2012年1月28日                                      表紙へ戻る

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7.鵜沼〜太田〜伏見〜御嵩

やっとおとそ気分も抜けて歩き始めた。
今までの平地から、いよいよ中山道らしい山道や木曽川沿いの崖の上を歩く道が出てくる。
鵜沼から太田までは、日本ラインと称される木曽川の急流沿いを歩く。
今日は、木曽三川の3番目の木曽川を越える。
8:55 陰平山頂からの犬山遠望(2530歩)
 先回の赤坂地蔵堂から鵜沼台住宅団地を越えたところで、ちょっと寄り道をして木曽川が望める山頂展望台へ。
 鵜沼の市街地の向うに木曽川と犬山城が望める。もっと見通しが良ければ名古屋駅前の高層ビル群も見えるはず。
8:55 陰平山頂から木曽川上流方向遠望
 北を望めば、これから歩く、パジェロ製造がある坂祝(さかほぎ)の町が望める。
 うとう峠から下って、ちょうど木曽川がカーブしているあたりに下りることになる。この辺りは両側から山が迫って、日本ラインの一番の急流になっている。
9:15 うとう峠の一里塚(4761歩)
 道草はここまで。
 うとう峠の一里塚は北側の塚がほぼ原型を保っている。
 南側はわずかに残っているだけ。
 ここから山道にかかる。下りであるが、雪道なので気を遣う。
9:30 うとう峠からの下り道
 鳥居本宿の摺針峠以来の土の山道。これぞ中山道という雰囲気になってきた。もっとも鵜沼の住宅団地も現代の宅地造成の結果であり、昔は鵜沼宿までこのような山道だったらしい。
9:55 岩屋堂観音付近の崖をへつった道(8238歩)
 木曽川が崖に迫って流れているので、崖の中腹を削いで細い道を作ってある。
 こんなところを和宮は籠に乗って通ったのだろうが、怖かっただろうな。
9:55 崖の道からの木曽川の眺め
 カメラだけを突き出して撮った木曽川。今は冬でもあるし、農業用水や水力発電などで取水されて水量は少なそうだが、水量が多い昔は怖かったろうな。 大正時代にダムが出来るまでは、この先の伏見宿の新村湊まで舟運があったというから、相当な水量だったのだろう。
10:50 太田宿付近の木曽川
 太田宿の辺りまで来ると平地が拡がり、木曽川も緩やかな流れとなってくる。遠くには雪を頂いた御嶽山も見える。
 こちら側の右岸沿いに太田宿の町並みが伸びる。
 この辺りが渡し場であるが、川の流れが変わると移動し、何カ所かに渡し場の跡がある。
 この渡しが、中山道の三大難所と呼ばれて「木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と謡われた。
11:15 太田宿本陣門(16161歩)
 門だけが残っているが中々雄大な造り。この門は文久元年(1861年)和宮下向のために建てられた。太田宿は木曽川の水運などで結構栄えたようで宿場の構えが大きい。
11:20 太田宿脇本陣林家
 現存している数少ない脇本陣で、明和6年(1769年)建造。
 250年近く経ったとは思えないほどきれいに保存されている。
 この脇本陣で、槍ヶ岳開山の播隆上人が天保11年(1840年)病没。この林家が墓を建て弔った。
 又明治15年(1882年)4月4日に宿泊した板垣退助が翌日岐阜で暴漢に襲われ、あの有名な「吾死スルトモ自由ハ死セン」という名文句が生まれた。
11:20 太田宿林家隠居家内部
 手入れがいいのか、朽ちたところが見あたらず、内部もきれいに整っている。
 太田宿全体では、ほとんど古い宿場町の雰囲気はないが、この脇本陣は、これぞ旧家の見本といえる雰囲気を味わわせてくれる。
 高山本線、長良川鉄道、太多線が通り、5万人を擁するこれだけの街中でよく保存してきたものだと感心。
11:25 太田宿の町並み
 脇本陣から続く町並み。この辺りは古い宿場町の雰囲気を残している。
11:25 旅籠小松屋
 江戸時代の有名な旅籠。
 この建屋は江戸時代末期の建築で、大正以降は煙草の元売りに商売替えして店先を改造している。
 近江ではあまり見られなかった「うだつ」がこの辺りの旧家では必ずある。
11:55 太田橋からうとう峠遠望
 いよいよ木曽川を越える。遠くに見える山の間を木曽川は突き抜けている。その右側の山塊のうとう峠を越えると鵜沼宿。
 岩屋堂付近の木曽川からは信じられないほど川幅は拡がっている。それだけ水の勢いが穏やかということ。
 この付近に江戸時代後期から昭和の初めまで渡し場があった。
 又、この橋の近くから犬山まで日本ラインの船下りが出ている。
12:00 今渡の渡し場跡(20004歩)
 太田橋の少し下流の左岸から見た太田宿方向。
 明治時代には鋼線を渡してそれ伝いに舟を渡していた。
 昭和2年(1927年)に太田橋が出来たことにより渡しは終わった。
12:50 可児市中恵土付近の愛知用水
 この愛知用水は、ここから5kmほど上流の木曽川兼山取水口から知多半島先端まで112kmを、落差75mで自然流下させている。(ポンプ場なし、動力不要ということ)
 農家と教師という素人の二人が3ヶ月で計画図を引いて吉田首相に直談判したというプロジェクトXそのもの。
 1kmで僅か67cmの落差に水路を設計するだけでも気が遠くなるが、それを3ヶ月で計画するとは超人としか言いようがない。
 昭和の偉業として、新幹線もすごいと思うが、愛知用水の方が上かもしれない。農業用水として計画されたが、現在は工業用水が半分、上水道が3割、農業2割。
13:50 伏見宿の町並み(27401歩)
 伏見宿は他の宿より遅れて元禄7年(1694年)に設置された。
 近くの木曽川の新村湊の水運で栄えていたようだが、現在は、ほとんど往事を偲ばせるものは残っていない。
 この町並みと本陣跡の石碑ぐらい。
14:15 顔戸付近
 伏見宿と御嵩宿の中間地点で「ごうど」と読む。河渡、神戸など「ごうど」と読む地名は多い。河渡は長良川、神戸は揖斐川と木曽川の近くにあるので、川に関係があるのかもしれない。ちなみに、この顔戸は可児川の近く。
 この辺りはゴルフ場銀座でもある。周りの丘陵地帯には数多くのゴルフ場があり、ここからさらに中山道を進んでいくと、ゴルフ場の中を通るところもある。一応ネットが張ってあるが路上にボールが転がっている。
14:50 御嵩宿付近の旧家
 御嵩宿の外れにある旧家。格子が美しい。また格子の出窓が目の高さに設けてあり何か飾り物でも置くのかもしれない。
15:10 中山道みたけ館収蔵の石像の裏に彫られた十字架
 御嵩宿と細久手宿の間にある謡坂付近は隠れキリシタンの里と言われ多くのキリシタン関連の物が見つかっている。、柱の中をくり抜いて隠されたマリア像であったり、水神様の「水」の字が磔になったキリストだったりいろいろ。昭和56年頃に偶然発見され、その後次々に見つかった。
15:10 御嵩宿本陣
 明治、大正に建て替えられてはいるが、堂々とした雰囲気は残っている。
15:20 商家竹屋
 竹屋そのものは江戸時代の商家で御嵩宿の組頭との記載がある。
 建物は明治10年(1877年)建築。明治以降は総合商社のような機能を持っていた。
15:20 大寺山願興寺(34616歩)
 御嵩宿の西の端にある弘仁6年(815年)創建の古刹。
 御嵩宿の扇子の要のような感じで蟹薬師と呼ばれ親しまれている。

以上20.9km。犬山からうとう峠付近がうっすらと白くなっていたが、風もなく穏やかな一日でした。
これで平地とは関東平野に出るまでおさらば。しばらくはアップダウンのきつい道になる。

今回感じた木曽川の厳しさが中山道の性格を決めているのだろう。御嵩〜大井、中津川〜妻籠はひたすら木曽川を避けてあえて山道を選択している。太田宿の渡し場も木曽川に翻弄されて次々と場所を変えている。昔の人は木曽川を畏れそれに自分たちを合わせて来ている。大正以降木曽川にダムや堤防を造ってきたが、畏れる気持ちは持ち続ける必要があると感じた。

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