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朝からまこりんと落ち合って、遠路はるばる1時間かけて高楼方子(午前)、上橋菜穂子(午後)の講演会へ行く。平日より早起きだ。何故かこういう時には寝坊も遅刻もしないこの健気さ。出掛ける直前にあの金この金をくれ〜という金くれコールに負けて乏しいお財布の中の有り金をはたかされる。辛うじてバス代とイオカード(残額ぎりぎり片道分くらい)があったからよかったようなものの、現金100円あるかないか。最寄りの駅には8時45分頃着くから、その辺でお金をおろせばいいや、と高をくくって行ったら、何と日曜はATMは朝9時からの営業なのね。8時56分の電車に乗らなくちゃ間に合わないので諦めて電車に乗り、降りた駅前の銀行に行くまではとても胸元というか懐が寒かったことこの上ない。家を出るとき折悪しく雨が降り出したので、これから一日、寒いばかりか冷たい思いをしなくちゃいけないのかと思ったが、結局何とかほとんど傘ナシですんだのはよかった。持参した折りたたみ傘がどうやっても開かなかったからだ。無一文で氷雨で傘がないなんて羽目にならなくて良かった。
さて高楼方子も上橋菜穂子も、どちらも私には二度目の講演会で、大筋としては前回と似たような内容だと言えばそうだが、それなりに枝葉の繁り方が違っていたのでまた面白さ格別。どちらの回も演者の斜め前に陣取ってお顔を間近に見ながらお話を伺う。高楼方子さんは、ふわっとして可愛らしく、やや下がり気味の大きなお目目が印象的な「永遠の少女」タイプ。声がまたかわいくて、声優も出来るんじゃないかと思っう。ややとりとめがなかった前回(今年の1月@クレヨンハウス)よりもお話に慣れたご様子で、子ども時代からお話を書く人になって行くまでのことを、生き生きと語られた。小学校時代に何より好きだった国語の、自分なりの予習の仕方というのが皆の「スゴーイ」という歓声を呼んだ。新しい漢字を調べて、それを使った言葉を書き出す。熟語も同様に調べて、更にそれを使った文を書く。等々、うわー、言葉を自在に使えるその下地はこんな所にあったんだなァと、感心した。今回は「雑巾のように」頭を絞って苦しんで書く、と言うことはおっしゃらなかったけれど、「おはなしのタネを(と指先でつまむように)少しずつ広げて…拡張していく(とじわっと指先を拡げる)」と言うあたりに創作方法をかいま見たように思った。このことが書きたい、こういうことを子どもに伝えなくちゃ、と言う動機から書き始めたのではなくて、とにかく「おはなしを書く人になる」というのがスタートだったこと、何もなかったところに、確とした世界が屹立する、そういうことがしたかったこと、など。来年100枚くらいの中編が出版予定と言うこと。最後に、いつの日か出版されるであろう「こぶとりたろう」(早ければ来年、遅ければ15年あと?)を、プリントアウト片手に読んで下さった。サインしていただくときに、「自画像を」とお願いすると「うーん、じゃあ、まあちゃんを」と『まあちゃんのながいかみ』の主人公を描いて下さった。長編をぜひ書いて欲しいと言ったら、自分でも書きたいし、書いてと(編集からも)言われているので、実はもう今頃書き始めていたかったのだが、来年にはきっと取りかかるから、というお返事を頂いた。
午後の上橋さんのお話は、開口一番、講演はあくまでも一回性のもので一期一会だと思っているので、ネットで公開しちゃダメです、とバッテンサインをされたので、書きません。相変わらずからだは小粒でもエネルギーはバッチリ。新作のネタバレも少しはあったけれど、偕成社の『神の守り人』スペシャルサイトのネタバレをさほど大きく出るものではなかったと思う。オーストラリアの神話と自作のかかわりについてのお考えを質問してお答えを頂けたのが収穫だった。
終了後、新宿で、まこりん、MAKIさん、大江戸さん、木の実さん、爽子さんの6人で講演会報告兼だべりの食事会。4時半まえから9時まで、「今日は本屋に行かなかった!」とある人がえらいでしょとばかりに言えば「私も行かなかった!…なのに本買っちゃったのよねえ(講演会場で)」と業の深さに気付く人あったり(私だ)。
今日は何曜日ですか、まだ月曜日ですか、うそでしょう、嘘と言ってえ。
なんかくれ、っていった覚えもないのに、ご親切に神さまかだれかが、ものもらいをくれた。左まぶたが腫れているので、余計、疲れたような寝不足のような気分である。
ファックスで毎年恒例のお歳暮を申し込む。それ程数は多くないが、やはり日頃お世話になっている方に年一度のご挨拶を、と思うといくつかの数にはなる。年賀状はまた少し違った意味合いもある。この年賀状では以前非常にがっかりしたことがある。職場の年上の女性が、ある年の暮れ「職場内では年賀状はやめましょう、書くのも大変だし、どうせまた新年すぐに会うし、たいてい年末に投函して新年に顔を合わせたあとで届くんだから、すっぱりナシにしよう」と宣言した。皆それにはもちろん賛成したのだが、その次の言葉がいけない。彼女「虚礼廃止っ!」と叫んだのである。えっ、少なくとも私はちゃんと、親しい人だからきちんとご挨拶と思って出してたよ。アンタこれまで私たちの年賀状はずーっと「虚礼」と思って受け取って、「虚礼」と思って出してたのね。なんて傲慢な。いいえ単に「お互いに忙しいのだから手間のかかることはやめましょう」という意味で言ったに過ぎず、それ以上に深い意味、まして「虚礼」の本来の意味なんて考えて言ってないわよ、と言われればそれまでかも知れない。しかしそういう言葉を考えもしないで平気で言い放つ無神経さを傲慢というのだ。言葉にはちゃんと言葉なりの意味がある。それなりに尊敬する部分のある人だったが、そのころから彼女を見る目が変わり始めたのは否めない。むしろその頃から彼女自身がはっきりとそういう人になって行き始めたのだったろうと、今は思う。
『祈りの階段』2/3くらい。実際に今のところ何が起こるわけではないのだが、本を閉じた後で、ぞわっと寒気を感じるタイプの話。ドラキュラ伝説で有名なイギリスの町で、古い修道院跡を発掘している女性が、この地に来て以来、毎朝、非常に大きな手の男性にナイフで自分の首を切り落とされる夢を見て飛び起きる。町と修道院跡を繋ぐ199段の階段で魅力ある若い男に出会い、彼が夢の中の男のように大きな手をしていることに戦慄も覚えるが、その一方次第に心惹かれてゆく。彼から修復を請け負った古文書を解読して行くと、そこには何百年も前に娘の首をナイフで切った男の告白が書かれていた。次第に現実と夢、過去とが境界をなくして行く。
『祈りの階段』読了、なんだ最後は普通小説になって終わるのか。主人公のシーアンはもともと古文書の修復士だが、ドラキュラ伝説の地ヨークシャーのウィットビーで修道院跡の発掘作業に携わっている。199階段で出会った、美しい犬を連れた若い医者マック(マグナス)から、瓶の中に入った古文書の解読を自ら進んで請け負い読み解く。発掘作業と、古文書の解読、シーアンの過去の経験と悪夢が、二重、三重写しとなる。古文書の内容がすべて目の前に晒された時、そこにあったかに思われた過去と悪夢の結節は、陽光を浴びた遺物が塵となって崩れ去るように消え失せて行く。彼女の腕の中には美しい犬が思いがけず残される。この、犬を譲り受けた時の「やった、やった、やった」が、まあ実感ではあるのだろうが文中のようにちょっとお間抜けだと感じたが、まあ犬のお間抜けな顔(シーアンのじゃなくて)に免じて許してあげよう。犬がいっぱんに間抜け面だと言うのはこの場合誉め言葉。
トールモー・ハウゲン『トロルとばらの城の寓話』を読もうと思っていたが、今日は職場の行事で大井町だったので、持ち歩くには重いため、急遽ル=グィン『言の葉の樹』を本棚から抜いて家を出る。「(略)飛行大隊が、コロラドからワシントン行政区に飛来してそこの図書館を爆撃した。(…中略…)何世紀もの歴史と何千万冊という書物を灰にした」から始まり、主人公サティがエクーメンのオブザーバーとして「観察」している惑星アカでの様々な文化(の記録≒歴史)が次々と消え去って行くさま、またサティ自身が、せっかく残されているそのわずかな記録である「挿絵、詩文、散文の断片」をも自分の手で消去しなくてはならないこと、などがわずかなページの中に矢継ぎ早に出てくる(現在43ページ)。これらはどの一つを取っても大変な衝撃であるのに、それがこうして次々とたたみかけられるので、あまりに辛く、車中で読んでいて胸がいっぱいになり目をしばたたく有様だった。破壊、消去、忘却という言葉が本を閉じた後でも頭にこびりついて、今歩いている世界の現実性が稀薄になるほどだった。文化と文化の摩擦を描き続けるル=グィンだが、ここには単に異文化の摩擦に起因する破壊と消去だけではなくて、同時に、我々の時代の一種の閉塞性を指して、すべてを破壊し、捨て去ること、ご破算にしてやり直すこと、を指向しているのだろうかと、いわば戦慄をも覚えたのである。もはやそれしか?
Atre大井町で、レピシエを発見し、シッキムは置いていなかったので代わりに似た感じかも知れないサキーラと、季節のクリスマスリース(と言う名のフレーバードティ)をちょびっとずつ買う。ダージリンは素敵だけれどいくぶん私には強すぎて、少し濃いのをストレートで飲んだ後など、お茶に当てられたというのか、一種気持ち悪くなることがあったりして余り得意ではないのだ。シッキムはダージリンによく似ているが、もっと微妙で、フルーティというのかフローラルというのか、むしろ日本語で花のような、とらえどころのない香り&味わいがあって好きだ。よく烏龍茶などで比喩ではなく「お茶に酔う」と言うが、紅茶でも同じことが言え、シッキムは酔えるお茶だ。サキーラはどうだろう。週末のお楽しみ。レピシエは池袋にもあるらしいが、ちょっとだけ駅から遠いな。サンシャインにだって足を延ばすことを考えればこっちの方が近いのだが、一度も行ったことがない。
そろそろ今年のベストを振り返る時期。うーんこれと言って突出したのがなかったような。今のところ『辺境のオオカミ』が印象に深い。けっこう指輪かも。あーっ、今日「ロード・オブ・ザ・リングス スペシャルエクステンデドエディション」(いったい何語だ)が届いていたのだった\(^O^)/
チェックテスト@えいご。課題の10行ほどの会話文を暗記して言えるようにして行き、先生とその例文のやりとりをし、似たような構文であとひとくさり話しておしまい。約5分。これが12課ある。不思議なもので、いま2課目の暗記中だが、1課目は情けないくらいなかなかなかなか覚えられなかったのに、2課目になったらぐっと覚える時間が短縮された。慣れとはおそろしいものなり。そうか昔からこれをやっておけば良かったのね(;.;) この前までの先生がおずおずと寄ってきて「ハーイ元気」と言うから「ノドが痛い」と答えたら、自分も週末風邪で2日寝込んでいたという。熱があってあちこち痛くて、薬を飲んでずっと寝ていたそうだ。「そういう時、一人だとさびしいでしょ」と訊いたら、「ずっと眠っていたから全然」と言う。ジョークではないし、自立しているのか鈍感なのか、前者と言うことにしておこうね。
『言の葉の樹』の続き、ほぼ半分くらいまで。どうにも人ごとのように読めない。サティが、アカの奥地オクザト−オズカトで、辛うじて残っている過去の残滓(この地ではそれらはまだ生きている)を、初めは監視官の目をくぐりながら、のちには大っぴらに、少しずつそして次々と学び始める。一種の狂言回しのような、制服の監視官は、今のところ背景に退いた。人々の口から、書物から、サティは学ぶ。アカの大陸は一つなので、人々は大体均質であるから、テラのような感覚での異邦人というものはないこと、霊的な規範に従って社会は営まれているが、それはおそらく宗教ではなさそうなこと、そのシステムは、樹木になぞらえられるらしいこと、等々。ル=グィンはサティの目を借りてアカの”教養ある人々”マズについて語るが、それはあたかも彼女の理想を語っているかのようだ。それらを読む時、ほとんどあこがれのようなものを胸にかき立てられる。また折に触れ、忘れること、失われること、葬り去ることへの危惧、怖れ、嫌悪が、サティの気持ちを通して繰り返し提示される。ル=グィンは様々なシミュレーションとして、彼女の物語を語ってきたのだろうかと、改めて感じる。その興味は、本当にはどこにあるのか?人を通してシステムを描くこと?あるいはその逆?つらつらと思い起こすに、彼女は、失うということを常に書き続けているような気がしてならない。時間を、人を、記憶を、文化を。
おお忘れていた、明日はまたチェックテストの2課めがあるのだった。次のを覚えるとせっかく覚えた前の課のを忘れそうだ。同じ課の中でも、テキストの例文の他に、違う言葉をはめ込んだ例も準備してきなさいと言われたが、せっかく覚えた最初の例文が出てこなくなっちゃったよ(;.;) まあボケ防止で、やらないよりマシ、ということにしておこう。来年になったらTOEICも受けてみなさいと言われているが、多分どこからどこまでが一問か判別できないに違いない<リスニング
けさ次男と図書館に行って、高楼方子をまた何冊かと、エドワード・ゴーリーの新刊を借りた。それと一緒に借りた『日本児童文学』9・10月号の、上橋菜穂子(&たつみや章)特集を読んでいたら、執筆者の一人伊藤遊が、女性だったことに初めて気付き、ぶったまげる。男性、それもいかにも少年らしいオトコノコだと、疑いもしなかった!「ゆう」と言えば確かに女性かも知れないが、「遊」が字画が多いためか男性名だと思いこんでいたのだ。恐るべし女性作家。同じく3・4月号の、こちらは高楼方子(&冨安陽子)特集では、たとえば『ココの詩』、『時計坂の家』の終わり方が、読者である子どもにたいしてこれでいいのか?みたいな点で疑問を呈している意見が複数あったが、仮に作者の力不足や成功しきれていない点があったとしても、まさに奈落や陥穽を描こうとしているものに対してそれはないだろうと思った。まず作品そのものを見て語って欲しい。第一義的に子どもの「ために」書かれた作品ではないのだから。もう、ほんとに「日本児童文学」という縛りの中でしか読んでないのね。そんなの放っといて、たかどのがんばれ!どんどん好きに書いてくれい!
えいごチェックテスト、2課目クリア。きょうはテストのためだけに行ったので、ウォーミングアップなしにいきなり英語を口から出さなくてはならず、ドキドキしてしまった。しかもほとんど初めて喋る先生だったし。でもよかったー。これからしばらく、毎週1課ずつ。最近は通勤途中などイヤホンで英語のMDを聴きながら、ふと気付くとブツブツ声に出して歩いているので、はたから見たらちょっと怪しい人になっているかも。逆に、声に出さないと身に付かないと言うことなのだろう。これまではCDなどを聴いても、頭の中で言ったつもりになっていただけだったから、聴かないよりマシではあったろうが、口から出す練習にはなっていなかった。通い始めてもうじき丸一年になるが、先日娘に、知っていることでもなかなか口から出なくていやになっちゃう、とこぼしたら「でも前と比べて少しは上達してるんでしょ?」と鋭いつっこみが入った。「うー」としか返答できず。即座に肯定できないところが、語学学習のもどかしさだよね。さて次回3課目は、と…。な、長いっ。覚えられるのか?1日15分繰り返して練習すればいいのよ、と言われたけれど、その15分、集中する15分をひねり出すのが難しいのさ。
ついリブロをさまよう。『マイノリティ・リポート』はどうせ映画を見たらまた読みたくなるに決まっているので、多分実家のどこかにあるはずだが、つい買ってしまった。サトクリフの新刊がまた出ていた。ロフトの文房具売り場(なんて楽しいんでしょ)に続き、クリスマスカード売り場にも引っかかり、家族の分、友人の分を買う。一枚は300〜400円程度なのだが、100円ほどのファイル数冊とあわせて3000円を出たのにはちょっとばかりギョッとしてしまった。
娘のサンタとして新宿へ引っ張って行かれる。あー、せわしなかった。やだよ休日の盛り場は。彼女の目当ての店が駅から比較的近くて良かった。さほど人混みを歩かずに済んだ。ついでに紀伊国屋でも寄ろうかと一瞬思ったが、何だか疲れて、バイトへ行く娘と別れてそのまま家へ直行。帰宅したら何だか気分がすぐれずダラダラ過ごす。スペシャルなんとかのアルゴナスの像は、確かに欲しいけれど、やっぱり脳内映像として保存しておこう、と自分を納得させる(;.;)
『言の葉の樹』はちびちび読み進む。一行八人で山へ向かうところ。『闇の左手』をやはり思い出す。
次男が、「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」が気に入ったと言って、昨日、今日と繰り返し見ている。でも「どうしてジャックはすぐしゃべってるのが歌になっちゃうの」と何度も言って首を傾げている。それと題名が難しいらしく「あの、クリスマスなんとか」と言ってごまかしているのだ。
中野にて職場のイベント。朝起きたら雪!深夜降り出した時は、「どうせ積もらないよね」なんて言っていたのに、半ば予想外の銀世界は嬉しいような哀しいような。10時集合だったので、いつもより30分以上遅く出た。バスはほとんど時間通りに来たし、電車もダイヤは大幅に狂っていたがそこそこの間隔で来て空いていた。乗り換えも順調。ところが目的地に着いてみると、誰も彼も遅れる、途中で足止め、と言う状態らしい。私と前後して家を出た連れ合いや娘からも「超混雑!」とか「入場制限」とかいうメイルが入る。ああ私は運が良かったのねえ。
昨日は月曜だったのに、イベント終了後打ち上げがあったので、今日が一体何曜日だか一日中しょっちゅう勘違いし続ける。火曜です、火曜。大雪の次の日も台風の翌日のように暖かいことが多いが、今日は寒い!冷たい!いつも通りのアウトドア用のコートを着て手袋をしていても、寒気がしみ通ってくる。
クリスマスカードを何通か出すのと、払い込みとで郵便局へ。クリスマスカードはエアメイルでと言ったのだが、後で考えるといやに料金が安いように思えてならない。もしや、あれ船便で行っちゃうのでは?
まだ『言の葉の樹』。昨日今日と、ほとんど読めず。ここ三ヶ月ほどの仕事が一段落したので、次の段階のことと、時期的に別の仕事の締め切りとが重なっているので、今日もせっかく郵便局の帰りに買ったサンドイッチ(小)を、食べようとした途端に人が来てあきらめ。昼休みが私の大事な読書時間であり最近は大事なえいごの暗唱時間なのに。今週の例文はもう覚えたが語句を取り替えるのがまだ。先日娘とこの話をしている時、「いっしょうけんめい英会話やってどうするんだかね」とやや自虐的に言ったら「そうだね。…趣味?」とあっさり言われた。趣味、ではないけれど、使う機会がないのはたとえ下手でもつまらない。読む方もすっかりご無沙汰しちゃってるな。
『言の葉の樹』読了。今年のベストにほぼ決定。うーん少なくとも上位には絶対!泣きました泣きました泣きました。うわあああん。切ない。監視官ヤラは、最後にどうしてもそうせねばならなかったのか。民俗学だの文化摩擦だのフェミニズムだのマイノリティだの民族抗争だの宗教だの…モチーフは多彩で切り口は幾つもあるのだが、まず、それらを呑み込んだ、サティの視点に寄り添って語られる飾らない素朴な叙述をそのまま味わいたい。心に残る言葉は幾つもあったが、原題の"The Telling"を念頭に置く時、「語ること」の小ささと偉大さ、はかなさと永続性、その弱さと強さを何よりも感じずにはいられない。語ること、その主体は人。語られる言葉はむなしく空に消えるかも知れないが、どのようにしてかそれは根を張り生き延びる。これまで読んだ彼女の作品のどれにも増して、現代に生きる彼女とこの時代が色濃く投影されている作品だと感じた。いつもながらル=グィンの作品らしく小難しげな解説が付いていて(小谷真理)、それはそれでよいのだが、そういうの抜きで…解説片手に、という読み方ではなくて…まずごく素直に感じつつ読んで、幸福感を感じ取ることを優先したい。壁の象形文字が呼吸するように揺らぐこと、ただ語ること、ただため息をもって聴くこと、充たされること。ああやっぱりヤラを飛ばせて欲しくなかった。
アリスのフィギュア、長男の好意のたまもので、ようやく、「ヤマネをポットに押し込もうとしている三月ウサギ」が出た。最後の「トゥイードルダムとトゥイードルディー」がまだ出ない。ライオンとかトランプの兵隊とかチェシャ猫とか一角獣とかはいくつもだぶっているのに(;.;) メッセンジャー(白の王の使者)もまだ一つきりだ。
ファンタジー小説ファン度調査は352冊中223冊。でもすっかり忘れているものも多くて、総統がSFを語るようにはとてもとても。
職場の某委員会の忘年会。所内で一番(唯一)面白い委員会と、構成員は自負している。そりゃそうだ、構成員に管理職は一人しかいなくて、それも「少年」だからね。しかしこの酒席での話はどんどんどんどん落ちてゆき、爆笑に継ぐ爆笑…でもほのぼの可笑しいのは皆さんの人徳。腹筋の緊張が弛むことのない3時間であった。ビール大ジョッキ1杯くらいしか飲まずひたすら食べていたのに、帰宅したら、眠いこと眠いこと。肝臓でも悪いのかな。
英語の暗記、単語を変えて言おうとするともう、「えー…」と言ったきり遠い目。ガンバレ>自分
昨日から『トロルとばらの城の寓話』を読み始める。あまりにも寓意が先立って、なかなか先に進む気分にならない。ようやく今日になって慣れてきたのかスピードが上がる。『言の葉の樹』のすぐ後というのはちときつい。このタイトルだが、「寓話」という言葉は原題にはないのだと思うのだが(解読不可能<多分ノルウェー語)なぜわざわざ邦題には入れたのだろう。
それにしても寒い冷たい。風が余りないのが幸い。すっかり夜空は冬の星座だ。帰宅して洗濯物を取り込もうとしていると、遠くを動く飛行機の明かりがいちどきに4つも。それらが遠ざかった後に、木々の梢にかかる遙かな星の瞬きの冷たく美しいこと。
一昨日だったか、夕食時にアレアレっという感じで回転性の眩暈が。一瞬目を閉じて、目を無理矢理ぐりぐりっと反対回しして頭を振ったら、無事に直りましたとさ。ほんとか。たぶん寝不足と、この一週間ほど続いている肩から首のひどい凝りのせいでしょうが、回転性眩暈って、続くととーっても気持ち悪いのよ〜。無重力状態がああいう感じだとすると、それはなかなかきびしいかも(足が向いてる方が下 by エンダー)。逆に、眩暈で世界が回転するのにあわせて、足が重力から解き放たれて身体が空中で回転すれば楽なのかも知れない。ともかくすぐに治って良かった。
えいごチェックテスト、全く初対面の先生だったので、ひっじょーにあせって頭の中が2度ほど空白に…。でも何とか立ち直って、無事今週もクリア。今週は忘年会のため授業も今日に変更したのだが、その中で生徒同士にダイアログを会話形式で読ませている時、我々がひたすらテキストだけを見ていると、教師が「アイコンタクトは非常に大事!ショッピングの時などは客の方は別に店員とアイコンタクトしなくてもいいけれど、ビジネスでは信頼関係のために大事だし、空港などでは9.11以後は係員から不自然に目をそらすと即身体検査!になったりする。難しいのはわかるけれど、会話練習の時もアイコンタクトをするように努力して」と繰り返し言われた。チェックテストの時にも、あらぬ方を見てばかりいるとバツなんだって。
クリスマスを挟んで娘が友達とタイに象に乗りに行くので、早すぎるが今日クリスマスケーキを食べた。毎度おなじみ目白のルプティニ(ここのは天才的だね)。いいなあ、私もタイでもどこでも行きたい。休暇さえ取れればなあ。先立つものも問題だが。
昨日の午後中娘につき合って池袋を徘徊したのに、今日も朝から「買い出しに行こう」と連れ合い。私はLOTRのSEEを見ようと目論んでいたのに何故に〜。いやや〜。おかげでまだ見ることが出来ないし、本も一行も読めないまま。二日続けての買い物はいやだ。「マイノリティ・リポート」を見に、だったら良かったのだが。何だかもっぱら引きこもりへの道を歩んでいるような気もする。まあともかく、連れ合いの「サンタさんありがとう」だの、それらを入れる袋だの、クリスマスツリーのイルミネーションの電球が切れたののスペアだの、ポストイットだの(実はこれ大好きなんだ)、パンだの、買い物に行きさえしなければ散財しなくて良かったのにと言うようなものをいくつか仕入れる。忘れていた年末ジャンボとか。ロゴスキーのピロシキとボルシチを遅いお昼用に買って帰る。昨日は池袋は大変な混雑だったが、今日の方が空いていたようだった。あーもう年末まで買い物に出たくない。
で、今からその一部だけでも>LOTR
後刻。1時間ほどだけ本編を見た(吹き替え。これ、吹き替えも新しくし直したのかな?)。初っぱなから違う映画じゃないか。うえ〜ん、こうじゃなくっちゃ、これ絶対大画面(映画館)でやってね。ね、ね。エルフが森の中を灰色港に向かっていくシーン、「はいいろみなと」と言っていたでしょ。私はずっと「はいいろこう」と読んでいたのだけれど、どっち(;.;) それから、前から気になっていたことだが、吹き替えではガンダルフを「ガンダルフ」と言っているのだが、日本語で言うのだからどのみち正確ではないにせよ、やっぱり「ガンダルフ」ではなかろうか。とか色々。断ち切ったはずのアルゴナスの像ホスィ病が再発しそう。ああまた時間が許すかぎり指輪関連サイトを徘徊する日々がよみがえるのね。嬉しくもあり悲しくもあり。
えいごの暗記用のMDはウォーキングマシン(ステッパー)を踏みながら聞けばよいと気付いた。1クール15分だから2度聴けばちょうどいい運動だ。
このトールキンの装画による『ホビットの冒険』(→岩波書店)は、なんとオンライン書店から届いてみたら、左開きの横書きだったのだ。たしかに岩波のサイトには「本文横組み」と書いてはあるな。うーん、やっぱり紙面が美しくない。活字を工夫するなどしたら横書きでも美しく見えるようなレイアウトに出来るのだと思うのだが。まあ岩波がこういうことをするのは画期的なのか、それとも、絵本的感覚で単にオリジナルにあわせただけなのか。たまたま私の持っている遠い昔に買った"The Hobbit"のペーパーバックがこの表紙だったので、妙に見慣れた感じなのに、表紙タイトルが日本語なのが違和感があった。しかし良い時代になったことよのう。こんなのが日本語で出るのだから…!
『トロルとばらの城の寓話』をようやく読み終える。あんまり好きでない。現実の世界のことと一対一対応しているかのようなあからさまな寓意がどうも苦手。おとぎ話の皮をかぶっているにせよ、登場人物があまりにも類型的なことも減点対象だ。しかし子どもの立場と親の立場の双方から、わかるよわかる、と言う点と、身につまされてずきっとする点との両方があった。この白い城の住人の家族構成は父さま陛下と母さま陛下、いなくなってしまったお姫さま(長女)と王子(長男)、そしてたった一人残されたあたかも一人っ子のような次男坊の王子であるが、一方わが家の家族構成も夫婦と長女、長男、そして年の離れた次男、と似ている点がコワイ。書かれたのが今から20年以上前の1980年と言うことは一応書き留めておいても良いかも知れない。多分日本がこの本のような状況に追いついたということだろうか。潜在的あるいは水面下にあった親子、家族、自分自身のあり方を問うような問題が遍在化してきて声に出して語れるようになったように思う。最近女性同士で話していて感じたのは、女性が個としての自分の生き方を自律的に考えるようになってきたこと。それはたぶんさほど年代に関係がないように思える。女性同士が何を語らっているか、男性諸君はご存じなんだろうか。どうせまた女の井戸端会議だと相変わらずたかをくくっていると、ある日突然青天の霹靂ということになるかもよ。
『ジャングルの国のアリス』(→未知谷)を読み始め、半分くらいのところ。80年前のアフリカと白人女性といえば、ぱっと思い浮かぶのは『アフリカの日々』(原題"Out of Africa")のアイザック・ディーネセン、じつはカレン・ブリクセンだろう。男性名を騙って作家として活動した点などもアリスと共通している。ディーネセンがケニアにいたのは1914年〜31年なのでちょうど年代もだぶっている。『アフリカの日々』のほうは最近テロがあったケニアのモンバサ付近が舞台であるが、『ジャングルの国のアリス』では、南アフリカから鉄道で北上して中央アフリカのビクトリア湖のほうへと向かって旅していく。シカゴに住んでいたなんと5歳のアリス、後のジェイムズ・ティプトリー・ジュニア(=アリス・シェルドン)は、マウンテンゴリラを捕まえに行くというエイクリーおじさんに誘われ、父母らと一緒にアフリカを嬉々として旅するのである!著者メアリ・H・ブラッドリーはアリスの母親だが、子どもに向かって語っているような、しかしおもねらない、抑制が利きながら楽しげな筆致がよい。その頃の考えかたや地理、歴史の説明なども上手に挟み込まれている。お人形のような幼いアリスの写真やアリスが描いたという線画(地図とゾウ)なども、可愛いと同時に資料的価値も高い。彼女はアフリカで6歳の誕生日を迎え、これから誕生日はいつもアフリカで迎えるのがいいな、と思う豪傑なのである。
『ジャングルの国のアリス』はようやく目的のゴリラとの遭遇。はつらつとした文が好き。
心当たりもないのになぜか腹筋(上部)が痛い。昨晩30分ステッパーを元気よく踏んだほかには筋肉を使うことはしてないのだが。そのせいかどうか、眠くて死にそう。おまけに職場の女性がえらくひどい咳をして、マスクもせずに至近距離に出没していたので、現在もしや私の鼻・のど粘膜でウィルス増殖中かも。ウワァン、今週の金曜日は食べるのが中心の忘年会なのに。悪化せずに済むか>自分
職場で、同じ部署のおねえさまに、他の部署の人から来たメイルに依頼文とちょっとしたコメントをつけて転送した。おねえさま、依頼内容をすぐに処理してくれて、私と元の差出人にCCで報告してくれたが、そこには私が彼女に送ったメイルがそっくりそのまま引用されていた。ところが、私がくっつけた「ちょっとしたコメント」は、元の差出人に読まれたら誤解される可能性大のものだったのだ。ある文脈をふまえた上でそのコメントを読めばどうということもないのだが、そこだけ読んだら私の立場まるでなし、というようなものなのである。まあ何と取り返しのつかないことをして下さっちゃったことよ。私が事情説明するためには、あと二人の同僚を悪く言わざるを得ないという状況だ。おねえさま、あなたが「自分が軽率でした」と謝りに行って下さらないと、私の2年間の努力のかなりの部分は水の泡になるかもよ。ああ〜、なんで彼女、右から左に考えなしの事するかなあ(この前も似たようなことがあった)。謝ってくれても、反省のメイルくれても、もう取り返しつかないかもよ(;.;)
案の定、きのうのメイル事件、元の差出人が痛くご立腹な様子のメイルをくれたので、じかに謝りに行く。頭を下げ、正直に事情を話してご理解は頂いたが、誤解が元にせよ一旦胸に刻まれた感情はすっかり消えはしないよね。もう泣きたいよ、むしろ被害者は私なのに。うっかりメイルの同僚はごめんなさいと私に頭を下げてくれるが、私とこの部署の両方の信用をどっと引き下げてしまったのをどうしてくれる。
『ジャングルの国のアリス 』読了。アリスの父母たちはライオンに食べられそうになったりするが、そんな様も、確かにハラハラし臨場感もあるが一種独特のフィルターを通して語られる。筆者であるアリスの母は、6歳のアリスにとって、生まれ育ったアメリカとは思いっきり異なるアフリカの地も、おとぎ話の世界と同じなのだと言う。ちょうどもう一人のアリスが夢から目覚めてお姉様に夢の話をした時に、それを聞いたお姉様が抱いた、懐かしくいとおしい感情、そんな色合いのフィルターだと感じた。最後にビクトリア湖を経てナイロビ、そしてモンバサの海岸まで出て旅を終えるところで終わっている。このころ、この地にはディーネセンがいたはずだが、彼らの邂逅はなかったのだろうか。互いに聞き知っていたようなこともなかったのだろうか、と思いを馳せる。この本には続編があるとのことで、ぜひそれも読んでみたい。
なんとなんと、『鳥姫伝』の続編が2冊とも邦訳出版されるとのこと。待ち遠しい〜!
えいご遅刻のため次のコマに振り替え。暗記のテストも含めてまた初めての女性の先生で、あがったきり元に戻らず、終始緊張しっぱなし。普段だったらもっと口もほぐれて、先生の言うこともちゃんと耳にはいるのに、だめだー今日は。変だなあ、変だなあ、こんなに相手(先生)に左右されちゃうなんて、どうしてだろう。うーん、人間幾つになっても自分に関して新しい発見があるって事だね。
昨晩から読み始めた『テムズ川は見ていた』は、「格調高い児童文学」と帯に書いてあるが、今時これが釣り書きになるものかしらね。主人公の煙突掃除のバーナクルは、すすで真っ黒け、憎まれ口ばっかりたたき、とっつかまればすぐにかみついて暴れる、お世辞にも格調高い子じゃないけど。でも原題は"The December Rose"とこれは美しい。ロンドンで殺された女が持っていた聖母子の像の入ったロケットを、ひょんなことからバーナクルが手に入れる。しかし王国を守ると称する、国家につながるらしい男たちが、彼の口をふさごうとする。それとも知らぬバーナクルと彼を拾った気のいいテムズ川のはしけの住人ゴズリングは、しばし呑気に川を行く。ヴィクトリア朝ロンドンは本当に小説の題材としては恰好な宝の箱であるらしい。
職場の友人たちと忘年会(のようなもの)。目論んでいたところが既にいっぱいで、なぜかサンシャイン通りの東急ハンズ向かいあたりへ。昨日にしろ今日にしろ、多分一番忘年会関係のピークらしく、駅も地下道も、表へ出ても、どこも大変な人の波。
『テムズ川は見ていた』読了。キャラクターがはっきりしていて良くできている。それと知らず巨悪の手先となっている実直な警部が、ついに自分の立場を知った時に取った行動は?この作者の他の作品も読んでみたい。
昼から長男の保護者会。これが最後の保護者会である。あの年頃の子どもたちを面倒見る教師もそれは大変だろうが、やっぱり学校の中ばっかり見てるよなあ。それにしても髪が長いの短いの突っ立ってるのってそんなことばっかりガタガタうるさく言うんじゃない!あの元気のいい針金みたいな髪質には当人が一番悩まされているんだから。自分ではどうしようもない身体的特徴を責めることはやめなさい。
なぜか突然連れ合いが言い出して、次男とそのお友だちと4人でハリポタ2を見に行く。いやーそれが結構、というよりそうとう面白かったんだなあ。キングズクロス駅を始め、風景や建物に、つい「そうなんだよ〜、これだよこれ、こうだったよ〜」と記憶を刺激され、英国また行きたい病が再燃。子どもたちのため吹き替え版だったので、うわさのハリー/ダニエルくんの声変わりした声は聞けず。少年たちはみな背も伸び、子どもから大人っぽくなって行く微妙な年頃になっていてなかなかよろしいわ。ハーマイオニー/エマも美しくなっていたし。ギルデロイは、そうだよ、あの機械蜘蛛の出てくる「ワイルド・ワイルド・ウェスト」で車椅子科学者をやっていた人だよね。原作に感じた後ろ向きで不愉快な面(これが好きではなかった)が映画では感じられず、その分単純で楽しめるものになっていた。危惧していたナメクジ吐き出しシーンは、さほど気持ち悪くなくてシーン数も少なかったので胸をなで下ろす。トイレの亡霊のキャラが暗くなかったのも良かった。ドビーの表情や動きが非常に良くできていると感じた。エンドロールが終わった後のおまけ映像はほんのちょっとの短いものだったが、最後にハハハっと笑えたのは良かった。一緒に行ったお友だちは見るのは2回目だったのだが、彼を家に送り届けた時、「面白かった!」とそのお母さんに言ったら「そうでしょ!また見てもいいかな、って思ってる」というから「うんうん、今度は字幕版でハリーくんの生の声が聞きたいね」と言ったら、「じゃ行こうか!いこいこ!」と母親同士でひそひそ合意に達した。予定が合えば近日中に子ども抜きで見に行く予定。
急に連れ合いがハリポタ見に行こうと言い出した時、ぱっと頭に浮かんだのはもちろん「二つの塔」の予告編が見られる、ということだった。さいきんまた海外での封切り前から2ちゃんの指輪スレを覗いているので、早く見たい病になっているのである。いざあのテーマ曲が流れ大画面にレゴラスさまのお姿が見えた時、思わず「レゴちゃ〜ん!」と(あやうく小声で)叫んでしまったのであった。でも原作未読者にとっても既に周知の事実なのかも知れないけれど、やっぱり予告編にガンダルフをあのお姿で出すのはどうかと思うよ。セオデンかっこええ〜。アラゴルンも1作目より素敵だ〜(次男は今度はこの人が主役かと訊いていた)。エント、じゅうのシーンもほんの一瞬。ううう、とりあえずSEEの続きを早く見たい。大画面欲しい。
そして帰宅してみると西崎憲さんの『世界の果ての庭』が到着していた。某氏の指摘を待つまでもなくどうやら私は雲英紙系に弱いらしく、正確には雲英紙ではないのだがそれに近い感じの紙に、モリスの枠(たぶん)、そこへばらの花を配したカバーがいっぺんで気に入ってしまった。やはりまず衣装のいい本は素敵。「世界の果て」とか「世界のかなた」とか言えば想起するのは当然モリスだったのでこの表紙はピッタリ。さっそく読み始めている。ハリポタで英国テイストになっているところなのでよけいグッドタイミング。西崎さん、とっても素敵です。1/3ほどのところ。
O・R・メリング『光をはこぶ娘』("The Light-Bearer's Daughter">感想020505〜020513)出たんですね。つぎの作品は出たのかなあ。
電車内で池谷裕二『記憶力を強くする』をちらちらと。タイトルはこうだが、脳に関する最新の知見を一般向けに紹介してある。著者は薬学出身の生化学者なので安心して読める。文章も好感が持てる。
今日の日中は出掛けるつもりはさらさら無かったのに、連れ合いが「お飾りを買いに行こう」などと言うので渋々出る。案の定たいして見るものはなく、混雑の中時間だけがむなしく経って行く。掃除か休養か読書か料理が出来たのに。本屋へ寄ったので新聞で見た何かの本を買おうとしたが、どうしても何だったか思い出せず。文芸文庫?学芸文庫?うーん、とあきらめ。後で見たらオーウェル『カタロニア讃歌』だった。
昨晩、深夜に読み終えた『世界の果ての庭』をつらつら思い出し、反芻する。美しい、無駄のない文章。徹底的に刈りこまれたと言うのとは違った意味での無駄のなさは、おそらく、計算よりも天性が勝っているに違いないと思う。読み終える最後の瞬間に、すがすがしく美しい、すべてが昇華するような気持ち、晴れ渡った、今まさに夕焼けが始まろうとする西空を見るような心持ちに襲われ、「ああ!」とすっかり緊張を解いてうつけたように微笑んでいる自分に気付いた。垂直方向と水平方向への旅、時間と空間を貫く影、現実と虚構が交差し、四次元的な関係性を織りなしている。きゃー素晴らしい西崎さん!次作熱烈希望。
大混雑の渋谷にてMZTさん帰省歓迎オフ。オタワは寒いのねえ。毎日寒い寒いと連発している私たちとしてはスイマセンて感じ。皆さんに『言の葉の樹』を大推薦。MZTさんもアリスのフィギュアをお集めとは。貢献できて嬉しうございました。トィードルディー&トィードルダムがだぶったら頂戴ね>心当たりの方々
ローズマリー・サトクリフ『アネイリンの歌』読み始め。続々サトクリフの邦訳が出ております。『闇の女王にささげる歌』とか。図書館からも『第九軍団のワシ』などまた読みたくて借りてきてしまった。読んだの、ずーっと前だったものなあ。それにしてもいつも誠実な主人公。
『世界の果ての庭』の帯に書いてあった「ハメラレタ」とか「悪辣」とかいう言葉は何か?何か隠された大仕掛けがあったのか?とどうしても疑問で、ファンタジー大賞の選評を見た(>大賞発表のページ)。うーんやっぱり文脈の中から一つの言葉だけを取り出してくることの危険性をここでも感じる。それもこのように強い言葉であるから尚更に。あーでもこの選評はぜひ、読了後に読むように。自分で本編を読んで充分感じてから選評を読むのが吉。
今年分の年休がまだ残っているので、書類上は今週いっぱい休みをとった。でも締め切り他があるので、実際にはちょこちょこ行かなくてはならない。今日は幸いに丸一日休めるので本の整理予定だが、予定は予定であって、まだ取りかかっていない(午後2時現在)。近くの鶏専門店に行って、ローストチキンを買ってきた。外売りも底冷えで大変でしょうと言ったら、「年に一番のかき入れ時なのに、これで雪でも降ったら客足がパッタリよ、降り出さないうちにお客さんが来てくれるといいんだけど」と、店先のおばさんが返事する一言ひとことにに白い息があがる。「鶏さんも年に一度の受難の日よね」と言ったらおばさんたちに超受けた。別に新しいギャグじゃないんだけど。さあ次男が楽しみにしているシャンメリーやシャンペンのお友だち@生協も冷やさなきゃ。上の子たちも大きくなってしまい、それなりに季節行事であるクリスマスの感興も薄れてしまったけれど、2年生の次男にとってはやっぱり大きなイベントだ。先月プレゼントを用意してしまった後で、新しく出たHGガンダムの関節が動くナントカカントカが欲しいと言っていたけど、それは改めて見に行ったときには既に売り切れだったのよね、うーんどうやってサンタさんにはご希望のものがなかったわけを説明してもらおうか。来年からはプレゼント希望の締め切りを作るか?娘は今頃タイで遊んでいて28日まで帰らないし、長男はずっと塾だし、家中ごちゃごちゃだし、クリスマスツリーは飾ったけれどイルミネーションが球切れで、いったいどこの球が切れているのかさっぱりわからないので点灯しないし、まあ趣のないクリスマスではあるね。
読書の感想、せっかく書くのだから一過性のものでなく、きちんとまとめてあとで見やすいものにしたいとは常に思うことではあるが、これ以上自サイトにあれこれ手を入れる余裕はないので、どうしたらよいか悩むところ。と、毎年言っているような気がする。また先日のオフ会の時にもちらっと話題に出たのだが、やはりここのサイトはgoogleにかかりにくいようだ。どうしてだろう?googleがyahooに組み込まれて以降のような気もする。せっかく書いたのに検索で引っかかりにくいというのは、やはりちょっと悲しいものがある。
後刻。本の山をどうにか無くすために、本棚の中味の右から左への大移動を試みる。ぱその後ろにあるガラス扉付きの書棚に入れてあるのは、大事な本とか、借りた本とか、近いうちに読みたいもの。そう言いつついつまでも読まないままのものを段ボール箱に移動。別なところの天井までのスチール書棚から、単行本が入る高さの棚に入っている文庫本を取り出し、布団袋みたいな、良く生協で売っている文庫本整理袋に、翻訳、国内物別に未読・既読に分けて入れた。先日このお友だちを100円ショップでも売っているのを見つけ、コミック用を買ってきた。これは新書用にするのだ。新書用と銘打ったものはこれまで見たことがない。さて、ジャンル、判型を問わず既読の本はなるべく実家へ移動することと決める。気に入った本はどうしても手元に置いておきたいというのは、都会のマンション住まいには絶対無理な趣味であるのは先刻承知だから、ほっといて頂戴って感じなのだが、もはやそうも言っていられない。夕飯の支度の時間までに、なんとかそこらの山々だけはほぼ消滅したが、代わって出現した段ボール箱と整理袋の山を実家に持って行く暇はなく、とりあえず旅行中の娘の部屋に押し込んで視界からなくす。この状態を病気と言わずして何という?
鶏さんを切り分けてめでたく開けたスパークリングワインは、赤だった。次男のシャンメリーはロゼ色で、泡も淡いロゼ。But 赤のスパークリングワインの泡は、普通に白かった。なぜでしょう。
今日が本当のクリスマス。ああNHKFMで連夜ワグナーがかかる時期に今年もなったのね。
台所の片づけを予定していたが、終業式の次男を送り出した後、どうにも目が覚めきらずフラフラするので、再び寝る。どうもこれはいつもの風邪の症状らしい。その間に母のデイサービス先から留守電があって(気づかずに寝ていた)、また玄関の鍵が見あたらないので今日はお休みしてもらうとのこと。またかよー、と母に電話するが、埒が明かないので様子を見に行く。すると「鍵なんかなくたって足が痛くて出掛けたくないからいいんだよ」と言う。「今度また自分で医者に行くからいい」と母は言うが、鍵がないので出掛けられないし、お金も小銭しか持っていないし保険証も私が預かっているし、そもそも痴呆がだいぶ進んできていて無理。娘(私)に指図されるのをいやがって「親に向かって指図するなんてひどい娘を持って不幸せだ、長生きしていてもいいことなんか一つもない」云々と悪態をつくのを聞き流しながらやっと靴下を脱がせ、痛いという足指を見ると、どうも爪水虫らしく、爪は変形し指もふくれてぐじぐじしている。年末年始に悪化したら大変、と、ケアマネさんに電話し皮膚科を紹介してもらい、タクシーを捕まえて午前の部に滑り込む。とりあえず悪化しないように手当てしてもらうが、ある程度痛いのはしょうがないみたい。心配するほどにはひどい状態ではなかったのは何よりだ。そんなこんなで10時から2時半までつぶれた。出掛ける支度一つするにも、母が自分の意志で自発的に出掛けるわけではないので、すぐ「出掛ける」という事自体を忘れる。子どもより手がかかる、時間もかかる。それにしても今日たまたま私が休みで良かったよ。しかし母は「たちが悪い年寄り」「憎たらしい年寄り」の面が非常にあって、たとえば「私が休みで良かったね」というと「わざわざ休んでくれなんて頼んでない」「来てくれなんて頼んでない」というような事を言うのである。常々「人の世話になりたくない」と言っていたことの裏返しだろうか。四六時中老親介護している人の苦労が偲ばれる。自分の家の片づけと洗い物をしたらもう4時、用あって書類を受け取りに職場へ出掛けねばならない時間だ。今日もまたせっかくの休みがつぶれた、とは言わず、母の世話が出来た、と思うようにしよう。
ついオンライン書店でぽちっとした結果、読みたいのが次々と到着して嬉し悲し。図書館から予約本(サトクリフ『銀の枝』)も届いたし。これで家の掃除がなかりせば(;.;)
死にそうな眠気(多分風邪のせい)のため昨晩は早々と沈没。今朝になって思い出して、ナット・キング・コールのクリスマスソングのCDをかける。素敵っ。彼の声はさらっとしているのに、思いに溢れほほえみいっぱいで暖かい。発音が非常にクリヤーなところが好きだ。リアルタイムで聴いていればなあ。
『アネイリンの歌』続き。でも今日は台所の片づけなのだ。手がめいっぱい荒れた。
片づけの合間、とい言うにはちょっと悲しいくらい、母の年賀状印刷に思いの外時間がかかる。母と言えば、お昼ごはんは月、水にデイサービスに行って暖かいお弁当を食べ、火、金には区の配食サービス(お弁当形式)を受けているが、今日から、民間の業者に頼んで木、土、日と高齢者用のお弁当の配達を頼んだ。買い物も料理もままならないし、まして残りものの管理もだいぶ怪しいようなので返って安心である。デイサービスに行き始めた頃はせっかくきちんとした食器に入れ直して暖めてくれるお弁当も「いらない」と意地を張って半分くらいしか食べなかったようだが、この頃はデイサービスで体を動かすせいかちゃんと食べてくるようだ。他の日は、確かに小食なので配食を適当にお昼と夜とに分けて食べている模様。最近一段と症状が進んだようだがとりあえず毎日の基本的食事だけは何とか確保出来たということで、私が忙しくても一安心。はじめての人が配達に行くので不審がらないかと思い、配達時間を見計らって母に「お弁当届いた?」と電話したら、区の配食サービスと区別が付かなかったらしく「届いたわよ。今もう食べ終わったところ」と何の抵抗もなかったようだ。この様子なら、プライドが高くてこれまでヘルパー受け入れに頑強に抵抗してきた母も、ヘルパーさんにお迎えを頼んで入浴サービスに連れて行ってもらえるかもしれない。
母はいつ入浴したのかわからないのよね実は。遠い昔看護婦をしていたので子どもの私たちが病気の時にはよく「清拭」と言って熱いタオルで体を拭いてくれたが、今も、お風呂なんか入らなくたって自分で清拭しているからいいのだと主張し、辛うじて姉が月に一回訪ねてきたときにはなんとか入浴させることが出来るのみ。浴槽に入ることに(万一倒れることに)恐怖があるのだろう。浴槽に入らなくともシャワーでいいじゃないかと思うが、発症前に母にはシャワーは習慣付かなかったらしいのでダメ。電子レンジも同じく、使う習慣が付く前に痴呆が始まってしまったので使えないのだ。アルツハイマーになると新しい記憶や習慣から先になくなって行き、古い記憶はびっくりするほど残っているのだ。若いうちから新しいことにどんどんチャレンジして外向的に過ごすように努力しましょうね>皆さん。いやホントに!
でもって娘は私に「お友だちと飲みに行ったり色々今のうちからしておきなよ。」と奨励してくれて、演奏会、飲み会やオフ会にもどんどん行けと言ってくれるのである。彼女自身も遊びに行きたい下心があるしね(*^_^*)、というのはオフレコ。言ってくれるのはいいが、自分も帰りが遅いのがしばしばなのでいざ私に予定があるときの留守番にはちっともならず、結局私が諦めることも多いのである。ま、しょうがないか、相手が花の大学生では。
いかんざきの像(;.;)
昨晩も沈没してました。今日はこれから今年最後のご奉公(サービス)&えいごのテスト&職場の打ち上げ@会議室。それにしても読みたい本の山をどうしたら消化できるのか。今年のベストもまとめなくては。では後刻。
と言うわけで、午前中は締切があるため仕事に出る。午後からえいごに出かけ、無事チェックテストはパスして+もついた。しかし、あ らっと おぶ ばたふらいず いん まい すたまっく。追い出してしまえと先生は言うけれど、自由に追い出せれば苦労はない。回を追うごとに、頭の中真っ白度が上がるのはなぜ?大学入学後まで試験であがるなんてことは絶対にない人だったのに、初めての大学の定期試験で、頭が真っ白になるのを経験した。人前での発表も全然平気だったのに、卒論の発表会で、初めてしどろもどろになることを経験した。以来、面接や試験は大の苦手に。準備不足だからあがるのだという説もあるが、十分準備をしてもやっぱりダメである。リラーックス、リラーックス。深呼吸。と、待ってくれてせんせい、ありがとう〜。テスト終了後急ぎリブロに行って、梨木香歩、井辻朱美の本を探すが、ついついまたまた病気が出た。収穫は重い。『紙葉の家』には痛く心惹かれたのだが、なにせ4600円という素敵なお値段とたいそうなボリュームに諦める。しかしホスイ。あー本屋さん大好き。本を読む時間も売っていれば最高なのだが。職場に戻り、終業後仲間内で仕事納め。
ワグナーをBGMに聴きながら(どういう神経か)、『アネイリンの歌』を読了。西暦600年頃のブリテン、いくつもの部族の小王国が盛衰を繰り返している時代である。フランコン谷(現在のスノードン近く)の領主の息子プロスパーは、白鹿狩りがきっかけで自国の王子ゴルシンの従者となる。黄金の王と言われたゴドディンのマナゾグ王は、サクソンの二王国が統合という動きを封じようと、王都ダン・エイディン(エディンバラ)に「同胞団」を募って攻撃を企てる。プロスパーは彼自身の従者でありそれ以上に友人であるコンとともにゴルシンに従って招集に応じる。一年の間訓練に訓練を積んだ彼らは時到って南下し、援軍を待ちつつサクソンの軍勢を急襲することとなる。しかし敵将を打つことは叶わず、しかも援軍が来ることはなく、彼ら300人の「輝ける同胞団」は、一人の戦士と詩人アネイリンそしてわずかな従者を残して全滅することとなる。アネイリンが残したその哀歌によって、彼らの勲しはわずかに後の世に語り継がれたのである。この実在の哀歌「ゴドディン」をもとにサトクリフが紡ぎ上げたのがこの物語である。筋自体は割合単純なのに、非常に緻密に情景や心理を積み上げているので、ややもすると冗長な感じもする。しかし、いよいよクライマックスに差しかかって、プロスパーら、「輝ける同胞団」がサクソンの軍勢に最後の捨て身の奇襲をかける寸前の静かなひとときとなる。やせ衰えた愛馬がハチミツを期待するようにプロスパーの胸に大きな頭を押しつけ、その額に彼自身の額を押しつけてその暖かさと匂いを味わい、馬も自分も怖じ気づかないようにと願う。このくだりに負けた。この後アネイリンは魔法で自軍のために霧を起こす(と思われる)。またそれ以外にプロスパーは何度か戦士たちのなかに伝説に聞くような光景を見る。この二つによって、徹底的にリアリズムであるこの作品に、神話と伝説の黄金の霞がかけられているかのような印象が与えられている。古い絵や彫刻として見るだけのこわばった古の戦士の甲冑姿も、その中に血の通う一人の人間があったことを、勲しの歌の中にもそこに歌われた者の名に加えて従者や馬、犬、鍛冶屋、留守を守る姫や家族たちという歴史の襞にたたまれたきり思い出されることのない命が無数にあったことを、忘れられない重みをもって感じさせる物語である。最後にプロスパーは新しい主人の従者として、コンスタンチノープルを目指して旅立つのである。世界はこの昔から、実に広かったのだ。
ヒロさま(=ヒロ・クロサキ)の新しいCD(ヘンデルのソナタWithクリスティ)を買いに池袋へ飛んで行く。デデさん情報ありがとう!嬉し涙が滝のように。しかしCDショップに足を向けたならそれはたとえヒロ様のCDが目当てでもそれだけで済むわけはなくて後ずっと略。さて帰宅後ゆっくりとソファに納まって美しくも愉しい音楽を堪能…ところがせっかくいいところに差しかかると見計らったように集金、電話、次男のお喋り、それがもう繰り返して起きる。なにか恨みでもあるのかい。留守だよ留守、留守ですっ!!次男よキミも静かにね。この前FMでチョン・ミュン・フンの指揮でブラ二をやっていたとき、次男しかいなかったので、4楽章の後半でエキサイトしてバイオリンを弾く格好をして口バイオリンをして乗りまくっていたのだが、その時はさすがに次男なりに「ママは怪しい人かも」と思ったのか、とっても静かだった。でもって永遠の少年ヒロさまは、心根は少年のまま、表現の深みを増したように感じた。美しいCDだよう。せっかくもうじきレザールフロリサンの公演でコンマスとして来日なのに、ソロリサイタルの一つも企画されないとは何たる損失か。ええん、ソロが聴きたいよう。
サトクリフ週間続く。『闇の女王にささげる歌』を読み始めた。ローマがブリテンに侵攻して間もない頃のこと、馬の民イケニ族(今で言うイングランド東部の部族)の若い女王は負けん気の強い、けれど花のようなブーディカである。幼い頃からのエピソードを女王の竪琴弾きが語って行く。ちょっとナウシカばりだわね?馬の女神エポナ神をいただくイケニ族は『ケルトの白馬』で記憶に新しい。
新海誠監督の新作「雲のむこう、約束の場所」のパイロット版、さっそくダウンロード。早く本編が見たい。とにかく雲がきれい、空がきれい、光がきれい、そして画面の動かし方や揺らし方がはっと心を打つ。清冽と言ったらいいのだろうか。
『闇の女王にささげる歌』、もう少しで終わり。愛する王を失ったイケニの女王ブーディカとその民はローマに蹂躙され、彼女は暗く激しい怒りを心中に深く抱き、秘かに諸部族を束ねてローマ軍に反旗を翻す。闇の側面へと足を踏み入れた彼女はもはや引き返すことは出来ない。竪琴弾きカドワンは彼女が幼い頃に約束した、女王の勝利を祝う歌を作るべく、自らも戦いつつ彼女を見届ける。多くは癒し手、薬師など、女性特有の呪術に長けた、部族に隠然とした力を持ちやや超越的な立場で登場するサトクリフの女性だが、こうして女王という表舞台にたった女性はやはり過酷な状況を課されている。しかしその娘たちなどほかの女性の描き方は、現在一般に女性に求められているような姿が投影されていると感じられる。しかしここでは一見独立心の強い女性を描いてはいるものの、一般にサトクリフの作品の登場人物の女性男性の役割の振り方と言う点では、やはり現在の社会の既存の視点にとらわれている部分が大きいように感じる。彼女が20年くらい後の人であったら、おそらくまた異なったジェンダー観を期待できたのだろう(ちなみにこれは1978年の作品とある)。彼女自身、身体的に大きなハンディキャップを持った人だけに、社会構造等については彼女なりの見方があったのだろうから、そう言う点からも本格的なサトクリフ論が読んでみたいと思う。私は、作品そのものの面白さをそっちのけにして、作品をあれこれ分析するとかほじくるとか作者を研究するとか、そういうのはあんまり好きではないと思っているが、あれこれつらつら考えていると(サトクリフのみならず)そっち方面にも興味が広がって行くのを感じる今日この頃。実はすんごく面白いかも知れないゾ。時間とチャンスがあればはまっちゃうかも。
フジモトマサル『ウール100%』を読むと言うか見るというか。あっ、この装幀も吉田篤弘・吉田弘美(クラフトエヴィング商会)だ。フジモトマサルは福音館の雑誌『母の友』の連載などで知って好きなのだが、ちゃんと自サイト「フジモトマサルの仕事」があるのね。
梨木香歩『ペンキや』も読み終えていたのだった。これは、具体的な対象があって書かれたのだろうか。この細部は何だろうと思わせる部分があったりする。ちょっと説教臭い。彼女は今雑誌「考える人」で書いているような、あるいは『春になったら苺を摘みに』のような、エッセイというにはやや重い文章が大変によいと思う。
昨晩遅く『闇の女王にささげる歌』読了。ブーディカの話はどこかで聞いたことがあるような気がしていたが、それは「戦車に乗ってローマに反旗を翻したケルトの女王ボーディシア」だった。ボーディシアと言う名として頭のどこかに引っかかっていたのである。後の女王ヴィクトリアやエリザベスにつながる女王のイメージのようにも言われるらしい。サトクリフが語ったこの物語では、メインのストーリーの合間に、ブリテンに駐屯するローマの側の若い軍人が母国の母に送る手紙という形でローマ人の視点が挟み込まれている。これがあることによって、作品はブーディカをいたずらに賛美するものに終わらず、同時に文明の摩擦の悲劇が立体的にあぶり出されるものとなっている。またローマ人の良心を彼に語らせているが、結局はケルトであろうとローマであろうと、個人として地に足をつけて生きる者の考えは人間として変わらないのだと作者は念押ししているのである。これを読んでいて手許に欲しかったのは、イケニの領土であるイングランド東部〜チチェスター(カムロドゥヌム=ダン・カムロス)〜ロンドン(ロンディニウム)あたりの地勢図。ロンディニウムに入る前に高台から夏の靄につつまれる「川の父タメシスのほとりのロンディニウム」を望むシーンなどが印象的だ。自分も彼らと同じくその地形を知って臨場感を味わいたかった。それにしてもこの頃のサトクリフの翻訳続きはどうしたことだろう。
続いて『第九軍団のワシ』、これを読んだのはもうずーっと前、初版が出た頃なのですっかり忘れている。ブーディカの蜂起が紀元60年頃、それから約60年経ったブリテン南部が舞台である。ブーディカの蜂起はまだケルトの民にもローマの民にも記憶に新しい。司令官として新しく赴任してきた若い百人隊長マーカス・アクイラは、同じくブリテンの地で自ら指揮する第九軍団と共に消息を絶った父の手がかりを見つけられたら、と淡い期待を胸に抱いている。赴任してまだ日も浅いうち、ドルイドに扇動された地元の民がマーカスの砦を襲撃し、マーカスはその戦闘で右足をひどく負傷したため任を解かれることになる。
昨晩、ようやくLOTRのSEEを見終わる。何日かの間に3分割して見た。初っぱなから違う映画になってる。イシルドゥアは指輪をはめて川に飛び込むし、ビルボはちゃんと本を書いているし、アルウェンは泣きそうな顔してアラゴルンを見送っているし、ボロミアに続きアラゴルンもメリピピにひっくり返されるし、ほか、原作からのシーン、映画独特のシーンを含め色々と。またアルゴナスの像を背後から見たときの左右の腕の違いを初めて確認。何と言ってもガラドリエルからの贈り物をもらうシーンがあったのがよかった。せめてあれだけは劇場公開版に入れて欲しかったのこころ。さてあとは本編のオーディオコメンタリー、特典ディスクを少しずつ見よう。ちょっとだけ見たオーディオコメンタリーで、人間の王たちのうち右から二番目がアラン・リーだったことを知った。後の黒の幽鬼ってことね。
朝から年末恒例の黒豆を煮る。一日家中を良い匂いが漂う。3時頃から池袋、今日もまたHMVに貢献。デュメイのベートーベン・ソナタ全集など。先日のヒロさまのCDはもう棚にはなかった。次男はビックカメラでHGガンダム(デュエルガンダムの関節が動くの)をお年玉代わりに買ってもらいご満悦。ほかに鯛とかおもちとかを買って帰る。晩ご飯は鶏鍋。そう言えば何故か朝から母が気持ち悪いらしい(年末なので姉が来ている)。と思ったら昼から外に出ていた長男がまもなく帰ってきて胃が痛いという。どちらも風邪か?
今年の本のベスト、ほか日記のまとめなどは年明けか。
2002年に読んだ本のベスト。詳しくは後日。
★SF:
アーシュラ・ル=グィン『言の葉の樹』
次点 コニー・ウィリス『航路』
★それ以外の海外:
バリー・ヒューガート『鳥姫伝』
次点 エドワード・ケアリー『望楼館追想』
★日本:
西崎憲『世界の果ての庭』
次点 稲生平太郎『アクアリウムの夜』
★児童
ローズマリー・サトクリフ『辺境のオオカミ』
次点 高楼方子『ココの詩』
★別格:『指輪物語』
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