2011年12月17日                                     表紙に戻る

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5.関ヶ原〜垂井〜赤坂〜美江寺〜河渡

先々週の紅葉の世界から一転して銀世界。季節の移ろいは早い。

関ヶ原の銀世界も垂井まで来るとほとんど無くなり青空が広がっていた。
雪雲に包まれた伊吹山から、遠くに望める岐阜の金華山(岐阜城)に向かってひたすら歩く。
標高120mの関ヶ原から標高10mの赤坂に下り、後は真っ平らの濃尾平野。
今日は木曽三川の内、揖斐川、長良川を渡る。
8:05 関ヶ原駅
 伊吹山は雪雲に隠れて見えないが、その東の山は日の光を浴びて輝いている。
 標高はたった120mしかないこの関ヶ原が、日本海側と太平洋側の天候を分けている分水嶺になっている。(実際は伊吹山が分けているのだが)
 
8:15 関ヶ原宿の民家
 車の通る部分は雪が無いが、それ以外はくるぶしまで積もった雪で歩きにくい。凍っているのであまり濡れないのはいいが、滑りやすく気を遣う。
8:30 野上の松並木
 流石に江戸時代の松ではないだろうが、雰囲気はいい。
  ここは家康の最初の陣があった場所に近いところなので、その昔は軍勢の行き来で殺気立っていたのだろうが、今は静かな時が流れている。
8:35 六部地蔵
 六部さんとは、各地の寺社を巡礼しながら修行している行者のことで、この地で亡くなった六部を弔った地蔵堂。痛い病気に効能があるそうだ。
 話は変わって、ここにも水準点がある。水準点を辿っていけば旧街道を辿れる。
9:05 垂井の一里塚(日守の一里塚)(6332歩)
 板橋の志村の一里塚とここだけが中山道の史跡一里塚となっている。
 ここは、南側の塚だけが残っている。
 中山道には両側残っている一里塚も結構残っているので、これからが楽しみ。

 ここの脇に、江戸末期に建てられた茶店がある。
 実際には、関ヶ原と今須の間にある常磐御前の墓の傍に建てられていた芭蕉ゆかり秋風庵を明治に移築したもので、昭和の初めまで中山道の往来の人の休憩場所で賑わっていたそうだ。
9:30 垂井宿の商家
 文化末年(1817年)に建てられた油屋。
 明治以降は旅人宿になっていた。
9:30 垂井宿の旅籠
 こちらは江戸時代からの旅籠。
9:35 南宮大社の大鳥居(8576歩)
 ここから1km南に金属の神様である南宮大社がある。
 その門前町としても垂井宿は発展してきた。
 鳥居は寛永19年(1642年)頃、その前にある常夜灯は天保11年(1840年)の銘がある。
9:40 垂井の泉
 鳥居から南宮大社の方へ150mほど行った所に「垂井」の名前の元になった泉が湧いている。大ケヤキの根元から湧き出していて、この大ケヤキ共々有名。
 この垂井宿には、泉があちこちに湧いていて、郡上八幡の宗祇水のように、水汲み場、洗い場として整備されている。
 今日の寒さで湯気が立っていた。
9:45 垂井の旅籠(亀丸屋)
 今なお現役の旅館をやっている旅籠。
 安永6年(1777年)に建てられた亀丸屋は垂井の東の入り口にある枡形(クランク状曲がり角)の角にある。
9:55 垂井追分道標
 垂井の東外れにあり、ここから大垣を経由して東海道に行く美濃路が分岐している。
 「是よ里 右東海道大垣みち 左り木曾海道 たにぐみみち」と刻んである。宝永6年(1709年)の銘。
 以前、岐阜県に入ったところで美濃路と書いたが、正確には美濃路というのは垂井から大垣宿、墨俣宿、起宿、萩原宿、稲葉宿、清洲宿、名古屋宿を経由して東海道の熱田宿に繋がる街道のこと。
 濃尾平野を斜めに横断している。
 家康が凱旋したときに通ったことから、吉例街道とも呼ばれていた。
10:20 美濃国分寺前から見た関ヶ原方面
 相変わらず、伊吹は雪雲に覆われて姿を見せないが垂井あたりからは雲一つ無い青空。
 この辺りは広々とした田畑が広がる。
10:30 美濃国分寺跡七重塔の基壇(13493歩)
 この塔の基壇だけが田畑に埋もれずに残っていたため美濃国分寺の遺跡であることはわかっていたが、昭和43年からの発掘で、東西230m南北250m以上の全貌が判明した。
 これらがそのまま史跡公園になっている。
 
11:00 昼飯町の水準点
 これも神社の門前にあった水準点。標高23.1m。
 ここは石の標柱を埋め込んで回りを保護石で囲んでいる。ところによっては金属のプレートを埋め込んでいるものもある。
 本当に忠実に中山道沿いに水準点を設けてある。これも歴史。
11:20 赤坂宿の街並み
 うだつの上がった町家が続く。ここら辺りは二階も十分な高さを取っている。ここから濃尾平野に下って行く。
11:30 赤坂宿の町家
 半二階を白と黒の漆喰で塗った町家。近江のように天辺の小屋根は見られない。
11:40 赤坂港跡(19501歩)
 赤坂宿から下って標高10mになったところに港がある。
 この赤坂港は杭瀬川、揖斐川を経由して桑名の七里の渡しまで40kmの距離にある。その間で標高が10mしか上がらないのだから舟運も発達したのだろう。(京都ですら標高45mなのに船便があった)
 ここから岐阜市内までずっと標高10mの低平地が続く。
 洪水との格闘が続いてきた土地。

 奥の白い瀟洒な建物は明治の頃の赤坂の警察署。なかなかハイカラで手前の古びた川灯台と好対照。
12:40 聖観音道しるべ(23806歩)
 「右ぜんこうじ道 左谷汲山ごーといび近道」と見える。
 ここからは北へ揖斐川右岸沿いに神戸、揖斐を経由し、16kmほど行くと、那智山青岸渡寺を始点にする西国三十三カ所の終点になる谷汲山華厳寺がある。
13:20 坂下の道しるべ
 「右すのまた宿え」と書いてある。右は墨俣宿に通じている。左下の道が中山道。
 これが建てられているのは大島堤という平野井川の堤防であるが右岸のみしかない。しかも5mはあろうかという盛大な堤防である。平野井川はこの先で揖斐川に合流するので、この堤防はこのまま揖斐川右岸の堤防となり、揖斐川からは大垣には水を行かせないように、大垣輪中を構成する堤防になっている。
 これも長い間に培った洪水対策なのだろう。
13:30 小簾紅園(28459歩)
 和宮にちなんで作られた紅葉のきれいな庭。「おずこうえん」と読む。
 そもそもは、ここは呂久川(揖斐川)の渡し場だったところ。その舟の中で和宮が「落ちてゆく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ」と詠んだことにちなんで作られた。
 大正14年に揖斐川の改修で揖斐川(呂久川)の経路が変わったためここにあった船着き場はなくなった。
13:40 揖斐川堤防
 いよいよ揖斐川を渡る。木曽三川の東から木曽川、長良川、揖斐川となっており、まず一番西にある揖斐川を渡る。
 大正時代まではここには揖斐川はなく、先ほどの小簾紅園のところで渡っていた。
 垂井あたりから見えていた金華山(正面の山)も頂上の岐阜城がはっきりと見えるようになってきた。
14:10 美江寺宿付近の柿畑
 美江寺は富有柿の発祥の地。江戸時代からここらあたりは柿の名産地だったが明治時代に美江寺の傍の居倉で品種改良で富有柿を作った。それが全国に拡がって甘柿の代表品種になった。
 背丈ほどの柿の木が延々と広がっている様は壮観。
 木なので洪水や浸水に強いのか川の傍にも多い。
 ちなみに美江寺宿にはもう一つマクワウリという名物があった。真桑というのは美江寺宿のすぐ北にある集落でその名物だったので「真桑瓜」。学名はそのものずばりのCucumis melo var. makuwa。
14:15 美江寺千手観世音堂(33596歩)
 美江寺宿の西の入り口にある天保4年(1833年)建立の観世音堂。その中にある千手観音。
14:20 美江寺宿西口の道しるべ
 西の入り口にある道標(大正10年建立)。
 大正時代にもこの道がよく使われていたということだろう。
 今は、樽見鉄道が、大垣から、この美江寺を経由して、根尾川沿いに、根尾谷薄墨桜で有名な樽見まで通じている。途中にある水鳥では明治24年に起こった日本最大の内陸地震である濃尾地震(M8)で出現した6mの根尾谷断層崖が見られる。これは一見の価値がある。
 この地震のためか濃尾平野に入ってからは古い家が少ない気がする。
14:25 美江神社と旧家(和田家)
 中山道が突き当たるところに美江神社があり、その中に美江寺観世音堂がある。大元の観音は斎藤道三に岐阜稲葉山城下に移され、代わりに和田家の十一面観音を祀っている。
 和田家は美江寺城主の末裔。
14:25 美江寺宿高札場(復元)
 美江神社境内に正徳元年(1771年)の高札が復元されている。
 面白いのは駄賃も決められていて、赤坂宿まで人足一人44文(現在の金額で約2200円だそうだ)。河渡宿まで24文(1200円相当)。河渡宿までが一里、赤坂宿までが2.5里ぐらいなので時間当たりの労賃と考えればそれほど違和感はない。タクシーと一緒で帰りは自分持ちということか。 
14:30 美江寺の旧家(造り酒屋の布屋)
 巨大な旧家は大抵造り酒屋。この店は元禄9年(1696年)創業で、現在も酒屋を営業している。
 美江寺宿では唯一濃尾地震で倒壊しなかった家。
14:35 さぼてん村
 ここは国産さぼてんの9割を出荷しているところ。
 この規模は世界最大だそうだ。10万m2の面積で50万本育てている。
 何もこんな肥沃で湿潤な平地でサボテンを・・と思うが、工場や団地を造るのと一緒、逆に言えば日本の農業かくあるべしというところか。
14:40 五六川
 美江寺宿が中山道56番目の宿だから五六川と名付けたそうだ。
 この五六川が長良川に合流する地点が墨俣の一夜城。
 美江寺宿は実際には55番目だから出発地を一番目と数えたことになる。
 中山道は大津を含めて69の宿があるから、ここまでに15の宿を通って来た。和宮が岐阜加納まで6日掛かっているから良い調子だろう。
14:50 本田代官所跡
 本田は美江寺宿と河渡宿の中間地点で、幕府直轄の代官所が置かれていた。
 川崎平右衛門という代官は治水に功績があったということで川崎神社に祀られて今でも地の人から崇拝されている。
15:30 河渡宿街並み
 河渡宿(ごうど)は岐阜とは長良川を挟んだ対岸にある宿。
 ここで長良川を渡し船で渡る。舟賃は6文(300円相当)。
 河渡は長良川の堤防工事で半分は堤防の下になってしまった。
 戦災もあってほとんど焼失してしまった。
15:55 長良川堤防 一日市場 小紅の渡し(43143歩)
 長良川には、河渡とこの一日市場の2カ所の渡しがあった。河渡から1.5kmほど上流のこの渡しは県道の一部として残されている。
 5kmほど上流の金華山(川向こうの山)の麓の長良川で鵜飼いが行われている。
 岐阜駅前の高層ビルもよく見える。これを渡れば岐阜市内。
16:00 小紅の渡し
 流石に手こぎの櫓ではなく船外機だが、県道ということで無料。
 一日市場側の堤防の小屋に渡し守がいるので岐阜市側からは手を振るなどして呼ばないと渡れない。一日市場側は船着き場があるが、岐阜市側は岸に乗り上げて乗り降りする。
 この渡しに乗りたくて、美江寺を出てから時計とにらめっこで歩いて、刻限の5分前に到着。まるで走れメロス。道を間違えたら一巻の終わりとなるところだった。

 ここから鏡島まで行って今日は終わり(16:20 44841歩)。東海道線西岐阜駅から電車で帰宅。

以上、ここまで26.6kmでした。
 西岐阜駅から名古屋までは570円30分。近くなった。

 今回は、今までのような千数百年の歴史はないものの、近世の無名の人々の営み、特に濃尾平野の水との戦いが興味深かった。河口から40km遡っても標高10mという傾斜の無さでは、水は勝手に方向を変えてしまう。濃尾平野に網の目のようにある川の流路を流れやすいように変えて、来て欲しくない方向に大きな堤を作って輪中を囲ってしまう。感動ものです。
一歩一歩の大切さというとこじつけ過ぎか。

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