ニムの木かげの家 日時計 2003. 10月

 
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2003.1001(水)

ダイアナ・ウィン・ジョーンズ他、ピーター・へイニング編/『魔法使いになる14の方法』/創元推理文庫
〈読み始め〉テッド・チャン/『あなたの人生の物語』/ハヤカワ文庫SF

_ つぎは評判の高いこれを。おお確かに!巻頭の「バビロンの塔」から、惹きつけられた。いかにも私好みだー。「理解」(チャーリィ・ゴードンに贈るってところ?)、「ゼロで割る」を終わって、これから表題作「あなたの人生の物語」に入る。

_ 「理解」は何故こんなに漢字がひらがなに開いてあるのか、最初は話がチャーリィもどきだからかと思ってしまったが、そういうわけではないらしい。ぱらぱらと本全体を見てみると、この訳者(公手成幸)の手になるものはやはりひらがな度が高いように見える。一見して難しい漢字がない、と言うよりも、基本的な漢字の多くがひらがなになっているのだ。たとえば目についたところで「今夜、映画をみにいくというのはどう?」(p.68)とか、「FDAの非公開データベースにはいりこむのはかんたんだった。」(p.77)とか、いちいち例を挙げればきりがないが何か編集方針があるのだろうか?確かに、そういう目で見ると、本全体にひらがなが多いような気がして来た。となると最近の本は本離れを食い止めるために字面を易しくしているのだろうか?とも思い当たる。

_ 上橋菜穂子の作品で同様の点がいやに気になって、講演会の際にお訊ねしたことがある。それは作者の考えや好みと言うよりも、児童書であるから、出版社としてどの漢字を開くという基準があるので仕方ない部分があるというようなお話であった。

_ 私自身も好みとしてあまり漢字を多用しない方であるが、「みる」「きく」「はなす」「いく」の類を常にひらがなで表記されると、ちょっとつらいものがある。「かね」(金)などは「きん」の読みではないと言う理由だろうなどと思うが。

_ 「翻訳者のかたがそれなりの理由があってそう訳されたのだから、有り難く日本語で読ませて頂いている語学の素人がとやかく言うべきではない」と言う向きもあるかと思うが、それを極論すれば「例えどんなひどい訳でも日本語にして頂いただけ有り難いと思え」になりかねない。「そもそもいい訳か悪い訳か分かるのかお前〜」と言われそうでもある。しかしあくまでも読者である私が読んでいてそう感じたのであり、そこに理由があるなら知りたいと思うではないか。それが好みによるものでも、単なるワープロの日本語変換機能のクセによるものでも、編集や営業の事情によるものでも良い、とりあえず自分が疑問に思った点について知りたいと思うのは自然だろう。翻訳でなく純然たる日本語のオリジナルな作品についてだって、この言葉使いは変、とか、言い回しが変、とか、文が変、ヘタ、ひいては内容がなってないとか、なぜ編集者は作者にもっと長く書かせなかったとか(作者自身がここで止めたいと考えたかも知れないのに)、いくらでも素人である読者は言うではないか。特に「翻訳に文句があるなら、わざわざ翻訳なんか読んでケチをつけてないで最初から勝手に原書を読めば」というような言い方は論点が違うと思っている。

_ 本当にその翻訳が自分には合わず納得がいかなくて、やっぱり時間と労力を費やしてもどうしてもオリジナルに触れたいと思うほどのモチベーションがあれば、そうすると思う。敢えなく敗退するかどうかと言う問題は当然あるけれども。哀しいかなそれだけの時間と労力はなかなかかけられないのが実情ではある。だからと言って、そのもどかしさからゴネているように思われるのであればそれは心外であるよ。

_ でもって肝心の「あなたの人生の物語」を読み進まなくちゃ。

2003.1004(土)

〈読み中〉テッド・チャン/『あなたの人生の物語』/ハヤカワ文庫SF

_ あまり読む時間が取れずやっと「あなたの人生の物語」、「七十二文字」、「人類科学の進化」まで終わる。

_ 「あなたの人生の物語」は、多分こうした概念を取り上げた作品はほかにもありそうだけれど、非常に読みやすく、同時に非常にエキサイティングだ。このエイリアン、ヘプタポッドたちは、姿形は似ても似つかないが、かのオーバーロードを思い起こさせ…しかもその消え方までよく似ている。登場人物が互いに示すアナロジーが分かりやすいばかりか、新しく得た概念によって、主人公の世界観が転換していく様がありありと、ダイナミックに感じられる。物事の捉え方を転換させようという作者の試みがここでも明示されている。「理解」で超人化した主人公が得ようとする究極の象形文字と“ヘプタポッドB”は根は同じものか。これのみならずどの作品でも、難解さを感じさせずお話が進んで行くチャンの力量は素晴らしい。クラークではここから先に人類のブレイク・スルーがあるわけだが、とりあえずこの作品では、ヘプタポッドのもたらした言語による人類の新しい世界観の理解は、ある一定以上にまで進むことがないと言う見方で終わっている。これは作者自身も持っている一種の諦観なのか?言語を(文字を)取り扱っている点から、ル=グィンの『言の葉の樹』を思い出したが、あちらでも作者が現実世界に対してもっているであろう諦観、あるいは無力感が強く感じられたので、そこにどういう共通点があるのか、興味深い。多分現在の人類は何かこうした大きな世界観の変化を要求している、と多くの人が感じているのだろうけれど、実際にはどうか。

_ ヘプタポッドの“表義文字”には、なんとなくナウシカのドルクの文字のようなものを思い浮かべた。我々は日常的には漢字を用いているから、概念的には“表義文字”は捉えやすいのではないか。実際にいわゆる西洋的思想と東洋的思想の違いとそれぞれの文字の違いの関係なんてものがあるのかもしれない。ヘプタポッドの言語に、話される言語Aと表記される言語Bとの二種類があるという点も非常に興味深い。実際にこういった実例があるのかどうか?文字がない種族では時間の流れとはどう把握されているのだろうかとか、文字を持った瞬間に時間という概念が出来たのかしらとか、ヘプタポッドの惑星には月はないのだろうとか、細部についても考えることはつきない。

_ 「七十二文字」はまた一転して時代を遡るが、これも、同じ主題の異なった変奏だと感じた。この世界では当然、言葉が最初からあったわけだね。行き着いた先が「(遺伝子の)複製」というパロディめいたところも気に入った。

_ 論説風な「人類科学の進化」は、皮肉として読んだらいいのか。“人類”だって捨てたもんじゃないよねという自己憐憫か。

_ 作者の覚え書きを読むかぎり、とりあえず深読みするよりストレートに感じるのが何よりかも知れない。「あなたの人生の物語」の覚え書きなど読むと特に。

2003.1005(日)

〈読み中〉テッド・チャン/『あなたの人生の物語』/ハヤカワ文庫SF

_ 「地獄とは神の不在なり」間もなく終わる。シリアスなテーマを取り上げているのだけれど、どこかドタバタ風味があり、作者の宗教への距離を示すものかとも思う。天使の顕現が文字通り実際にある世界、とこれまたしらっと設定してしまうあたりが、ここまで読んできておなじみチャンさんという感じ。起きる“奇跡”のかたちや、時折地面が透けて地獄を見ることができるなどの設定もまたぶっ飛んでいますが。

TTTコレクターズエディション

_ 先日届いた「二つの塔」DVDのコレクターズエディション中、特別編のみ見た(本編はまだ)。メイキング映像など見ていて涙目になっちゃった。エドラスは本当に素晴らしかった!アンディ・サーキス(ゴラム役)がたくさん取り上げられていて興味深かった。本人の地の声は太い良い声なのに、ゴラムとしてはあのシューシュー声を出すところがびっくり。腹から出すからこそ執念のこもった声になっているのだろう。北イシリエンで池の魚を捕るシーンは、実は思わぬ雪が降ってしまった直後で、除雪をして撮影したこと、したがって水はまさに身を切るように冷たく、彼にとってはもっとも厳しい撮影シーンだったことなど。ショーン・アスティンが撮影の合間に監督した約6分の短編映画が面白かった。彼(サム)が単身モルドールに渡ろうとするフロドを追いかけて湖にざぶざぶ入っていくシーンで、足にガラス片が刺さり大怪我をしたことは知っていたが、足裏から甲まで貫通するほどの怪我だったとは。グリマ(蛇の舌)役のブラッド・ドゥーリフは素顔が素敵だ!エオウィンのミランダ・オットーは、素顔は明るくチャーミングだった。確かに原作のエオウィンとは(素顔を見ると特に)違っているが、エオウィン姫の抑圧されたもどかしい思い(自分の立場とローハンへの思い、アラゴルンへの思慕など)と生来の行動力を視覚に訴えるためにはなかなかの好キャストなのだろう。ミランダ=エオウィンは私は好き。またSEEの予告映像が入っていて、回想シーンでボロミアがデネソール、ファラミアとともに出てくるとかなんとか。「王の帰還」の予告もあり、死者の道はちゃんと出てくるし、ミナス・ティリスもイメージ通りだし、平ったいペレンノール野での戦いは凄そうだし、いや増す期待。角笛城のセットを取り壊した跡にミナス・ティリスのセットを作ったのだって。1作目でガンダルフが赴くミナス・ティリスのシーンとは齟齬がないのか?という気も。シェロブのトンネルシーンはあったが彼女自身は出てきませんでした。うー早く見たい!

2003.1006(月)

◎テッド・チャン/『あなたの人生の物語』/ハヤカワ文庫SF

_ 「地獄とは神の不在なり」、「顔の美醜について」、またそれぞれの作者覚え書きを終わる。

_ 「地獄とは神の不在なり」は神というある計り知れない意志(を持ったもの)が実際に目に見える影響力を持つ世界を描く。それがいない世界=地獄とは、逆に我々の世界か?また神の意志は計り知れないどころか、全くの気まぐれで、それにもかかわらず、天の光を受けた者は文字通り神に対する盲目的な愛を抱くようになるとは、天使の顕現といい、まったく文字通りの世界であることよ。この作品ばかりでなくどれに於いても比喩的表現が比喩としてでなく現実として描かれているのが、この本の特徴の一つだろう。

_ 「顔の美醜について」では、様々な差別・区別を生む基準の一つとしては究極で不可侵とも言える「美」を持ってきて、まず、強制的に顔の美醜を感じる感覚が働かなくなるような手段を導入している。影響を受ける感覚は顔立ちについてだけなのか、アートについてはどうなのか、等々さまざまな議論を拡げてみせる。カリーやそれに類する技術は、人類がこれから進むかも知れない同質性への道程をかいま見せもするし、気付かぬうちに自己否定の道に走っている姿とも言える。揶揄や警告も確かに含むのだろうが、それが目的でも何でもないようだ。

_ 「ゼロで割る」の数学の理屈自体はそちら方面に詳しい方に任せるとして、チャンは比喩を現実として描く一方で、現実(理屈)を比喩としても用いているので、ここでの“ゼロで割る”意は、感覚が到底認め得ないことを理性は認めざるを得ないことの比喩として捉えれば十分だろうと思う。レネーが確実と感じた数学理論は、作中にあるアインシュタインの言葉を借りれば、現実を説明してはいない。そして彼女自身が言うように、彼女の計測(理論)と、直感的把握にずれが生じたのだが、彼女は直感的把握のほうを捨ててしまった。この選択を言い換えれば「ゼロで割る」を採用したということになるのであろう。a(レネー)とb(カール)は精神を病むという似たような経験を持っていても、9章に至っても決してレネー=カールではあり得ず、やっぱり現実の人間世界はゼロで割ることを採用しないのだ。「ゼロで割る」のみならず、どれもいろいろ知識があればあったで楽しめるだろうし、なければないであれこれ想像して、各人各様に遊べるところがじつに面白い。白状すればわたしはゲシュタルトもゲーデルもよく分かりません。ゼロで割る証明も、最初からaとbそれぞれに1を代入すればいいでしょ、変だー、と思うばかりなり。

_ 「ゼロで割る」の中に出てくるレネーのせりふ「すべてが先験的(アプリオリ)なのよ」が、この短編集全体を貫くチャンの視点のように思える。

_ ところで「理解」の、最後の“ことば”とは、いったい何なのか?やっぱり究極的には“バルス”@ラピュタなんでしょうか。

PC不調その後

_ ご心配をおかけしたPC不調は、なぜか、たまに起きる程度にとどまっている。メンテナンスマンがしぶしぶ出動したことでPC(一般的に♀と言われる)がご機嫌を直したのでしょうか…というのは冗談としても、ちゃんとデフラグ@セーフモードをしなさいと言われております。

2003.1007(火)

「バビロンの塔」走り書き

_ 塔の途中で日没を迎えるシーン。大地それ自身が…というところ。茫漠と広がる大地と日没の壮大さに、その言葉の喚起するさらにスケールの大きいイメージが重なって、なんて宇宙空間を感じさせる一文だろう!ああっ、SFだなあ…!と、グッと来て、いわばハートを掴まれてしまったのだ。

_ それでいながら、のちに分かってくるように、その天球は我々のそれとは異なっていて、先ほど得たばかりのイメージを裏切るように、月や太陽や星の運行する軌道を越え、さらに上の遙かな高みにある丸天井そのものを、チャンは平然と呈示してゆくのである。

_ と書きつけておいたのだけれど、それ以上に今のところ見直す元気なし。わああっ、チャンさんのご真影を見てしまった(冬樹 蛉さん経由)。こここ、こういうかただったのか! (以上1009記)

2003.1009(木)

風邪引き

_ 久し振りにノドハナ粘膜系の風邪を引いたようだ。と言うと眼科医がひがむ。はいはい、目も痛いよ。何年も前、近所の女医さんのところに行った。その昔は綺麗で気の強い人だったのだろう、その頃すでに八十近かったのではないかと思われる、それでも往年の姿を彷彿とさせる「女史」といった雰囲気の彼女は、「風邪を引くとのどが痛い、鼻水が出るって言うでしょう。あれはみんな粘膜がやられるんです。目だって、粘膜なんです。鼻水が出りゃ目の粘膜だって炎症を起こすんです。でも誰もそうは思わない。目だって風邪ひきゃ炎症起こして赤くなるんです!」とポンポンと決めつけるような口調で言うので、患者様の私もつい「ハイ、スミマセン」とつぶやいてしまいそうな勢いだった。

_ というわけで昨日からどうも目が痛かった。帰宅してどうも変だ、と鏡を見るとまぶたの一部がものもらいの時のように腫れていたので、慌てて薬をつけた。おかげで今日はそれ以上に悪化することはなかったがやはり一日シバシバと痛く、目を使う作業はつらい。のどはまあそれなりにちょっとは痛かった。帰宅すると口から「疲れた…」が出るより先に、脱力感が襲ってきた。これはいよいよ風邪だな、と観念したが、それ以上には何もナシ。9時をすぎ、長男が「トヨエツが出てるドラマ、新しくやってるよ」とTVのスイッチを入れて去っていった。「知ってたけど、見ないでお風呂に入って白い巨塔見て早く寝るの」と返事をした。が、「どうもさえないトヨエツだな〜」とチラッと見たのが運の尽き、そのまま全部見てしまったー。そして「白い巨塔」も、残り半分だけなのについつい続けて見てしまった。やっと終わって「さあ、行動開始」と立ち上がりながら、頭に浮かんだ曲を口ずさもうとしたら、何と、声が出ないっ。のどの痛さはさっきと変わらないのに、声が出ないのである(;.;)

_ 良くノドを痛める連れ合いに「ノドノクスリチョウダイ」とささやいて、貰った薬がいかにも一目見て効きそうな名前…その名も【響声破笛丸料エキス顆粒A】。大笑いしようとしたがやっぱり声が出ませんでした。ちなみに発売元はエスエス製薬、効能は「しわがれ声、咽頭不快」だそうです。

筋トレ

_ なのに、明日は職場で筋トレの日。今年度、ある部署の業務のため、筋トレ機器をそなえたトレーニングルームが出来たので、職員にもぜひ使わせてくれーと言っていた。ようやく「そろいのTシャツが出来たから、それを着てきたら使ってもいい」とお誘いがかかり、昨日、何種類かの機器を使って久し振りに運動したのである。「1週間に何度ぐらい…?」「そうね、1回じゃ効果が出なくて長続きしないからせめて2回。」というわけで明日はその2回目。昨日時間の都合で出来なかった自転車漕ぎもするんだってぇ、風邪と両方で連休は死んでるかも。ちなみに今日は、昨日以上にはどこも痛くなっておりません。きっと明日、痛みが出るのよね。うう。

_ というわけで、全く本は読めておりません。

2003.1011(土)

おとなしくダウン

_ ちょっとごめんして、一日寝たり起きたり、時々起きて茶碗洗いをしたり、本を胸にぐっすり眠ったり。おかげでアーモンドの新作を読み終えられた。

ネット上の知り合いの訃報

_ あるサイトで知り合い、オフ会でもお会いしたことのある方が亡くなられたと知らされた。かなり重篤な病と長いこと闘っておられたが、その大変さを見せない一方、人恋しいたちの方であることは常々感じていた。時々掲示板から姿を消すのは大抵入院しておられたからで、またふっと何事もなかったかのように「娑婆に復帰」と戻ってこられるので、今回もそうだろうと思っていたのだが。残念に思っています、たかおさん。

David Almond/"The Fire-eaters"/Hodder

_ ちびちびとは読んでいたのだがなかなか半分にも到達せずにいた。きょう、のこりの半分以上を一気に読み終えた。確かに前段は舞台を整えるような性格が強く、半ばを越えたらいつの間にかどんどん読み進んでいた。

_ 1962年の秋の始め、ニューカッスル近くの、灯台の灯りに照らされる海辺に住むロバート(ボビー)は、進学を控えた12歳。ある日曜、母とニューカッスルに出かけたときに、大力や頬に金串を刺すのを披露する男を見物していると、その手伝いをするよう指名される。男は「マクノーティ様の芸をもっと見たかったらおあしを出しな!」と吠える。帰宅してその話をすると、奇しくもそれは父が戦争中ビルマで見知っていた男だった。こんなところに流れついて相変わらず芸当をしているのか、と父はすこしずつボビーに当時の話をして聞かせる。キューバ危機を迎えようとする今、父の戦争の話は、マクノーティの姿と相まってボビーにこれまでとは違った何かを考えさせるきっかけを与える。当時から頭がいかれていたマクノーティは、しかし、後日ボビーと一緒に会いに行った父を全く思い出さず「おお、この間のいい子か。赤い服の天使と一緒だったよな」とボビーと母のことだけは覚えていた。たいまつの火を吸い込んでは口から火を噴いてみせるマクノーティを、ボビーは忘れられない。彼には、海辺で石炭を集めて暮らしている一家の娘エイルサ、年上の幼なじみジョゼフという友人があったが、南のケントから近所に引っ越してきたダニエルとも新しい学校のクラスメートとして知り合う。新しい学校は規律が厳しく、教師タッドが厳しい監視の目を光らせ何かというと生徒の手を鞭打つような場所で、ダニエルとボビーはそれを糾弾すべく、鞭打ちの証拠写真を学内にばらまき始める。

_ 労働者階級の友人であるエイルサやジョゼフと別な道を歩み出そうとするその時期、今しもキューバ危機という世界が終わりを迎えるかも知れない状況を背景に、父の具合が悪くなって行く不安、命とは何なのか、愛し、信じ、祈るとは何か、自己犠牲とは何か、を淡々と語ってゆく。そしてアーモンドは再びここでも奇跡を語らずにはいられない。おそらく多分に自伝的な色彩が濃いのであろうこの作品は、現代から、1962年という、世界が危機的な状況にあった特別な時点を回想する形で描かれ、かなりあからさまに反戦、レジスタンス(もちろん反戦以外の意味でも)が取り上げられている。しかしあくまでもそれらはお題目ではなく、直接的な皮膚感覚に根ざしたまっとうな、現実感を伴った危機感から生まれたものとして提示される。同時に、希望や信念というものについても、象徴的ではあるが具体的な出来事と結びつけて描き、決して絶望や無力感を肯定しない。マクノーティの炎、母の赤いドレス、夕焼け空、海辺で燃えさかる大きな焚き火、と、炎の色は象徴的に使われる。それは我々の心の内に燃えさかる(べき)炎でもあり、次第に消えて行くばかりの夕焼けの色でもある。それはわずかな熾きであっても掻きたてることが出来るのか、あるいは夕焼けが静かに夜に呑み込まれた後は再び朝を迎えることがないのか。決してはっきりと指し示すような文章はないが、含蓄の深い、読者に(作中でも言っているように)自分で考えて選ぶようにと促している結果となっている。実際に炎を喰らうのはマクノーティ一人なのに、The Fire-eatersとタイトルは複数になっているのは、主人公ら皆を指すと同時に、読者に向けた気持ちでもあるのだと感じた。それにしても、彼の作品でこれまで、泣かずに読めたものがあるだろうか?またしても涙で締めくくることになったのであった。

_ ところで、これはガーディアン賞のショートリストに入っていたのだが、10/4発表の結果によれば受賞はならず、"The Curious Incident of the Dog in the Night-time"が今年の受賞作となったとのこと(ガーディアン賞2003)。そのうち読んでみようと思う。日本語訳は『夜中に犬に起こった奇妙な事件』、早川のハリネズミの本箱シリーズですわね。

ケネディ

_ "The Fire-eaters"で、ケネディの名を読んだ直後に、次男がつけたTVでは、ケネディ暗殺の謎をやっていた。同じシーンばっかり何度も繰り返して全くもどかしいなあ。と次男も言っていた。しかしあれは40年も前(1963年11月22日12:30)だったのか。あれは日米衛星放送開始の日で、目覚ましをかけて早起きをしてその第一報を見、ジョークかと思ったのだが、私まだ当時○歳だったのかぁ、といえば年が分かっちゃうな。東京ディズニーランドももう20年、と番組中のCMでやっていた。まったく光陰矢のごとし。ケネディ暗殺の資料がすべて公開となるのが2039年つまりあと36年後。その時私は…今の平均寿命よりは若いわね。ただどうせその時になっても真相は出てこないんでしょう。

2003.1012(日)

〈読み始め〉トマス・ウォートン/『サラマンダー』/早川書房

_ 中世めいた城と時計仕掛け、自動人形、書物、他国から呼び寄せられた職人…これだけで十分魅力的だ。どこかで経験した舞台装置のようでもある…と引っかかっていたが、夜中、咳で寝苦しかったときに半覚醒で思い出した。ミルハウザーだ。ぼうっと光る書物中のサラマンダー、城の歯車の隙間に棲息するサラマンダー(サンショウウオ、尻尾を切って逃げる)が登場したあと、職人が牢に閉じこめられ〜城を後にするところ。

娘とお茶とか、母訪問とか

_ いろいろ悩みを抱えるらしい娘とお茶。おなか減ってないよね、といいつつ、メニューを見るとつい頼まないわけにはいかなくなり、梨と生ハムのフォカッチャサンド+いちじくのタルト+カフェグラッセのセットと、モンブランロール+カフェグラッセのセットを頼んで半分ずつ食す@目白ルプティニ。先日の語学留学の話とかバイトの話とか。

_ そのあと陰陽師IIを見に行っていた連れ合い&次男と落ち合って、母のグループホームへ。母はすっかりなじんで、「楽しいから家へは帰りたくない」らしい。これから長い合宿生活みたいなものだものね。「そう、お孫さんですか、いいねえ。」と話に来た、母と同い年の入居者のLさん、一見痴呆は軽そうだが、やっぱり何度も話題は繰り返す。そのうち向こうから歩いてくるQさんに気付いたふたりは声を潜めて「ホラ来た」「来た来た」と目を見交わす。「あの人ココがおかしいのよ。」「そうそう。あたま狂ってるんだ。話をあわせておけばいいよ」「そうそう」「ホラ、また僕の部屋に入っていって出てこないよ。自分の部屋が分からないんだ」こちらは聞いていて笑いを堪えるのに一苦労。だって、一体どっちが…。母だって自室の前にどでかい字で名前を書いて貰ってるし。その後で、娘が後ろを向いて笑いこけている。「だってぇ、あのQさんっていう人、スリッパの中にリモコン入れてて、片足はだしで歩いてる」見るとQさん、手に片方のスリッパを捧げ持って歩き、そこにはTVのリモコンがはまっている。その剽軽な姿と言ったら…!ゴミ箱の中や枕元に脱いだ下着を丸めて押し込んであっても、「お医者様が入るなと言ったから」とお風呂を拒否しても、「女の人たち(スタッフのこと)は意地が悪いのよ」(男性スタッフは一人だけ)と顔をしかめて見せても、今のところ、ここに入って良かったなぁと思う。

_ これまでの長い生活での色々な経緯から、本来の自分ではない生き方を自分に強いてきたのだろう母。「おつきあいは浅く広く、楽しくね」という社交的なよそのお母さんを批判して「あの人は出好きで出しゃばりで、底が浅い人だ。わたしはおつきあいも深く狭くよ」と言っていたが、狭くも何も、そもそも友人なんかいなかった。せっかく知り合いからお茶を飲みにいらっしゃいと誘われても「そんなことするわけにはいかない」と絶対に行かず、向こうが訪ねてきてもまず家には上げないし、間違って上がっていこうものなら「図々しく上がり込んで、お茶を出したら何時間も帰らない、まったくねえ」と言うこと必至。私が子どもの頃は、実際にそういうたちの人なのかと思っていたが、実は母は土地の本家の末っ子でみんなにチヤホヤされて育ったから、小学校の同級生の話をしても男の子の話ばっかり、若いときの看護婦生活の話でも医者と患者の兵隊さんの話ばっかり。知り合いの女性のことは誰にせよよく言うのを聞いたことがない。ある種のうらやみがあったのに、「本家の娘」のプライドがじゃまをしたのだろう。本当はおしゃべり大好きで、出好きな人なのだが、それが結婚後、よほど自分の置かれた立場が気に染まなかったのだね。何も「楽しむことは悪いことだ」と、自分ばかりか、子どもたちにも強いなくても良かったのに。ずいぶん私など、いわば騙され目を塞がれて来たものだと思っているが、母にはそういう自覚がないから話にならない。いつも母が悪く言っていた「出好きでお節介な」叔母さんたちなんて、大人になって話してみたら、実際は気のいい親切な(良い意味で普通の)叔母さんだったとか、枚挙にいとまがない。私の方でその辺のわだかまりが処理できる前に、母は呆けてしまったというわけだ。引きこもりに近い生活を送り始めていた母は、痴呆という病を得たおかげで枷が取れて、運良くグループホームというそれを受け止めてくれる環境に移れたので、本来の自分を一部分にせよ生き直し始めているようなものだから、母にとっては大変喜ぶべきことには違いない。

2003.1014(火)

◎トマス・ウォートン/『サラマンダー』/早川書房

_ 読んでいる時間が、もっともっと続けば良かったのに!震える活字とインクのイメージの、なんと素晴らしいこと!ヴィクトリア朝を舞台にした冒険譚のようでもあり、伝奇のようでもあり、シンドバッドのようでもある。地図であり歴史であり、コラージュでありメビウスの帯であり、ハイパーリンクでもある。タイムマシンでもある!これに筋や論理や説明を求めるなんて野暮なことをしたくない。ニコラスの名前にだって何かすべてを繋ぐ隠された意味がありそうなものだが、残念ながら分からない。

_ 題名でもあるサラマンダーは、直接的には機械仕掛けの城の隘路に棲息する生物であるサンショウウオ(サラマンダー)を少女パイカになぞらえたものだろうし、だから彼女は水中でも息が出来るし皮膚病をも持っているのだろう。無類の本好きは、もしや彼女のように時も場所も越え旅をするサラマンダーか?息を吸い、震えるインクの中に飛び込みさえすれば…?いやこのような理屈めいたものを考えること自体ふさわしくないように思う。

_ しかし一方、あまりにも「サラマンダー」=火トカゲという刷り込みが、読む前から私の頭の中で勝っていたので、つい火の象徴としてのサラマンダーを思い浮かべがちになるのが困った。どうしてこのように湿ったところに住む小動物が、炎の中に住む生き物として姿を変えていったのだろう。単に炎が踊るさまがトカゲのくねる様子に似ているからと言うだけの説明では納得しきれない。というよりどこかに何か曰くがあるに違いない、と想像したいのだ。

_ ジンが好きだったが、かれが中国で自動人形に扮する下りがことに好きだ。ジンという名前も、魔法的選択。何だかすぐに読み返したくなる不思議な魅力を持っている本で、たしかにメビウスの帯的なものを感じる。目の前で小さな震える無限の本へと姿を変えないだろうか!

_ 日中はそれ程咳に苦しむと言うことはなかったが、いざ床について体が温まると、胸からノドがむずむずしてきて咳き込まずにいられない。一晩中寝た気がしなくて、朝起きたらゾンビだったー。

2003.1015(水)

〈読み始め〉山尾悠子/『ラピスラズリ』/国書刊行会

_ 久し振りに函に入った堅い本。逆さにすると、自らの重みでゆるゆると滑り出てくる…というには少しきっちりしすぎているが、美しい本。グラシン紙をとるとその微妙な光沢の青に、うっすらと型捺し。題名から想像する「碧」より、むしろ柔らかい色だ。見返しの紙は、半ばすぎまで読み進んだ今改めて見ると、作品中の広大な邸宅、というより城を造る石のきめにそっくりだ。

_ 本が出たこの時期、これは、決して遅れたのではなくて、選んでこの時期にしたのに違いないとさえ思った。これがもし、暑い夏の盛りに出されていたら…。現在、最も長い「竈の秋」のちょうど半分のところ。これまでの印象としては、装幀の色に抱いたものに似ている。

2003.1017(金)

◎山尾悠子/『ラピスラズリ』/国書刊行会

_ 読み始めの印象は変わらず、山尾悠子にしては読みやすい文章だった。と言っても、表面の字面が、と言う意味であって、中味がというわけではない。「トビアス」「天青石」を終えると自然と再び巻頭へ戻ることになった。

_ ラピスラズリの色からの連想で「ベリー候のいとも豪華なる時祷書」を脳裏に浮かべていた。しかし何度見てもうつくしい〜。こちらとか、こちらとか。後者の方が画像が綺麗なようだ。

_ まだ読み返しの途中だが、こうした本を読むと、その次の本を何にするか悩んでしまう。

Lyra's Oxford

_ 本国ではもう出ているのかな。'Lyra's Oxford'、ランダムハウスのライラのサイト

2003.1018(土)

リーグ・オブ・レジェンド 時空を超えた戦い

_ 連れ合いの都合で午前中に行ったのだが、きょうからマイカルの上映予定が変わって、午前は吹き替えオンリーに。せっかくショーン・コネリーの生の声が聞けると思ったのに。さて風野先生の評価も★☆だけど、星をつけるならそんなもんかな。筋はもう全然さっぱり不明。あれだけベニスが崩壊しちゃったら、良かったも何もないのでは。それにあのベニスの水路に、幅はともかく、あれだけ大きなノーチラス号が通れるだけの水深があるのかとか、言い出したらきりはない。原作はもともとコミックスの原作なのだそうで、各キャラクターがそれぞれの原作の設定とは違っているのもそういうわけか。ハイド氏なんて、まるでハルク(;.;) でも映像的に図書館内部などのいかにもイギリスっぽいところや、ネモービルの格好良さ、ノーチラス号などにサイバーパンクっぽさがあるところなどは単純に好きだった。ショーン・コネリーの他は俳優にさほどの魅力があるわけでもないし(ネモ船長の人はかっこよかったが)、最後に父・息子的話になっちゃって、またかいってところ。あれで冒険家が甦って続編が出来たら笑っちゃいます。大がかりなセットはチェコに造られたとのこと。行ってみたいなチェコの国。「ジョニー・イングリッシュ」に行った方が良かったかな、とも思ったが、そちらは友人と見に行く予定だし、まあショーン・コネリー(次男に言わせると「あのおじいさん」←ひどいわひどいわ)が見られたからいいや。

購入本

_ 粂和彦/『時間の分子生物学』/講談社現代新書
岡崎勝世/『世界史とヨーロッパ』/講談社現代新書

_ 前者のサブタイトルは「時計と睡眠の遺伝子」で、生物時計と睡眠の話。後者は世界史そのものの概観というより、今「世界史」として認識されているものの成り立ちや変遷を概説するといったところのようだ。

〈読み始め>Peter Dockinson/"The Tears of the Salamander"/ MacMillan

_ 私の持っている本のカバー絵はこちら。ISBNは同じなのだが、こちらのサラマンダーの方がずっと火トカゲらしく綺麗。この前の『サラマンダー』はサンショウウオのほうのサラマンダーだったが、こちらは火の精のほうのサラマンダーらしい。それにしても、なぜじめじめしたサンショウウオ系が火の精に指名されたのだろうか>パラケルススさん

_ 中世?イタリアが舞台。少年アルフレードは7歳の命名記念日に、叔父からサラマンダーの形の護符(ペンダントトップ)を貰う。どうやらそれが彼に美声を与えたらしく、後日彼は聖歌隊に入ることになる。となると当然キャストレーションの危機が…(ほら『去勢』@サンリオ文庫とか)。だいじょぶかアルフレード!

2003.1019(日)

秋晴れ

_ まだ名残の金木犀、名残のさるすべり、おしろいばななどが見かけられるその脇に、あわあわとした山茶花が。爽やかで、動くと軽く汗ばむような陽気だ。

_ 久し振りに、ちょっと元気のある日曜日。生協から紅玉が届いていたので、焼き林檎を制作する。ただ今、甘い香りが漂ってきたところ。う〜んいい感じ。後刻:皮の色が身の方に沁みて、ルビーのような美しい色に。もうちょっと低温でじっくり焼いたら良かったな。

ムットーニ講演会@池袋西武コミュニティカレッジ

_ 「ムットーニの世界 武藤政彦 自動人形制作秘話」3回シリーズのうちの初回に参加した。2回目は行けなくて、次は3回目。話には聞き、写真でも目にしてはいたが、実際に見るのは初めてだ。どういう経緯でこうした作品を造るようになったか、また彼が住む国立周辺の写真をスライドショー仕立てにしたものを彼の語りで。ほか、実際の作品2点の上演。なかなかハンサムなお兄さんでしたわよ。暗闇の中、間近で見るとそこだけ夢幻のような別世界が出現する。「つくりもの」の生みだす本当らしさ、真実。50人ほどの参加者のうち、作品を初めて見るのは、自己申告によると私を含めて3人のみで、リピーター、ファンが多いと知った。いや確かに目の前で見てその魅力を強く感じた。昔の写真アルバムを参加者に回覧してくれたが、その中にあった粘土の人形たちがなかなかよくて、舞台の枠組のなかで行われるクレイアニメなんか作ったらどうだろう?と思ったのだけれど、どうやら今の展覧会のペースだと、せっせと現在のような自動人形を作るので年間精一杯な模様だったので質問せず。

購入本

_ W・G・ゼーバルト/『アウステルリッツ』/白水社
オーエン・コルファー/『アルテミス・ファウル 北極の事件簿』/角川書店
あさのあつこ/『No.6 #1』/講談社
長新太/『なんじゃもんじゃ博士 ハラハラ編』/福音館書店
長新太/『なんじゃもんじゃ博士 ドキドキ編』/福音館書店
川端裕人/『リスクテイカー』/文春文庫

_ 読売新聞の書評で見て『ノアの洪水』が読みたいと思い手に取ってみたが、何せ大部でお値段が3800円なのと、どうも必要以上に読み物ふうになっているように見えたので見送る。でも、海洋学者である著者らが、その昔、黒海は地中海と独立した淡水湖だったが、それを隔てる部分の陸地(ボスポラス海峡のところ)が壊れたために地中海の海水が300日も続いて物凄い勢いで黒海に流れ込んだ、という仮説(=これがノアの洪水!?)を述べていると聞けば、やっぱり読んでみたい。そういえば死海文書関連本も大変面白かったのを思い出す。

2003.1022(水)

マシントレーニング

_ その後風邪やらなにやらでなかなか出来ず、やっと今日で3回目。ちょっと負荷をかけてみたせいか、「心地よい汗」よりもうちょっと疲れた。今しばらく生意気なことはしない方がいいらしい。

〈読み始め〉佐々木千賀子/『立花隆秘書日記』/ポプラ社

_ なぜか唐突に『立花隆秘書日記』読み始めた。立花隆自身の著作はひとつふたつしか読んだことがない。彼がアポロ13号の帰還を扱ったTVドキュメンタリー番組は、その後に見た映画「アポロ13」よりもずっと面白かったのを覚えている。映画はまたもやアメリカ中華思想だったからね。彼は社会問題から政治、科学、音楽、あらゆる方面にとんでもなく詳しく、やたらにたくさんの著作がある人との認識。そういう人の秘書日記と言ったら、彼の仕事の進め方、裏話、いわば興味本位の読者に向けたものかと思っていたのだが、あるところで貰った広報誌にこの本の書評が載っており、いかにして秘書であった人がその5年を経て、この超人的なボスのやっている仕事に疑問を抱くようになったか、それはどんな疑問か、が書かれているとあったので、俄然興味を抱いたのである。でもって早速amazonで見てみたらさすがにそれなりのお値段がする。が、すぐ読みたい。しかし図書館に行っている時間はない。それで初めてamazonのマーケット・プレイス経由で買うことにした。送料がかかったけれどそれでも定価よりだいぶ安いし、たまにはいいか。

_ 著者がどのようにして彼の秘書となり、どのような仕事をしてきたか、を過ぎて、そろそろボス立花隆の仕事ぶり、形として出てきた著作、ひいては彼自身のものごとの捉え方に違和感を抱き始めたところまで差しかかった。文章がきびきびしていて大変読みやすい。

_ ところで「立花隆の本の世界」は一体立花隆本人はどう関係しているのかいないのか、何なんでしょか?この秘書日記にももちろん出てくる立花隆の仕事場、通称「ネコビル」内部が妹尾河童の絵つきで見られる。あらこちらからも同じフレームページが見られるけれどなんじゃこりゃ。

〈読み中〉Peter Dockinson/"The Tears of the Salamander"/ MacMillan

_ ぼちぼちと。アルフレードは火事で家族を失う。美声を見込まれ一生聖歌隊で歌うようにと、去勢を半ば強いられるが、あわや承諾というその席に、長年行方不明であった叔父(サラマンダーの護符をくれた人)が立派な身なりで颯爽と現れ、彼を「唯一の跡継ぎ」と言って、多額の喜捨と引き替えに教会から連れ出す。ところが、確かに彼は叔父は叔父であったが、実は見かけ通りの人物ではないことがわかる。サラマンダーの護符が彼の家系のある者たちにだけとりわけ強く働きかけ、音楽の才を与えるのだと明かす。護符を身から離すと、アルフレードは、歌うことの歓びや情熱を全く感じられなくなってしまうことを身をもって知り、混乱するのだった。

2003.1027(月)

休暇

_ ようやく夏休み、というか秋休みというか、明日から休暇を取る。帰るのは11月3日になる。この数日、のどが痛かったり鼻が痛かったりしていたが、先に息子ふたりが風邪引きに。きょう医者に行かせたけれど、いない間に悪化しないでよね(お願い)。←構わず置いて行くという親です。

_ なんだかんだで、「ファンタジーを語るチャット大会」ログ(有里さん経由)が読めていないのが残念。もとより私の読んでいるファンタジーは殆ど海外のみで国内「ファンタジー」には全く疎いし、結局自分の好きなものが読めればいいしするので、特に参加するつもりはなかったが、色々な方の発言内容にはもちろん興味ある。帰ってきてゆっくり読もうっと。

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最終更新
2003.10.27 23:45:09