2001 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 | Index |
2002 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
▲最新の日記|▼読了本|>bk1書籍検索
月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | 日 |
01 | 02 | 03 | ||||
04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
日中はずっと雨。銀行の窓口に行く用があり、仕方なく昼休み出る。金曜日だから混んでいるかも、と思いSFM12月号を持って出たが、何とかの法則らしくちっともそんなことはなくて、用事はあっさり済んだが、本は1ページくらいしか読めなかった。
一日、人の文章の直し。校正と言うよりむしろ編集に近いのだけれど、どこまで手を入れて良いのか悩む。これまでは単なる校正しかされていなかった種類のものが対象なので、指針がなく、手探り。しかもすっかり任されているならばもう少し私なりの裁量が出来るのだが、その辺すら曖昧なので困る。「文章自体を書き直すのは校正の域を出ている、書いた人の意図を尊重しろ」という同僚Aあれば、「この文章ではまったく人に通じないから、ばんばん直していいんだ」という管理職あり。あのさー同僚A、書いた人の意図を文で読んでわかるようにするには、テニオハや用語や、語順を直して意味の通る文に直すだけじゃだめな場合もあって、今日の人の場合は、文章全体に散漫に散らばっている材料を、何が一番言いたいのかくみ取りながら筋道ができるように並べ直して、肉を付けたり、ばっさり捨てたりしないとダメなんだよ。それで最も困るのは、実はこの筆者には「これが言いたい」という意図がない、ってことなんだ。あれこれ仕事の成果は書いてあるのだけれど、そもそも、これが言いたいんだーという焦点がないのが問題なんだ。だめじゃん。せっかく個々の結果は有意義なんだから、誰か彼の仕事に道筋をつけてあげることをすればいいのに。で、管理職よ、ばんばん直せと言っても、私も人のはしくれだから、この文章じゃ、直そうにも何が言いたいのかわかんないんですよう。
ちょっとだけ真面目に英語の勉強のふり。暗記しちゃうというのが一番の早道、というけれど、その暗記が苦手なんだってば。と言い訳ばっかりしてやらないと言うのがダメなのだよねえ。
昨晩「ばくらい(莫久来)」と言うのを初めて食べたが、おいしかった〜。ホヤとコノワタを和えたものだそうだ。ホヤでもナマコでも、形になっていなければ平気(ナマコの輪切りはダメ。半分に切ってあれば可)。センマイだって平気。もとがどんなだったか、想像しなければ……う。シャコはあんなにおいしいのに、「想像してみろ」と言われてその瞬間から食べられなくなってしまったのだった(;.;)
土曜というのに早起き。次男の小学校が、ン十周年を迎えて、今日がその記念式典なのだそうだ。いつもは8時15分登校なのになぜか今日は7時45分登校である。昨晩次男は兄姉のそれぞれに「あした早起きなんでしょ」といわれたと苦笑していた。でも実際にお客様を迎えての式典は5,6年生のみの参加なので、行ったと思ったら8時半にはもう記念品(記念誌、写真、校章の形の文鎮、紅白まんじゅうなど)を持って帰ってきた。1時間足らずの登校なのに5日は今日の代休になるそうで、次男は学童保育に行くためお弁当が必要だと気が付いた…うう。長男の鋭いご意見「すごいゆとり教育だ」。
午後から長男の保護者会。推薦受験は一部はもう始まっており、指定校推薦、一般推薦などの試験は11月中旬だ。いかにこのクラスがぶったるんでいるか、担任はあきれかえっている様子。「頼まれて高校に通っている」子が、やっぱり多いんだろうなあ。うちの子もどうなることやら(^_^;
終了後、ブックオフを経由して池袋リブロへ。いつも首を傾げるのは、幻想、SF、ミステリと並んでいる棚の付近に、『SFマガジン』が置いていないということだ。『幻想文学』や『ミステリマガジン』はこの売り場に平積みになっている。この頃は『ユリイカ』まであるというのに、なぜ『SFマガジン』は、こことは離れた雑誌(文芸誌)売り場まで行かないとないのだろう。と内心ぶつぶつ言いながらさまよっていると、髪を切りに行っていた娘(なぜにわざわざ代官山まで…)から呼び出しがかかり、彼女のバイト先近くの新宿南口テラスのスタバでお茶。ランバフラペチーノをオーダーしたが、席が外だったので、まだ冷え込みはさほどではないとは言えやっぱり飲み終わる頃にはブルブルっと来た。何と言っても今日の朝まだき、木枯らし一番が吹いたそうだから。テラスを通る人を見るともなく見ていると、「ママ、ホントに外国人が多いね!」と娘が何度も言うのに賛同する。目に付くのはやはり西洋人だけれど、スタバの客の中で、韓国系の女の子の脇にNHKの韓国語テキストをいっしょうけんめい見ている男の子、という図も。じつは私もえいごのテキストを持って歩いてはいるのだけど…おまじないにもならないみたい。寒くなったので、南口のアクセサリーショップAgateを見に行ったら、珍しく「高い〜、でも欲しい〜、買わないと後々後悔する〜」というペンダントを見つけてしまい、「悩むならあと5分にしてね、バイトに遅刻するから」と娘に言われつつ、しかし1分も経たないうちに「これ頂くわ」となり、どこか空の方を見て「サンタさんありがとう」と言ったのであった。決めてからふと娘の胸元を見ると、そこにはちゃっかり昨年の「サンタさんありがとう」が…。ばきばき。
昨晩から『望楼館追想』を再開した。きょうリブロで、ハリポタ並みに山ほど積んであったのはどういうわけか?
寮美千子『星の魚』、『父は空 母は大地 対訳版』読了。前者は、寮美千子が発信し続けているメッセージ「わたしはここにいます あなたがそこにいてよかった」のバリエーション(絵も寮美千子)。後者は、1995年に絵本で出たものの英語対訳版。英語と日本語をそれぞれ読むと、相補いあって意味深い。これは1854年にアメリカ先住民の首長シアトルが、アメリカ政府との戦いの末、一族を引き連れて居留地へと去っていくのに際して行われたスピーチがもとになっている。1854年!「インディアン」から土地を取り上げたことが、ほんの手を伸ばせば届くほどの過去に起きたことだったとは。この二冊とも、B6版で1000円と、値段も大きさもプレゼントに手頃だ。ふつう私は「この手の」詩画集みたいな、いかにもプレゼント用みたいな本は敬遠している。この二冊も一見それらと似ているように見えるかも知れないが、実際にはぜんぜん質が違う。言葉の凝縮度、思いの込め具合、作者の才能とそのメッセージの強さ、深さ。寮美千子、もっとたくさん読まれて欲しい。でも、この頃のアルジャーノン状態になっちゃうのもなあ。同時に刊行されたはずの『青いナムジル』は、目に付かなかった。
しばらく前から、ウォン・ウィン・ツァンのCD(「Fragrance」<リンク先から試聴可)が気に入っている。先日美容院でBGMにかかっている中で珍しくふと耳にとまった曲があった。有線ではなくてCDだと言うから曲名(CD名)を訊ねたが、店長は、自分で選んだとは言え200枚連奏だからどれだかわからない、と言う。その時はそれきりだったが、その日デパートでCD売り場を通るとまさにその曲が流れているではないか。これは買いなさいってことだね、と"Now playing"のそのCDを買った。それがこれ。実はかなり有名な曲("Asian Sea")らしいけれどちっとも知らなかったのだ。譜面もある模様。ドビュッシーっぽくもあり、イバラードのようでもある。イバラード好きの次男も聴くなり「あ、これ、イバラード?いい曲だね!」と言っていたが、今日の発言「あ、これ、いい曲だね。あれでしょ、パクリの曲」にちょっと冷や汗。私が、ドビュッシーだのイバラードだのに似ていると言ったので上の子たちが「パクリ?」と聞き返したのを、しっかり聞いていたのだろう。私の感覚としては「パクリ」という言葉には「盗作」とか「意図的」とか「悪意」とかいうニュアンスが感じられる。彼らにしてみれば「パクリ」という言葉にさほどの強い意味はなくて、「似ている」とか、せいぜいの所「まねた」くらいのことなのだろうが、でもやっぱり言葉に気をつけましょうね。
晴れの特異日。洗濯と布団干しと掃除。次男のおもちゃを大量に捨てる。「要るものはどれ?」「これは要る?」と訊く。「要らないものはどれ?」ではダメ。うーん自分にもそう訊くべきなんだけど(と本の山々を思い浮かべつつ)。次男は昨日、お友だち数人と公園でドングリ合戦をしたという。先日学校でドングリごまを作るためにドングリ拾いをしに行った時は、「これしかなかった」と、割れたのや帽子が取れたのを少しばかり持ってきたのだった。公園でも道路でも、責任感に溢れたお年寄りが、毎朝早くに枯れ葉もドングリも、地面を舐めたように掃き清めてしまうのだ。せっかく大きいドングリの木が何本かあって、毎年たくさんドングリを降らせてくれるのに。
「ママにぜひ食べさせてあげたい」と娘が言うので、午後から代官山へタルトを食べに。休みの日というと最近の彼女はたいてい遊びに行くかバイトかどっちかなので、ちょうど二人とも空いている時にそれっと行かないと延び延びになってしまうのだ。今日は恵比寿駅から歩く。娘達が生まれる前は、この辺、何にもなかったのにねえ。日向は暖かくお散歩日和だが、時折吹く風はもうすっかり冬の匂いだ。連れて行かれた先は「Mama Tarte」、散々迷ってぶどうのタルト、娘は洋梨のタルト。食べながらの話に、娘の友人がその母親と犬猿の仲だという。「想像できないよ」と言うので、一緒に旅行へ行ったり買い物をしたりはするけれども、それと同時にしばしば娘と意見の衝突や言い合いをしている私としては内心胸をなで下ろす。「一卵性母子」とか「友達親子」とか言われるべったりした母娘の関係では全くないけれど、ぶつかる部分の他に、まあそれなりにほどよい共通の場があるのかな、と。「超おいしいタルトを食べさせてあげたい」気持ちに応えて、支払いは私が(;.;)
どうせ出るなら文芸フリマとか、神保町古書まつりとか、行きたかったが、仕方ない。帰りに恵比寿駅Atreの有隣堂に寄る。『活字倶楽部 秋号』は、「絵本&児童書ガイド」につられて買ってしまった。上橋菜穂子インタビュー、加納朋子も。『天球の調べ』("The Music of the Spheres")は、チャールズ・パリサーや、マーサ・グライムズが誉めているとのこと。題名とこの二人の名に釣られた。「1795年ロンドン、娼婦殺し、天文学、暗号解読…」だそうである。『望楼館追想』は犬女の後まで。
比較的早く起きたので、午前中いくぶんゆっくり過ごす。なのに、懸案のクリスマスカードを書くのを忘れた。あれだけ次男に「サンタさんにはガンダムの○○と××と…をお願いするんだ!」を聞かされているのに。
午後、連れ合いが銀座に用があるというので、久しぶりに次男連れで出る。買い出しほかの用もあったため車で一旦池袋に行き、銀座までは地下鉄の予定だったが、池袋に着く前に次男が車に酔ってしまったので、連れ合いだけが銀座へ。良いお天気のもと、珍しく銀ブラ(死語)でもしようと思ったのに。ダロワイヨで何か買ってきなさいと言ったのにすっかり忘れているなあ>連れ合い。それにしても車に乗る前から酔っている次男は困ったね。
水道橋で長男と落ち合って、台南ターミー麺で夕食。先日ダサコンまえに姫川みかげさん迎撃オフをした際の1000円無料券が3枚あったので、しっかり使用しました>ありがとう皆さん。娘は元カレ(ということになっちゃったらしい)に、そのバンド関係の知り合いが上京するからと誘われて不在。どうしても思い切れないらしい元カレ、実は振ったほうの娘もきらいで振ったわけではないので複雑らしい。もう少しカレが大人だったら問題ないみたいなんだが。出会いの「時」があるから。「大学くらいになって出会ったんだったら、きっと結婚とかしてたと思うよ」と苦悩の娘(^^;;である。
結局三連休の三日とも、なんだかんだで外出し、出れば必ず本屋ではないか。で、ちっとも読書の方は捗らない、と本末転倒だのう。
朝のFM番組で、夫婦別姓について街頭インタビューというのをやっていた。賛成派の20代女性、「旦那さんに庇護されてるとか言うのがいやで、自立したいから、別姓には賛成」という。庇護されるのがいやなんだったら「旦那さん」なんて言葉をそもそも使うことからやめましょう。他に適当な言葉がないとか、単なる習慣とか、別に深い意味はないとか言いわけするかも知れないが、仮に吟味して使っているならともかく、「主人」とか「旦那」とかいう言葉がどういう体制を表しているか考えてみるがよい。小さいところから検証し直すことで意識改革は地に着いたものになるのではないのか。配偶者を指す言葉としては「パートナー」というのもきらいではないけれど、それより「連れ合い」のほうが好きだ。「パートナー」は結婚していない場合に使うことが多いように思う。「夫」は話し言葉にしては据わりが悪い。「夫さん」と言う人もいるが、何か変。「妻さん」は聞いたことないぞ。話相手の配偶者を指すのにも「お連れ合い」というのは悪くないと思う。別に私はさほどとんがった考えを持っているわけではないが、人から「ご主人は〜」と言われると一瞬神経過敏バリアを張りそうになる。若い人がむしろ誇らしげに「うちの主人」などと疑いもなく言うのを見聞きすると、保守と言うより反動だと思ってしまうのだ。とはいうものの、実生活では「主人なぞうちには居りません」と返答するわけでもないし、相応の年配の人など、相手に合わせて「ご主人」とか「奥様」とか、使いはする。ただ自分に関することを言う時は、今は絶対に主人とか旦那とは言わない、今はと限定したのは、何も考えていなかった頃は多少は言っていたということ。あーあ。
『望楼館追想』は追憶の時代に入る。登場人物はどんどん変さ(?)を増す。「望楼館」の前身である「偽涙館(ぎるいかん)」とは原作では何という言葉なのか、とても気になる。そう言えば土曜に代官山に行った時、いかにもobservatoryみたいな丸いドームを持った建物が目に入って、この作品を思い出した。
犬女ら、あたかも止まっているかのような時間の中に暮らしていた望楼館の住人たちは、新参者の介入によって再び時間が動き出したので、それぞれの過去が説明され始める。一見望楼館の鬼っ子のような、すなわちここに常識と合理性をもちこんだかのように見えたこの新参者の女性も、どうやら彼女なりに、奇妙な住人たちの仲間である資格を充分持っているらしい。
『青いナムジル』は、『スーホの白い馬』にでてくる馬頭琴伝説の、全く異なったバージョンをもとにした話だ。羊や駱駝たちの世話をするのが得意な、物静かだが歌の上手な男ナムジルが、兵役で西の地へ行き、そこで出会った娘と恋に落ちる。兵役が終わって故郷に戻る際に求婚するが、彼も彼女も両親を抱えているため、それぞれの故郷を離れるわけに行かない。代わりに娘はナムジルに一頭の馬を与える。ふるさとに戻ったナムジルは、やがて彼女への思いが募り、ある月の夜とうとうその馬を駆って西を目指す。するとどうだろう、いつのまにか馬の背には翼が生えて、彼らは夜空の中をひたすら西に向かって飛んでいたのだ。星月夜、モンゴルの草原の上をひたすら西へ西へ飛んで行く翼のある馬、何と幻想的な光景だろう。その背には、愛する女性への思いが溢れた若い男が乗っている。その翼が力強く耳元で羽ばたき風を切る音が聞こえる。ちょっと納得がいかなかったのは、彼女のもとへ行くのに普通の馬なら1ヶ月かかるのを、この翼のある馬は一夜のうちに行くことが出来るが、馬が嫉妬と怒りに駆られた別の娘の仕業で死んでしまったため、男はその後一生、恋人のもとへ行くことが叶わなかったというところである。オイ、どうして1ヶ月でも2ヶ月でもかけて草原を旅して会いに行かなかったのよ?と、突っ込みたくなった。どうしても西へ旅することが出来ない理由がもっと強く出ていれば、すんなり納得できたのだが。家族の絆であるとか、部族の習わしのために、どうしてもそう言うわけに行かなかったのだろうと解釈はしたが、ナムジルの西への思いが強く描かれているだけに釈然としないものが残った。もとになった伝説がそうだからと言ってしまえばそれまでではあるけれども、全体にやや散漫にも思える。あるいは再話するのに、もっと肉付けするとか、いっそぐっと凝縮するとか、なにか違った仕方があったのかも知れない。美しい言葉で語られ、魅力がある物語だけに、少し残念に思う。
よく、スポーツ選手のように体ががっちりしてでかいのを指して「ガタイがいい」のように言うけれども、どういう漢字を書くのか思いつかなかった。ふと気になって辞書を引いてみたが、どうも当てる漢字がないらしい。ふーんこういう言葉もあるんだと何だか感心した。
なんだかんだと遅くなって7時半頃帰宅し、ありがたや料理の腕の上がった長男が牛丼をでっち上げていてくれたのを食べようとしていると、めずらしく母から電話がはいった。このところ何ヶ月か電話がなかったので、電話をかけることも怪しくなったのかと思っていたのである。それが妙に若やいだ声で「どうもー、うちの旦那さん預けっぱなしで悪いわね!」と言う。ふだん私たちの帰りが遅い時、鍵を持っていない次男が一時母の所に寄って待っていることがあるので、それをなにか勘違いして、次男のことを指してふざけて「うちの旦那さん」と言ったのか、と思い、しかし今日は次男はまっすぐ帰宅していま目の前でごはん食べてるけどなあ、と首を傾げながら「旦那さんってだれのこと」と訊くと、「アラ、うちのおとうさんよ。」と言う。「おとうさんって…」私の連れ合いかな?と思いながら訊けば「おとうさんって、あなたのおとうさんよ。そっちに行ってるんでしょ?いつまで経っても帰らないから!」とほとんど陽気な口調で言うのである。しばし絶句してしまった。だって、私の父は、昨年13回忌だったのに。母の所にはちゃんとお仏壇もあるのに。呆けてしまって、ついさっきのことも忘れてしまっても、父が亡くなったことを忘れるようなことは全然なかったのに。ちょっとの間、次の言葉を失って「え…と。」と黙ってしまった。おとうさん死んじゃったでしょ、とはさすがに言えない。「あー…。来てないよ。」「あら、じゃあどこ行っちゃったんだろうねえ。おばさん所でも電話してみようかしらねえ。すぐ帰るって言って行ったのに。」「…わかった、ごはん食べたらちょっとそっちに行くからね、おばさんに電話しないでいいからね、待っててね。」30分ほどしてから、何だか薄気味悪い気もして長男と一緒に行ってみたが、格別普段と変わったこともないようなのでほっとする。どう切り出したものか迷ったが「おとうさんにお線香あげてる?」と訊ねたら、「あげてるよ、毎日あげてるけど今は夜だからね。」とごもっともな返事。すると、「何だか今日はお父さんが来た夢みちゃって、本当にいるみたいな夢だったんだよ」と言う。そうか、さっきはTVでも見ながらうとうとして父の夢を見て、ハッと目が覚めてみたら父がいないものだから、私の所に電話をしたのだろうなあ、と納得した。本当に、母にはほとんど今現在と、ある時点以前の記憶しかなくて、その間の空白の時間は少しずつ、より過去へ向かって延びていっているのだ。
相変わらず『望楼館追想』を文字通りさまよう。奇しくも、語り手フランシスの父、母が、望楼館の、またその前身の偽涙館の時代の思い出を、糸を吐く蚕のように次々と繰り出し、これまでフランシスの目から語られていた望楼館そしてフランシス自身の姿が、第三者の目によって立体的に浮かび上がってくる。しかしまたそれらはフランシスとは別の歪みかたをしたレンズを通しての姿である。清潔な真っ白い手袋がその白さを増せば増すほど、物語はグロテスクな様相を深める。望楼館(天文館)の観測所部分はフランシスの父により実際にその名の機能を果たしていた時期があったことも述べられている。では、偽涙は?ああ気になる。しかしこのところ10時くらいになるとピッとスイッチが入ったように眠くなるのでホント進まない。
しっかりお寝坊。午後からクレヨンハウスへ、たむらしげるのサイン会に行く。娘と行こうと思っていたら、昨晩になってアルバイトの交代要員になってしまったのでダメ。ファンタスマゴリアのCD-ROMが好きな次男を誘っていたら、お昼に遊びから帰ってきて「1時半から○×ちゃんと約束した!」と、これまた簡単に振られてしまった。ちぇ。帰りがけにagateの本店を表参道の駅近くに見つけて、先週買ったネックレスとお揃いのブレスレットとピアスがあったので、逡巡のすえ「サンタさんありがとう」と言って包んでもらいましたとさ。もしかしたらより日にちが近い「お誕生日ありがとう」になるかも。
昨晩のうちに『望楼館追想』を読了。続いて『天球の調べ』を選んだが、これが正解。手袋こそ出てこないが、望楼館の住人であった、フランシスの物言わぬ父と同じく、天体観測に取り憑かれた人々がキーパースンなのだ。舞台は18世紀ロンドン、今の大ロンドンからは想像すべくもない、暗闇の中に孤島のように、それでも当時としては「大都市」として栄える、暗く悪臭漂うロンドン。折しもパリで革命の嵐が吹き荒れているため、ロンドンには亡命貴族らがごろごろしている。ハーシェルによって冥王星が発見されて間もない頃で、火星と木星の間の天体を発見しようと天文学者、天文マニアが躍起になっていた時代でもある。赤毛の若い娼婦が、一人また一人と絹の紐で絞殺される。自分自身の赤毛の娘が殺されたジョナサンは、この連続殺人に気付き、そこに天文愛好家が関係しているのではないか、と役所の職務をおろそかにしつつ調べ始める。『望楼館追想』のフランシスはもともとトーマスという名であったが、さっそくこちらにもトーマスという人物がジョナサンの知恵遅れの息子として描かれている。この二つの作品には何か関係があるのかと思いたくなるくらい。
以下『望楼館追想』のとりとめない感想。主人公フランシスの奇妙な性向は、彼の育てられ方のせいばかりではなく、先祖から受け継いだ筋金入りのものだ。代々のフランシス(長男は必ずフランシスと名付けられる)が、発現様式こそ違え、その時代のフランシスを再生産してきたのだろう。兄のフランシスの奇形性がある臨界を越えたのは、望楼館(偽涙館)を含むその再生産システムの終焉の始まりであって、ある「時代」の決定的終焉そのものを示唆しているのだろう。その意味もあって、フランシスの子どもはもはや長男フランシスでなく、長女フランセスとなったのかもしれない。
登場人物の奇形性は、同じくフリークスにこだわっているティム・バートンを思い起こさせる。この本の各章の扉裏の絵は、作者自身の手になるもので、いずれもかなりグロテスクなものだ。最初に描かれるフランシスなど、思いっきり気持ちわるい姿で現されている。それにもかかわらず、文を読んでいるかぎり、フランシスは清潔で潔癖性、おとなしく内向的(自閉的)で、下唇こそ腫れているが、外見的にはむしろ端正なイメージがある。その分、彼の目から見た他の人物たちはそれぞれに相当常人から外れたものとして描かれている。次第に他人、ことに父や母の発言から明らかにされる彼の特殊性、奇形性が、外面は(多分)普通であることとのギャップによって、読み手にはより重大なものとして感じられてくる。どこまで行ってもフランシスにとっては、自分は「普通」の人間であるわけだが、こうしたデフォルメは、我々が外界(他人)を見る時の視点そのものを戯画化しているにほかならない。
他人の愛情の対象物を収集する(しばしば「盗む」と同義語)、という倒錯したフランシスの愛情の表現、というより愛情の欠如を埋める作業は、偏執的にしかし淡々となされる。それらの物を媒介にして、それと意識せず愛情への執着を表現しているのだ。同様に、登場人物はそれぞれに、愛されたいという欲求を身体で表現している。これを奇矯と呼んで嗤うわけにはもはやいかない。私たちの姿を思いっきり歪んだ鏡に映したものなのだから。
フランシスが、盲目となったアンナの手を取ってその道案内をすると言うことは、文字通りアンナの目になりかわるということだが、それは物理的な目の代わりを果たすこと以上に、アンナの視点をフランシスが敷衍しようとすることでもある。そしてアンナとの生活を始めることによって、内面と外面両方の不動性を失い、「普通の」人間が持つバランス感覚を彼は持つことになって行くと思われるが、はたしてそれがカバー折り返しにあるように「癒しと再生」なのだろうか。望楼館の終焉は、前時代的な奇形性の存在をもはや許さない、世界観の均質化という波の圧倒的な優勢を示すものでもあり、彼ら望楼館の住人が閉ざされた時間から救われて生き返ったと、手放しで肯定的に言えるものではないと感じた。
集中すると下唇を噛むというフランシスの癖であるが、私自身もまったく同じ傾向があるので、つい、唇を噛んでいないか確かめたりしながら読んだものであった。あっ、そう言えば何のことはない、偽涙=ティアシャム(tearsham)なのであった。カタカナで見てなんて綺麗な名前、と思って通り過ぎてしまっていた。
朝寝して、食事の支度もほとんどせず、お茶だけ何回も淹れて、茶碗洗いと掃除少々と洗濯物干しと洗濯物畳みはしたけど、あとは本も読まなければ勉強もせず、お茶をだらだら飲んで新聞を読み、いい天気だ…とか言いながら昼までぼうっとしていた。「ああ一日損した気がする」と言ったら娘が「いいじゃん、ぼうっとしているのがいいんだから。損したなんて全然思わないよ」と言う。彼女も昨日はバイトでやたらに忙しく疲れる一日だったようで、珍しく今日は何も予定がなくノンビリを決め込んで、何一つ手伝いをする気配もない。結局紅茶(キーマン)がなくなりかけたので、と言うのを口実に3時頃から娘と目白のルプティニに行って、ケーキセットを食べて茶葉を買った。このケーキがまたしあわせなんだなあ。池袋へ戻って、テーブルマットを物色。東武百貨店の6階のフレグランスのコーナーを通りかかって、クラブトリー&イヴリンを大幅に扱うようになったのを発見。これまでは新宿高島屋か、池袋三越に行かなくてはならなかったので、大変便利になった。ここの各種の花の香りやホホバの石鹸が大好きなのだ。香りがきつくなくて大変よろしい。以前はゴートミルクという香りのがあって一番好きだったのだが、輸入しなくなってしまったとのことでがっかりである。
百貨店は早くもクリスマスグッズがいっぱい。そういえば昨日次男が、ある店のクリスマスの広告を見て「サンタさんのプレゼント、こういう豪華なのがいいなあ!」と言うので、吹き出すのをあやうく怺えた。緑と赤のクリスマスカラーの包装紙に包まれた箱に金色のリボンがかかった、いかにも「クリスマスプレゼント」と大書してあるようなのが欲しいのだって!私も、そういうプレゼントがほしいなあ。娘はカレシを振ってしまったので、クリスマスグッズ売り場で「あー、クリスマスかと思うと、せつねーっ!」と叫んでいる(でも時たま会ってるらしい)。そのまま次男と長男を呼んでアジキチで食事。怠惰だ…。連れ合いはお気の毒に朝から仕事に出かけて10時頃へろへろ帰宅。なんでおじさんたち家族を放っておいて日曜に飲み会をするかね。
帰宅して、昼のうちに届いたウォン・ウィン・ツァンの譜面を開いて、何とか弾けそうかも知れない「Fragrance」をせっせと練習。気付いたら一時を過ぎていた。こういうときクラヴィノーバは助かる。下手なのが人に聞こえないのでその意味でも気兼ねなく練習できるしね(*^_^*) と言うわけで、もっぱら息抜きの一日を過ごし、ほとんど「朝起きて、顔を洗って歯を磨いて、ごはんを食べて…、亭主元気で留守がいい」式の日記となりましたとさ。
「インディージョーンズ最後の聖戦」をTVでやっていたが、何度見てもあの聖杯の騎士がいいなあ。うっとり。ケンブリッジ近くのトランピントンという所に、中世の地元の騎士の像が残っていて(十字軍に行って無事に帰ってきたと言う)ちょうどああいった格好をしているのだが、持っている盾になぜかトランペットが刻まれているのは、地名の「トランピントン」とかけたのだそうだ。ホントかいな、と笑ってしまったが、そのセンスがとても気に入っている。
唐突に吉田健一であるが、あの悪文がいいんだってば。自分自身の感覚を大事にするのは一番であるが、作品をより一層理解しようと思えば、やはりその作家自身の個人的背景から時代背景などを視野に入れて位置づけてゆくような作業もある程度は必要なのではないかと思う。私は高校生の頃『東京の昔』で出会ったなり、大好きになっちゃったのだけどね。
ポッキーの日と言うんなら、プリッツの日は?と、娘たちが口をとんがらせていた。私はムースポッキーがいいな。でもちょっとだけフランの方が好きかな。
一日集中してパソコンとプリントアウトとを見比べたり読み込んだり書き込んだりする作業をしていたので、夕方にはへろへろ〜。本当に今日は月曜日か?昼休みもばったり机にうつぶして寝てしまった。夜もばったり次男と寝てしまった。
10時から11時半、また準備をして12時から1時半、1時半から2時、2時から3時40分、一仕事したら5時からまた業者が来る、と、いちにちミーティングとか会議とかばーっかり。女性の係長が、ランチタイム・ミーティングに疑義を呈してくれた。所が、出席者のうち事務の若い女性陣がお弁当の手配や、お茶、議事録、資料のコピーなどをやってくれているが、ことに男性陣にはどうもその、お茶やお昼の手配が大変と言う理由が第一のものとして受け取られてしまいそうになった。それも一つの理由ではあるが(彼女らは派遣社員なので、お昼時に仕事をしてもらうと時間外分としてつけられるということもある)、それ以上に疑問なのは、会議も職務なのに「会議なんかで時間をつぶすくらいなら昼休みがつぶれる方がまし」とか言う理由で勤務時間内にやらないというのは変ではないか(その結果、勤務条件である昼休みがほとんど取れない)と言う点と、ことに私が疑問なのは、食事しながらで本当に会議に身が入るのか?という点である。食事しながら、配られた資料に目を通し、口にものが入っているところを指名されて慌てて飲み込んで発言する。きちんとメモすればいいのに、手にはお箸を持っているからメモがおろそかになる。大事な説明を、ちょうどごはんを掻き込むので聞き漏らす。だから話された内容を曖昧にしか理解/記憶していない。一見、お昼時に会議することで他の仕事に食い込む時間が減って合理的解決であるようには見えるが、内容的にも本当にそうだろうか!どうも、男性陣は、「食事しながらで会議に身が入ってるのか?」の所に疑問を抱くのではなく、「お弁当の手配がそんなに大変なら時間帯を変えようか?」みたいなところで決着をつけたがった雰囲気だ。お弁当の手配やお茶などの負担は、回り番にするなどである程度解決するだろうに。男性陣は一般に食べるのが早いから、食べながらと言う点が余り苦にならないのかな?一渡り意見を聞いて一番最後に私の番になったので、お弁当の手配も確かに負担だけれども、それ以上に食べながらの発言のしにくさ、メモなどの取りにくさ、そして「ホントに食事しながらで身が入ってるのか?」を言ったら、議長が苦笑しながら「どうも分が悪いみたいだね。じゃあ次回は11時から1時間ぽっきりで!」と収めてくれた。ありがとう〜。大体、食事しながら何かするなんてお行儀わるいです。と言いつつ、いつもお昼時にひたすら本を読んでる私。さあ昨日今日読めなかった分、これから頑張ろう。
仕事上密接な関係のある部署の女性から、彼女の部署内のトラブルについて相談を受ける。小一時間、とにかく話を聞く。もとより私が聞いたからと言って解決策が出てくるわけではないだろうが、話すことで彼女自身が問題点を整理できるのなら、いくらでも聞きますよ。と思ったら夕方、またもう一人その部署の女性が、一緒にある案件を検討したついでに、同じ相談を。彼女らは派遣会社からの派遣職員だが、総勢6人の部署の中でたった二人の正職員(係長とヒラ)がうまく行っていないことが原因で部署全体がぎくしゃくして、一事が万事の悪循環に陥ってしまっているのだ。係長を補佐するという立場をヒラのほうの女性が放棄していることが当面の最大の問題。女性係長のほうにはそういうヒラの態度を引き起こしたそもそもの原因があるのだけれど(指示の仕方とか仕事の任せ方とか)、こと今の状態に関してはヒラの方に負い目があると私は判定している。が、これから先の長い彼女に対し、どのようにして正常な状態に戻るような手助けが出来るだろう?係長の方でもそれがあるから泳がしている部分があるのだが、そこにはヒラちゃん気付いていなくて、「イヤです。私の仕事じゃありません」を繰り返して保身するばかり。係長の人格に大きな問題があるわけでもなく、ハラスメントがあるわけでもなく、係長の仕事の任せ方や進め方が気に入らない、納得できないということに必要以上にヒラちゃんがこだわってしまってドツボにはまってしまっているのだ。後ろ向きになりっぱなし。後数ヶ月我慢して4月の異動を待つ、という「解決策」はとりあえずナシね。
えいご。うーんオマエほんとに冗談も話も通じないのね、せんせい。耳をかっぽじって出直してこいっ!授業前に「どう、元気」と言うから「うん。私の英語の具合?」と笑って言うと「ノーノー、どう、ってきいたのは、How are youって意味なんだ。だから、fineと答えるとか…」と真顔で言う。「はいはいわかったよ、fineだよ、so, soだよ」クラスの中で「どこの都市が好き?」の質問に人がロンドンってはっきり言ってるのに、回りのざわめきに飲み込まれてそれがなぜかイングランドって聞こえたらしくて「イングランドは国名。都市名を答えて」と聞き返したのは許す。しかし私がイングランドと言った上、都市名を答えよとの指示が通じていないと思いこみ、その後も何度も「どこの都市が好き?」「ロンドンが好き」「…どこの都市が好き?」「ロンドンが好き」「……どこの都市が好き?」「ロンドンが好き」「…(だからさぁ)どこの都市が好き?」「(ずっと言ってろよ)ロンドンが好き」オイ、わたしゃ帰るよ。仮にも初心者向けではないこのクラスにいる生徒の誰が、都市と聞かれてイングランドって答えるかよ。そーんなに私の発音わるいか?(これまで私の発音をエークセレントと評価してきているよキミ)、そーんなに地理的知識がないと思ってるのか?なぜ会話が食い違っているかを考える想像力がないのね。自分が聞き違っているかも、とは絶対思わないのね。それにしてはいろんな局面で、教材の文章や問題の内容、意図を誤解して説明し、生徒に混乱を招いているぞよ。今日もあそこと、ここと、あら、またさっきと違うこと言ってる、あらその解釈はまるで違うぞ、と言うようなことがいくつか。「親しい仲ではこういう言い回しをする」と言う説明をするから、べったりくっついている恋人どうしの場面の例文にその言い回しで回答したら「これは恋人どうしだから礼儀正しい言い方を使うのが正しい」それは違うだろ。まあいろんないい方を覚えるのはいいとしても、これに類したことで私がちっとも理解できていないと思われてしまうのがしばしばで、しかもそれが、1クール終わる時の評価になっちゃうから困るのだ。…うーんここで言っても始まらない。よしっ、もう一度相談・苦情をもちこもう。
先日、今日の午後から次男の個人面談があるので時間休を取らねばならない、と同僚に言ったら「まだ年休が残っているのだったら、急ぎの仕事がないのなら消化しちゃえば?」と指摘され、そうだ、一日休んじゃおう!と、久しぶりの週半ばの休み。だらだら、洗濯物干し、職場への業務連絡、業者への業務連絡、書留の受け取り、お茶(まただよ)、もう一回洗濯、洗濯もの畳み、などをやっていたらもう昼を過ぎてしまった。あ、そのあいだに日記書きとか(これが一番時間を食ってると言う説あり)。
面談は何事もなく終わり、平日の日中という時間を利用して郵便局とか区役所の出張所とか二、三雑用を済ませてから、上野の西洋美術館(ウィンスロップ・コレクション)へ行く。一日の真ん中に用事があるのでなかったら、朝から行って子ども図書館などにも寄ってみたかったのだけれどね。着いたらちょうど三時半。会場は、西洋美術館にしては、大変すいていた。アングル、バーン=ジョーンズ、ロセッティ、モロー、ブレイク、ビアズリーなどが主なところ。数の多いロセッティはやはり迫力があり、押しつけがましいほどの強さがある。確かに、振り返って何度も見るほどの力があるが、バーン=ジョーンズほどの柔らかさが好ましいと思った。モローも印象が強い。ビアズリーの、装飾性も象徴性も高い例のサロメの挿し絵は、確かに素晴らしい!私が部屋に飾るとしたらリケッツの「ダンカン、マルコム、ドヌルベインの衣装」かな。大体、人物の絵は部屋に飾るには強すぎる。このコレクションにはないが、ほぼ同時代の、ルドンの展覧会が見たいと思う。結局帰宅したら5時半を回ってしまった。
『おおかみのこがはしってきて』は、寮美千子の、アイヌの話をもとにした文と、小林敏也の絵になるものだ。最近どうも本屋に小林敏也の描いた『セロ弾きのゴーシュ』が平積みになっていると思ったら、TVドラマのアルジャーノンの中で使われたとのこと。どう使われたのかは知らないが、たしかに、単に宮沢賢治の、というのでなく小林敏也の版が用いられたのはある意味喜ばしいことだ。本当に美しいもの(>小林敏也の本一覧)。『おおかみのこがはしってきて』は、ねずみの嫁取りのアイヌ版というようなものだ。美しい文と美しい絵とが呼応しあうとき、どんなことが出来るかをよく示していると思う。人間失ってはならないものの一つは、生き物の一つとしての人間であるということを自覚すること。簡単に言い換えれば、生きていることに謙虚であること。物語自身が伝えるこのメッセージを、作家、画家の双方が、身をもって示してくれていると、心から思う。
昨日のえいごの件、今日電話したら、先日、選択肢を増やしてと言う要望(現在だと他の曜日に同じクラスでしかも私が行ける時間というのが全くない)をしておいたところ、さっそく来週から違う先生で一クラス設置してくれたというので、当面そちらに移る、ということに。
ああ〜、やっと今週も金曜日だ。昨日休みを取っている間に、例の、相談を持ちかけられた某部署で、係長にみんなが直談判をしたのだって。止せばいいのに、再雇用のおじさんとおばさんも、同じ係員だから、と同席させたという。おじさんのほうは、以前は「長」がつく人だったと言うが、この忙しいのに別室を与えられてごくわずかな仕事しかせず、仕事を回せば横柄な態度で「それは私の仕事じゃない、アンタの仕事でしょ」と係長をあしらおうとする人。おばさんはこの職場に長いのでいろいろ事情通ではあるが、もう今年で完全に退職するものだから、ここのところ言いたい放題、したい放題。この人も「それは私の仕事じゃない」が決まり文句で、その上、係の若い同僚に係長はじめ職場の人のあれこれを吹き込み、「これこれこう言ってやればいいのよ」「そんなのやらなきゃいいのよ」などと、余計なことを吹き込むことに生き甲斐を見いだしている。まあ年食ったお局のいちパターンというところ。この二人こそ、仕事がうまく回って行くように気配りしたりアドバイスしたりする立場にあるはずなのに、いい年こいてホントに何でこういうくだらないことばかりするかなあ!!!!不満がありながらも何とか職場を良くしていきたい、と切実に思っている若い人たちの前で、なぜ「何十年間で最低の係長だ」とか「顔を見るのもイヤだ」とか「どうせ私たちは今年でやめるから何でも言える」とか、より状態を悪化させることを平気で言うか。こんな年の取り方をしていてもなお年長者は重んじられなければならないと思っているのである。それはマトモに年齢と経験を重ねた同年配の人たちにとって迷惑な存在に他ならないだろう。あんた方みたいなのがデカい顔してのさばってるから、「年寄りはまったく」とひとくくりにして嫌われちゃうのだ。同年配の再雇用職員は他にもいるが、そちらの方々は、仕事ぶりもさすがに年季が入っていて危なげないし、いろいろ知識も深く豊富で実に頼りになるし、同じく「長」であった人でも腰は低くフットワークはいいし、もう年長者の鑑だから、自然とこちらも敬意を持って遇するのである。もう来週から頭いたいよ。
「明日一緒にコミックボンボンを買いに行こうねッ!」と昨日から次男に切実な笑顔(テキも必死)で何度もせがまれて、一緒に近所の商店街で買い物。たまにスーパーに行くと、あれも、これも、ついでに買っておこうとしてしまうので、自転車に積みきれないほど大荷物になってしまった。コミックボンボン一冊でしっかり荷物番をさせられる次男もご苦労です。
今朝3時まえ『天球の調べ』読了。帯などにしきりに「衒学的」と書いてあるが、書いた人辞書引いてみたらどうよ。衒学的でも妖しくもないし、幻想でもなく、18世紀末を舞台にした、具だくさんでそれなりに面白くはあるミステリ。ミステリにしてもさほど謎が深いわけでもないが、道具立てや時代背景によるそれらしい雰囲気を充分楽しめる作品ではあった。この時代の雰囲気を出そうとして具だくさんであることが、読後の印象を散漫にしているきらいもあり、むしろランプリエールほどにてんこ盛りならいっそ、もっと面白かったのでは、と感じた。こういう道具立てを持ってくればなんでも「ディケンズ的」と評されるのか?筋自体がそれほどぶっ飛んでいるわけでもなくごく真面目なので、もう少し短くてもいいかなあ。ベルバラ的マンガチックな印象もあり。うーん、出てくる人物におもしろみがないのかも。最後にみんな死んじゃって燃えちゃうのもなんか都合いいよなあ。でも終わりのシーンは夜露に洗われた星空のようですがすがしくさえあって好きですが。カバー装画の建石修志はいつもながら素敵。帯にコメントが載っているマーサ・グライムズは好きで、以前シリーズ全部順次読んだっけ。
朝からどんよりと、見た目にも実際にも寒く陰鬱な日。あすあたり獅子座流星群は見えるのか?天気回復しても週の頭だから実際に見るかどうかは疑問。さて家族それぞれに出かけて行き、私は、引き出し、ファイルの片づけ。そう、『気がつくと机がぐちゃぐちゃになっているあなたへ』効果なのである。意外にも職場ではまあこの本の説く方法に近いことは自分なりにかなり実践できているようだ。類書に比べ、現実的かつ効果的な提案がされていると感じた。しかし家では…。家庭の生活には、書類ばかりでなく、食料品とか衣服とか食器とか(そして本とか!)、さまざまなモノが関わっているから、一筋縄ではいかないよねえ。でもとりあえず書類と引き出しを対象に「しまい込んである書類(モノ)の95%は不要!」という趣旨に心を強くして、ゴミ袋大2をいっぱいにした。そうなのだ、「要る時があるに違いない」あるいは、「思い切って捨てると必ずその翌日に必要になる」という強迫観念が抜けないのがガンなのだ。よく言えば心配性(全然良くないか)。いつものように分類し直すのではなく、しまったきり見ていないものは不要とあっさり判定して捨てちゃったので、心の重荷も取れて、あーさっぱりした。紅茶を入れて気持ちよく、通販のカタログチェック(カレル・チャペック)&注文ファックス、陀羅尼助丸の注文ハガキ記入&投函(次男が喜んでポストへ)、お勉強、読書。でもあっちの部屋は洗濯物の山、こっちの部屋は本の山。ま、いいか、懸案事項が一つ片づいたから。
これもずっと懸案だったサトクリフ『辺境のオオカミ』ようやく読み始める。ローマンブリテン三部作(『第九軍団のワシ』『銀の枝』『ともしびをかかげて』)に続くものとして位置づけられるという。若い百人隊長アレクシオスは、蛮族の攻撃に当たり、最良の道と思って軍規違反の判断を下すが、それが裏目に出てかえって多くの部下と砦を失った。そのため彼はブリテン北部の辺境へと左遷されることになった。「辺境のオオカミ」と呼ばれるその地の兵らは、オオカミの毛皮をマントの上からかぶっているのである。彼は、自分がこの地にやってきたいきさつを部下の兵らはみな心得ていると感じるが、昂然とした態度で最初の閲兵を行う。この先正しい判断でやって行くことが出来るだろうか、と、不安と苦い思いにさいなまれつつ。
『辺境のオオカミ』、これは、全然少年の話ではない。若いが、すっかり一人前の男の、あるいは一人前であるべき男の物語だ。光や風、川や丘の美しく的確な描写が、人物の心理を彩り裏打ちして、読んでいるこちらの心に食い入ってくる。そうやってすっかり彼らの目から北部ブリテンの風物を見始めていたので、主人公である若い司令官アレクシオスが再び試練にあう場面では、ほとんど物理的と言っても良いくらいの衝撃を受け、しばらく身体がこわばったまま動けなかった。『ケルトとローマの息子』は彼女の作品の中でも特に主人公が次々と悲惨な状況に陥って行くが、この一種静かな作品でも、それと同様に、ある意味ではそれ以上に、主人公は過酷な状況に直面する。『ケルトとローマの息子』と違うのは、それが自らの選択によるものだと言う点である。文章で時々主語、述語が掴みにくいとか文意がはっきりしないとかいうものがあるが、原文からそうなのかちょっと気になる。
『辺境のオオカミ』感想の続き(昨日の「アレクシオス自らの選択によるものだ」という点の補足)。軍隊、しかも戦時という過酷な状況の中で、指揮官としてのアレクシオス自らの選択肢はきわめて限定されている。しかしながらその中で彼は、成り行きに任せて、あるいは他人に判断をゆだねるのではなく、あくまでも自らの責任に於いてその選択肢の中からギリギリで最善の、しなければならない選択=判断をしたのである。しかしそうとは言え最初の選択の際、そこにはそれと気付かぬほどの、慢心とも言えない慢心、ほんの少しの背伸びがなかったか。本当にそれは、ぎりぎりの選択だったのか。あくまでも「彼にとっての」選択だったのではなかったか。のちに彼ははっきりと知るだろう、辺境の氏族のやり方を平気で踏みにじり彼自身が腹を立てた指揮官らと、その時の自分が何ら変わらなかったことを。いっぽう、辺境のオオカミの司令官となってからの彼のいくつかの選択は、「司令官」という立場のみで行われたのではない。純然たる戦略的な考えでそれらの決断を行うタイプの人間もいるだろう。しかし、彼は違う。司令官でもあるが、同時に手痛い失敗の傷を抱えて自信と未来を失いかけた一人の若者でもあり、友情、肉親の愛情、ふるさとの記憶、それらすべてを併せ持った一人の人間としての、文字通り命をかけた選択なのである。その不器用とも言える誠実さ。それを貫き通したからと言って誰が誉め称えるでもない、しかしそこに賭したものを、彼自身はよく知っている。そして時には、彼の片腕である皮肉屋のヒラリオン、また伯父のマリウスさえも、知るかもしれない。あるいはこの誠実さは、有力ではあっても結局一生を辺境の北ブリテン最高司令官で終わろうというマリウス伯父自身から、アレクシオスが受け継いだものであったかも知れない。いや、確かにそうに違いない、と読了後一日経っても深い余韻に浸っている私には思えるのだ。あーなんか涙出てきた。いつも、サトクリフは、自分のいるべき場所を見いだした主人公を描き続けているのだと思う。ずーっと以前に読んだきりの、ローマン・ブリテン三部作を、ぜひまた読み直したい。
続いてサトクリフ『剣の歌』へ。訳者が違うとこうも雰囲気が違うのか。それともサトクリフの遺作だけに、むしろ軽やかさを得たのか。
結局、年を重ねるってことは、謙虚さを知るということだよなあ。ベテランが陥るワナは、経験値だけに頼って、本来働かせるべき感覚を失ってゆくこと。そしてそれに気付かないこと。
私の友人の一人は、どうも毎年この時期になると、メランコリックになり、さらに懐疑的、厭世的になるらしい。星回りのせいか?獅子座流星群のせいかも。
『気がつくと机がぐちゃぐちゃになっているあなたへ』効果@職場は持続ちゅう。片づけの最後のツメが甘いせいで、ぐちゃぐちゃ化してしまうのよねえ。もうちょっと自分流に消化・工夫すれば、いい感じですわよ。問題は、@家庭よね(;.;)
『剣の歌』続き。舳先に龍の頭を持ち、すんなりと美しい曲線を描くヴァイキングの船!小さい時にTVでやっていた「ヴァイキング」(?)という外国のドラマの、盲目で金髪のヴァイキングの王子、素敵だったなあ。海から戻ってくると必ず、その係の屈強なひげもじゃ男が岸壁で角笛を吹きならすのだ。ああ、かっこいいっ!彼らは角の杯で酒を飲み交わすので、子供心に「あれってそのまま置いたらちゃんと立つのかなあ、どうやって立つんだろう、何であんなもの使うんだろう」などなど考えてはどうしてもわからなかった。そりゃ立つわけない。立たなくてもいいのは、必ず飲み干しちゃうからだ。杯を持つ二の腕には、幅広い腕輪がはまっている。でもって、『剣の歌』にはちょうどそんな感じの凛々しげなヴァイキングのリーダー、しかも片足は木の足、が登場。主人公の少年ビャルニは、族長の誓いを破ったため、兄と住んでいた村を追い出された。途中で餌をやったのが縁ですっかりなつかれてしまった黒犬フギンとともに、この木足のオヌンドを主人と仰ぐようになっていた。数で劣勢の彼らは、海賊との戦いにオヌンドの計略で勝った。
職場で身近にひどい風邪を引き込んでいるのが二人、家でも娘に加えて長男が風邪引きさんをやっている。そのせいかどうか、数日前から身体の後ろ側(首、肩から始まって、背中、腰、脚の裏側からくるぶしの下、足裏まで)が、筋が張って凝って痛くてたまらない。今日は職場では軽く暖房を入れたが一日薄ら寒い感じが抜けきれなかった。さすがに冬だね、などと言いながら、おっ、もしやこれは風邪の引きかけ?とふと思った。しばらくはっきりした風邪を引いていないが、油断大敵火がぼうぼうなので、葛根湯を飲んで、早めに寝ることにする。
海洋堂+北陸製菓の「アリスのティーパーティ」が近所のファミマで手に入るようになった。シリーズ1の時は近場では全く見かけなかったので、今度はさっそく買い込む。3(昨日)+4(今日)=7、このうちダブりは1(笑うチェシャ猫)。最初に当たったのがシークレットアイテム、消えるチェシャ猫。おしりの方から徐々に消えて今や半分くらいになったところ。ほか、スペードのトランプの兵士、クローケーをしようとフラミンゴを抱いているアリス、ライオン、一角獣。三月うさぎとヤマネのが欲しい。ジャバ−ウォッキーはどうやら没になっちゃったらしい(;.;) クッキーもなかなかおいしいぞ。北陸製菓のハムスターズランチも可愛いな…!
『エンディミオンの覚醒』文庫版出たようですね。お読みになっていない方強力お薦めっ!もちろん『ハイペリオン』『ハイペリオンの没落』『エンディミオン』が先です。さあ晴れて一気読みへGOぢゃ!(>感想:ダン・シモンズ)
職場の自己申告&自己採点の提出。上司のインタビューがくっついてくる。先日用紙配布の際上司からは、採点に当たりA〜Eランクのうち「Aをつけるのは稀なことで、難しい業務でどんなに徹夜して頑張ったとしても、期日までに業務を終わらせた、ということだけなら、期日に終わらせるのは当たり前のことだからC、という基準でつけるように」とお達しがあった。しかしそれは上司が採点する時の観点であって、本人はやっぱり自分をアピールしなくちゃいけないんだから、困難な業務をこれだけやった、と誉めてやる視点でなくちゃあ。で、AとBをばらまいてつけて提出した。こちらからの説明に始まるやりとりの後、こちらがなかなか引かないので、テキは「じゃあ職員が100人いたとして、その中でも2番とか3番の中に入ると思っているということですね」と言う。それは管理職が判断すべきで、こちらは、自分自身がどれだけ「自分の」業務を果たしたか、を判断すればいいのだ。人と比較する視点なんかなくていいのだ。業務と私の関係\(^O^)/ それでも、押したり引いたりの中で、本当にまずい部分は除いて言いたいことは大体言ったので、引き際を見てスパッと「なるほど、わかりました。そう言うふうに書けばいいだけのものだと割り切ればいいんですね」とニコニコ態度を変えて退散。でもやっぱりうんうん言って、「アドバイス」に従った所を見せつつ書き直し、「ご指導ありがとうございましたあ」とこれまたニコニコ提出してきた。でもランク付けのA、Bは変えなかったよーん。ハ、ハ。しかしそのうち首チョンパになるかも(;.;) 実際にはチョンパは出来ないけど、タヌキと爬虫類(と陰で言われている)のハイブリッドらしい遠回しな手で何か不利な目に遭わされるかも。うわーんどうしよう怖いよう。と今更言っても遅いが。
今日からえいごは別な先生。初めての女性の先生だ。うう早口(;.;) でも混乱させられることはなくて良かったー。来年の6月分まで既に先払いしてあるので、まあそこまでは頑張ってみるべい。だって高いんだもん。ちょっとはモトを取らなくちゃね。
今のところ首に異常なし。
そろそろ忘年会の予定や、来年のスケジュールが入ってきた。職場用のカレンダー買わなきゃいけませんね。今日は日中とてもとても寒くて、なんでも1月の気温だとのこと。もう12月も1月も2月もおんなじだよ、これだけ寒ければ。むしろ日が暮れてからの方が寒さが和らいだように感じた。寒さのせいか、一斉に桜やけやきがハラハラと葉を落とし始めた。次々、また次々と、ひっきりなしに葉が零れ落ちるのを見ていると、どんどんその勢いが強くなってついには滝のように降り注ぎ始め…と頭では期待してしまうが、実際には同じようなペースで、ハラハラ…ハラハラ…ハラハラ…といつまでもいつまでも散り続けるのだ。見た目には枝の葉はちっとも減ったように見えないが、一晩経つとさすがにすっかり枝があらわになる。うちの前の公園でも、このところ落ち葉が詰まったゴミ袋の山が出現していたが、今日の帰宅時には一挙に数倍に増えていた。あれだけあれば焼き芋の焚き火がいくつ出来ることか。これでいっぺんに冬のたたずまいになるだろう。
『剣の歌』続き。祭司の娘は以前からビャルニに思いを寄せていたが、彼にはその気がない。彼の主人オヌンドの婚礼の祝で恥をかかされたと思いこんだ娘の仕返しで、あやうく愛犬フギンを生け贄にされそうになる。オヌンドの機知でフギンは助かるが、またも彼は祝いの席を汚した咎で、オヌンドに主従の関係を解かれ、この地を去る羽目になる。掟第一で融通の利かない、それこそ「野蛮」に見えるこうした強い掟によってのみ、首長は集団の規律と統制を保つことが出来るという、厳しい生活条件の中に生きている民なのだ。
一旦8時前に何となく目が覚め(FMの番組でそれと知れた)、ああもう寝られそうもない、損した、と目を開けないまま思ったが、しばらくして「ママ起きな、もう10時半だよ」と起こされたのでびっくりした。二度寝したのである。こんな時間まで寝ているんじゃ、骨休めにはなったけれど、たしかに一日損したようなものだ。しかも元々一日好き勝手に本を読んだり次男の相手をしたり、重点的に片づけをしたりしようと思っていたのに、連れ合いが3時過ぎまで在宅で仕事だったので、やれお茶だ、お昼だ(誰も食べたくないのに)、またお茶だ、なんだかんだと集中できずほとんど何も出来ずじまい。散らかったままそうそう勝手も出来ず、したくもない洗濯物畳みとかを優先させては、実は内心おもしろくない。自分のペースならまとめ仕事が出来るのになあ。そう言えば保険か何かのコマーシャルで女性が「24時間サポートします。わたしとおんなじね」とか言うと男性が「オレより遅く起きるのにィ?」と言うのがあって、それを聞く度にずいぶん勝手な言いぐさだと思う。夫婦のような協同生活であっても、そもそも互いの考えている優先事項がいつも一致するとは限らない。夫が、妻が基本的に夫のことを最優先事項と考えていると無条件に信じているというのは、むしろ女性から見ればナイーブに過ぎると思う。実際にはケースバイケースで、それぞれがちゃんと納得しているのなら全然問題ないけど。当たり前だが、お互いの優先事項はもともと一致しないという認識があることと、その上でどうそれを調整するか、が、家庭ばかりでなく様々な協同作業の鍵だ。人間関係一般がうまくいくかどうかもそこだろう。実の親子より他人の方がうまく行くというようなばあいも、他人だと認識が違って当然という点を了解しあいやすいのに、肉親だからというだけで考えや感じ方が同じと無条件に思いこんでしまうことに原因があるのだろう。で、今日みたいな場合は、私のほうが折れて優先事項を一致させようという気力がどっと低下していることが、「不満」と言う形になって表れたのよね。
昼前に、本を返しに行くという次男と一緒に図書館に行って、高楼方子の本をまとめて借りる。『紳士とオバケ氏』(フレーベル館)『のはらクラブのこどもたち』(理論社)『夜にくちぶえふいたなら』(旺文社)『ケチルさんのぼうけん』(フレーベル館)『いたずらおばあさん』(フレーベル館)『キロコちゃんとみどりのくつ』(あかね書房)を借り、ほか数冊はリクエスト。
朝からユニクロ、百貨店と、長男・連れ合いと駆け足で回る。義母の誕生祝いを買うのと、私の誕生祝い(まだ来週だが家族皆そのころ忙しい)のためのケーキを仕入れるのと、雑用など。長男らが文房具など見ている間にリブロを徘徊していたらどっと収穫が。昨日のJ・グレゴリイ・キイズ『錬金術師の魔砲 上・下』は、とくに楽しみ。『水の都の王女』『神住む森の勇者』が非常に良かったという記憶があるからだ。また『ガブガブの本』はドリトル先生の番外編で、ブタのガブガブが食べ物についてうんちくを傾けた内容?らしい。うわあ懐かしい、トミーだのダブダブだのチーチーだの。ロンドンスズメのチープサイドも!なにより、ロフティングのこの絵!チープサイドは、従来の井伏鱒二の訳よりも、言葉遣いがヤクザな気がする。じつはあの訳は石井桃子がその多くを担ったと言うから、そういうことがあってもおかしくないだろう。比べたわけではないから本当に違うかどうかはわからないけれど。この本の訳者は南條竹則である。
合間に『紳士とオバケ氏』、『のはらクラブのこどもたち』、『ケチルさんのぼうけん』、『夜にくちぶえふいたなら』を読む。いつもながら、自分とユーモアの感覚が非常に近いのを感じ、心地よい。しょっちゅう吹き出しちゃう。のはらクラブでは、登場する女の子たちが、それぞれ実は動物の名にちなんだ名前なのだが(こんちゃん=きつね、すずちゃん=すずめ、みいちゃん=ねこ、など)、なぜかブタにちなんだ子だけは「わこちゃん」なのだ。何故に?
メインの読書は相変わらず『剣の歌』。新しい主人に剣の技を持って仕えて2年が過ぎたビャルニ、また何かが変わりそうな予感がする。スコットランドの島々で暮らす様々な部族の海の民は、陸の民にも増して、潮が変わるようにその力関係が激しく変わるようだ。ノルウェーの美髪王ハラール(ハラルド)の不穏な動きなども背景に、またもビャルニの生活は予感の通り大きく変化しようとしている。
えいご、ダイアログを声に出して暗唱するのを薦められて実践するが、じつはこれ、学生の頃からチョー苦手。今日は当たる順番だという日には、四苦八苦して覚えていったものだ。クラスメートが当日の朝に「あーっ、今日当たる番だって忘れてた、これから何としても覚えなきゃ!」と悲愴な顔をしつつもなんとか授業時間までに覚えちゃうのを見ては、どうすれば覚えられるのかと感心したものだ。漢字も単語も熟語も文法も、覚えることにはあまり苦労したことがなかったけれど、どうして全文丸暗記は苦手かなあ(;.;) 自分に必然性がないシチュエーションだと覚えにくいのは当たり前ではあるが、それにしても。
朝はさほどでもなかったが、昼から夜まで良く降った。昼休み、久しぶりに雨の中郵便局へ行く。さすがに大変すいていて、3件の支払いはすんなり済んだ。七割ほど落葉した木々の、枝と葉のバランスがなかなかいいななどと思いながら歩く。まだ本格的な冷え込みではないし、視覚的にも紅葉の色が残っているので、体感温度はそれ程には低く感じられない。枯れ葉を踏むのは足裏にも耳にも心地よいが、うっかりすると雨に濡れた落ち葉に足が滑りそうな気がする。
朝、母のデイサービスの施設から電話。「緊急事態なので」という割には声に可笑しそうな響きがある。お迎えの人が母の所に行って、いざ出かけようとすると、玄関の鍵が所定の場所(いつも出かける時に持って出るバッグに結わえつけてある)にないのだという。母と二人で散々さがしたがどうにも見あたらず、お迎えの車の中に他の利用者を待たせてあるのでタイムリミット、と判断し、今日はお休みということにしたと言う。「合い鍵作ってあげて下さい」と言われたのだが、それが、割合最近、ピッキング防止の鍵に取り替えたため、合い鍵が出来るのにひと月ぐらいかかるのだ。3本の鍵は、母と私と姉が一本ずつ持っているので母に貸すのは簡単ではあるが、この様子だと一旦貸したら返ってくる保証はないなあ。おっかさん、いったいいつから鍵ないの?先週の水曜日にはデイサービスに行っているから、最長で木曜からこっちの5日間。金曜にはお弁当が配達されるからいいけれど、その後いつから出かけてないのか?それとも鍵をかけずに出掛けているとか?うーん、困った(;.;) どうすべい。
昨晩『剣の歌』読了。再び船上の人となったビャルニは、追放となった五年の年限も過ぎたので故郷へ帰ろうとは思うが、今ひとつ迷いが吹っ切れない。そんな中、まさに故郷の近くまで差しかかった頃、船は思いがけない嵐に遭い、ビャルニは海に投げ出された愛犬を助けようと自分も荒れ海へ身を躍らせ、犬ともども見知らぬ土地に流れ着く。その地で今度は、零落した若い女地主に奉公することとなるが、彼女は土地(とあわよくば彼女自身)を横取りしようとする男に目をつけられている。男の要求を突っぱねた晩、ビャルニと女主人がたまたま家を空けた隙に男は彼女を魔女と呼び、留守とは知らずその家を焼き討ちした。すんでの所を助かったビャルニは、この女主人を自分の妻としていよいよ故郷へ連れ帰る決心をする。こうしてビャルニは五年に亘る剣の奉公を終え、ふるさとに新しい土地を拓いて妻と共に腰を落ち着けることとなった。若いビャルニの遍歴と成長物語なので、全体を貫く強いテーマはさほどにはなく、ストーリーとしてはちょっとつじつま合わせ的な印象もあり冗長でもあるが、ヴァイキングのいくつかの部族やピクト人など、常に流動的な部族間の抗争や和睦、命をかけた駆け引き、昔ながらの勇壮な神が「白いキリスト」の混淆を経て次第に古いものとなって行こうとする時代の移り変わりなどを描いて、潮と血の両方の塩辛さを唇に感じる、リアリティにあふれた物語となっている。おおよそ出来上がりかけたサトクリフの遺稿に加筆したものとのことなので、そのため全体としての求心力が弱いのかも知れない。
『錬金術師の魔砲 上』に入る。ちょっとスチームパンクの匂い。ボストン、ロンドン、パリ!実際にこの時代のこれらの都市に生きていたらどうだったかわからないが、物語の舞台として18世紀のこの三つの都市は実に魅力がある。ロンドンに滞在した際も、そのような時の帳の向こう側を感じて…感じたくて、独特の感慨があったように思う。コヴェントガーデンからドルリー・レーンなんて聞くと、「ああ確かにコヴェントガーデンから歩いていたらドルリー・レーンがあったよなぁ」と、実際のビルの景色の後ろの暗い石造りの幻を「思い出し」たりする。あのときは娘に「ドルリー・レーンというのはエラリー・クインのミステリの中でね…」と、初めて来たのに何を懐かしがっているんだか、昔知っていた人のことのように説明しながら歩いたのであった。娘くらいの年にはX、Y、Zとドルリー・レーンなんて、何回も読んでいたけどな。
終業後、トリトンスクエアまでEUバロックオーケストラを聴きに。連れ合いが仕事で行けなくなったはずだったが、2、3日前に予定変更があったので、久しぶりに一緒に行く。しかしトリトン遠いし音響良くない。EUバロックオーケストラとはどういう団体か知らずに、水上の音楽がプロに入っているという理由だけでチケットを取ってしまったので、遠い、一人で行くのは気が進まない(娘とか職場などの知り合いとかに声をかけたが全滅)、などで半ば惰性で行ったのだが、これが意外にも当たり。クープラン、テレマン、ヘンデルなど。メンバーはかなり若いようだったが、それぞれが非常に楽しげに、自分の持ち場を積極的に生かして演奏しているので、音楽が生き生きとして大層好感の持てる、実に気持ちの良い演奏会だった。スターはオーボエとリコーダー(持ち替え)のおにいさんで、終始全体に愉しさとメリハリを与えていた。この人いっぺんにファンになっちゃった。トラヴェルソ、ファゴットもよく息があってマル。弦を引っ張るのがヴァイオリンでなくむしろチェロだったりしたが、弦にさほど突出した人がいなかったということもそれはまたよし。1st Vnの2プルトの表と、2nd Vnのトップの女性が、それぞれとーってもチャーミングで(ことに2ndの方は腕もなかなか)、目にも楽しかった。今日が日本公演の最終だったので、そういう気合いもあったのかも。聴衆の入りも良かったし、拍手する顔はみな笑顔でとても良い雰囲気だったように思う。きっと彼らはいつも練習が楽しくてたまらないのだろうな。そうしたいわば一種のアマチュアっぽさが良い方に働いている幸せな集団なのだろう。
『錬金術師の魔砲 上』は面白いぞ。いくつか奇妙な発明品が出てくるが、ベン(・フランクリン)らが用いている、ファックスのような機能のいわば文字送信機「エーテルスクライバー」が重要な小道具のひとつだ。『琥珀の望遠鏡』のなかでライラやウィルとともに旅した(スパイの)ガルヴェスピアンたちが「量子通信機」を使っていたが、この「エーテルスクライバー」のように、一つの水晶を二つに割ってその一片ずつを装備した通信機同士が交信できる、というものじゃなかったっけ。フランクリンだのニュートンだのダルタニャンだのミレディだのルイ14世だの、なんなんだこれは\(^O^)/(たいそう気に入っているらしい)
帰宅したら、長男が、次男が「頭が痛いと言ってソファで寝ちゃったから毛布かけてやった」と困ったようなくすぐったいような顔で報告する。あーあ、昨日からノドがちょっと変と言っていたが本格的な風邪?その後ごはん食べると言って起き出してきた次男が、連絡帳に書かれた先生からのメッセージを見せてくれたが、なんでも今日は休みや早退が続出で、はやりはじめたのは吐き気がある風邪だとのこと。そして次男は普通にごはんを食べ始めたのはよいが、半分も行かないうちに口数が減ったと思うと妙な顔つきになって「…はきそう」とトイレに直行。盛大に吐いて、めげきってお寝みになりましたとさ。困ったなあいろいろ。
たくさん作ったのに余り減らなかった献立の中の一品は、ブロッコリとカリフラワーのグラタンである。これは私の好物。ベーコンとかハム、チキンなどが少し入ってもいいのだけれど、今日のは何もナシ、かわりにチーズをたくさんかけてフィーヌゼルブを効かせてある(初めにその名を知った頃は霊験あらたかそうなハーブだなあと思ったが、何のことはない、Fines herbesというスペルを見てなあんだと思った)。10年以上前、近所の八百屋で何度か見た不思議な野菜がある。カリフラワーとブロッコリのちょうどハイブリッドで色は淡い黄緑色、しかも小房は階段ピラミッド型。食べるとやっぱり味もハイブリッドだがいくぶんカリフラワーっぽさが強く、きめが細かくて味が濃く、なかなかおいしかった。当時東京にはその生産農家が一軒しかないと聞いたが、やっぱりじきに見なくなってしまった。それが、この間、9月の旅行の時、湖水地方のスーパーで「カリフラワー」という札のもとにこのピラミッド型黄緑カリフラワーがあったんだなあ。買っていってB&Bのおばさんにお願いして調理してもらえば良かった、と後になって思った。
『錬金術師の魔砲』は下巻に入る。ふと気になって調べた。ニュートン(1642-1727) 、フランクリン(1706-90)、ルイ14世 (1643-1715) 、と確かに同時期の人たちなのだなあ。しかし待てよ、ベン(フランクリン)はこの話の中では14歳、つまり舞台は1720年。なのにルイは生きている、ってことはあのペルシャの秘薬は…。若く聡明なアドリエンヌはその年寄り太陽王ルイの愛妾にされてしまった。が、ただ涙に暮れるような彼女ではない。ルイと語る天使とは何者?目が見えなくなったはずのルイの視力を補うのは一体何か。ベンたちをつけねらう不気味な男や、不可解で現実感溢れた夢はどこからやって来るのか?
おりこうな小学校二年生は、半日一人でお留守番。そうなんです、結局次男は学校を休んだが、私は午前中いっぱいミーティングで休めず、2時半頃心配しいしい帰ったら意外に元気で、「6時間一人で留守番できた!」と満足げなお顔。しかし親の方が風邪がうつったか気のせいか、胃が重たいし異様に眠い。
4時からの医者に連れて行き、順番は4人目だったのでどう遅くても5時までに帰れると思ったら、実際に診察が終わったら5時40分だった。3分診療じゃ困るけど、単純計算で一人25分というのも辛いものがある。実際にはうちは7、8分だったかな。ここの先生とはちゃんと話が通じるし、子どもも鷹揚で優しい先生が好きなので待ち時間覚悟で行くのではあるが、風邪のバイ菌を培養しているような待合室に100分というのも考え物ではある。長男が帰ってきていたので「急いで行ってくるね!」と、バスは行っちゃったので駅まで自転車をとばして、えいごに。今日は行って良かった、マンツーマンだった。あれこれお話できて楽しかったよん>クリスティーナfromシカゴ。ちょうど教材に音楽の話があったので、「シカゴならブルースブラザーズ知ってるでしょう」と話を持ち出し、私は大好きなんだと話したら、それは意外だと言われた。「あれはこう何というか、お酒を飲んででれーっとしているタイプの、大学生の男の子たちが好きなんだと思っていた」とのこと。何でと訊くと「いや、何となくだけど…有名だからこそ見ないっていうのがあるでしょ、だから見たことはないのだけれど、そういう映画だとずっと思ってた」と言うから、ぜひ今度見てみるようにと強力お薦めした。
『錬金術師の魔砲』昼休みがなかったのと異常な眠さのため今日は少しだけ。次は突然ミシェル・フェイバー『祈りの階段』へ行く予定。
うう今日は回復して学校へ行くはずだった次男が、起きるべき時間の少し前から「ぎもぢわるい〜…」とゲボゲボが始まって、悲しいことに今日はお休みと相成った。何故悲しいかって、今日は休みを取って職場の友人たちと鎌倉へハイキング&午後のお食事会だったからだ。ゲボゲボ息子を一人で置いていくわけにはいかない。こんなに良いお天気で、しかも年に一度の旨いイターリアンなのに(;.;) 昨夜のあの次男の元気は何だったんだ。あー糠喜び。来年までおあずけかぁ。
きのう高楼方子のリクエスト本を図書館から借りてきたので、未読分もあわせて高楼本の消化に励む。新たに借りたのは『つんつくせんせいどうぶつえんにゆく』『つんつくせんせいととんがりぼうし』『のはらクラブのちいさなおつかい』の3冊だ。つんつくせんせいは、つんつくえん(幼稚園)のせんせい。つんつくせんせいが青いスモックと黄色い帽子をかぶった子どもたちを引き連れている様子は、マドレーヌシリーズと重なる。でもおはなしは高楼方子らしく、ついプッと吹き出しちゃう。のはらクラブは、前回に続きおばさんがのはらへ子どもたちをピクニックに誘う。今回はくっつく草の実がテーマで、子どもたちはみんな「おつかい」をして…つまり、くっつく草の実をおうちに持って帰りましたとさ。すずめの子やひつじの子、うしの子たちがニコニコ顔でからだに草の実をくっつける様子がかわいくて!おばさんのちかくにすむ正真正銘人間の子「のんちゃん」は、高楼さんご本人にそーっくりだと思うのだが、どうだろう。また先週、この前作である『のはらクラブのこどもたち』を読んだ時、登場人物の一人「わこちゃん」はブタにちなんだ名前だと書いた。きょう『のはらクラブのちいさなおつかい』があまりに可愛いのでページを繰って娘に見せながら「この子はこれで、この子はこっちで、こういう筋で…」と説明していたら、あーっ、わこちゃんは、ブタじゃなくて、犬、「わんこ」にちなんだ名前だったんだァ!と勘違いに気付いた。だってわこちゃん、どう見ても子ブタちゃんに見えるんだもん。ごめんなしゃい。
さらに先日借りてあった『キロコちゃんとみどりのくつ』、『いたずらおばあさん』を読む。これがまたいいのだ。『キロコちゃんとみどりのくつ』のキロコちゃんは、ちょっと(かなり)わがままな二年生の女の子。おとうさんとおかあさんをさんざん歩かせて、学校のダンスの発表会にはく緑色の靴を買ってもらった。なんと、キロッとした目玉と赤い舌をもったその靴は、キロコちゃんがはくと勝手に動き出そうとするので、キロコちゃんはややもすると靴に振り回されてしまう。いっぽう靴のおかげでキロコちゃんのグループはダンスの代表に選ばれるし、リリアンさんという、心は少女のようなおばさんと知り合いにもなった。さて魔法みたいないたずら靴とキロコちゃんはどう折り合いをつけて行くか?『いたずらおばあさん』の主人公の一人、えらい洋服研究家エラババさんは82歳。エラババさんが先生をする勉強会に来ていた68歳のヒョコルさんは、どうしたわけかエラババさんのお眼鏡にかなって弟子になることに。ふたりはエラババさんの研究で若返り、なんと8歳の女の子になって、普段出来ないことを次々しちゃう。ああもうすっかり、鬼ごっこをする彼女らと同化してしまった。鬼が背後に迫ってくる時の息づかいや、緊張や、笑い。この高楼方子の感性やユーモア、そしてやはり感じる安房直子との共通性。高楼方子は懐が非常に深い上、書きたいことを力まずに十二分に書き表せる筆力を持っている貴重な才能だ。対象とする年齢層も広いが、低年齢向きの作品であっても、大人が読んでも耐えうると言う以上のものがある。以前梨木香歩が講演会で、高楼方子のことを長くつしたのピッピのタイプだと言っていたが(キロコちゃんなんかまさにピッピ)、確かにその通りで、しかもその一面にとどまらない、非常に含蓄のある世界を持った人だ。ご自分で言っておられたように「ぞうきんをしぼるように、仕事のように」苦しんで作品を書く、とは文面からはとても思えないが、これだけの深い内容を各作品に込めるのにはやはりそれなりの苦労や呻吟もあるに違いない、と改めて感じる。
『錬金術師の魔砲』読了。うわー、すさまじい。思ったよりずっとシリアスな展開になってきた。もっとお気楽に、あのとんでもない魔砲は何とかなるのかと思っていたが…。しかもこれ、四部作の初めだとのこと。表紙にはそんなこと一言も書いていないので、これも売れ行き次第で続刊が出るかでないかなのか?そりゃあ困る。続編邦訳出版希望っ!四部作とはもしかしてこのシリーズか?うーんとても自力で読む気にはムニャムニャ。
家にいて動かないのでおなかもほとんどすかない。お昼はスパイスミルクティとミューズリー+莓+洋梨+牛乳+ヨーグルト。ミューズリー(+牛乳)はもとから知っていたけれど、コーンフレークスなどに比べてモソモソぱさぱさしている印象があったが、フルーツやヨーグルトをかけるこの食べ方は湖水へ行った時に初めて知った。ほかにバナナとか、日本ではほとんど見ないグレープフルーツの缶詰と一緒に食べるのがおいしく、特に娘がたいそう気に入って、帰国後さっそく久しぶりにミューズリーを買ったというわけだ。娘はミューズリーというもの自体知らなかったので、「このシリアル何?」と訊かれて「ミューズリーだよ」と即答した私はがぜん株を上げたというわけ(^^)V
次男は、本調子ではないが、まあまあ回復へ向かう。クラスでは40人弱のうち、風邪のせいで木、金曜当たりは出席者が17人くらいだという惨状で、学校からも風邪の大流行に関する刷り物が回る有様。何で今頃。いつも土日は朝からお誘いの電話を互いに掛け合う二年生であるが、さすがに今日ばかりはお友だちも皆全滅で一本の電話も入らない。
夕方、「チャーリング・クロス街84番地」のDVDをようやく見る。よかったよーん、大江戸さん!教えてくれてありがとう!ニューヨーク在住の古書好きの作家ヘレーヌ(アン・バンクロフト)とロンドンの古書店の主人フランク(アンソニー・ホプキンス)の、1949年から69年までの20年に亘る手紙での交流を描いた映画だ。ヘレーヌが新聞でロンドンの古書店の広告を見て手紙を書いたのがきっかけで、フランクとの古書の注文を通した一種の文通が始まる。古書店のたたずまい、なめらかで手にしっくりなじむ革装の古書、その匂いや埃、それもロンドン!どうしてこれを見ずにいられよう。しかし哀しいかな、素養がないので彼らが語る本の内容がピンと来ない。けれども、本(外も中も)を愛する気持ちと彼らの持ち合わせているユーモアは十二分に伝わってくる。新刊の本がどんなに好きではないか、古書が、その本のもとの持ち主の好んだページがたやすく開くことがどれほど好もしいか。そして物言わぬ古書そのものが目に見えぬ魔法の粉のようにまた新しいエピソードをまとうことが、どれだけその本に関わった人々を豊かにするか。今ならば、ニューヨークからロンドンに飛ぶことなどそれ程のこともないのだろうに、ヘレーヌはいつの日かロンドンを、チャリング・クロス街84番地にあるこの古書店を訪ねたいと切望しつつも年月ばかりが経ってしまった。ついに、ロンドン行きの、そしてフランクに会うという願いは叶うことなく、突然のフランクの死によって20年の交流は無慈悲に断ち切られるのである。戦後の貧しいロンドンの食糧事情とニューヨークのそれとの対比をはじめ、時代の変遷が織り込まれているさりげない具合がよい。ヘレーヌが着ている服が、ちょっとださいのだけど、20年間たいして変わらないスタイルで、学生っぽくて着ていて楽そうで、色味も好き。冒頭を除いては古書店以外のロンドンの映像が余りないのが不満だ。実在のヘレーヌ(本ではヘレーンと訳されている)の編纂による書簡集『チャリング・クロス街84番地』(中公文庫)も読む予定。
紅玉の残りを使って簡単アップルパイ作成。冷凍パイ皮、出来合いのスポンジ、電子レンジレシピのカスタードクリームでちょちょいのちょい。栗原はるみのレシピだが、この場合はカスタードはもうちょっとゆるくてもよいと思った(コーンスターチ大2、グラニュー糖大2,牛乳100mlを混ぜて電子レンジに1.5分ほどかけ、全体が持ち上がってきたら取り出して泡立て器でよく混ぜ、熱いうちに手早くバター大1をまぜ、溶けたら卵黄一個をさらに混ぜ、均一になったらできあがり)。パイ皮、1p厚さにしたスポンジ、カスタードの順にパイ皿に敷き込み、櫛形に薄く切ったりんごを綺麗に並べて200度で45分程度焼く。元レシピだとカスタードにクリームチーズを混ぜるのだが、別になくても可。
これが細々自分で祝う誕生日ケーキの代わり(;.;) 娘はライブ、長男は塾、連れ合いは出張でそれぞれ不在。なぜか次男が自分ととうさんからと言ってプレゼントしてくれたのが、「A〜!」という立体迷路で、ホントは先日百貨店でデモをやっていて自分でトライしてみて面白かったのよね>次男。包装を解くや、次男の手から離れず。
2001 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 | Index |
2002 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |