とし、宗教的にもキリスト教とヴァイキングの神々とのせめぎ合いに悩み、義兄弟のちぎりにより自分のものではない復讐の誓いに縛られ、悩みながらも誠実に若者らしい潔さを持って生き延びてゆく。人となじむよりも孤独を愛する傾向にあった主人公ジェスティンは、生まれ故郷では牛の医者としては一番と言われる男のもとで働いていたが、のちにその頃の知識と彼自身の持つ才能によって医師としての道を見いだすのだ。意志に反しての長大な旅とは言え『ケルトとローマの息子』ほどの過酷さはないが、話の舞台のダイナミックさ、魅力ある人物たち、内省的なジェスティンの語り口など、魅力に溢れた物語である。『ケルトとローマの息子』では主人公は生まれ故郷に戻ることを希求していたが、こちらは、冒頭から、ジェスティン自身の言葉で、円熟した年齢を迎えてもなお故郷の地を恋しく思いつつも、「故郷とは土地のことではなく、同胞、血のつながり、ともに歩んでいくための絆をいうのだ…(中略)…思い出はあるが、はるかな旅路を帰りたいという気はさらさらないのだ」とはっきり語られるのである。一つ不満を言えば、皇帝やキエフ公国のカーン・ウラディミールらに比べ、ジェスティンが友情と復讐の絆を結ぶトーモッドが今ひとつ影が薄く、そもそもの友情の成立が実感しにくかった。また、ヴァイキングたちがバルト海からドヴィナ川を遡り、陸路を通って船を運びドニエプル川へ到達するあたりは、『琥珀の望遠鏡』での熊軍団の旅とまるで重なり、面白さが二重であった。琥珀と言えば、トーモッドはトールの槌の形をした琥珀をお守りのように首に下げていた。それはもちろんヴァイキングの宗教と民族を象徴しているが、ジェスティンの手のひらに握られた時の感触、太古の昔樹木から流れ出て太陽の暖かみを閉じこめながら石となった琥珀独特の質感が、全編を通して物語の小さな要石であるように感じられた。
夕方突然、ある物語中のシーンを思い出し、どの本だったかしばらく思い出せずに、もどかしい思いをした。確か作品中で挿話めいた部分だったように記憶するので、本筋との脈絡が掴めない。もしかするとありありした夢か?などとも思うが、夢にしてはその断片がはっきりしすぎている。う〜ん…と読了本リストを眺め、ようやく、スーザン・クーパー『樹上の銀』の、沈んだ町の部分であることがわかった。あの部分は本当に奇妙で、本筋とは別に惹かれるものがあったのを改めて思い出す。
次は『海辺のカフカ』にしようか、サトクリフにしようか、それとも…と悩み中。
土曜に指輪DVDを見た長男が(彼はなぜか劇場には見に行きそびれた)、ボロミアがオークと戦って、しまいにウルク・ハイに倒される場面付近を、「今までに見た映画の中で一番好きかもしんない」と言っていた。矢を受けくずおれながらも、二度、三度と立ち上がりオークに立ち向かう、しまいに跪いてしまったところをオークたちがもはや相手にせず駆け去って行き、ウルク・ハイが至近距離で弓を引き絞る…。ついに倒れたあとにアラゴルンが…。そうだよ思い浮かべるだけでもう涙ぼろぼろだよ。再びTTTの予告編を見て、弟ファラミアがボロミアに本当によく似ているのに改めて驚く。角笛城の攻防も脳裏に形作られたものがそのまま視覚化されたかのよう。ああ楽しみ〜。もっとメイキングがあったらよかったのにな。イライジャがフロド役に応募した時のビデオ画像なんて、外に出ないのだろうか。見たいっ。ああまた止まらない。
『航路(上)、 (下) 』に見られる饒舌は、コニー・ウィリスの特質ではあるだろうが、一面、建て増しを重ねて迷路のようになったマーシー・ジェネラル病院の構造と同じく(神経の電気信号よろしく、ジョアンナやリチャードはショートカットを捜して走り回る)、これは明らかに脳の冗長性を模したものでもある。同様の理由で、登場人物はポケットベルを切ったりもしないのだ。
結局『海辺のカフカ』を読み始めた。
『海辺のカフカ』順調に読み中。月一度のランチタイム・ミーティングがあって、どうせまた今日も何時に終わるかわかんないと思っていたらなぜか前代未聞の45分で終了した。そのあと見事に雨が降りましたとさ。
夕食後お茶を飲みながら読みかけだった、ピアス『ライオンが学校へやってきた』を読み終える。最後の指しゃぶりくんの話が一番好き。
医学・生理学賞をアポトーシスが取ったんだなあと思いながらノーベル賞のサイトを見ているうち、日本人が物理学賞受賞と知る。スーパー・カミオカンデにこれで無事予算がつくんでしょうね。
ノーベル物理学賞は基礎系が取ってよかったねと思っていたら、化学賞も日本人が受賞だって。
いちまさん、久しぶり!むかし連載時に読んでいたので、娘も「わあ、なつかしいっ」と喜んで手に取る。
Webcat Plusを新聞で知り何じゃこりゃと試してみたら、大層面白いかも!どう発展してゆくのか。そう言えば近所の区立図書館、システムは入れ替わって、書誌情報のプリントアウトが簡単に出来るようになったりもしたのだが、早くインターネット経由の検索と予約が出来るようにして欲しいなり。
えいごにいったら新米ふた月目の先生がなんとなくおずおずと寄ってきて「僕のクラスはどーお?」と訊くので「どういうことを訊きたいの、このクラスの内容が難しいとか易しいとか、それとも、先生のクラスが楽しいとか?」とちょっといじめてしまった。しかし「おぉー、このクラスは易しくはないよ!イギリス行ってきたんでしょう?このクラスの生徒ならたくさんしゃべれたはずだよ。イギリス出身の**先生がいるから(新しい先生)紹介してあげましょう。」と話があっちの方にずれてしまった。というか、逸らしたなオマエ。でも今日の授業は努力の跡が見えたから許す。
その英国人の先生に「キングズクロスの近くに泊まった」と言うと「おお、キングズクロスね。どうだった?」とニヤニヤ。「うーん、ちょっとアブナイんだって?」旅行社に宿を取ってもらったあとでガイドブックを見ると、要注意地域の一つに上がっていたのだ。夜は気をつけなさいとか。すると先生笑って「アブナイんだよ!宿を決める前から知ってたの?」「いや、知らなかった」「そうだろうね!」と言うんだけれど、何が実際アブナイのか、訊こうとしたら授業開始の時間になってしまって訊けなかった、残念。宿はいちおうマトモなホテルだったし、はす向かいにはホリデー・インもあったし、どうと言うこともないようには見えたが。ただアラブ系の住人が多いように感じた。そのこともある?
『海辺のカフカ』続き。猫さんがいっぱい。夢と想像力の話に?『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に繋がるのか。
うちの職場にも、例の質量分析計が入っているのや何やで、担当者に取材があった模様。「そんなことなら田中さんにサインもらっておけばよかった」と担当者は笑っていた。
職場で、ちょっとある人の論文が海外メディアに「将来難病の治療に役立つ可能性がある」と取り上げられた、と思ったら、もう、その病気を抱える人から「ぜひその薬で治療したい」というような問い合わせがいくつか舞い込む。まーだ、薬になるかも知れない化合物が見つかった、つうだけだってば。しかし「助けると思って教えて」なんて書いてあると、どう対応したものか躊躇してしまう。事実を書くしかないのだけれど。それはもうノーベル賞なんか取ったら、電話に取材にメイルに面会に大変だろうな。
『海辺のカフカ』は、昨晩たしか上巻2/3位をすぎたあたりでの印象だったのだが、そのあと本当にそういう展開に。だいたい、あからさまにそう書いてあるし。いま下巻1/3あたりにさしかかっている。『ダ・ヴィンチ』が村上春樹特集だというから、読み終わったらやっぱり買ってこようかな。しかし『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』から見ると、ずいぶんとタッチはソフトになっていることよ。今思うと『世界の終わり〜』はずいぶんとんがっていたのだなあ。決して私は村上春樹「ファン」だとは思っていないが、振り返ってみるとフィクションはちゃんとフォローしていて、やっぱり読むたびに非常に引きつけられ心をかき乱される。
今日はわりに早く帰宅。『海辺のカフカ』を読み終えたので何か書こうと思ってぱそに向かったが、ちょっとだけ、と思って旅行の覚えの続きを書き始めたら(忘れないようにちょっとずつ、自分の心覚えとして書いてる)はまってしまい、しょうもないことをずらずら、際限なく書いては、楽しかったなあ〜と久しぶりにこまごまとしたところを思い出していた。でもってカフカになかなかたどり着けなかった。
語られ方の似ている『世界の終わりと〜』が非常に重い、押しつぶされるような閉塞感で終わったのに対し、カフカのほうは、すっきりとキレイになった気持ちで本を閉じることができる。それはもう、下巻の終わり1/3位からは特に、はっきりとどの方向に行くのかは見えたのだけれど、決して面白さが減ずることはなく、主人公たちはそれぞれに自分の役割を果たし終え、入り口を閉め、いわば往きて還りし物語のように、いわばわが家に戻ってくる。けれどそれは閉ざされた円環構造ではなく、一種の4次元的螺旋構造だ。村上春樹自身のこれに至る行程そのもののアナロジーのように感じる。これまでの小説作品をいちおう一通り読んできた者としてはそんな感慨があるのだけれど、これ一作を初めて読んだ読者はどのように感じるのだろうか。彼の小説としては、『世界の終わりと〜』などから見ればあまりに分かり易く、文章自体も彼の特徴を失わずしかもより平易な印象を受ける。そこが村上春樹初体験の人はどうかという危惧を感じる点でもある。彼は大きな螺旋を描いて階梯を登ったのだろうか。でも癒しとか言わないでね、「癒し」は自発的な力の表れである「癒える」があってのことなのだから。蛇足だけれど、大公だろうが何だろうが、ルビンシュタインは絶対おすすめだからね。ベートーベンさんも大事だけれど、ルビンシュタインさんあってのこの小説での「大公」だと思ってる。
くっきりと晴れた気持ちの良い日である。なんだかウィンダミアを思い出す。朝晩は吐く息が白い程寒かったが、空気が澄んでいて乾燥しているのが気持ちよく、輝くばかりの天気に、老いも若きも女性はやたらにキャミソール、タンクトップ姿だった。
次男は誰とも遊ぶ約束をしていず、仲のよい子に電話しても「今日はだめだって」(そりゃそうだろう、三連休だもの、さもありなん)と、くすぶっている。せっかく天気も良いから昼から小石川植物園でも連れて行こうかな、と思ったが、彼は学校で10日に生活科見学に行ったばかりだ。うーん、それじゃ、上野動物園に行こう!と誘う。そろそろ用意を…と思って腰を上げると同時に、次男に電話。「○○ちゃんと1時から学校の門で待ち合わせ!」とのご報告だ。えー、せっかく久しぶりに一緒にお出かけと思ったのに〜、なんて冷たい子でしょう、しくしく。次男にフラれて、午後は掃除(=本の片づけ)になってしまった。
昨晩から気分転換に加納朋子『沙羅は和子の名を呼ぶ』を読んでいる。文庫版の表紙は、一見、林明子の絵かと思ったが違った。作品は、ちょっと古めかしいが好感の持てる真摯な書きぶりだ。村上春樹の直後ではやや分が悪くて気の毒ではある。>後刻読了。いつも、きちんとしたオンナノコと言った雰囲気で、ごく日常のささいな出来事を、アレッとつい口に出して言ってしまうようなオチのついた気の利いたミステリ作品に仕上げてしまうのが加納朋子だ。しかしこの短編集はそれとは違って、はっきりと異世界の侵入が描かれている。表題作は中でも分量が多く、沙羅や和子(わこ)と言った名前がかもし出す雰囲気や次第に深まってくる主人公が感じる違和感など、良くまとまってはいると思うのだが、仕掛けはあまり目新しいとは感じられない。こうした趣向を楽しむにせよ、「フリージング・サマー」「商店街の夜」「オレンジの半分」などのほうがやはり彼女らしさが出ているものとして面白く感じられた。『月曜日の水玉模様』や『ささら さや』が未読なので、近いうちに読もうかと思った。
今日片づけをしていて発掘した高楼方子『ココの詩(うた)』を読み始めた。節操ないなあ。後ろに控えているのはサトクリフ『辺境のオオカミ』、これもまたブリテンとローマの話。やっぱり『太陽の戦士』以下、読み返したいなあ(う、「欲しいなあ」と書くところを、今日の片づけを思い出して思いとどまった)。
ううTVで「ゴジラ」なんか見てしまった。どこかで見たようなシーンが満載。劇場の大画面で見たらあのデカさは迫力あっただろうね。太平洋で出現したのに、何でいきなりニューヨーク?と言ったら、長男が「なんでもアメリカの映画ではニューヨークに上陸することになってるんだよ!」はいはい、訊いちゃいけないことだったね。日本のゴジラの焼き直しか何か、とにかく東映ゴジラに関係が深いのかと思ったら、単に最初の目撃者である日本人が、怪物トカゲを指して「ゴ、ゴジラ…!」と言ったというだけじゃないか。バカにされてる気がする。元祖ゴジラへのオマージュとか言うか?ジャン・レノも、いつもいつももっともらしい顔をして同じような役をしなくてもよろしい。総じてキャストにも魅力がなかった。
娘と買い物に出る羽目になり、途中娘が新開店の服屋を見に行っている間リブロで時間をつぶす。この連休中は大きい書店に行く予定がなかったためオンライン書店に注文していたD.W.ジョーンズ『ダークホルムの闇の君』がたくさん平積みになっていたのを、くやしい思いで横目に見る。帰宅してもまだ届いていなかった(;.;)
『ココの詩(うた)』(リブリオ出版>書影が見られる)は面白い!お人形とネズミの話と聞いていたので、うーん高楼方子とは言えあんまり食指が動かないが…と後回しにしていたのだが、いやいや、これは面白い。高楼方子(たかどのほうこ)の文章はいつもながら非常に自在で伸びやか、それに次々炸裂する彼女のユーモアはもうツボ。それはそれは笑ったりほろっと来たり、ああ〜高楼方子さん大好き!現在1/3くらいの所。千葉史子(実のお姉さん)の挿し絵がまたピッタリである。笛ならぬハモニカを吹くネズミ・ヤスをはじめとするアルノー川のボート乗りのネズミたちばかりか、ヒデヨシにどこか似ているデブ猫や、本好きのヤセ猫など、猫たちもたくさん登場する。彼らは、ウフィツィ美術館に出入りするのだ。ああうらやましい。そう言えば、フィレンツェが舞台であることや、猫、お人形が出てくることなど、ちょっとだけD.W.ジョーンズの『トニーノの歌う魔法』に似ているかも知れない(トニーノの方はフィレンツェに隣接する架空の小国カプローナが舞台)。高楼方子には最初『時計坂の家』などの年齢の高い読者向きの本で出会ったので、低年齢向きの読み物や絵本などにはそのまま出ている彼女のユーモラスな面にはあまり気付かなかった。その後講演会で絵本『ぼんぞうののぞき玉』を読んでくださったのを聞いて、そうかあ!そういうお人柄だったんだ!と納得して一層ファンになったのだが、『時計坂の家』などもそういう目でもう一度読んだら、きっと二倍楽しめるのではないかと思っている。
また今日も上天気。暑い。せっかくのこの好天がもったいなかったが、意を決して美容院に行く。ひえ〜半年ぶりだ。そのわりに早めに終わり、久しぶりに首から上が軽くさっぱりした。中味もさっぱりしたいものであるが、そちらはどうしたものか。
『ココの詩 』続き〜読了。なぜこんな充実した内容の作品に「詩(うた)」などとありがちな題を付けたのか、かえって作品の真価を自ら貶めるような題なんじゃないか、などと訝しく思っていたのだが、ちゃんとそれなりの訳があった!高楼さんあなたは素敵です。高楼方子ファンでも多分この作品を読んでいる人は少ないのではないか。ぜひこの作品を読みましょう!これは1987年出版で、多分彼女のごく初期の作品と思われる(資料がないのでよくわからない)。フィレンツェのある町のお人形・ココは、ふとしたきっかけで小さな女の子になり、ネズミのヤスに出会う。ヤスは「やくざな」ネズミだが、ココにとって不思議な魅力を持つ。名画の贋作事件に巻き込まれながら、ココはヤスにだまされてもだまされても、なお信じずにはいられない。そのあげく、仲間を裏切り、ヤスを信じた気持ちを裏切られ、ついに吠えるように泣く羽目に陥るが、それも誰のせいでもなく結局は自分が選んだことのためだったのだ。登場ネズミの一人が言うように、贋作の絵もたまには本当の絵のように、あるいはそれ以上の命を持つことがある。ココと、贋作を暴こうとする仲間たちは、そんな絵の力に文字通り引き入れられてしまうが、じつはそこでもココに相当する女の子は、同じ過ちを既に犯しており、その結果大事な人たちを失わなければならなかった。現実に戻ったココは有り難い「忘却」により一旦は救われるに見えるが、「始まりが残った」という二重の意味を持つ言葉のもとで、また、この業の輪が回り始めるのだ。一見水彩画のように淡くぼかされて終わるかにも感じられ、ややもすると物足りないように見えさえもするエンディングだが、じつはこれは深く怖い、ぱっくりと口を開けた陥穽を示唆しているに他ならない。『時計坂の家』でも安房直子ばりの怖さをかいま見たが、すでにこの作品で彼女は同じものを示していたのだと感じた。ご自身絵を描かれる方だけあって、絵に対する思い入れの深さがひしひしと感じられる作品でもある。それにしても高楼方子すごい。またぜひ長編を書いて欲しい。
『ダークホルムの闇の君』が届いた。これも、昨日の『アンブラと4人の王子』も、佐竹美保の絵である。売れっ子だのう。『ココの詩』の次はダークホルム。何だか急に、読みたいと思わせる本がたくさん目の前に出てきた。自分自身本に集中できない状態からも脱したのだろう。
このところ、野尻抱影(実にいい名前だ)の『星三百六十五夜 秋』を毎日少しずつ読んでいる。9月から11月まで毎日の日付がついていて、1日分およそ1頁内外の短いエッセイであるが、題材が星、星空だけに、澄み切った水晶のしずくのような、天の川から零れてきた命を持ったクリスタルのような凛とした文が、懐かしくも素晴らしい。soraministは皆読むべし。
討ち死に。先日娘がツモリでお高い冬物(彼女にしては)をお買い求めになった際、ついつい私もスカートを買ってしまった。今日それをはいていたら、えいごのクラスメイトの大学生が「それ、ツモリのですよね!私のバイトの隣がツモリのお店で、店員さんがはいてるのを見て、可愛いなあって思ってたんですぅ〜」と言う。一目見てわかるのか。気に入ってるし、職場でも「素敵、そう言うの欲しい」と誉められたけれど、ちょっと複雑だぞ。まあ全身ユニクロって日も少なくないから、それと似たようなものか。それはともかくツモリってもうちょっととんがってたように思うのだが、今回見たらたいしてそうでもなかったし、値段のほうも少しお安くなったのでわ。
『ダークホルムの闇の君』ジョーンズらしく、ほんっとに中身が濃い。ダークがどんどん窮地に追い込まれて、深い疲労へと落ち込んで行く。登場人物がおおい!登場人物表をコピーして時々見ながら読む有様。
この後は、『望楼館追想』(<原題Observatory
Mansionsの響きが好き…実際に読んだらどうだか?)だの『アンブラと4人の王子』だのが続き、予定していた『辺境のオオカミ』はちょっと後回しかも。
井上直久さんの連載が10月号から始まっているというのに買いそびれていた『MOE』の、11月号を目にして慌てて買う。バックナンバー捜さなくては。娘が「有名になっちゃったね…」と感慨深げに言う。そうなのよ有名になっちゃった。でも、ご本人はちっとも変わっていないと思う。描きたいこと、やりたいことがたくさんおありになって、楽しくてたまらないようにお見受けする。これは喜ぶべきこと。
職場のお兄さん。仕事に関連して、あれこれ、必ずしもしなくてもいい議論をあえてしているのは、コミュニケーションの手段でもあり、頭の体操でもあり、ゲームでもあり、もちろん問題点の整理でもあるのだけれど、バカみたいに熱くならないでよね。熱くなってもいいけど、自分の論が通らないからと不愉快になって、感情と声を爆発させるのはやめようよね。でもそれはおさめてもらって、とにかく一応視点の違いとか、前提の違いとかがわかったでしょ?これからの問題解決に有益だったでしょ?それを次の朝になって「昨日は虫の居所が悪くて、感情的になって済みませんでした」とか言うんじゃないよまったく。諍いという次元に持ち込んだら終わりだってば。全部パアになっちゃう。せっかく「議論」という枠内に収めたんだから、それを言い出すのはルール違反です。
午後から山の上ホテルにて姫川みかげさん迎撃オフ。にじむさん以外は、おのぼりさんよ〜。話題の本の話題、その実物、装幀と実用性、英会話の不自由さ、等々。
河岸を変えて、水道橋の台南ターミー麺で、早夕飯と景気づけ。何の話をしたかすっかり忘れた。6時前に皆さんはださこん会場に向かい、悲しいかな私は諸般の事情で水道橋駅でお別れ。BANANAさん、ハグしてくれて嬉しかったよぅ。
『ダークホルムの闇の君』はどんどん面白くなってくる。DWJは、どちらかというと説明や前置き抜きでいきなり物語世界にボンと投げ込まれるので、最初はちょっととまどうが、一旦はまりこんでしまうと抜けられない。グリフィンたちが、きょうだい達のことを「兄ちゃん」とか「姉ちゃん」とか呼ぶのがもうピッタリで可愛いんだから!羽根のある馬の親子、ビジンとキレイ、それからお爺さんの竜のウロコは、原作ではなんて言うのかな?南の皇帝や北方の王、馬姫たちが集まってきてダークに文句を言うところを過ぎた。この皇帝や王、大好き。ドワーフやエルフの描写はまるでLOTR。すると馬姫も?まっさかー。
『惑星ミマナ』は、最近ますむらのサイトにご無沙汰しているせいか、出ているのを全然知らなかった。1巻目の後書きだけ読んだのだが、大体同じ世代に属するますむらの、子どもをめぐる文章に打たれる。全部引用したいのだけれど、そんなことはせずただ『惑星ミマナ』を紹介するに止める。あなたも少年というだけじゃなかったのよね>ますむら〜ごめんねどうしてもますむらさんとかますむら氏って感じじゃないのよね。
久しぶりに、トリトンスクエアにハープコンソートを聴き&見に行く。今日は日本公演の最終日とのことで、そのせいか、とくにダンスのスティーヴン・プレイヤー氏が、いつもにも増してテンションが高く、「いつもの3割り増し」(by デデ兄)というような動きの多さだった。そのステップ、ジャンプは何だか神がかっている感じ。パーカツのお兄さん(ひげをみっしり生やしてちょっと大人っぽくなった)との掛け合いも、いつもが掛け合い漫才ならきょうは丁々発止、これでもかという雰囲気でぐっと楽しくなった。休憩前の曲では、ステージを飛び降りて客席を回りながらギターをかき鳴らす。そこここで足を止め、客をじーっと熱い視線で見つめながらひとくさり演奏するので、思わず視線をそらす人あり、照れ笑いする人あり。今日は私の所にもしばし愛のメッセージを(違うか)。今日はプレステージとしてレクチャー・コンサートがあり、プログラムとして取り上げられているスペイン〜メキシコの舞曲を中心に解説された。いつの舞台も抜群に楽しいのは確かだが、ここしばらくの来日では同様のプログラムのバリエーションが続いているので、そろそろちょっと趣向の違ったプロも聴きたいものである。また今回の来日では、大事なメンバーのひとりだったガンバのヒレ・パールが抜けてしまった。彼女の存在は、ステージに絵画的美しさを与えていたことはもちろんだが、ガンバの腕も実に確かで、深みのある、どこか哀調を帯びたガンバの歌わせ方が全体に奥行きを与え、ただ一つの擦弦楽器として潤いを加えていたことなど、重要な役割を持っていた。同じガンバの新しいメンバー、ラールハーヴェンは、外見的には彼女とちょっと似たような雰囲気ではあるものの、やはり演奏面でパールのような音の太さがないため、いくぶん物足りなさを感じた。他のメンバー達は来日の度に確実に良くなっているので、彼女もまたぐんぐん成長して行くのだろう。そう言う意味ではローレンス=キングは若い人を育てることも上手なのかも知れない。
『ダークホルムの闇の君』読了。以下走り書き。誠実なダーク、いいなあ。ぐちゃぐちゃの大混線かとおもいきや、一挙に大団円に向かい、スカッと終わる。DWJらしいひねくれ方だ。確認したら書かれたのは98年だったので、馬姫のアレは危惧だった。でもドワーフの名がガラドリエルだもんね(^_^; 皇帝はタイタスだし。しっかし、実際に人がばたばた死ぬ。グリフィン達も、人を殺す。たしかにダークだよ。
『アンブラと4人の王子』読了。小公国ベルガモットでのびのび育った若い公女アンブラは、隣国エバーニアの、幼なじみの4人の王子たちから様々な影響を受ける。音楽だの、芝居だの、政治だの、外交だの…。のめり込むたちのアンブラだから、その興味が変わるたびに公国はてんやわんや。公国を傾けようというわるだくみもあるが、気のいい側近達のおかげでなかなか功を奏しない。アンブラがお年頃になった時、4人の王子達はそれぞれに求婚する。さて、アンブラの返事は?登場人物の名前がそれぞれ植物やハーブから取られていて、フランシス・ベーコンの「庭園について」という文が最初と最後に引用されて全体の調子を作っている。もとの植物は大体わかったのだが、ペティグレインとパッチョーリ、肝心のアンブラとクロービスがわからない。公国を引っかき回す役をするネローリが、じつはオレンジの花のハーブを指す名前なのはちょっと意外というか、じつはいいヤツだってことか。ちなみにベルガモットはアールグレイ紅茶の香り。せっかくだから名前についてのちょっとした解説があってもいいのに、と思った。
あらすじにそこそこ肉付けをしたものを、性急に作品として仕立てたような感じで、書き込みが足りない。感情や、機微、雰囲気などは、説明はされるが、あまり「語られ」ない。せっかく美しい音楽や詩、庭など、また楽しいキャラクター、愛すべき脇役がたくさん出てくるのに、話のふくらみが足りず、どこまでいっても詳しいあらすじを読んでいるかのよう。行きつ、戻りつ、話がふくらむかと思うとまた別のお話になって行くので、消化不良だ。この材料を盛り込むなら、もっと肉付けをし、お話として十分作り込めばずっと楽しいものになったのに。もしメッセージを優先するなら、逆にぐっと刈り込んで、シンプルなものにした方がはるかにすっきりしたと思う。中途半端さがぬぐえずとてももったいなく感じる。アンブラが音楽にのめり込むところなど、豊かで美しく、とても魅力的なだけに残念!またクロービスのエピソードがもう少し強ければいいのになあ。アンブラも好意的に描かれているが、結局性格が何だかまとまりがないので、主人公としてはちょっと弱い。とは言いつつ、それなりに楽しいのは間違いなく、お話がどこへ進むのかとついつい読み進んでしまい、あっという間に読み終わった。佐竹美保の絵もいつもながら、元気なアンブラにはピッタリだ。
ふかふかの表紙が話題の、『熊の場所』の表題作のみ読んだ。全く予備知識なしに読んだが、この透明感と、空や風や光を繊細に受け止める感覚が独特だ。どこか芝田勝茂を想起させる。乙一ばりに次第に微妙に壊れて行くのかと思ったが、この健康な感覚がしっかり骨組みを支えているように感じた。あと2作はどうなのか、楽しみ。
続けて『マットの魔法の腕輪』へ。これは面白い!ちょっとスワンの感じだ。ああいい具合。1/3を過ぎたところ。今のところ大変気に入っている。
娘が、タイだベトナムだと俄然海外旅行づいてあれこれネットで検索している。暇がある時はお金がなくて、お金がある程度自由になるようになると今度は時間がないのよ〜。私の学生時代はカリキュラムがびっしりで、バイトどころじゃなかったから、暇もお金もなかった(;.;) 先月の旅行は余計なお金は使わない主義で行ったが、今日カードの請求が来て、やっぱりそれなりに使ったのよねと思う。でもちょうど予算内ということで、ツアーに比べて高くはなかった模様。
「もうダメだ…!」と心でつぶやきながら目を閉じたところで記憶が途絶え、つぎに「ここはどこ?」状態でぽっかり目が開いたら朝の4時で電気が煌々とついていた。これでもう6時間寝たので時間的には起きても良かったのだが、目がつぶれそうでおまけに結構冷え込んでいたので、毛布と夏掛けと2枚重ねて暖かくしてまた寝る。その次起きたら7時を回っていた。ああっ、もう、今日こそえいごの予習をしようと思っていたのに!
『マットの魔法の腕輪』は途中からやっと「魔法の腕輪」が出てくる。まあたしかに原題そのままではわかりにくいかも("A Red Heart of Memories")。舞台装置はかなり好きで、登場人物もいい感じ。この腕輪、というか「黄金(ゴールド)」が何と言っても魅力だ。
昼休みに、ほんの少しだけ残っていた『マットの魔法の腕輪』読み終えた。全体的な背景や人物、魔法、雰囲気はとても好き。けれども、なんだかいまひとつ焦点が定まりきらず中途半端な印象も拭えない。魔法的側面と、登場人物の抱える傷の問題とが、どこかしっくり来ない。主人公マットが出会う、精霊に導かれて物や人をなおしながら放浪するエドマンドは、結局、自分ではそれと知らずのちに自分自身をも救うことになる魔法の種を、(精霊の力に助けられて)蒔いた、ということなのだろう。はからずも前後して読んだ『熊の場所』に言われていたように、「恐怖を消し去るには、その源の場所に、すぐに戻らねばならない」を彼らは実践したというわけだ。またエンディングのスーキーの解決は、一見すてきだけれど、彼女の分だけおとぎ話的にお話が閉じてしまったように感じられて、「それはないだろう」と思った。
単純にマットの持つ「もの」と語り合える能力や、エドマンドが発揮するものをなおす力、彼が知らずに作り出したユニークな魔法「黄金(ゴールド)」などはとても魅力があり、しかも無垢なので、彼らが抱える傷や、「赤い少年」などと相容れないものを感じるのかも知れない。マットが様々な「もの」や「黄金」と語り合うその感覚は、不思議と親しいもののように感じられ、その描写を楽しんだが、それだけに全然違う作品として生かして欲しかったように感じる。エドマンドの妹アビーのところでどんどん生まれるこの「黄金」は、どうなっちゃうんだろうか、気になるところ。
また文庫のカバーの絵は、それ自体は別に悪くないのだが、ことこの作品のカバー絵としてはどうかと思う。
あいまに『臨機応答・変問自在2』を拾い読み。電車の中でついニッコリしちゃう。
『イリーガル・エイリアン』へ行く。ああ、どんどん数日前の予定からずれて行く。そのまたあいまに『惑星ミマナ』1を終わって2の途中。
どうせいつか買うんだろうからと、ついフラフラと予約ボタンを押してしまった話題の書…。「ママ、いつ買ってきたの?並んですごいんだって?」と娘。「オンライン書店…」と小声でお返事する。いつ読むか(読まないか)もわかんないのにわざわざ予約して買うなんて、殆ど恥のような気がする。訳者がとんがり帽とマントを着て、書店店頭で朝から販売に一役買っている写真を見て、これまでも余り好感が持てないでいるのに輪がかかった。娘曰く「回りではハリポタ好きじゃない、面白くないっていう人いっぱいいるよ。映画で見たから覚えてるけど、そうじゃないとこはもう覚えてないよ。ムシがいっぱい出てくるのがあったよね、予告で見た」げー、映画のハリポタ2では、例のナメクジ吐きちらしが出てくるのかー。俄然見る気なくした。
『イリーガル・エイリアン』は昼休みまでに1/4くらい。ページを開くや、「でかい字!」と声に出してしまった。文庫版の紙面にあの大きさの活字は、どうもバランスが悪くていけない。大きければ読みやすいか、というと決してそんなことはないのだけれど…(と、まだ言っていられる。大活字様々と言うようになるのはいつの日か)。表紙のエイリアンはなかなか可愛い。
『ドス・アギラス号の冒険』は、リブロポート版からの改版で、大きく横長だったものが、実物を見たら予想よりぐっと小さい182 x 128mmというものになった。文も加筆され、また絵も新しいものが入ったそうだが、旧版は実家なのでまだ見比べていない。リブロポート版は、絵を見るには良かったがそのぶん本文を読むには最適というわけではなかった。その点この新しい版は絵本というよりも普通の本らしいイメージに変わり、文を読むのには良くなったと思う。けれども、見開き2ページの文と、また見開き2ページの絵が交互に繰り返されるという作りなので、絵にはすべて真ん中にとじ目がはいってしまい、見にくいこと甚だしい。せめてこの倍の大きさで、絵にとじ目が入らないようにして欲しかった。手に入りやすくなったという点だけでも評価すべきか。どうせなら絵を動くようにしてくださ〜い>たむらしげるさん
ますむらひろし『惑星ミマナ』1〜3を読み終えた。自分の惑星を手に入れた少女ミマナは、ロボット達と開拓を始めるが、例のごとく不思議な生物が出てきて、ミマナの記憶が実体化されたため惑星はまたもやネコだらけになってしまう。3巻通して、いつもと若干ベクトルの違うメッセージが込められている。作品との間に、いつもより距離が…いわばオトナの視点が勝っているとでも言おうか。でもやっぱり大好きなますむら・ワールド。
『イリーガル・エイリアン』一挙に読了。夕食後読んでいて、他のことをしようと立ち上がって、また移動した先でも立ったまましばらく読みふけっていたので、「何で立って読んでるの?」と長男に声をかけられる。いかにもソウヤーらしい軽さ、ひねり、場面転換のうまさが満載だ。すわ、ソウヤー版ピギーか?私は法廷ミステリは余り得意でないので、法廷シーンが始まってしばらくは、これが続くのかとげんなりしかけたのだが、気付くと大幅にページが進んでいる。真相がわかってきたところで弁護士のデイルが言う「この変態野郎め」に笑った。おしまいでハミルトン『時果つるところ』を思い出してしまった。あー何しろ「惑星連合」だもんね。
デュッセルドルフに月曜から出張していた連れ合いが帰ってきた。お昼を作ったり、洗濯物が山のようにあったり、めんどくさいことこの上ない。しかし殆どおみやげらしいものを買ってこなかった私たちに比べ、マメである。バイオリン型のパッケージに入ったチョコレートとか、「デュッセルドルフで有名なお菓子やといえばここ、というところの」お菓子とか。でもイギリスって、こういうおみやげらしいおみやげって、あんまり目に付かなかったのよねえ。紅茶って言ってもティーバッグばっかりだし、値段を別にすれば日本にもいっぱいあるし(あ、ラプサン・スーチョンのティーバッグはめずらしいかも、と、買って帰ったが、家ではすこぶる評判悪くて私しか飲まないという哀しさ)。2012年のデュッセルドルフへのオリンピック誘致運動のピンバッジというのもおみやげの中にあったけれど、少額とは言えオリンピック誘致運動などにお金を落とさなくてもいいのに、と内心では思った。
つい『夏化粧』に手が出る。広報誌『本の話』の前号まで連載されていたのが、いきなり連載打ち切りと同時に加筆して単行本化というアナウンスがあったが、こんなに早く出るとは嬉しいこと。連載部分は全体の約40%くらいと見える。まるで「純文学」みたいな清楚な装幀だが、帯の文字が断然気に入らない。曰く
「誰よりも勇敢で、誰よりも愚かな
シングルマザーの物語
母は子に何を願うのか−
南の島のせつないファンタジー」
確かに主人公の津奈美は、シングルマザーだし勇敢だし、何を愚かというかにもよるが、見方によっては愚かと言えるかもしれない。しかし、なぜこれらの所に力点を置いて帯に載せるのだろう。白い表紙が汚れないようにカバーかけてるからもはや見えないけれど。表紙自体は、カバーを掛けてもその下に美しいものがあるということが感じられるような、すっきり気持ちの良い美しいものだ。いま2/3くらい。サマンサ・オルレンショーとどこか繋がっているらしい世界一速い女パトリシアと津奈美が大立ち回り。やっぱりサマンサと遠い親戚らしい北崎倫子が登場してきた。
密かにファンだった山本夏彦が亡くなったとのこと。87歳では仕方ないかなあ。もうあの名文?は新たに読めないのか。
『イリーガル・エイリアン』のオチはどうしてもパロディに思えるのだけれど、だとしたら何の?
テーブル表面がガタガタになってしまったので、連れ合いがしばらく前から替えを買いたがっていた。先週、目をつけていたものを注文、きょう午前中届く。朝一番に配送時間の連絡があるという話だったのに全然電話がなく、問い合わせてみようという矢先にいきなり配達。日曜の朝だから、そりゃもう大変(何がだ)。日当たりがやたらに良いため、日光とその熱で天板が傷んでしまうとは、日中不在にしているものだから、5年前にここへ引っ越してからしばらくは気付かなかったのだ。こんどこそ朝出かける時はちゃんとカーテンして気をつけよう。連れ合いはブラインドにしたくてたまらないのだが、私はどうも気に入らないのでウンと言わない。どうも無機的だし、さわった時もカチャカチャ言うし。風合いがまあまあ許せる木製や紙製は高価だったり重量がありすぎたり。それにどちらにしてもあれを掃除するのはいやだ。って、それが一番の理由かも。
午後連れ合いと日用品の買い物ついでにトイザらスへ行って(次男はどこかへ遊びに行って不在)、ガンダムシードのプラモデルを買う。どこかなあ、あるかなあと捜していたら、父子がやってきて近くの店員さんに「昨日発売とかいうガンダムのプラモデルありますか」と訊いた。店員が「さあ…どんなのかわかりますか?広告か何か?」6歳くらいの男の子が「ガンダムシード…」それでも首を傾げているので、横からつい「私もまさにそれを捜してるの。TVで上戸綾が宣伝していて昨日発売っていうプラモデル」と言ったら、「あ。ちょっと待ってください。これかな?」と、棚の上の方に積み上がっているのを取ってくれた。さあこれでサンタさん完了。つまり、次男には内緒ってことだ。
長男がDVDを借りてきて、次男が「さ、一緒に見よう!」と言うので、しょうがないなあ、と「スパイダーマン」を見る羽目に。でも脳天気な私にしては珍しく、これはダメだったのだ。まず登場人物(俳優)がどれも素敵に見えなかった。またTV画面で見たせいか、スパイダーマンの動きがゲームみたいにちょこまかしすぎ。内容もマイナス方向のベクトルばかりで暗ーくなってしまい、見ていて気分が良くない。同じような場面のくりかえし(災難が起きるとスパイダーマンが助けに現れる)が多すぎて、盛り上がりに欠ける(盛り上がりが薄まってしまう)などなど。途中で飽きるわ、見終わってもすっきりしないわ、で残念だった。バットマンはあんなに好きなのに。劇場の大画面なら、大きいというだけで楽しさはあっただろうとは思う。しかし、音楽は、あ、エルフマンだ!と思ったらやっぱりエルフマン(ティム・バートンと組んでいるダニー・エルフマン)で、これは良かった。しかしむしろ全く違う音楽の方があの映画には良かったかも知れないよ。
途中で置くことが出来ず、昨晩遅くまでかかって『夏化粧』を読み終わった。池上永一は自分自身若い母か。と思うくらいだ。それが作家の感性と腕か。津奈美が幼い息子にかけた七つの願いをタイムリミットまでに取り戻さねば、赤ん坊を失うことになる。神の裏をかくようにして陰の世界に飛び込むすべを知った津奈美は、そこから一つ一つ願いを奪い返してこなくてはならない。最後の願いはどこで見つかるか?池上ぃ、こんな終わりになるなんて思わなかったよう。そして民俗学者の正徳が求めていたニガイ石の謎は、このまま解かれないまま彼の頭脳の中に埋もれるのか?終盤一挙にカメラがぐっと引いて、地球的規模の視野になるのは、パガージマや風車祭と同じ。神様たちや、正徳が何とも良い。とんでもない産婆のオバア、こんな人物をよくまあ書きますね。物語前半はむしろ短編に見られるような雰囲気の、ぶっ飛んではいるが静謐さすら漂うものだが、中盤から次第にスピード感を増し、緊迫感にいたたまれなくなる。帯に勇敢という字を使ったことは許してあげよう。さて地下道に取材した作品というのはどうした>池上
"The Art of Kinuko Y.
Craft"
なんて綺麗なんでしょう!少女マンガ系の絵で、どこか拙さを感じさせるのだが、どうして見るページ見るページ、「きれい〜…」とため息が出るのだろう。この色彩、色調がたまらない。全体の暗さ加減は、ビネッテ・シュレーダーを思い出すのだけれど、もちろん絵はぜーんぜん違う。女性の顔はことに日本人形のようでもあるし、この中に出てくるドラゴンはいかにも東洋的な龍の顔をしている。これは確信犯?波津彬子のカラーイラストにも通じる色彩だ。絵本の体裁を取っているのだが、絵とのバランスを取ったためか、字体は細く縦長の装飾的なもので、たとえば
k
の縦線が長く上に延びているデザインであるため、意外に字本体は小さく、実質的にはペーパーバックくらいの細かさに近い。そのため本文(Mahlon
F.
Craftの再話)は読みやすいとは言えない。でも綺麗なので許す。
昨夜より『塵よりよみがえり』を読み始める。季節はまさにハロウィーンだ。中野善夫さんが触れて居られるように(10/25)、カバーを取った本体の表紙絵がきれい。セシーのところは、アニタを思い出すではないか。ティモシーが祈る!嵐、風、屋根裏、絹の翼。時として文が読みづらく感じる。前からこんな書きぶりだったか?
ゴーメンガーストのDVDをぽちっとな。しまった。これから節約しなくちゃいけないのに<海外が呼んでる。でも連中の学費とかあれとかこれとか(;.;)。じつはずっと以前まだ最初の方で止まったきり読んでない。
寒い!タオルケットと、毛布一枚では朝方心細い。そのためか、日中2,3回くしゃみ連発した。まだまだ木々の葉はご健在。ようやく長袖を重ね着するようになった、と思ったら、もう10月も末なのだった。10月くらいの陽気が続くのだったらいいのになあ。もう少し経ったら、自転車に乗るのに手袋が必要になる。
『塵よりよみがえり』、なつかしい「不気味な乗客」に再会。『10月はたそがれの国』だの『太陽の黄金の林檎』だの、なんと胸がドキンとする題名だろう。
職場のぱそがまた不安定気味だ。まだ買って1年半なのに。同僚のおねえさまのも不調らしい。東京都は全職員に1台ずつパソコン(多分ノートパソコン)を配っているそうだが、相当おやすいおねだんで入れさせたんだろうなあ(でもって、ある期間経つとその何千台だか何万台だかが一斉にボロになるのよね)。そのパソコンが皆標準でMS-Office装備で、多分大半がOutlook Expressを使うだろう。MSは東京都のお墨付きになり、ウィルスさんも蔓延する、と。
『塵よりよみがえり』読了、そのまま次男とバッタリ討ち死にする。ティモシーは生者の世界へ、麗しい人は新しい落ち着き先へ。このシリーズがこうしてまとまるのは確かに嬉しいが、反面、断片的にあちこちに秘かにちりばめられていること自体が、一族のありようそのままのようで、そちらの方が好きだったかも知れない。一冊の本という形に納まってしまったことは、そのままネフがティモシーによって行き着いた、これから長いこと待つことになる場所に落ち着いたのを、全くそのままなぞっているようだ。ブラッドベリがすらすら原書で読めたらいいなあ。
いつの間にか山茶花が咲き出して、晩秋を告げている。夜は寒くなると聞いていたが、さほどでもなかった。雨が近いからだろう。この後木枯らしが吹けば一斉に木々も葉を落とし、晩秋から初冬へと滑り込む。年々こうした季節の変わり目がはっきりしなくなってきている。
同僚の勤続25年のお祝い会と称し内輪で集まる。フラワーアレンジメントをプレゼントしたら、思いがけなかったらしく、いつも飾らないタイプの彼は大感激して声がうわずっていた。昼休みにこれを頼みに花屋へ行ったが、「いまの季節らしい花を」と言うと、さほど年配でもないおじさんが「ちょうど今さかいめだから秋らしい花っていうのがないんですよねえ、実ものも切らしちゃってるし」と頼りない答え。しばらくやる気なさげに見回して、結局「バラかユリくらいですかねえ」と言うから「いつでもバラじゃ、月並みだわね。菊の類はどうかしら」と訊けば「菊でいいんですかぁ??」仏様みたいだからということらしい。「じゃあ、このオレンジのバラをメインにして、紅葉を思わせるような色味で作ってみてください」すると「紅葉と言ったらこんなのしかないです」と奥からしょぼい枝ものを持ってくる。「(だーかーらーぁ、)紅葉した葉っぱを使うんじゃなくてぇ、赤とかオレンジとか黄色とか、そう言う色合いの花で、紅葉の山を思わせる色彩のを作って欲しいんです」と言ったらやっと「赤とかオレンジとか黄色とかで作ればいいんですね」と復唱して納得してくれた模様。おじさん、ほんっとに想像力ないねえ。あとで出来たものを取りに行ったら、多分店の女性が作ってくれたらしく、ちゃんと山の趣を取り込んだ、結構すてきなものが出来ていたのでほっとした(しょぼかったらどうしようかと思った)。おじさんそんな感覚じゃ繁盛しないよ。というか月並みなアレンジばっかりやっていてもそれなりに成り立ってるってことか。結局お中元、お歳暮の感覚じゃないか。情けない。
昼休み〜夜にかけてSFマガジン12月号ファンタジイ特集を掲載順に読む。ピーター・S・ビーグル「ゴッテスマン教授とインドサイ」、ジェイン・ヨーレン「七天使のいる家」を昼休みに、ジェフリイ・フォード「ファンタジイ作家のアシスタント」、グレアム・ジョイス「部分食」、マイクル・スワンウィック「クロウ」を帰宅後に。好きな順で言えば、ビーグルとジョイス、次がフォードとヨーレン、最後がスワンウィックだ。ビーグルのユニコーン話で思い出したが、雑誌『遊歩人』での浅倉久志の翻訳連載「ミクロの傑作圏」に、ユニコーンとノアの話があって、これが良かった(題名忘れた)。
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